3.混迷の予兆
――電車の揺れは、いつもと同じだった。
今日もまた、昨日と変わりない一日なのだとばかりに。
何の変化もあるはずがないとばかりに。
いつもと同じ、一定のリズムを生真面目に刻み続けていた。
あまりに当たり前すぎて、これまではいちいちうるさいとも静かとも思わなかった、特に何でもない揺れ――。
その中で、数少ない乗客が、他愛のないお喋りに興じたり、眠ったり、読書をして、普段通りの生活サイクルを送っている様子に、彰人と結衣は安堵を覚えずにはいられない。
さっき起こったこと、目にしたこと。
信じられないこと、受け入れられないこと、まるで理解出来ないこと――。
それらをまとめて、ほんの一時でも考えずに済むよう、押し込んでおける……そんな隙間を、そんな何気ない日常の電車の光景が、彼らの心に空けてくれていた。
座席に腰掛けた結衣と、その前で吊革を手に立つ彰人。
あの異様な事故現場から、とにかく離れなければと駅へ駆け戻り、ちょうど着いたばかりだった電車に飛び乗ってから、二人の間に会話はない。
実際の時間は十分程度しか経っていないはずだが、蝋燭の火が消えるように宵闇へと切り替わってゆく窓の外の景色は、体感以上の時間を思わせる。
「……ねえ」
沈黙を破ったのは結衣だった。
両腕で自らの身体を掻き抱きながら、うつむいたままに掠れた声を絞り出す。
「何が……どうなってるのかな……」
「……分からねえ。分からねえよ……!」
ぎりり、と何かを締め付けるような音がした。
それが歯ぎしりなのか、吊革を必要以上に握り締めた音なのか、うつむく結衣には分からない――が、彰人の心中に渦巻いているだろう感情の一端だけは、垣間見えたような気がした。
「死体が動き出すとか……悪い冗談じゃなきゃ、何だってんだよ……」
彰人の苦々しげな一言に、必死に抑え込んでいた光景を、まざまざとまぶたの裏に見せられた結衣は、ぶるりと身を震わせる。
……バスを飛び出した二人の前に広がっていたのは、まさしく地獄だった。
事故の被害者を助けようとした人が、その当人に襲われる。
二度と動くことのない死体だったはずの〈もの〉たちが、起き上がるや獰猛な肉食獣のように素早く手近な人間へ襲いかかり、引きずり倒し、その首をあるいはへし折り、あるいは噛み千切る。
そうした犠牲者もまた、ややもすればのそりと身を起こし……同じ運命を辿る人間を探すのだ。
――生気の光を確かに宿しながらも、まるで輝きを感じない……そんな、矛盾を孕んだ瞳で。
そうして拡大する被害の悪夢めいた連鎖が、今どうなっているのかは、二人にも分からない。事故現場周辺が、本格的なパニックに陥り騒然となる前に、二人は駅に駆け込み、電車に飛び乗ったからだ。
彼らが、他の人々のように恐怖に足をすくませることも、不要に混乱することもなく決然と行動出来たのは、あるいはその前に、もっと恐ろしいモノ――同じバケモノめいた存在でも、動き出した死体とは何かが一線を画している、カイリという友人だったはずのモノ――と、対峙したからかも知れない。
「結衣。お前には、カイリは……どう見えた」
ちょうどその姿を思い返していたところだった結衣は、彰人もまた自分と同じような、違和感めいたものを感じているのだと察しながら、答えを紡ぐ。
「……雰囲気が……まるで違ってた。
別人って言うか……もっと、別の……上手く言えないけど。
でも、死んでいた人が動き出した、あの、あれとも……違った気がする」
正直に第一印象から答えていたなら、真っ先に口を突いていたのは「怖かった」だったろう。
しかし結衣は、そうしたカイリを悪しざまに表現する言葉は意識して呑み込んだ。
彰人のことを慮って、というわけではない。
……それは彼女なりの、小さな意地のようなものだった。
「……俺もそう思う。あいつは違った。少なくとも、意志はあるように見えた。
