12 右眼の沈黙
彼女が埃を払い、立ち上がろうとした瞬間、傍にいた女子がその背中を蹴った。それは、彼女の服を羨んでいた女子だった。
彼女は力無く床に這い蹲った。その背に、直ぐに理不尽な言い掛かりが降りかかる。
「体育休んで、保田先生の気を引きたかったのよ、この子」
聡美の声だった。聡美は温度の無い声を彼女に浴びせた。教室中が凍りつき、彼女に卑屈な視線を送る。
傍にいた女子が背後から彼女の襟首と肩口を掴み、乱暴に引き起こした。
「そうなの? 保田先生の気を引きたかったのね?」
半身の格好にさせられた彼女の顔の正面で言う千重の声は、不相応に優しく感じられたが、それは犯人に罪を自白させようとする刑事のそれとそっくりだった。
彼女は何も言わない、言えないのだろう。僕は彼女の顔を盗み見た。しかしそれは乱れた金髪に隠されて見えなかった。
無理に顔を上げさせられた彼女の体は綺麗に十字を作っており、それが恐ろしくて仕方ない。
「あんた、病気だって嘘なんじゃないの。うちらはあんたの目の色が気味悪くて仕方ないのよ」
何処からともなく声が上がり、同時に彼女は顔を床に押し付けられた。誰の声かも判別できない押しくぐもった声にも教室が反応し、気味悪い、という言葉の反芻が其処彼処で行われた。
ーーー沈黙があった。それは偶然の産物ではない。それは、次の一言の為に作られた、極めて悪意に満ちたものだった。
「ばけもの」
言葉に沈黙が引き裂かれた。聡美の言葉に。
空間が悲鳴を上げる。ばけもの、ばけもの、と。何処からとも無く。もしかしたら誰もそのような言葉など発していなくて、ただ残像のように言葉だけが教室にこだましているだけなのかもしれなかった。
彼女は、倒された体を起こそうとはしなかった。
聡美は既に正面に向きを直していた。表情を窺い知れないその後姿は僅かに揺れているように見えた。今、聡美の顔には、完璧な笑顔が張り付いているに違いなかった。自分の言葉の余波に心酔して体を震わせているようにさえ見えた。
一向に起き上がろうとしない彼女を迎えるように、再び千重が近寄っていった。荒ぶる呼吸を無理に抑える千重。血走った眼で、分厚い掌を乱暴に衣服に擦り付ける。しゃがみ込んで彼女の肩を掴む―――顔を上げた彼女を見て取ると、一転、悲鳴を上げて尻餅を搗いた。 一瞬の時間差―――教室中が悲鳴に包まれた。
彼女はいつしか涙を流していた。彼女の涙はやはり左眼からしか流れていなく、誰かがそれを指差していた。
涙を流す彼女は教室の最後尾から顔を上げさせられたことで、却って全員にそれを見せてしまった。始め千重にしか分からなかった衝撃は、波のように広がっていった。
暫く続いた騒然は、誰かに叩かれたドアの音で一気に形を潜めた。極めて不自然な沈黙の中、ドアが開かれた。
教室に入った金城先生は、不自然な教室に気付いたようだったが、何一つ問い質すことなく授業を始めた。教室は、我を取り戻したかのように正常を繕って、全員が席に着いて授業を聞き始めたが、未だに静かな衝撃が教室を席巻していた。
席に戻った彼女を盗み見た。彼女は何も無かったかのように俯いている。僕は彼女の涙を見た。涙には、初めて見た時のような美しさが見て取れなかった。美しくなかった訳ではない。ただ、何かが欠けていた。僕は彼女が顔を上げさせられた瞬間、意に反してその右眼を覗いていた。左眼の美しさより強いものをそこに期待していた。否、怯えていたのかもしれない。忘れていた禍々しい黄緑色の怒涛。それを恐れ、待ち望んでいたのかもしれない。しかし、汚濁し濃縮された黄緑色の塊は、一寸も動くことなく虚空を見た彼女の瞳のままだった。
今日は体育も無く、それ以来何も起こらなかったが、教室全体が彼女を蔑み、その口々に、ばけもの、ばけもの、と謳っていた。
聡美は、もう何も言うことは無い、といった風で、黒板に向かって勝ち誇った笑みを浮かべるだけだった。彼女の涙を見た聡美は、周囲のそれと同じような反応を示してはいた。しかし正常に戻ろうとする教室の中で振り返ろうとしないその顔に映る表情を見て取ることは叶わなかった。
自分は何も言えず、これ以上事態が悪くならないことだけを祈っていた。ただ、学校が終わってから彼女と一緒に帰るということがひどく苦痛に思えてしかたなかった。このままでは彼女だけでなく自分にも危害が加えられる恐れがある。しかしホームルームが終わると、帰りの準備を従順な犬のように只管待ち続ける彼女がいて、僕はそれを振り切れる程の勇気を持ち合わせていなかった。
校門を出るまで何処かからの視線が僕達に突き刺さってきた。僕は彼女の真似をして俯いたまま、気付かない風をして早足で逃げ出した。傍観者からの辱めを受けている自覚が芽生えた。