4.どうして
――未だ開発途上の伏磐市には、昔ながらの緑地が残されている区画も数多い。
カイリは、日が落ちれば当然のように人気のなくなるそうした所を選んで通って、家路を急いでいた。
白子としての体質のため、陽光に曝される日中よりも夜間の方が過ごしやすいのは間違いない。だが――それを差し引いても、今、暗がりに隠れながら歩みを進めるカイリの身体は、これまでの人生で感じたことがないほどの活力に満ちていた。
それどころか、腕力や脚力ばかりか、あらゆる身体能力が、もはや人の範疇に収まるようなものでなくなっていることが自覚出来る。
しかし――。
そんな、生物の頂点を極めんばかりの器の中にあって、彼の心といえば、爪も牙も持たない小動物のように怯え、縮こまっていた。
……ほんの数時間前。
事故に遭ったバスの中で、動き出した死体が襲い来るのを、ただ退けるどころか、〈衝動〉の赴くまま、圧倒的な力を以て蹂躙した後……いくらか平静を取り戻した彼は、『喰らえ』という〈衝動〉だけは何とか抑え込んで、たまらずその場から逃げ出した。
己への恐怖に負けて、何もかもをかなぐり捨てるように。
尋常でない騒乱の様相を見せ始めていた事故現場から、人の眼を恐れ、かいくぐり、思考すら置き去りにして――ただ、逃げ出した。
そうして、家に帰りさえすれば……布団に潜り込んで眠りさえすれば、すべてが悪い夢で済んでしまうのではないか――。
そんな、自分で儚いと分かっている、どうしようもなく儚い期待に全力でしがみついて、彼は必死に神社を目指していた。
その途中、救いを求める心は他へも手を伸ばし、何度ポケットからスマートフォンを引っ張り出したか知れない。
彰人なら、結衣なら……彼らなら、改めて話をすれば、自分の身に起こったことを理解してくれるのではないか。端末越しなら、それが出来るのではないか。
彼らに、助けてもらえるのではないか――と。
「…………ッ」
だが結局、救われることへの期待よりも、それが裏切られることの恐れに打ち負け、しばらく握り締めていたスマートフォンは、そのまままたポケットへ戻っていく。
……そんなことを繰り返すうち、ようやくカイリは誰の目にも留まることなく、馴染み深い石段へとたどり着いた。
皮肉にも、足取りばかりは力強く石段を駆け上がるカイリ。
――下にいたときから気配で察していた通り、小さな神社の敷地には、ただの一人も人気はなかった。
「爺ちゃん、まだ戻ってないんだ……」
保護者たる老神主がいない事実を、心細いような、ほっとしたような複雑な思いで受け止めながら歩を進める。
先に足が向いたのは、部屋がある社務所の方ではなく、手水舎だった。
まず少しでも身を清めたいと――清められればと、薄闇の中静かに眠る水面へ近付き、覗き込んで――カイリは凍り付く。
「あ……ああ……」
清水は、曇りのない鏡となって冷厳に、彼に、嘘偽りのない彼自身の姿を突きつけていた。
彼が何をしたのか、目を逸らすことは許さないとばかり――真正面から。
『そんなの、ちがううちに入らないよ。だからいっしょ。キミも、あたしたちと』
『幼き日のそれを罪だと感じるなら、なおのこと、お前は人間だ。
ワシらと同じ普通の人間、普通の子供でいていいのだよ』
かつて、大切な人たちから貰った言葉が脳裏を過ぎる。
……カイリは、力無くその場に膝を突いていた。
――人間? 人間だって? こんな……こんなおぞましいものが……!
口の周りから、胸元まで、べったりと血に汚れたその姿。
外見こそ変わらない人のままでありながらの、その凄惨なさまは、人を喰い散らかした鬼のようだ。
――そうだ、鬼だ。鬼そのものじゃないか、僕は……!
