表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/40

15 待ちぼうけ

 彼女の胸元に忍ばせてある十字架のことを考えていた。狭い礼拝堂に金髪がいれば一目瞭然なのだから、ミサに彼女の姿は無かったということだ。転校初日、やりたい放題されても全く反応を示さなかった彼女が、十字架に触れようとした時にだけは過剰な反応を見せた。それだけ大事に持っているのだから、ミサには当然顔を出すのだろうと思っていた。もしかしたら別の教会に行っていたのかもしれない。ただ、この村にある教会は唯一つだったし、それ以外の所に行くには相当な時間が掛かる筈だった。

彼女の十字架に何か意味があるのだろうか。どうして彼女は十字架を身に付けているのだろう。 

 考えていると胸元から寒気に襲われて、無意識に自分の十字架を服の上から握り締めた。今朝から同じような寒気に幾度と無く襲われていた。風邪はもう治っている。これが悪寒というものかもしれない。違う。恐らく気圧が下がっているだけだ。そう自分に言い聞かせた。

 やはりこれが悪い予感というものなのかもしれない。チャイムが呆けたようになっている校舎に入り、廊下でじゃれ合う二人組みの話を耳にした時、再びそう思った。

 教室に入る前に、不自然に外へ出された机の上に置いてある印刷物を見つけ、覗き込んだ。印刷物には案外シンプルなフォントで、授業参観の日程、と記されていて、この教室では、四時間目の国語の所に印が付けられていた。

 母さんに渡す前に丸められ、屑籠に放り込まれた告知用の印刷物を思い浮かべた。今頃燃やされて灰になっているだろう。

 意地悪な笑みを浮かべ教室に入ると、意味無く興奮している男子が、自分の親の自慢などを語っていた。どれもくだらない話だった。

 聡美は数人に囲まれて穏やかな母親のように、冷徹な支配者のように周りのやり取りを見守っていた。彼女は取り残されたように一人で座っていた。

 教室は先日までに起こったことを忘れてしまったように振舞っていたが、それでも、しこりのように不自然な雰囲気はいまだに残っていて、無理に取り繕っているようにも思われた。

 席に着くと彼女がお辞儀をし、僕が同じようにし返すと、金城先生が来て出席を採り始めた。

 

 教室は徐々に緊張感に包まれていった。朝、自分の親の自慢をしていた男子は既に自慢することが無くなったらしく、違う男子の話に耳を傾けていた。気の早い誰かの親が教室に顔を出し、その度に教室は沸き立ち、誰もが頬を紅潮させていた。

 始業のチャイムが鳴り、緊張が一層高まり、廊下で世間話に没頭していた面々が教室にゾロゾロと入ってきた。金城先生は誰よりも緊張しているようで、入ってくる人に一々お辞儀して、教壇に立つまでに何度も前髪を触った。自分の手を添えた前髪を見上げる金城先生に意味無く腹が立った。

 教室は金城先生の呟きの合間、妙な沈黙に包まれ、何十秒か置きに誰かが隣の席の人と一緒にゆっくりと後ろを振り向き、直ぐに向きを直し、また笑いながらひそひそと話に戻っていくような行動が其処彼処で見られた。

 やがて何処からとも無く一枚のノートの切れ端が廻って来た。ドアの出入り口に立っているのは誰のお母さん? ―――そこにはそう書かれていた。読みながらドアの方に目を向けると、他の野暮ったい父兄とは明らかに違う空気を醸し出している女性が立っていた。その女性は、よく手入れされている肩まで伸びた黒髪が印象的で、一本線の通ったような体躯に厭らしくない高級感の漂うスーツに身を包み、派手なだけで自分の体に合ってもいないスーツを着込んだような田舎の大人にはとても出せない洗練された雰囲気を漂わせていた。僕は間も無くその女性が、彼女の母親であると直感した。

