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屍喰神楽 ~シニカミカグラ~  作者: 八刀皿 日音
一章 〈その日〉から
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5.〈数字〉がゼロになる日


 ――オスロ市救急病院の外科医、トルヴァルト・ボルクマンは、手術室の壁に背を預けて、だらしなく座り込んでいた。

「これは、いったい……どういうことだ……?」

 彼の意識は、熱に浮かされたようにぼやけていたが……ややもすると、落ち着きを取り戻し始める。

 それに合わせて冷静に、今の状況を――そこに至る経緯を、思い返そうと試みるボルクマン。

 ……視界の中、手術室には、彼以外の人気は無い。

 だがその代わり、バケツをひっくり返したような大量の血と、かつて人であったものの残骸が散らばっていた。

 手術室に血は付き物だ。それだけ見れば別段不可解なことはない。

 だが――この量は異常だった。……加えて、あちこちに散らばる肉の塊。

 古いスプラッター映画に出るような、趣味の悪過ぎる肉屋か、狂った科学者の実験室かと、顔をしかめるしかないような有様だ。


「……そう、私は……」


 ――工事現場で事故が起こったとのことで、大勢の怪我人が運び込まれてきたのは、朝の十時前のことだった。

 その後、ボルクマンが、担当になった患者の処置をいち早く終え、容態が急変して苦戦しているという同僚のヘルプにやって来たのが、この第二手術室だ。

 開かれた胸部から、文字通り溢れ出さんばかりに出血している患者の様子からは、最悪の心破裂らしい、という報告が事実であることがうかがい知れた。

 同時に、もはや手遅れだろう、ということも。

 だが――人間の生への執着は、時として医師の予測を覆し、奇跡的な回復をもたらすこともあるものだ。

 何度かそうした場面に出くわしたこともあるボルクマンは、見限るにはまだ早いと、出血を止めるべく奮闘する同僚に手を貸し、治療にあたった。

 しかし……結局、垣間見えた運命を、その患者が覆してみせることはなかった。


 いや――あるいは、覆したと、そう言えるのかも知れない。

 もしくは、ねじ曲げた――だろうか。


 輸血も止まり、致死量を超えた出血の中に、もう動く気配も見せない心臓を抱いて沈む患者は、間違いなく死亡していた。疑いようもなく、確かに。


 だが――その患者は甦った。唐突に起き上がったのだ。


 あまりの出来事に驚き、時間が止まったような手術室の中――。

 甦った患者は、獰猛な肉食獣よろしく、人間離れした素早さで執刀医の首をへし折ると、次いで看護師の頭を叩き割った。

 いち早く我に返ったボルクマンは、手術室にいたパニック寸前の他の人間を、押し出すようにして外へ避難させた。

 そうして、一度室内を振り返り――そこで、これ以上ない悪夢を目の当たりにした。

 有り得ない角度に首を曲げられて絶命したはずの同僚が、その奇怪な姿のまま、彼の眼前に立っていたのだ。

 そして、大きく振り上げた腕を、異様なまでの速さで叩き付けてきた……。

 それが、最期に見た光景だった。

 頭部を襲った衝撃は、たとえようもないほどに凄まじく……自分の頭蓋が砕ける感触すら感じた彼は、意識が途絶える一瞬のうちに、死を自覚させられた――。


「……そうだ。あれは致命傷だった。私も死んだはずだ、確かに。だが――」

 彼もまた、目覚めた。

 そして――ついさっきまで、頭の中を焼き尽くさんばかりの〈衝動〉に突き動かされ、部屋の中にいた、もとは同僚だった動く屍を圧倒的な力で打ち倒し、その血肉を喰らっていたのだ。

「いったい……いったい、何が……起こっている……?」

 何か分かることはないかと、頭から、腕、胴、足と、自らの身体に触れて調べてみるボルクマン。

 自分の血か、返り血かは分からないが、血に塗れた身体は、致命傷だったはずの頭部の損傷さえ何事もなかったように元に戻っているということ以外、おかしな所は特にない。

 そう――異質と感じるものはなかった。

 つい先程まで、生ける屍となった同僚を相手に、人間とは思えない膂力を振るったにもかかわらず――彼の自己診断は、彼の身体が、これまで医師として数限りなく接してきた、『人間』のそれと何ら変わるところがない、という結論に至った。

 もちろん、機械を用いた精密検査となれば、また結果が変わるのかも知れない。

 だがそれでも、身に降りかかった出来事の大きさと対比すれば、よほどの変化がなければ釣り合わないだろう――。

「……待てよ」

 ふと思い立った彼は、床に散らばっていたメスの一つを拾い上げ、手の平を切り裂いてみる。

 ……ぱっくりと開いた傷口は、ものの数秒と経たぬ間に塞がって消えてしまった。

 一応、痛みを感じたあたり、自分はまだ人間なのだと確認出来たようで、わずかにほっとするが――それは裏を返せば、自分が〈人間のようでいて人間でないモノ〉に変じてしまったのだと、意識の大部分で認めつつあるということだった。

