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17 奇妙な絵画

 唖然とする僕に気付きもしない老婆は、急かすように背中を押し、以前の長い食卓のある洋室へと導いた。

そこには、信じられない光景が広がっていた。

「何しているんだよ? こんなところで」

そこには昼間と同じような、底意地の悪い顔で微笑む母さんと、その真似をするようにおどけて見せる黒髪の女性が座っていた。しかしそんなことより、僕は初対面である筈の母さんとその女性が長テーブルの一角に隣り合って座り、さも親しげにワインを酌み交わしていたことの方に驚かされた。

 ワインは既にラベルの下方まで減っており、それは母さんが随分長い間そこに居坐っていることを物語っていた。僕は、母が大変ご迷惑を掛けました、と言って母さんの腕を取ったのだが、二人はそれを聞いた途端にお互いの顔を見合わせ、直ぐに大声で笑い出した。

「ね? 言った通りでしょ?」

ワインを高々と掲げながら母さんがそう言うと、お腹を抱えながら彼女の母親は何度も頷いて、頻りに右拳に親指を立てたサインを向けてきた。僕は何が起こっているのかサッパリだったし、頭が混乱していて何も言えないでいると、笑っていた女性が、今日は家で夕飯食べていってね、と微笑みながら言った。その言葉に僕が、滅相も無い、と言うと、女性は再び吹き出しながら母さんの方へ顔を向けた。

「今から家に行っても誰もいないし、ご飯も炊いていないわよ」

そう意地悪な声を出した母さんは、残ったワインを一気に煽った。

だらしの無い光景に腹を立てていると、老婆が半ば強引に僕を母さんの隣に座らせ、首に巻きついていた彼女を床に下ろした。すると彼女は母親に走り寄り、老婆と同じように首に巻きついた。唇を尖らせ頬を胸にすり付ける彼女の頭を母親は黙って撫でていた。

不機嫌顔をしていると、母さんは彼女と同じように頭を撫でてくれた。恥ずかしいから止めてよ、と言ったのだが、止めなくてもいいと心の奥では思っていた。

豪華な食事が運ばれてくるまでに彼女の母親が大体の事情を話してくれた。事情と言ってもただ単に母さんが偶然隣にいた彼女の母親に声を掛け、話している内に意気投合してしまっただけのことらしかったのだが。母さんには誰とでも直ぐに仲良くなれる才能があったし、彼女の母親とは同い年だったり、出身も同じだったりして共通する部分が偶然にも多かったらしい。それに彼女の母親は僕のことを知っていたらしく、お世話になっているのだから御礼をしたかったのだと言った。

 それにしても初対面の人の家でお酒まで飲むのは失礼だ、と母さんに抗議をしてみたのだが、私が誘ったの、と彼女の母親が弁解に入った。その後も何度か母さんに仕返ししてやろうと試みたのだが、二人の十年来の親友とでもいるような絶妙なコンビネーションの前にはとても歯が立ちそうにない、と諦めて、後は一人で勝手に腹を立てていた。

 いじける暇もなく、見たこともない料理が次々と運ばれてきた。彼女は老婆に従い手伝いをしていた。僕も手伝いましょうか、と言ったのだが、老婆が口を開く前に母親が笑った。どうやら母さんが母親に何か吹き込んだらしいと気付いたのだが、僕は何も言わずに席に着いた。

料理が来る度に、母さんは歓声を上げ、僕は歓声を上げないように努力した。料理はきちんと前菜からデザートまでのコースに振り分けられていた。母さんは、家ではこんなに豪華なものは食べられないでしょう、と言い、僕がそれにだけ素直に頷いて見せると、軽く頭を叩かれた。それを見た彼女の母親はやはり吹き出しそうになって口をナプキンで押さえた。

 彼女は黙って食事をし、たまに僕達の会話にも耳を傾けているようだった。彼女はナイフとフォークを上手く使いこなしていたが、僕は滅多に使わない代物に苦戦を強いられた。母さんは何故か慣れた手つきで扱えていて、僕の皿の上のものを切り分けてあげようか、とぼくに提案した。家族に隠れて外食しているんだな、そうに違いない、と言うと、母さんは、これでも私はお嬢様育ちだったのよ、と笑いながら言った。

 食事が終わっても母さん達の軽口は続いていた。僕は満腹の為か少し気だるくなって、残っていたお替りのアイスクリームの皿と、スプーンを持ってオブジェを順番に眺めていた。

