10.いずれまた、きっと
白鳥神党の本拠地として、〈乙女〉の加護を得ようと、多くの人が訪れたオルレアン――。
しかし、その賑わいも今は昔。
めっきりと往来の人の数は減り、神党が訪れる以前、打ち棄てられていた頃に逆戻りしたかに見える。
だが――。
当時のうら寂れていた街と、現在と。
その両方を知る人間が見たなら、それらを同じなどとは決して思わないだろう。
街を覆う、空気――雰囲気。
そうしたものが、まったく違っているからだ。
かつてのオルレアンは、〈暗夜〉以降、廃墟に近しくなった都市ではどこでも見られたような、退廃、無気力、絶望……そんな暗い感情が、澱んだ空気となって沈み込んだ街だった。
しかし今は――。
むしろ、〈暗夜〉どころか〈その日〉よりもさらに前……人類が世界の大変化を迎える以前の、平穏でのどかな村落のようですらあった。
その日一日、また一日と、大地に寄り添い、大地を踏みしめ、懸命に生きる。
質素でも一日の糧を得られたこと、無事に過ごせたことに、感謝を捧げる。
純朴で清貧、そして敬虔――。
それが、今のオルレアンの澄んだ空気を形作る、住民たちの姿だった。
――白鳥神党の解散宣言から、そろそろ一年が過ぎようとしている。
*
……一年前のその日。
〈乙女〉と崇める少女とその両親、そして神党の代表者の告白に、サント・クロワ大聖堂に集まった多くの信者は騒然となった。
〈乙女〉――メールが、普通の人の声とは違う、頭に直接響くような『声』をもって語りかけたこともその理由ではあったが……。
何より騒ぎの中核を成したのは、信者たちが持つ、富を、食物を――様々な財を搾取するため、彼らの信仰心を、救いを求める純粋な心を利用し、長い間騙していたのだと……自らの悪事を暴露したことだった。
少女だけでなく、彼女の両親も、そして神党の代表者も――。
皆が一様にその罪を認めたのだ。
この先、出来うる限り、搾取した財を持ち主に返還し、さらに元凶となった白鳥神党も解散する――。
同時にその約束も成されたが、それでも、これまで十年以上の長きに渡って騙され続けてきた人々の怒りは相当なものになるだろうと、メールたちは予想していた。
そして――メールは、その怒りを一身に引き受ける心づもりでいた。
いざ暴動にでもなったとき、誰を傷付けることもなく――そしてその激情が治まるまで、何日、何年と暴力を受け続けることが出来るのは自分だけだからと。
それが少しでも償いになるのならと。
そう、両親にも黙って、ただ一人覚悟を決めていたのだ。
しかし――人々の反応は、彼らの予想したものとは違っていた。
大声で彼らを罵り、呪う者も、いるにはいた。だがそれはほんの僅かだった。
他には、財を返してもらえるのならと、納得して静かに去る者が大半。
そして……。
それでもなお――と、メールを慕って残る者が、少なからずいたのだ。
……結果として。
白鳥神党の解散劇は、関わった者が感じていた罪の重さに反して、何ら荒れることもなく、拍子抜けするほどの平穏の内に済まされた。
その理由が何なのか――神党代表の新堂には分かるような気がした。
――メールという少女が、本物の聖女たる人物だったからだ……と。
人を超越した本物の力を持っているから、というばかりでなく……神党の詐欺紛いの活動に携わりながらも、決して、人々を想い慈しむ心を捨てなかったからだ――と。
確かに届いていたのだ、少女のその心は。形として見えはしなくとも。
そして、新堂が、自らの手によって演出し、創り上げたと思っていた偶像は――虚像は、いつしか、本物になっていたのだ。
本当の、人々の心の拠りどころになっていたのだ。
――キミのこの先の生が、その赦しに見合うものであるように――
聖堂に残った人々が、メールのもとに寄り添う姿を見ながら……新堂は先日の、彼が神と信じ続けてきた少年との再会を思い返す。
新堂にとって、白鳥神党の活動とは、すべてその少年――カイリのためのものだった。
カイリを迎え入れ、彼の威光を遍く世界に広めるためだった。
それこそが世界のためであると、そう信じて疑わなかった。
ゆえに、神党の力を増すため、自分たちがしていることは間違いではない――それどころか正しいことなのだと、そう信じ切っていた。
だからこそ、数十年の時を経て再会したカイリに、その功績を熱心に語った――子供のように。
そう……そのときの彼の心境は、まさしく子供のそれだった。
ただ褒められたい、認められたい一心で、意気揚々と、無邪気なまでに自らの行いをまくし立てる子供。
そしてカイリはそれを、押し止めることも遮ることもしなかった。
ただただ、新堂が語るまま、物静かに聞き続けた。
だから、受け入れてもらえたのだと――彼はそう思った。
――しかし。
すべてを語り終えた彼に対し、カイリが静かな口調で発した言葉は――彼の望むものではなかった。
「それは今となっては、僕のためでも、神党のためでも……まして世界のためでもない。
すべて、キミ自身のためなんだよ。
そして……キミ自身、そのことに気付いている。――そうだね?