 教室に出回っている紙切れのことなどお構い無しで相も変わらずカチカチに固まって上ずった声を出している金城先生を見ていられなくなった僕は、メモを丸め、机の中に放り込んでから、頬杖をつく格好でもう一度ドアの傍に佇む女性を盗み見た。しかし僕の期待したものが視界に入る前に、そこに思いもよらない人物を捉えた。

 女性の直ぐ横には母さんが立っていて、気付いた僕に勝ち誇ったような笑みを浮かべ、小さく手を振ってきた。僕は混乱して顔を背け、何故か悔しい気持ちになった。

 母さんは女性に無遠慮に話し掛けていた。話しながらも女性は授業が終わるまで気付いているのか分からない彼女の横顔を見守っていた。

 

 チャイムが鳴り、堰を切ったように父兄が教室を出て行った。母さんはその流れに逆流し、してやったり、という顔をして僕の肩を叩くと、何も言わずに帰っていった。女性は彼女には会わず、何かに追われるように立ち去っていった。

 教室が安堵の色に変わり、同時に授業前を上回る興奮と共に、爆発的な話し声の波が押し寄せてきた。誰も彼女を見ていなかったし、誰も彼女を意識していなかった。

 周囲の喧騒に埋もれるように彼女は一人孤立して座っていた。彼女は恐らく母親が自分を見に来てくれたことを知らないのだろう。否、始めから来ないものと思い込んでいるのかもしれない。諦めに似た雰囲気を身に纏い、何かの本に目を落としていた。

 給食の時間が終わり、興奮が一段落した頃、誰かが体育着に着替えながら教室のドアの傍に立っていた女性の正体を探り出した。殆どの生徒が傍にいるターゲットにふざけ半分に疑いを掛けあった。

校庭に向かう途中でも熱気が移動しているようだった。しかし校舎を抜け出た頃、その一部が焦げ付き始めた。いらない詮索をしてしまったことに気付き始めた誰かが、だけど、この教室で知らない人なんていない…よね、と更に要らない一言を付け加えてしまったのだ。

一言でそれまでの興奮が拭い去られ、良からぬ雰囲気が整列し始めた生徒の間に流れ込んだ。誰が見るでも無く校庭の隅に体育座りしている彼女に視線が注がれた。

何処からとも無くひそひそ話が始まった。長方形の列せられた陣形が冷気に包まれる。ひそひそ話は、フェイドアウトしたように次第に聞こえなくなり、不自然な沈黙が辺りを席巻した。

背中に突き刺さるような視線を感じ、それを遣り過ごそうと縮こまっていた。自分の置かれている状況をまるで毛狩り前の羊のようだと思いながら、なす術なく毛皮を根こそぎ刈り取られるのだと覚悟を決めた時、少し間延びした授業開始のチャイムが鳴り、保田先生が駆け足で現れた。同時に緊迫状況は解除され、肩を撫で下ろした。

保田先生が笛を吹き、それを合図に全員が校庭に散って行った。女子は女子だけでグループを作り、先生に気付かれないようにひそひそ話を再開させていた。

僕は普段通り校庭の隅に陣地を取り、丸々と太った男子を待った。普段通り丸々と太った男子が僕の前に佇んで、苦手な授業を適度にサボってくれるものだと信じていた。

しかし、いくら待っても男子は姿を現さなかった。代わりに保田先生が寄ってきて、しゃがみ込んでいる僕に声を掛けてきた。羊になってしまったことへの恐怖に耐えようとお腹に力を入れていたが、底の方から燃え上がるものを感じ、それがもう何年も感じていなかったものだということに気付いた。

保田先生が何を言ったのかは気にも留めず、気分が悪いです、と言ってその場を離れた。勿論申し訳なさそうに別の男子とボールを蹴っている丸々と太った男子の傍を通った時には出来る限りの笑顔を作って見せた。男子は笑顔を作ろうと必死になっていたが、僕はそれを見る前にその場を通り過ぎた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