必死に目を背けていた、人を喰らったという事実が、彼の中を目一杯に覆い尽くして締め上げる。
そしてそれはさらに、一点で凝固し、鈍い刃のように彼の心奥をじわじわと貫き、抉るのだ――。
真っ先に――最も大切なひとを喰らってしまったという、その一点で。
「ナナ姉……ああ、僕は、僕は――ッ……!」
視界がぐにゃりと歪み、ぼやけ、霞む。
事実を、ありのままに受け入れてしまった瞬間……もう、千々に引き裂かれそうなその心に、あふれるものを堰き止める力などありはしなかった。
ぼろぼろと、止まらない涙。
それは視界を掻き乱すだけでなく、その小さなレンズの中に、過去の思い出を映し出していた……次々と、大河の泡沫のごとくに。
――七海と出会ったのは、小学生の頃だった。
ことあるごとにからかわれ、いじめられるカイリを、助け、庇い、相手が男子だろうと年上だろうと一歩も退かない、強い少女だった。
自らの出自と、幼少期の特殊な環境に負い目を感じ……それゆえに卑屈ですらあったカイリを叱咤し、顔を上げさせてくれた、真っ直ぐな少女だった。
弟の彰人を始め、カイリや他の子たちの面倒も甲斐甲斐しく見る、優しい少女だった。
最初の頃は、母親とはこういうものなのだろうか、などとも思った。ただ、それを口にするとなぜか怒られたので、以後は姉と呼ぶことにした。
そうして、月日とともにまさしく姉のように感じ――やがて背丈を追い越す頃には、守られるばかりでなく、守らなければならないと思うようになっていた。
命を賭けてでも守らなければならない、自分の居場所だと。
互いの想いを確かめあった後は、七海もまた同じようなことを言っていた。
だが、だからこそ自分が、と、より誓いを固くもした。
そう――守ろうと、固く誓っていた。
自分が、人間としても、男としても非力なことを認めた上で……。
それでも――だからこそ。
自分のすべてをなげうってでも、彼女だけは守り抜こう――と、そう誓っていた。
――なのに。
その誓いは破られたのだ。……他ならない、自分自身の手によって。
「ナナ姉……!」
喉の奥から、嗚咽が漏れ出る。
やがてその嗚咽は、次を、また次を呼び……。
「ナナ姉……ナナ――ナナねえ……ああ……あああああーッ!」
嘆きの波は響き合い、大波になってカイリを呑み込んだ。
その波濤は慟哭だった。
獣のような、だが人間だからこその、感情すべてを吐き出す、剥き出しの魂の慟哭。
それは、いつ果てるとも知れなかった。
だが――その波も、少しずつ、やがては凪いでいく。
そのありったけを出し尽くして……。
カイリの心は、現実に彼がそうしているように、無限の空虚の涯てに独り、ぺたりと座り込んだ。
そうして、そのまま……深淵の独房に自らの心を縛り、繋いで、閉じ籠もってしまえたなら、それはそれで、彼にとっては一つの幸せだったのかも知れない。
しかし……彼は見つけてしまった。見過ごせなかった。
昔のように、ずっとうつむいていれば気付かずに済んだはずの――深い闇にぼんやりと浮かぶ、一点の疑問の言葉を。
『ほら、かおをあげなさいっ!』
幼い頃、七海に叱られた通りに、半ば反射的に見上げた瞳は――無邪気なほどにしっかりと捉えていた。
――どうして、という疑問を。
どうして、自分はこんな〈何か〉になったのか。
どうして、自分は七海を喰らわなければならなかったのか。
どうして、七海は自分に喰らわれなければならなかったのか。
どうして、死んだはずの人間が動いていたのか。
どうして、こんな事態が起こっているのか――。
ただ一つの〈どうして〉を切っ掛けに、これまで押し込めていた疑問の数々が噴き上がり、彼の意識までも、現実の淵へと押し戻す。
「そう、だ……このままじゃ……」
ぽっかりと虚ろになった心は、だがそれゆえにか、到底受け止められないと思っていた事実たちを、拍子抜けするほどすんなりと受け入れていた。
人間のそれではなくなっていても、しかし自分のものには違いない手足に力を込め……カイリは、ゆっくりと立ち上がる。
「このままじゃ……ナナ姉に会わせる顔がない……。謝る言葉だって、ない……」
何が起こったのか――その事実の一端にでも触れなければ、死ぬことすら許されない。
心のうちに、誰によってのものでもなく、彼自身から芽吹いたのは、そんな強固で鋭利な決意だった。
それを待っていたかのように――。
彼以外の命が存在しないような静謐の境内に、不釣り合いな電子音が響き渡る。
すぐにそれが自分のスマートフォンだと気付いたカイリは、ポケットから取り出すものの、着信を告げる画面を見つめたまま出ようとはしない。
発信元は、彼の保護者の老神主だった。
およそ真っ当とは言い難い幼少期を過ごした自分を、真人間にしてくれた人。
厄介な疾患を抱えた自分を、嫌な顔一つせず迎え入れてくれた人。
家族というものを、身を以て教えてくれた人――。
「……爺ちゃん」
見下ろす彼の手の中で、スマートフォンはしつこく鳴り続ける。
その音の欠片一つずつが、老人の厳しくも暖かい叱咤のように感じられた。
だからこそ――。
「うん――ありがとう。これまで本当にありがとう。
だから………さようなら」
彼は、訣別を心に決めた。
比喩でも何でもなく、本当に人でないものと化した自分。
得体の知れない〈衝動〉により、人を喰らってしまう自分。
そんな自分が、近くにいるわけにはいかない――と。
そしてその訣別は、つい先頃までは救いを求めようとしていた友人たちにも当てはまった。
一度、今の自分が力を振るえば、ただの人間では止める術がないのは明らかなのだ。なら――彼らを、カイリ自身の得体の知れない毒牙から護るためには、関係を絶つのが一番良い。
……迷いがないわけがなかった。嫌だと思わないわけがなかった。
だが――人を喰らう存在となり、七海を喰らった自分には、その道しかないのだと――。
彼は己に言い聞かせ、心を奮い立たせて覚悟を決めた。
「……みんな……」
掌を、軽く握り込む。
ただそれだけで、華奢で白い手の中、スマートフォンは拍子抜けするほど簡単にくしゃりと潰れ――そして、二度と彼を呼ぶことはなくなった。