18 彼女の部屋
部屋のドアをノックしてから開けると、少し驚いたような顔をした彼女が学習机に座っていた。僕は所在無げに辺りを見渡すと、不意に無理矢理笑顔を作り、可愛いお部屋だね、と言ってみた。部屋は可愛いというより、老婆の少女趣味が色濃く反映された作りになっていた。それが彼女の本当の趣味なのかは分からなかったが、取り敢えず褒めておけば問題ないと思った。部屋には、年代物の人形やテディーベアが所狭ましと並べられていた。
沈黙が続くのに耐え切れず、首に緑のリボンが掛けてあるテディーベアを手に取ってみた。すると徐に彼女が椅子から立ち上がり、傍へ寄ってきた。縫いぐるみには触ってほしくなかったのだと思って手を離したのだが、彼女は予想に反して、熊に対してではあるが口を開いた。
「これは、あたしの六歳のお誕生日に、パパがプレゼントしてくれたの。その時パパが『この子と一緒に寝れば、もう怖くないだろ?』って……。それ以来、あたしとパパ達の寝室は別になったわ。…あたしはこれを貰った時とっても嬉しかったけれど、もうパパとママと一緒に眠れなくなっちゃうのがとても淋しくって、お誕生日なのに、泣いちゃった」
彼女は縫いぐるみを手に、遠い目で話した。僕は彼女がこれほど話したことが無かったので少し驚いたが、少し安心した。彼女が縫いぐるみの両手を持ち、それを上下に動かして遊んでいるのを見守った。
「これは?」
少しして一見リボンの色の違いしかないような縫いぐるみを見つけ、訊ねてみた。
「それは去年の夏に、あたしが病院の検査が怖くって泣いている時、パパがご出張先で買ってきてくれたの。パパが長い間外国に行っていて、久しぶりに帰って来てくれた時だったわ。…でもパパが『直ぐに行かなくてはならない、だからこの子をパパの代わりだと思っていい子にしているんだぞ』って…。あたしはテディーベアがとっても好きだけれど、それでもパパの代わりになんてとてもならないって言ったわ。それでもパパは、少し困った顔をしてからあたしの頭を優しく撫でてくれて、あたしが安心して眠っている間にいなくなっちゃった」
彼女は少し寂しい顔をした。気付いた僕は、お返しに自分の誕生日プレゼントの話をした。それもなるべく明るく、おどけて見せた。冗談を言うのは苦手だったが、自分の母親が変わっている所為で話題には事欠かなかった。
「僕の去年の誕生日プレゼントはすごかったよ。何だと思う?普通、男の子なら筆入れとか、オモチャとかが相場でしょ?それなのに母さん、何故か綺麗に加工された木材を持ってきたんだ。それも大量に。僕は目を疑って、これは何だって訊いたら、母さんは、『机を作ってやろうと思ったけど、途中で面倒臭くなったから自分で作ってくれ』って。僕は怒って、そんなのないって必死に抗議したんだ。それで母さん、なんて言ったと思う? 『私はあんたに机を作ろうと思った、それでわざわざ木材を揃えたの。プレゼントってゆうのは贈る人の気持ちでしょ? 贈る側に気持ちがあって、目の前に机が作れるだけの材料が揃っていれば十分じゃない、後はあんたが自分で作んなさい』って。ひどいと思わない? ほんとは僕が怒っている筈なのに、自分の方が被害者みたいな言い分でさ。それで最後に『あんた最近体動かしてないから、これが良い機会だったのよ』だって。ほんと頭きちゃうよな」
僕は途中から少し興奮してしまって彼女の方を見ていなかったが、彼女は案外微笑みながら聞いていてくれた。話が終わってしまい、僕が適当に縫いぐるみやら人形やらを指差し尋ねると、彼女はそれらについて話してくれた。全ての縫いぐるみにささやかではあるがエピソードが存在した。彼女の話が終わると、お返しに自分の話をした。彼女の話には色々な意味で涙がつきもので、僕の話はいつも腹が立ったというものばかりだった。
そのような遣り取りが数回続き、僕が両親の結婚記念日の不思議な習慣について話している時、彼女が胸元に隠されていた十字架をさり気無く外しているのに気付いた。
「―――その十字架。…大切なんだね」
全く話の矛先を変えてしまった為か、言葉に言外の意味を感じさせてしまった為なのかは判らなかったが、十字架を机の上に置いた彼女は黙り込んでしまった。
「…これ。僕も持っているよ。お揃いじゃないけど」
同じく胸元に隠していたものを取り出して彼女の前に掲げた。滅多にそれを見せることは無かったが、不思議と抵抗も無く取り出せた。
「物心がつく頃にはもう首にぶら下がっていたよ。今では体の一部みたいなものだね」
押し黙っていた彼女は顔を上げ、ひどく純粋な眼差しを向けてきた。
「…あたしも……あたしもはじめから、此処に、あった」
確りと両手を胸に当てる彼女を見た。
何処かで何かが動いて、苦しさが胸を覆った。僕は出来るだけそれを隠そうと、精一杯の優しい笑みを浮かべた。
「それなら。僕達……一緒だね」
自然に言葉が零れた。
どう言う訳か体が熱くなって、それに手を打てない僕は、言葉の調子を変え、話し続けた。僕が週一回のミサには来ないのかと訊くと、彼女は、別の所に行っていたと答えた。僕の行っている教会のことを話している途中に老婆が気付かないほど静かに部屋に入ってきて、この子はお風呂の時間なのだ、と申し訳なさそうに言った。口を窄めた彼女は、もう少し、とだけ呟いた。
壁掛け時計を見つけると、雷のように折れた短針が丁度八時を指していた。僕は慌てて、長居し過ぎたと思い、部屋を彼女と共に出ることにした。
少し体温が上がっていた所為か、恐怖を感じた長い廊下の暗闇にもさほど不安は感じなかった。勢いで一階まで降り、そこで老婆に抱かれた彼女と別れた。一階にも同じように長い廊下と、そこに居坐る闇があったが、光がドアの隙間から零れている部屋へ迷わず進んだ。もう帰らなくてはならない時間だ。
ドアノブに手を掛けると、先程の空気とは一変した雰囲気が室内を包んでいることに気付いた。室内は、意味無く発せられる雑音を歓迎する雰囲気から、一つの音を確かめる為に待機しているような雰囲気に変わっていた。僕はノブに手を掛けたまま動かず、中の様子を窺った。