それ以上は……何がどう、とは分からねえけど」
結衣はふと顔を上げる。こことばかり、カイリを擁護しようとして。
だが、彰人を見れば、何の言葉も出なくなった。
その顔に刻まれていたのは、深い悲しみや激しい怒りだけではない、様々な感情を呑み込んだ――ただただひたすらに、つらそうな表情だったからだ。
そんな彼の口から漏れてきた言葉は、混ざりすぎた感情が却って色を無くしたのか、どこか冷たく、機械的ですらあった。
「けど、はっきりしてることもある。
あいつが、姉貴を……。それだけは、事実なんだ」
「……彰人君」
改めて七海のことを耳にすれば、彰人の受けた衝撃がいかに他人が察するに余りあるものだったかを、結衣は思い知らされる。同時に、それでも取り乱さずにいられる、その心の強さも。
だからこそ彼女も、友人として、何か慰めの言葉だけでもかけてあげたいと思う……だが反面、親しい友人だからこそ、この状況でかける言葉など、おいそれとは見つけられなかった。
そうして難しい顔をして押し黙っていると、むしろ彰人の側が結衣のことを察したのだろう。
おもむろに、強張った顔をほぐすように片手で自分の眉間をぐりぐりと捻りあげ、胸の奥の澱みをそのまま吐き出そうとばかり大きな息をつき、意識して、いくらか表情を和らげていた。
「……さて、これからどうするか……」
「どうするの?」
彰人が意識して空気を変えようとしたことは結衣も即座に気が付いた。
だからこそ、それに乗るついでに、先程から彼女自身気になっていたその問題を、オウム返しに繰り返す。
あの場を離れるためとはいえ、とっさに飛び乗ったこの電車。
幸いに結衣にとっては自宅へ戻る手段の一つだったが、そもそも、かの駅が最寄りだった彰人の方は、電車で家に帰るには、せっかく離れたはずの悪夢が居座る場所へ戻るしかないからだ。
「……正直に言えば、分からねえ。でも、とにかくまずは、このままお前を家に送る。
それから……そうだな、俺も取り敢えず一度帰って――」
「帰る、って……でも、あっちは危ないよ……!」
死体が動き出すという異常の原因として、数多のフィクションを参考に真っ先に思い浮かぶのは、ウイルスや細菌といった病原体か、特殊な薬品によるものなどだろう。
そしてそれらの流出、汚染が実際あったのかどうかはともかく、結衣たちは、被害者が新たな加害者になり、被害が拡大するそのさまを目の当たりにしている。そんな中、現場近くに戻るなど危険極まりない、自殺行為にしか思えない。
彰人自身もそれぐらい理解しているのだろうが、それでも止めずにはいられない結衣はとにかく言葉を繰り出そうとする――が、彼女がその一言めを発する直前、今までいつも通りだった車両内が、にわかに色めきだった。
ドキリとして、二人は同時にそちらを見やる。
ドアの前にたむろした大学生らしき三人組が、タブレット端末を中心にして、驚きと、恐れと、そして――どこか楽しんでいるような色合いの大声を、ない交ぜに上げていた。
その会話の断片から、結衣たちはあの悪夢の事故現場の映像や画像が、早くもネットに上がっているのだろうと理解する。
それはそれで、改めて最悪の現実を突きつけられて気が重くなったが、聞きたくなくてもなおも耳に飛び込んでくる大学生たちの会話は、事態がその最悪すら霞むほど、本当の最悪に傾いている可能性を示唆していた。
「……そんな、まさか……!」
弾かれたようにカバンからスマートフォンを取り出し、震える指で関係のありそうな単語を打ち込んで検索をかける結衣。
「……ウソ、だろ……」
ディスプレイに浮かんだその検索結果は、彰人をも我を忘れて絶句させた。
「ここだけじゃ……ない……?」
そこにあったのは、彼らの考え得る最悪を容易に飛び越えた……形を成した絶望そのものだった。