一月十七日 ノアリスの方舟 3
一月十七日、放課後。下校時刻三十分前。僕は職員室から出てくるメリーさんと鉢合わせた。
アーサー「……何やらかしたの? 万引き?」
メリー「進路指導よ! 担任と一対一のやつ。席順で、放課後毎日やってたでしょ?」
アーサー「……まさか、体育館の窓ガラス割ったのってメリーさん?!」
メリー「進路指導だって言ってんでしょ! それと、明日がアーサーよ」
アーサー「あ、僕で最後か」
去年には始まっていた担任による進路指導。一人に一日かけるため年を越してしまったわけで、一番最後の僕はすっかり忘れてしまっていた。
メリー「ていうかあんたこそ何でいるのよ。いつもチャイムが鳴った瞬間帰ってたじゃない」
アーサー「体育館の後片付けしてたんだよ」
するとメリーさんがとても嫌そうな顔をした。
メリー「後片付けって……まさか世のため人のため? よくやるわね」
アーサー「一年生の美化委員が呼び出されたんだよ、ほとんど来てなかったけど。ほんと誰だよー窓ガラスなんか割ったのー」
本日の昼休憩、体育館の窓ガラスが割られているのが見つかった。さっき耳にした話だと犯人は自供したらしいが、お陰で明日、体育館で行われる予定だった一年生全員参加の百人一首大会はなんと、明後日の土曜日に延期された。つまり、休日出勤ならぬ休日登校を余儀なくされることになったというわけだ。
アーサー「ていうか美化委員は掃除屋じゃないんだけどー」
メリー「ていうか体育館片付いたの?」
アーサー「まぁ一応」
メリー「てことは、明日は予定通りカルタ大会で、予定通り土曜は休み?!」
アーサー「いや、なんかまだ色々調べたりするから明日は授業。カルタは土曜日だってさ」
せめて一年生だけ明日休みにするとかできなかったのだろうか。そもそもカルタ大会でつぶれるはずだったんだから、やることないだろうに。
メリー「ま、私らはいいけど……」
アーサー「土曜日部活がしたかった人は残念だったろうね、学校サボって部活には出れないし、体育館使う部活は中止だろうし……え?」
鞄を取りに教室へ向かっていると、昇降口の所で外から入ってきたノアさんと鉢合わせた。
ノア「メリーに…………アーサー……!」
メリー「ノア。こんなところで机なんか持って、何してんの?」
ノアさんは教室にあるはずの、机を抱えていた。
アーサー「……」
ノア「これはっ……ち、違う」
動揺したノアさんが、机を置いて左手首を押さえた。ジューマに噛まれたところは、まだ包帯が巻かれている。
メリー「はぁ……ゾンビに襲われた傷も治りきってないのに、ほんとよくやるわね。アーサー運んであげたら? これ、どこまで持ってくの?」
ノア「…………」
アーサー「…………」
メリー「……えっ、二人ともどうしたの」
アーサー「それ……僕の机だよね?」
机上の傷に見覚えがあった。
ノア「……」
アーサー「ひとまず、四階に持って上がろう」
何度やられても慣れない。久しぶりなだけ、増しなのかもしれないけど。
ノア「……巻き込んじゃって、ごめん」
教室には誰もいなかった。それどころか四階はもう真っ暗だった。カーテンは閉められ、電気も消えている。そして僕達の教室だけ、明かりが灯る。
メリー「ど、どういうことよ?」
アーサー「窓から投げ捨てられたんだよ、きっと」
置き勉してなくて良かった。というか、小学校の時からもう全部持って帰るのが癖になってしまってるけど。
メリー「なんで、あんたのが?」
アーサー「……」
ノア「マリアとつきあってるのが、誰かにバレたみたい……なんだ」
アーサー「……」
メリー「だ、だからって……」
ノア「頼むアーサー、このことはマリアに言わないでくれ! こんなこと知ったら、マリアは……」
あの時、マリアさんは言った。
「あなたは……ずっと私のそばで、笑顔でいられる……?」
ずっと笑顔でいられる、か……。
アーサー「……ノアさんも、やられたことあるってこと?」
ノア「私に対しては、もう落ち着いた」
かつてはノアさんも、標的にされていたようだった。
メリー「…………ばっかじゃないの?!」
声を荒らげたのは、メリーさんだった。
アーサー「メリーさん……」
メリー「いじめられてまで、他人のため、マリアのために自己犠牲するわけ?! ほんと意味わかんない! 何で、自分のためだけに生きられないの?!」
対照的に、ノアさんは独り言のように声が小さくなっていく。
ノア「自分のためだけに、生きる……? ……よくわかんないんだけど、メリーにはそれ、できるの?」
メリー「もちろんやってるわよ! ずっと私は、一人で、自分一人のために生きてきた! ……あんたらに会ってちょっと変わったけど。でもそうよ、自分一人のためだけに生きてた頃の方が…………楽だったわ!」
マリアさんとは違い、メリーさんは我に返ることなくはっきりと言い切った。
アーサー「……」