 彼女は少し前に食事が終わると、自分の部屋に戻って行った。老婆は、お薬の時間ですので、と言い、彼女が薬を飲むのには少し時間が掛かるのだと説明した。

 僕は慌しく食器を片付ける老婆を引きとめ、数多くのオブジェの中に触れていいものはあるかと訊き、触れてはいけないものは無いかとも訊いた。老婆はどれでもお好きなだけ見て頂いて構いません、と言ってくれた。

 一つ一つ丹念に骨董品やオブジェの類を見て感心する風をしながら、どうして全てのものに生気が感じられないのかを探った。全てのものを見終わると、やはり最後にあの絵画に目が留まった。そして何故それだけが生気を帯びているのか、初めて見た時の違和感は何だったのかを考えてみた。

 正面に絵画は掛けられている。見上げることも見下げることもなく、足の長い椅子に坐って観ている僕の丁度正面に飾られていて、もう少し上に飾った方が見栄えがするのではないかと思うくらいである。絵のタッチは独特で、絵画の知識が殆ど無い僕でも写実的な趣向でないことだけは分かった。絵からは油絵具の独特な匂いが微かに放たれていたが、それ以外にも全体を彩る濃い緑の為なのか、湖特有の生臭さが匂い立っている気がした。生気が感じられるのは彼女の父親が自ら描いたものだからなのだろうか。

 父親は何を思ってこれを描いたのだろう。実際に彼女と何処かの湖畔に出かけた時に描いたのだろうか。考えてみれば、湖の畔で踊る少女は、本当に彼女なのだろうか。そもそも、僕が少女だと思っていた顔の無い人物は少女なのだろうか。僕は母さんと話している人の横顔を盗み見た。母親ではない。父親が妻を描いたのならもう少し具体的になるか、その人にしか判らない程度の特徴を残す筈だ。

 答えは見つからない。見つからない間に次々と疑問が降り掛かってくる。キャンバスに描かれた人物のことはさて置き、根本的な何かが引っ掛かる。目の前の絵画は何かが変だ。少女らしい人物も、それが求めるように手を翳す三日月も、全てが何か屈折しているようで、絵画全体がレンズを通した目で描かれているように中央に巻き込まれ、集約されている。その為なのか人物も三日月も一様に円を描くように曲がっている。まるで中心に全てが吸い込まれているかの如く。

 ―――不意に衝撃が走り、銜えていたスプーンを床に落としてしまった。老婆と僕が接触したのだ。老婆は慌てていたが、椅子から降り、スプーンを拾いながら、大丈夫です、と言って遣り過ごした。

 それと無くそのままの姿勢で絵画を見上げた―――すると、一つの謎が解けた。僕は椅子には戻らずその場で出来る限り低い体勢を取り、絵画を再び見上げた。

 この視点だ。この視点でこれは描かれている。僕が思っていた不自然さはこれだったのだ。どうしてかは分からないが、この絵画は全てを見上げて描かれている。それも異様に低い地点から。

 しかし父親はこの景色を本当に見たのだろうか。恐らくこの視点のままでいるには、何処かに寝転ぶしかない。そのままでは絵は描けないだろう。父親は寝転んで見た景色を目に焼き付けて絵画に写したのだろうか。

 何れにせよ奇妙極まりない。絵画は全体に粘膜を貼り付けたように緑色に暈されている。一つの謎が解けても、どうして全体が中央に集約しているのか、どうして緑色なのか、人物は一体誰なのか、父親はどうしてこのような絵画を描いたのか、何も答えが出てこない。

 妙な格好のまま考え込んでいると、母さんにお尻を叩かれた。珍しい小動物でも見るかのような視線を向けた母さんは、子供は子供と遊ぶものでしょ、と言って僕を部屋から追いやった。

 行き場を失った僕が先の見えない廊下に恐怖を覚えていると、知らぬ間に老婆が後ろに立っていて、お嬢様のお部屋は二階ですの、と言いながらやはり僕の意思とは関係なく背中を押した。

 階段を上りきると老婆はそそくさと一階へ戻っていってしまった。取り残された僕の目に飛び込んできたのは、真っ暗闇の中に僅かに零れた光だった。そこが彼女の部屋なのはまず間違いないのだが、部屋に入るのは気が引けた。彼女と二人きりになっても、何も話すことは無いし、もし何か話すことがあったとしても、それはあまり楽しいことではないと分かっていたからだ。それでも、底の見えない階段の闇と長い廊下に横たわる闇には挟み撃ちにされ、それから逃れるには光を手繰る他無かった。


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