「私は……どうなったと――」

 ――そのとき、戸惑いに揺れる彼の思考を、病院中に響く大勢の悲鳴が断ち切った。

 そうして、彼ははたと気付く。

 自分が再度殺し、喰らったのは、同僚の医師だった生ける屍ただ一つだけで……頭を殴られる前に見た限り、あとこの手術室には、大本になった患者と、殺された看護師がいたはずだと。

 だが、その二人――もはや人と言っていいかは定かでないが――は、既にここにはいない。

 それはつまり、原因が病原体の感染のようなものかは分からないが……見境なく人を襲い、同種を増やしていく危険な存在が、より人間の多い場所へと向かっている、と言うことだった。

 正直ボルクマン自身、自分の身に起きた異変のことで今は頭がいっぱいだった。

 だが、逆にそれゆえにか……その難解な問題から逃れ、人命救助という医師としての本分に思考を沈めてしまおうと、彼は悲鳴の発生源を追って手術室を飛び出し、人が最も集まっている受付ロビーへと向かう。

 しかし――。

 力強く駆け出したはずの足は、廊下を数十メートルも進まないうちに、徐々に勢いを失い……。

 やがて、とぼとぼという表現がぴったりな歩調になった。

「……それもそうか」

 意識するまでもなく、皮肉めいた苦笑がその顔に浮かぶ。

 ――彼もまた既に、人から忌避されるような存在となっていたのだ。

 全身血に塗れ……加えて、先に手術室から逃がした人間が、襲われて殺されたと話しただろう自分が歩き回っていたりすれば、こうなるのは必然だと、自嘲せずにいられない。

 廊下で見かけた同僚や看護師たちは、違うのは叫ぶ言葉の内容だけで――例外なく誰もが、彼の前から逃げ出していったのだ。


 ――悲鳴と怒号が飛び交い、病院とは思えないほど騒がしい足音物音が、地響きのように空気を揺さぶる大混乱……。

 そのさなか、一人、蚊帳の外にいるように悠々と廊下を進むボルクマンが、受付ロビーに辿り着いたとき、そこは既にもぬけの殻だった。

 待合に放り出された様々な私物や、そこかしこに飛び散った血痕、倒れた観葉植物、割れたガラス、付けっぱなしのテレビのモニター……あらゆる要素が、ここで起きた混乱の激しさを物語っている。

 血痕の量の割に、死体の一つも転がっていないあたり、理屈はどうあれ、あの動く死体が〈仲間〉を増やしたのは間違いないようだった。

 階上にはまだ人の気配が感じられたが、あの動く屍が仲間を増やすさまを見たのでは、それらの人々の避難誘導にあたっている人間も、あえてここを通りたくはないのだろう。気配の動きから、別の経路を使って逃げる気なのだと分かる。――加えて、あの動く屍の気配も。

 どうしたわけか彼は、まるで自分がレーダーにでもなったかのように、ただの勘などではなく、はっきりとその気配を悟ることが出来た。そして意識をそれらに向けるたびに、あのどうしようもない〈衝動〉が、ドクンと大きく胸を打ち、理性を本能めいた熱さで焼き切ろうとする。

 動く屍――その実物が目の前にいればどうなったかは分からないが、幸いにして視界内にそれがいないために、何とか理性を保てていた彼は、大きく息を吐き出しながら、待合の長椅子の端に腰を下ろす。

 そうして、何気なく目を遣った大画面テレビは、ちょうど緊急ニュースとやらを流すところだった。

 女性アナウンサーの取り乱した様子に「こんな冗談のような状況の中にいて、今さら大事件も何もない」と、思わず微苦笑を漏らす彼だったが……すぐに、その笑みは凍り付いた。

 視線は画面に釘付けに。腰も自然と椅子から離れる。


 ニュースとして流される映像は、この病院以外の場所でも、死んだはずの人間が起き上がり、人を襲っている事実を告げていた。

 それも、ここオスロばかりでなく、ましてやノルウェーだけでなく――。


 世界のあらゆる場所で、同じ事態が発生しているのだと。



「まさか、そんなことが……」

 きびすを返し、ロッカールームへと駆け込むボルクマン。

 改めて自分でも情報を集めようと、スマートフォンを取り出した彼はそこで、フリーメールに受信があることに気が付く。


 発信者は――トルヴァルト・ボルクマン。彼自身だった。


「これ、は……」

 見た途端、遠い昔の記憶が、意識の底から浮かび上がってくる。

 だが――それが形を取るよりも早く、ボルクマンは震える指でメールを開いていた。


『ロアルドのヤツが、人間の中に見えると言った〈数字〉めいたもの。

 覚えているか?

 日ごと減っていくという、その〈数字〉がゼロになるのが、今日この日だ。

 ――さあ、何が起こっている?』






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