だから、キミは僕に語らずにはいられなかった……これまでの行いを、振る舞いを。
なぜならキミは、それを誇りに思うと同時に、恐れてもいるから――」
カイリの言葉は、じわりと、新堂の心に染み渡る。
それは、長らく待ち望んだ、肯定の言葉ではないはずなのに。
――いや……違う。私が、私が本当に望んでいたのは……。
老境にまで生きたゆえにか、凝り固まり、絡まっていた新堂の心、思い、考え――それを、カイリの一言一言が、一つ一つ、丁寧に解きほぐしていくかのようだった。
――そう……『赦し』になっていたのか。道を違えてしまった、私の望みは……。
カイリのそれは、神の如き絶対者の強言ではなく――。
むしろ、新堂自身の心が、自らにあらためて語りかけているかのようだった。
新堂の中のもう一人の自分が――これまでの行いを恥じる自分が、その過ちを諭しているかのようだった。
……いつしか、彼はまた涙を流していた。
自らの過ちに気付き、その罪悪感におののく、無垢なる涙を。
悪いことをしてしまったとおびえる――そう、やはり子供のように。
人間という、『子供』ゆえの涙を――。
「そして……キミに赦しを与えるのは、僕じゃない。
僕は、ただ願うだけだ。
キミのこの先の生が、その赦しに見合うものであるように、と――」
メールと、その周りに集う人々を見守りながら、新堂の中には一つの意志が生まれていた。
年老いた自分に、この先出来ることは少ない。
ならばその命の限りに、『信仰』を、次代へと繋いでいこう――と。
宗教のような誰かのためのものとは違う、一人一人が、自分自身の心に光り差すものを信じ、拠りどころとする――そんな、真の信仰を。
いつ終わるとも知れぬ混迷の世を生きる人々へ。
そんな心の救いを――在り方を、繋いでいこう……と。
*
――そうして、一年。
宗教という枠組みから外れ、自らの心拠るものにこそ捧げる――そんな本来あるべき信仰を、オルレアンに残った人々は取り戻しつつあった。
その様子は、この一年、ひっそりと行く末を見守り続けてきたカイリにとっても喜ばしいものだった。
人間の中に、善性は未だ残り――それが決して弱いものではないのだと、そう感じることが出来たから。
そして、白鳥神党という、自分にも、多くの人々にも影を落としてきた存在が……その最後にようやく、人々の心に光を灯すきっかけとなったから。
カイリは、長い長い間、負い続けてきた肩の荷を一つ、ようやく下ろせた気がした。
《……カイリ》
小高い場所から街を見下ろすカイリの側へ、メールが一人、歩み寄る。
完全に気配を消し去り、傍観者に徹していた彼の存在を察することが出来るのは、今この街では彼女だけだ。
「メール……ありがとう。キミのおかげで僕は、より良い未来……そんな可能性の一つを見届けることが出来た。本当に感謝してるよ」
《より良い、未来……?》
カイリは、その口もとで微かに、寂しげに笑った。
「幼い日の僕も、どうせムダだって諦めず、キミのようにあの人たちを説得していたら。そうしたら、もしかしたら……」
そんなカイリをただただ、真っ直ぐに見つめるメール。
《……カイリ……わたしには――今のわたしにはきっと、あなたの本当の想いは分からない。
でも……わたしが顔を上げられたのは、あなたのおかげ。
あなたに出会えたから。
だから……わたしこそ、ありがとう》
カイリは驚いたようにメールを見返し……そして表情を和らげた。
「うん――そうだね。
かつて、キミがいて、僕がいて……一緒にいられて。
それから、長い長い時間の果てに、こうして、またキミと出会って。
だから、この結果がもたらされたのなら……お互いに『ありがとう』が、きっと正しいんだろうね」
メールに、カイリの言葉の真意は分からなかった。
けれどもそれが、決して自分の想いと反していないことだけは理解出来た。
そして――今の彼女には、それだけで充分だった。ゆったりと、大きく頷く。
「じゃあ……僕はそろそろ行くよ。
確かめたいことがある――行かなければならない場所があるんだ」
メールはもう一度頷く。
彼女の中には、カイリとともに行きたいという気持ちがあった。
どこまでも、いつまでも……彼とともにありたいという強い想いが、間違いなく存在した。
しかし――。
《うん。……さようなら、カイリ》
彼女はこの数十年、ついぞ誰にも見せることのなかった、屈託のない笑顔で……カイリを見送った。
今の彼女にとって大切なのは、愛する両親の傍らで、彼らの生を、最期まで見届けることだったから。
彼女を信じてくれた人々の行く末を、見守り続けることだったから。
それが分かっているから、カイリもまた――ただ、笑顔で手を振った。
再会の約束は必要なかった。
この星に寄り添い、永遠を生きる二人は、いずれまた会えることを分かっていたから。
こうして出会えたように――いずれまた、きっと。




