9.人形じゃないから
白鳥神党の本部とは別にあてがわれた、親子三人が住むには大きすぎる邸――。
外の世界の荒れ具合とは対照的に、時代を大きく巻き戻したかのように小綺麗な食堂には今夜も、豪華な食事が並んでいた。
そう、並んでいるのだ――今の時代、食うや食わずの人間も多い中、親子が囲むテーブルには、幾皿もの料理が。
そして、その食うや食わずの側だった頃と変わらず……メールの両親は食事の前には祈りを捧げる。習慣だという祈りを。
それは、見る人によってはとんだ皮肉かも知れない。
また、その祈りはとうの昔に、誰に向けられたものでもなくなっているかも知れない。
だが……今のメールにとってそれは、一筋の希望に見えた。
すっかり変わってしまったと思っていた両親――しかしその内には、まだ、かつての心が捨て去られずに残っているのだと。
『メール、お前が食べなさい』
少ない食料をいつも、笑顔でそう言って自分に多めに回してくれた、その心が。
だから、メールは決意を新たにした。
親からすべり落ちた優しい心そのものと感じる『お人形さん』を胸に掻き抱き――。
カイリから教えられた通り、顔を上げて。
今度こそ――と、『声』を紡いだ。
《……パパ、ママ――。お話があるの》
*
まだ夜も早い時間だったが、今日はもう休もうと、新堂陽一は自室へと向かう。
〈その日〉、そして〈暗夜〉と二つの大異変を経験する中、人々の新たな希望たれと、〈白鳥神党〉を率いる身になって数十年――。
寄る年波には勝てず……体力が落ちてきたことを自覚する彼は、最近は、喫緊の重要な問題でもなければ、夜は早めに休むように心がけていた。
単純に、命を長らえたい、というわけではない。
彼には、強い使命感があったからだ――〈白鳥神党〉を遍く世界に広める、という。
だからその成就のために、一日でも長く生きなければならないとの決意があったし、あらゆる手段を用いるべきだという信念もあったのだ。
(そうだ、いつの日か、あの方をお迎えするまでは……)
遙か遠い過去の記憶に思いを馳せながら、自室のドアを開ける新堂。
瞬間――彼は、違和感を覚える。
その正体はすぐに分かった。
締め切っていたはずの窓が開け放たれ、カーテンが夜風に揺れていたのだ。
歳を取ったとはいえ、そんなことを忘れるとも思えない。侵入者がいたのか……。
警戒しながら部屋を見渡し――新堂は、窓の側に一つの気配があることに気付いた。
月明かりの影。そこに、何者かが――。
「……そうか。キミだったのか……」
新堂が何者かと呼びかけるより先に、影の中から声がした。透き通った少年の声。
「――!」
新堂は息を呑む。
いや、それどころか、まさしく心臓が止まるかというほどの驚きがあった。
それは、彼の記憶の中――今の彼を造り上げた根幹に座す声音と、同じものだったからだ。
かつて聞き、そしてまた、いつか耳にすることを待ち望んでいたものだったからだ。
そして――。
影の中からゆっくりと、彼の前に現れた一人の少年。
その姿もまた、何十年という遙か過去の、彼の記憶そのままだった。
「あ、ああ……おお……」
新堂の膝は自然と折れる。少年にひざまづく。
「わ、私を、覚えておいでなのですか……?」
「……青森県、十和田市。マーケットの駐車場に、キミは家族とともにいた。
もう……五十年以上前のことだね」
「ああ……そうです、その通りです! あの日、生屍に襲われていた私たち家族を、あなたが救って下さった……!
