16 ターゲット
保健室には誰もいなかった。ベッドを隠しているカーテンを一通りチェックしながら閉めていき、四台のうちの三台目のベッドの毛布に頭まで包まって興奮を抑えた。
頭に血が上っていては何も考えられない。何度も拳を握りながら、それに合わせて数を数えた。筋肉の疲労と共に神経の高ぶりが抑制され、漸く頭が回転し始めた。
丸々と太った男子は僕を拒んだ。背中に突き刺さる視線があった。それは既に聡子の力が隅々にまで浸透している証拠だ。もう何らかの結末無しで元のような平和には戻らない。それも破滅的な結末を、教室は生贄を欲している。そしてそれは彼女と僕。彼女と。僕。そう声に出して呟いてみた。
聡美の力が教室を掌握した時、ターゲットになってしまったものは確実に立場を追われてきた。志津子もそうだった。保健委員の志津子も始めは聡美と同じように慕われる存在だった。しかし両者はいつからか対立するようになり、気付いた時には志津子に近づくものがいなくなっていた。そして、誰にも相手にされなくなった志津子に、聡美は手を差し伸べた。あの完璧な笑顔を称えて。何が切掛けだったのかは分からない。ただ、あの時も聡美の一方的な思い込みから志津子を追いやったに違いなかった。
授業終了のチャイムが鳴り、保田先生が僕を見舞いに来たが、もう大丈夫、と言って保健室を後にした。教室に向かうまでの廊下で勢いに任せ、少しだけ踏ん切りを付けられた。しかし、僕の中に燻ぶっていた感情も、その勢いも、教室の前に辿り着くと一気に萎縮させられた。
開け放たれたドアから見える彼女の机の横に、その側面にぴったりと付けられた僕の机があったのだ。
十分躊躇った後、仕方なく自分の机に向かった。途中で複数の視線に晒されていることに気付いた。僕は聡美の机を横切る時、その横顔を盗み見たが、聡美はただ正面を見ているだけだった。
教室は不気味に静まり返っていた。しかし無言で彼女の机と自分の机を引き離す音の中に何人かの小声が聞こえないでもなかった。彼女は机が付いていることに気付いていないかのように普段通り坐って本を読んでいた。僕は少なからず彼女に憤りを感じたが、何も言わずに席に着いた。
放課後、帰り支度をしている彼女の椅子が千恵達数人に蹴られはしたものの、それだけで殆ど生徒が教室を後にしていった。僕は諦めを持って教室から校庭を抜けるまでの時間を、何処からか感じる複数の視線に耐えながら彼女と共に歩いた。
彼女は普段通り僕の三歩ほど後ろに確り従っていたし、いつも通り何処か遠くをぼんやりと見ているようだった。しかし夕焼けに染まり金色に輝くススキに縁取られた道に差し掛かった時、彼女は突然足を止め、僕もそれに気付き、足を止めた。
彼女は俯き加減だった顔を上げ、僕を直視した。その眼差しを受け止めきれず、僕は視線を逸らした。
「どうかしたの?何か言いたいならちゃんと口に出してくれなきゃ分かんないよ」
フリルが揺れる服の袖を親指の腹と人差し指のつけ根で掴んだ、白くて小さな手を見ながら言った。
何も応えてくれない顔をもう一度見上げると、彼女は丁度何かを言いかけて口を開いている最中だった。
「―――」
僕は発せられる言葉を読み取ろうと必死に唇を見たが、彼女はそれに気付き、再び力無く俯いてしまった。僕は少しがっかりして帰り道を進もうとすると、彼女が別方向に進んでいることに気付いた。ススキを掻き分ける音で行き先は直ぐに分かった。彼女もあの沼地を気に入ったのかもしれない。
沼地は一時期に比べれば、それなりに水位が上昇していたが、それでもその域を超えていない程の規模だった。僕は例のポイントに足を伸ばそうと試みたが、水位が上昇して目印の杭が見えなくなっていたので諦めた。水草にしがみ付く抜け殻はまだあそこに留まっているのだろうか。抜け殻はもう無いだろう。もう自然に帰してしまっただろう。そう思った。
彼女はやはり湖面と陸地の境を伝っていた。僕は少し考えてから彼女に取って置きの場所を教えることにした。どうして教える気になったのかは分からなかったが、特に隠している訳でもなかったし、自分の持っている宝物を自慢したい気持ちがあったのかもしれなかった。
普段沼地は重なり合う山々や大木に遮られ、周りより一段暗くなっている。更に夕方になれば大木に西日が遮られ、独特の赤み掛かった闇が空間を染めつくしている。僕はそのような光景も十分好きだったのだが、沼地の入り口から丁度正面に見える大木を湖面に沿って目指すと、ある地点で絶妙に山々が開ける一角に出る。そこから見える景色が特に好きだった。そこに出ると一気に視界が開け、目に入れても痛くないような夕陽の柔らかな光に突然全身を抱擁される。そこから見える景色に勝るものはなかった。
