7.〈巨人〉が追うもの
「少し遅れてしまったか、すまない」
――ノルウェーはオスロの目抜き、カール・ヨハン通り。
その中心からはやや外れ、港近くにひっそりとたたずむ小さなカフェの一角で……。
運ばれたばかりのコーヒーに口を付けようとしていたヘニング・トールセンは、頭上から降ってきたその懐かしい声に、もともと穏やかな顔を、さらに相好を崩して迎えた。
「いや、学生時分に比べれば、随分とマシになったよ――〈巨人〉」
「……そこまで時間にルーズだった記憶はないんだが」
苦笑混じりに握手を交わし、大学時代の旧友、〈巨人〉ことトルヴァルト・ボルクマンは、トールセンの向かいに腰を下ろす。
「まあ、得てして本人には自覚がないものさ」
「……言ってくれる」
口ではそんなことを言いつつも笑顔のまま、ボルクマンは近付いてきたウェイトレスにコーヒーを注文した。
「しかし何にしても、無事で良かったよ〈巨人〉。……ウワサでは、お前も巻き込まれたって聞いてたからな」
「かろうじて命は……な。状況が状況だけに、情報の錯綜も仕方ないことだろう」
〈その日〉の出来事を思い返しながら、ボルクマンは小さく首を振る。
――死者が起き上がることになったあの日。
世界的に被害が集中したのはやはり、もとより人の生死がせめぎ合い、加えて人も多く集まる、病院施設だったと言える。
以来、世界中で、病院と呼ばれるような場所には、正規の軍人か傭兵かはともかく、武装した兵士が常駐するようになっていた。
いや――兵士の増加という変化だけを見るなら、何も病院に限ったことではない。
事故や事件による突然死に備え、特に何事もないような街中でも、巡回する兵士の姿があちこちで見受けられるようになっていた。そして、時として横柄な態度を取る彼らの一部が起こす事件もまた、新たな社会問題の一つだった。
だがそれでも、バケモノと成り果てた同族――生屍が街を闊歩する事態よりはまだましなのだろう。
そうした兵士の横暴から、常駐や巡回といった兵士の運用そのものを非難するような声は、今のところそれほど強く上がっていないからだ。
むしろ、世界規模で見れば、未だに生屍を生活圏から駆逐出来ていない地域の方が遙かに多く……そうした地域に住まう人々は、そのほとんどが、問題点を承知した上で、それでもいち早い兵士という〈力〉の投入を願っている――というのが実状だった。
「確かに、情報が錯綜するのも仕方ないことだな。
しかし……俺の方は本当に幸運だったよ。あの日は休みで家にいたんだ。でなければ、きっと、俺も今頃……」
コーヒーを一口含み、トールセンはやおらガラス越しに外を見やる。
数キロ離れた港の対岸には、ほんの数ヶ月前には存在しなかったはずの、無骨で無粋極まりない影が、大きく腕を広げたように続いていた。
――それは壁。
この世とあの世を区切る境界線として、今も高く積み上げ続けられている隔壁だ。
〈その日〉――被害が大きかったのは、間違いなく市の中心部近辺だった。
だが、だからと言ってその辺りをまとめて隔離するのは、行政区画や王宮、さらに交通の要衝も集中していることを考えると、人々の生活を守るという観点からすれば本末転倒だ。
そのため、距離としてほど近く、また地理的にも半島なので封じ込めがしやすいとして、彼の地――ビグドイ半島が、生屍を隔離するための、ここオスロの〈冥界〉として選ばれたのだった。
もっとも……有名な博物館が揃う観光地であり、高級住宅地であり、さらに王室の別邸まである当地が冥界化されたことについては、緊急事態だったとはいえ、未だに撤回を求める意見も根強い。
ただそれは、当然のことながら〈冥界〉を作り出すことへの反応として、大なり小なり、世界のどこでも起きている事態でもあった。
「しかし……実際、騒動の現場に居合わせたお前が、こうして今も元気でいるところを見ると……この事態の原因は、なるほど、感染する類のものじゃないらしいな」
視線を戻し、興味深そうに頷く同窓生を前に、ボルクマンはコーヒーを運んできたウェイトレスに礼を言い、離れていくのを待ってから、声を落として告げる。
「おい、不用意に口にするべきじゃないぞ。未だに、感染症だと疑っている人間も少なくないんだ。余計な騒動を起こしかねない」
「っと……そうだな、すまん」
トールセンは素直に謝る。
異変初期の頃――世界中で混乱を煽り立てて、無駄に犠牲を増やす切っ掛けになったのが、そうした〈感染〉の疑いだった。
現在では、死ぬ前に生屍に変じてしまう事例が確認出来ていないことと、実際生屍と接触し、傷まで負わされた人間の身体をあらゆる方法で調べても、何ら変わったものは検出されなかったという事実から、感染するような病原体が原因ではないとの認知が一般化している。
だが、何も検出されないのが、実際何もないからならば良いが、ただ既存の技術では見つけられないだけ、という可能性もあると言えばあるのだ。
また、そもそもそうした一連の研究機関の発表を、何らかの意図を以て事実を隠蔽した虚偽のものだと疑う声もあり――結果として、原因を感染症に求める説も未だ根強く残っているのだった。
「だが本当に……原因は何なんだろうな。まさか、度を過ぎて信心深い連中が主張しているような、〈最後の審判〉ってわけでもあるまいに」
トールセンは冗談めかしたものの、そうした超自然的な事柄に原因を求める声も、世間的に決して小さいわけではなかった。
それも当然だろう、現代科学を以てしても解明に至らない、『死者の復活』という異常極まりない事態が世界中で起きているのだ。そこに神や悪魔の存在を見出す者がいても、何ら不思議はない。
実際ボルクマンも、己の身に起きたことと合わせて考えるなら、マッドサイエンティストの作った出来の悪い人体蘇生薬が流出した――などといった、エンターテイメントの設定をそのまま持ってきたような陳腐な説に比べれば、神や悪魔の介在の方が、よほど信憑性があると思っている。
「ところで――〈巨人〉。急に俺に連絡を取ってきた用件はなんなんだ?