ノア「自分のためだけに生きる方が楽なんて……そんなの矛盾してない?」
そしてノアさんの顔が、綻んだ。
ノア「だって自分だけが一番楽になる方法なんて…………、生きることじゃないだろ」
メリー「え……」
アーサー「ノア、さん……?」
ノア「…………私からしたら、自分のためだけに生きられる、メリーの方が、私は……」
((鐘の音))
ノア「うらやましいな」
((鐘の音))
ゾンビが、ノアさんの後ろにいた。長すぎる前髪の隙間から見えた右目が、紫色に発光し始める。その直後、ゾンビの心臓の辺りが銀色に光り、全身のひびも銀色の光を放ち出す。
メリー「ぞ、ゾンビ……?!」
アーサー「嘘だろ……」
ノア「…………今度こそ、私を食べ切るか?」
しまった……。慌ててノアさんを引き離そうと駆け寄ろうとした時、ゾンビはなぜか、ノアさんを押し退けた。
メリー「えっ……」
ノア「何で……?!」
ゾンビはノアさんの横を、ゆっくりと通り過ぎた。
ノア「こいつは、私を狙ってるんじゃ……」
アーサー「そうか……。ゾンビは……ジューマは二人いたんだ」
ノアさんを妬み、平行世界ではジューマとなったメリーさん。そして同じく、メリーさんを妬み平行世界ではジューマとなった、ノアさん。今まさにノアさんの嫉妬に共鳴して現れたのは、メリーさんに嫉妬する、ノアリスジューマの方だった。
ノア「そんな、じゃあ……」
メリー「襲われるのは、私……」
メリーさんとノアリスジューマの間に、ノアさんが立ち塞がった。
ノア「そんなのダメ……!」
メリー「……」
ノア「メリーが死んだらマリアが悲しむ! 私は、誰にも死んでほしくないんだ……!」
アーサー「ノア、さん……」
メリー「…………」
アーサー「気持ちはわかるけど、ひとまずみんなで逃げよう!」
ノア「こいつらは瞬間移動できるんだぞ?! 早く逃げて! 私が、時間を稼ぐ」
そう言ってノアさんは僕達に背を向けた。……無茶だ。まだメリーサジューマに襲われた傷も、治りきってないのに。
メリー「……」
僕の後ろでメリーさんが、舌打ちをしたような気がした。
メリー「……また、世のため人のため?」
アーサー「…………メリーさん?」
この時メリーさんは、ほんとにそう思っていたのだろうか。……それとも、わざと共鳴しようとしたのだろうか。
メリー「私意味わかんないって言ったよね? そうやって自己犠牲して、いい子ぶって、いいことしたーって楽しそうなふりして……」
アーサー「……」
メリー「そういう、とこが……」
((鐘の音))
メリー「うざいって言ってんのよ!」
((鐘の音))
そしてメリーさんの後ろに、あの日ノアさんを襲ったゾンビ、メリーサジューマが姿を現す。その右目は緑色に、そして心臓の辺りと全身のひびは赤く、鈍い光を放ち始める。
メリー「……どっちの嫉妬が、強い、かし、ら……」
ノア「メリーっ?!」
メリーさんがその場に倒れ込んだ。ノアさんが受け止める。
ノア「大丈夫か?!」
メリー「……わ、悪いけど、何か変な気力使っちゃって……力入んない……」
アーサー「え」
するとノアさんが僕の方を見上げた。
ノア「アーサー……二人で、メリーを連れて行こう」
メリー「ノアだって……足ガクガクの癖に……」
ノア「う……」
メリーさんの目論見通りか、ノアリスジューマとメリーサジューマは互いに睨み合ったまま動かなくなった。僕達の方に向かってくる様子は無い。しかし代わりにノアさんとメリーさんは、しゃがみこんだまま動けなくなってしまった。
アーサー「ちょっと二人とも?!」
ノア「アーサー、お前だけでも……」
アーサー「……いや、さすがにそれは」
ノア「何で……」
アーサー「命が助かっても社会的に死ぬかなって」
メリー「あんたは緊張感無さすぎなのよ……」
だってそうは言っても、噛まれても感染しないわけだし。
アーサー「そ、それにゾンビって動き遅いし、戦いも長引くはず……」
その時メリーサジューマの長い髪が、幾つもの束になり、そして変化し、蛇になった。
アーサー「な……」
まさにメリーサならぬメドゥーサである。
ノア「何……」
その無数の蛇がノアリスジューマに襲いかかる。するとノアリスジューマの髪は羽のような形に変化。教室内を縦横無尽に飛び回りながら、宙に張り巡らされた蛇を避ける。
メリー「何あれ……」
続いてノアリスジューマは教室の天井に逆さにぶら下がり、迫る蛇を羽を振り回して切り落としていく。まるで蝙蝠や忍者のようである。……生で忍者を見たことはないが。
ノア「アーサーだけでも、早く逃げた方が……」
アーサー「そんな気は、してきたけど……」
僕の席は窓側。教室の出入り口に一番遠い場所にいる訳で、張り巡らされた蛇といつ飛び回り始めるかわからないゾンビをかわして脱出できる自信はない。ていうかいつ飛び回り始めるかわからないゾンビって何だろう。しかも瞬間移動もするし。あれがゾンビですか?