彼女は僕の後を時々躓きながらもついてきた。途中で泥状に滑った所に足を取られることもあったが、そのような時は彼女の手を取って助けたりした。彼女は少し不安になったのか、時々僕を見上げたが、直ぐに俯き、必死についてきた。
―――突然。僕達を優しい光が包み込んだ。彼女は僕が溶融する落陽を指差す前に顔を向けてしまった。
山々の間から覗く夕陽に照らされ、沼地の其処彼処が煌いている。彼女は夕陽を全身で浴びるように向きを変え、動かない。表情は読み取れなかった。
何種類もの赤が、橙やミルク、緑や山吹、紺や藍の濃淡と幾重にも重なり合って様々に染色していた。二歩ほど前に佇む彼女がそれに溶け出しているような錯覚を覚える程、赤が影を包んでいた。彼女の伸びきった影も橙色に染まり、薄められていた。それほど優しく、柔らかな光だった。僕は腰を落として沈み行く夕陽をただ黙って眺めていた。
幻想的な景色は例外無く儚いもので、直ぐに陽は落ち、今までの景色から光が抜け落ち、妙な静けさが辺りを包んだ。
「きれいでしょ。此処、取って置きだからね」
赤の名残のある空を眺めながら言った。彼女は微動だにしない。
「もう帰ろう。直ぐに暗くなる。今日はお家まで送るから」
立ち上がり様、沼地独特の生臭い匂いを一気に吸い込み、出来るだけゆっくりと吐き出してから言った。
―――足元が覚束無い。気付いた時には怒涛が首筋にまで忍び寄っていた。抑えきれない振動が全身を震わせる。振り向いた彼女は涙を流していた。視線がそれを捉えたのは一瞬で、留まろうとする意思に反して強引に濃縮された黄緑色の塊が僕の中に入ってきた。塊は閃いている。汚濁した黄色は嘲笑っている。悪魔のように微笑んで、僕に取り入ろうとしている。僕はそれを知っていながら拒むことが出来ない。黄緑色が何かを吸い上げている。それが僕にとって大切なものなのか、そうでないものなのかも判らない。ただ狂おしく震える黄緑が僕を蹂躙し、貪り散らし、中に溢れ、その代わりに何かを下品に吸っている。
彼女の視線が僕を捉える。彼女は極めて純粋な眼で僕を貫いている。僕は力の入らない腹に眼を向けようと必死に抵抗するが、掴まれたものが離されることはない。
藁をも掴む思いで懇願の眼差しを向けると、同時に怒涛が収まった。
彼女は僕のどちらの言葉に反応したかは分からなかったが、頷いた。二度、頷いた。それほどの僅かな時間しかたっていないようだった。
彼女は再び振り返り、不意に蹲ると、湖面に掌を合わせた。呆然として体の自由を奪われていた僕は、その動作を見守ることしか出来なかった。
目の前で蹲る彼女を見ながら濃縮された黄緑色の怒涛の余韻に耽っていた。彼女の返事を待つ極短い時間に怒涛は僕の体を制圧し、何かを押し入れようとしていた。怒涛は何を訴えたかったのか。それよりどうして彼女が涙を流した時にだけ黄緑色は怒涛を発するのか。否、彼女が泣くから怒涛が発生しているのではない。彼女が泣くだけで黄緑色が震えるのなら、教室で涙を流した時、全員が恐怖以外の何かを感じた筈だ。もしそれが僕だけに分かる信号でも、あの時怒涛は発せられなかった。怒涛は何を求めているのか。圧倒されながら頭だけが異常に回転しているようだった。
考えるのに疲れて、腰を落とし、彼女の横顔を覗き込んだ。初めて怒涛を体験した時もそうだった。何故か余韻の後、彼女をいとおしく感じてしまう。
「……ごめんなさい…」
彼女が言った。俯いて表情は読み取れなかったが、彼女は一人で言葉を発したのだ。何についての、ごめんなさい、なのか知りたかったが、彼女の白い肌に浮き出た真っ赤な唇を見ると言葉を忘れた。
彼女が立ち上がってくれるまで少し時間が掛かったが、僕は根気良く待つしかなかった。立ち上がった彼女に微笑みかけると、彼女は少しだけ微笑み返してくれた。僕は言い知れない衝動に駆られたが、寸でのところで思い留まった。
帰り道は随分前から夕闇が舞い降り、そこに今までも当然あったかのように、当たり前に根差していた。彼女は僕の袖を掴んで離さなかった。そしてそれは彼女の家の前についても変わらなかった。
ライオンの装飾が施された玄関の呼び鈴を押しても、彼女は袖を離そうとはしなかった。僕がそれの意味するところに気付いた時には既に玄関の電燈が点き、老婆が開かれたドアの隙間からその顔を覗かせていた。彼女は以前と同じように器用に老婆の首に絡みつき、老婆もそれを受け入れた。彼女は何かを耳打ちし、老婆は頬を綻ばせた。
気付かれないように振り返ろうとしていた僕に構わず老婆は思いもよらない言葉を口にした。
「どうぞお入りください。お母様もお待ちですよ」
僕の頭の中は真っ白になり、事態が飲み込めないまま家の中へと押し込まれた。