まさか、こんなときに同窓会のお誘いってわけでもないんだろう?」
トールセンが居住まいを正して問うと、ボルクマンは頷いた。
「ああ。……ロアルド・ルーベク、覚えているよな? 同期の。
あいつを捜しているんだが、先日ヨアキムから、お前が最近会ったらしいと聞いてな」
「ロアルドだって……? いや、まあ、確かに会ったが……そもそも、アイツと一番親しかったのは〈巨人〉、お前じゃないか。なのに――」
質問を返されて、ボルクマンは曖昧に首を振った。
「そのつもりだったんだが……あいつは行方を眩ませるとき、そんな俺にも連絡の一つも寄越さなくてな」
学会から追放され、居場所をなくし……そして姿を消した友人、ロアルド・ルーベク。
遺伝子学のみならず、あらゆる分野に抜きん出た才を見せる、類い希な天才として、将来を嘱望された研究者だったロアルド……その学友だった頃の姿を、トールセンも反芻しつつ思いを巡らせているのだろう。遠い目をしながら、しばらくコーヒーカップを傾けていた。
「確かに、アイツはとびっきり変わり者だったからなあ……。何を考えているのか分からないときも多かったし。
しかし……どうしてまた、今頃になってアイツの消息なんて」
「先日、俺あてにメールが届いてな」
「ああ……ロアルドから?」
「いや。……俺からだ」
ボルクマンの返答に、からかわれているのかとトールセンは眉根を寄せるが、気にした風もなくボルクマンは続ける。
「昔、ロアルドが『数字が見える』と言ったことを覚えているか?」
「数字ぃ? ンむ……ああ……もしかして、アレか?
確か、遺伝子を通じて人間の構成を見ていると、その向こうに何かが見える気がする、とか何とか言っていた……」
思い出し思い出し、難しい顔で言葉を紡ぐトールセンに、ボルクマンは「良く覚えていたな」と素直に感心してみせる。
「そうだ。はっきり言い表せないが、それは数字のように感じると――そしてその数字は、日を追うごとに減っていくかのようだ、と言っていた。
しかも、調べた人間全員に同じものが見えたということだから、それは個々の寿命をあらわしているというわけでもない……」
トールセンは相づちを打つように軽くテーブルを叩く。
「ああ、そうだそうだ! アイツ、時々その手の意味不明な発言をしてたからなあ……天才ってのはやっぱりどこか突き抜けてるんだなって印象は残ってるけど、そんなところまでは覚えてなかったよ。……でも、それがどうかしたのか?」
「……俺もすっかり忘れていたんだが……当時、俺はあいつの見える、その数字らしきものがゼロになったとき、何が起こるのかと興味を持ったらしくてな。
アイツに頼んで計算してもらって、その日になったらメールが届くように手配していたんだ……俺自身にな」
ようやく友人の言わんとしていることを理解したらしく、トールセンの眼が細まる。
「まさか……あの日、だったのか?」
ゆっくりと、ボルクマンは頷いた。
トールセンは、しばらくあ然としていたが……やがて、首を振りながら静かにカップをソーサーに戻す。
「まさか……いやしかし、偶然だろう? いくら何でも、そんな……」
「もちろん、ただの偶然かも知れん。だが――そうではないかも知れん」
手つかずのままだった自分のカップを、ボルクマンは小さく指で弾いた。
コーヒーが、カップの中で綺麗な波紋を描いて揺れる。
『そう……〈巨人〉。たとえて言えば、キミはこのジュースのようなものなんだよ。
大河にこぼれ落ち、海に流れ、世界に散り、そして……悠久の時をまたいでもう一度集まった、そんな奇跡のジュースだ』
ボルクマンの脳裏を、かつて聞いた、友人の不可思議な言葉が過ぎっていた。
あのときは、人間の個性というものを彼なりに表現したのだろう、という程度にしか意味を捉えず、妙な引っかかりを覚えつつも、それ以上気には留めていなかった。
しかし、今は違う。
本当にあれは、風変わりな友人の、個性的な冗談の一つに過ぎないのか。
あるいは、今、我が身に起こっていることへの、何らかの啓示だったのか――それを確かめる手段は一つしかない。
「どちらにせよ……あいつに会えば、今起きているこの事態について、何か分かるんじゃないかと思って、な」
「そうか……」
発した言葉以上に深いボルクマンの思いまでは気付くはずもなく、トールセンは小さく頷く。
「まさか、いくら何でもアイツがこの騒動を引き起こしたわけでもあるまいし……ムダ足なだけのようにも思うが……まあ、お前の気が済むのなら」
「悪かったな、忙しい中。道楽に付き合わせるようなことをして」
「水臭いことを言うなよ。……しかし最近と言っても、ロアルドに会ったのはもう一月近く前の話だ。それ以降のことまではさすがに知らんぞ?」
「充分だ。で、どこで会った?」
「……日本だ」
トールセンの発した単語に、聞き違いかと問い直すボルクマン。
だが、やはりそういう反応になったか、とばかり、どこか悪戯めいた微笑を浮かべて、トールセンは同じ単語を繰り返した。
「日本だよ。――その首都圏にある、伏磐という街だ」