アーサー「……」
机の陰に隠れて見ていると、切り落とされた蛇は髪に戻ることなく、砂状になって床に散らばっているのが見えた。もしかするとあのゾンビ、倒すと砂になるのだろうか……。
(扉が開く音)
その時、教室の扉が開いた。
モードレッド「よぉ」
アーサー「も、モードレッド……!」
モードレッドは教室内の異様な光景も気にせず、教室に入ってから扉を閉めた。
アーサー「どうしてここに……」
モードレッド「何だ知らなかったのか。よく聞けばジューマの出た方向くらい、鐘の音でわかるぞ」
そうなのか……。
アーサー「じゃなくて、どうやって学校に……」
モードレッド「俺は、アーサー・ドレイクだが?」
そういえばこいつ、今日はこの学校の制服を着ている。
アーサー「お前……」
ゾンビは僕達に見向きもせず激しい攻防を繰り広げている。この様子なら、もしかしたら無事脱出できたかもしれない。
アーサー「こんなのを呼び出して、何をする気だ……」
モードレッド「……何だと思う?」
モードレッドはゆっくりと、僕達の方へ近づいてくる。
アーサー「それは…………この世界の征服、とか?」
モードレッド「映画の見過ぎだな」
モードレッドはメリーサジューマの後ろで立ち止まると、手刀で、メリーサジューマの首をはねた。
アーサー「え……」
ノア「嘘……!」
その瞬間、髪から伸びていた無数の蛇も、宙を舞う首も、胴体も一瞬で砂となり、弾けた。
モードレッド「俺の目的はサンドバッグの調達。ただのストレス発散だ」
アーサー「まじか……」
ノアリスジューマの方は、天井に止まったままこちらの様子を伺っていた。するとモードレッドがメリーさんの腕を掴んだ。
モードレッド「帰られたら面倒だ。立て」
メリー「えっ?!」
そのままメリーさんは、ノアリスジューマの斜め下に投げ出された。
モードレッド「エサだぞ、取りに降りてこい」
我慢できなくなったのか、ゾンビが天井を離れた。
ノア「メリー!」
メリー「嫌っ……!」
モードレッド「…………灰になれ」
モードレッドが、倒れたメリーさんを飛び越える。そして空中で、降りてきたゾンビの頭部に、強烈な回し蹴りを直撃させた。空中でゾンビは、砂となって砕け散った。
アーサー「……」
モードレッド「手応えが無さすぎる。一度共鳴するだけで、ここまで周りが見えなくなるとはな」
呆然とする僕達をよそに、モードレッドは教室に散らばった砂の中から四つの光る石のようなものを拾い上げると、ポケットから出したビニール袋に入れ、それを持ってそのまま帰っていった。色は多分、紫と銀、そして緑と赤だった。
ノア「……」
メリー「……」
アーサー「…………また、後片付けか」
教室の時計は、下校時刻十五分前。この間、僅か十五分の出来事だったわけか。僕達は教室に散らばった砂の掃除をしてから、ようやく帰路に着いた。不思議なことにあんな言い合いをしたにも関わらず、ノアさんとメリーさんはいつも通りに話をしていた。女子って、仲良いんだな……。
本日発生したことで、特筆すべきことはこのくらいである。ジューマがゾンビというか化け物だったこととかモードレッドの目的がストレス発散だったこととか色々驚くべきことはあったけど、ひとまず今日は疲れた。今夜は早く寝るのが正解な気がする。それに、ゾンビは灰になった。これで、全て一件落着である!