11 はじまり
母さんの冷え性の手が頬に置かれ、ベッドから跳ね起きた。外では既に幾種類かの鳥達が囀り、それに合わせて野犬が盛んに吠えている。カーテンの隙間から朝特有の強烈な白光が差し込めてきた。
寝ぼけた頭のまま、風邪を引いているんだ、と言い訳して自ら剥いでしまった布団に再び潜り込んだ。が、直ぐに母さんに剥がされ、叩き起こされた。
額を押さえ風邪が治っていないことを願ったのだが、僕の意思とは関係なく、手に伝わってくる自らの体温は平常そのものだった。
何年も前から朝の生活は極めて単調なペースで進み、時計が七時十分を廻ったところで朝食が終わり、その十分後には家の外へ摘まみ出される。その時は決まって母さんを怨みながら学校へ向かう。しかし学校に着く頃には何もかも忘れていて、違う何かを考えている。
今日もそうだった。代わり映えのしない惰性的な日常の一片を繰り返しているだけだった。普段通り校門を抜けたのはチャイムが鳴っている最中で、教室に入った時には殆どの生徒が席に着いていた。
―――ひとつだけ違うことがあった。
四五人の女子が彼女の席を取り囲んでいたのだ。彼女の顔は、いつでも聡美の後ろ隣にいる背の高い女子―――千重の背中に隠れていた。
決して好ましいとは言えない空気の流れをすり抜けた時、僕は彼女がお辞儀しないでくれるのを切に祈った。しかし祈りに反して席に着いて間も無く、彼女は普段通り丁寧なお辞儀をして見せた。それを見た千重達は僕に見捨てるような視線を向けると、避けるように自分達の席へ戻っていった。
全ての女子が席に着き、誰もこちらに視線を向けていないことを確認してから彼女へ小さくお辞儀を返すと、金城先生が早足で教室に入ってきた。
先生の出席確認を聞きながら彼女の顔を盗み見た。彼女の瞳は心成しか潤んでいるようにも見えた。
彼女に何があったのか。そう考える前に、彼女の涙を見た生徒達の反応を想像していた。生徒達が仮に、彼女の流す涙を見たのなら。それを沼地で見た僕のように、美しい、そう感じるのだろうか。彼女の右眼を忘れるほど涙に没頭できるのだろうか。
答えは分かっている。彼女は涙を見せてはいけない。それは敵に武器を持たせるのと一緒だからだ。彼女を取り囲んでいた女子達は、涙に美しさなど求めていない。涙には、まやかしの強者を作り出す為の意義しか認められない。左眼から零れる涙がどれほど美しくても、それを認める者がいないのだ。
生徒達の視線は、彼女の右眼に集中するだろう。そして慄く。それは聡美も例外ではない筈。ただ、聡美はそれに屈服するだろうか。屈服して彼女を畏怖するだろうか。
聡美には力がある。物事の捉え方を変化させる力だ。生徒達を畏怖させる右眼でさえ、聡美に掛かれば彼女を傷つける武器になる。生徒達を先導する指針になる。
畏怖される存在は、時として退かれるものの対象となる。
屈服したものにそれを退けることは出来ない。しかし、それは先導者の手によって、退くべきものに変えられる。
聡美にはそれが出来る。彼女の右眼を見た後、聡美は慄く生徒達に隠れ、ほくそ笑むに違いない。
幾重にも重なる不安の中、何かを忘れている時の心寒い気持ちに苛まれ、それを押さえ込むように頭を抱えた。
―――喧騒が不自然な沈黙に変わり、それが却って僕の意識を引き戻させた。
気付けば既に金城先生の姿は教室内に無く、代わりに椅子の足とタイルが擦れる不快な音に沈黙が引き裂かれ、無意識に向けた視線の先には教室の所々で立ち上がる数人の女子の姿があった。
立ち上がった女子の大半は、先程彼女を取り囲んでいた者達で占められていたが、数が増えていて正確には把握しきれない。ただ、前と同じように、明らかに体格の違う千重はやはり先頭に立って彼女に向かってきていた。
数人は方向を別にしていた。それらは千重達が彼女に辿り着く前に小走りで教室のドアに向かい、普段は開け放たれているそれを閉め、殆ど使用したことの無かった鍵を掛けた。そこに佇む女子達は、まるで刑務所の看守のような面持ちで、総じて憂鬱な表情を浮かべていた。千重に次いで体の大きい志津子も、そこに立ち竦んでいた。背面でドアに凭れ掛かる格好をした志津子は、丁度そこに重ねられた手に掛かるスライド式の鍵の輪郭をなぞって弄んでいるように見えた。また、俯き加減で虚空を見つめ、心ここに在らずといった風で、自分の中の何かと必死に格闘しているようにも見て取れた。
聡美は席に着いていてこちらを振り向こうとさえしていない。教室を見渡せば、殆どの女子が何かしらの持ち場に就いているようだった。
やがて申し合わせていたかのように六人程の女子が彼女を囲んだ。
千重の視界には彼女しか映っていないようだった。
千重の他も大概そうだったが、二三人は何故か僕に睨みを利かせてきた。恐らく女子達はそうすることで自分達を完全なる強者にしたかったのだろう。しかしそれは女子達が強者になる演技をしているだけであって、僕を睨んでいる女子や、虚空と戦っている志津子達は、彼女を本当に憎んでいる訳ではない筈。ただ、女子達は質問に答えられないだけなのだ。どうしてドアを閉めなければならないのか。どうして僕を牽制しなくてはならないのか。どうして、彼女を見下さなければならないのか。女子達には答えられない。答えられないから質問させたくないのだ。
僕は哀れな女子に従い、希望通り目を逸らし、外を眺める風をした。するとほぼ同時に、机に手を叩き付けた時の音が鳴り、それを合図に教室が催眠術に掛かったような一種の重だるい雰囲気に呑み込まれた。僕は肩を竦め、思わず音の出所を確認してしまった。
「あんた、何様のつもりよ」
机に手をついた千重が、何処で憶えたんだ、と思う程の科白を迫力一杯に吐いた。しかし彼女は肩を竦めたまま動じない。
「あんたみたいなのがいると迷惑なのよ。わかる?」
千重はそう言って確かめるように彼女の顔を覗き込んだ。
「一人だけ違うの。その髪だってそう、その服だって、田舎には似合わないのよ。保田先生に少しくらい良くしてもらったからって、いい気になるなよ」
言いながら千重は彼女の金髪を掴み、強引に投げた。
されるが儘の彼女の体は、椅子から引きずられ、勢い良く床に投げ出された。倒れ込む彼女は、教室にいる全てに見下されているようだった。知らぬ間に振り向いていた聡美は席を離れず、静かにそれを見守っていた。