あれから……こうして再びお会い出来る日を、どれほど夢見ていたことか……!」
新堂はあふれ出る涙を隠そうとも拭おうともせず、深く――深く、頭を垂れる。
「お会いしとうございました、生き神様……!」
*
「メール、今のはお前か? お前の声……なのか?」
歳のせいばかりではなく、多くはその自堕落な生活によるものだろう――だらしなくついた身体の肉を揺らすようにして、メールの父は驚きも露わに席を立つ。
その隣では、やはり若い頃の面影などほとんどない母が、やや腫れぼったい眼を大きく見開いていた。
「あなた、話せるように――いえ、今のは普通の声じゃ……」
母の疑問に、メールは小さく頷く。
《……教えてもらった。わたしは屍喰だから……こうすればお話が出来る、って》
両親はどちらからともなく、顔を見合わせてから、改めてメールに向き直る。
その表情に浮かぶのは、戸惑い、不安……そうした恐れに根ざした色だ。
言葉を持てなかった娘が、語る術を得たことを喜ぶものではない。
しかし――メールにとってそれは、むしろ救いだった。
自然と、彼女自身気付かぬ間に、頬を一筋の涙が伝い落ちる。
彼女が言葉を得たことを恐れる理由――それは一つしかない。
白鳥神党やメール自身を利用して、多くの人を騙し、傷付けて、不当に財を得てきたこと――。
そんな自分たちの行いを、確かな『言葉』で非難されることだ。
人の道に背くものだと、そうはっきり指摘されることだ。
つまりは――。
父にも母にも、自分たちが『悪いこと』をしているという自覚があるのだ。
それを恐れるだけの良心が――残っているのだ。疑いようもなく。
《もう……やめよう?》
だから、メールはありったけの想いで、その一言を紡いだ。
これまでのような、曖昧な――子供が愚図るだけのような、ただ首を振る拒否ではなく。
自分が傷つくことも恐れての――うつむいたままの、中途半端な説得ではなく。
顔を上げて、真っ正面から……むき出しの真心を、ぶつけた。
《……ゴメンね。わたしが、臆病だったせいで……》
――ずっと……両親に愛されなくなることが、怖かった。
だから、こうすれば愛されると、人の欲望を利用してしまった。
両親を歪ませ、また、歪め続けてきた。
でも、違った。そう気付いた。
自分は『お人形さん』ではないのだ。
愛されなくなろうとも――愛することは、出来るのだ。
《わたしは、これまでも、これからも……ずっとパパとママの娘だから。
ずっとずっと……いつまでも、大好きだから……! だから……!》
――『お人形さん』を抱く手に力が籠もる。
一番大事なのは、これが両親の心に戻ることではない。
これが、宝物として自分のもとにある――それこそが何より大切なことだったのだ。
「ああ――メール? 父さんたちは――」
繕うように笑顔を作り、言葉を尽くそうと――本能的に身を守ろうと反応する父。
その手を、そっと……しかし力強く、母が取った。
「もう、いいじゃないですか」
「……お前?」
「もう……いいじゃないですか」
うつむき加減に母は、同じ言葉を繰り返した。
父にではなく、自分に言い聞かせるように――刻み込むように。
「貧しさを嫌っても、飢えを恐れても……それは私たちにとって、命を終えるときまでのことでしかない。
でも、この子は……生きていくんです。
ずっと、ずっと――それこそきっと、本当にいつまでも、いつまでも。
それなら、せめて……」
顔を上げた母は、娘を見た。
娘もその瞳に、かつての母の面影を見た。
いや――そもそも、変わってなどいなかったのかも知れない。
いつしかうつむき、真っ直ぐにその目を見なくなった自分が、気付けなかっただけで――。
「せめて、この子のこれからが、少しでも心安らかになるように……」
かすれた声でそう続ける母の手を、そっと父が握り返す。
そして、小さく頷いた。
憑き物が落ちたような――同時に、安堵を迎えたような、儚い表情で。
「…………ッ!」
そこに、メールも手を伸ばした。
両親の、老いてもまだ自分よりも大きい手を、しっかりと握りしめた。
ぼろぼろと零れだした涙を拭う代わりに。
ずっとずっとそばにいるからと、言葉にして誓う代わりに――。
ただ、その手を握りしめた。
……思っていたよりずっとあたたかかった、父と母の手を。