8.顔を上げて
――メールはその日も、街の中心から離れた石橋の上にいた。
大聖堂の裏手にあたるため、滅多に人の来ないそこは、彼女にとってお気に入りの場所だった。
一人が好きというわけでもない。だが、今このオルレアンに集まってきている人々は、そのほとんどが〈白鳥神党〉の信者たちだ。
出会えばまず間違いなく、〈乙女〉と、度を過ぎた敬愛の念を向けられることだろう。それが、彼女には何よりつらいことなのだと、知る由も無く。
だから、彼女は一人になる。僅かな時間でも、〈乙女〉でなく、ただのメールとなるために。
「…………」
ゆったりと流れる、眼下の水路を見下ろす。
その流れは、初めて見たときから十年近くが経った今でも、まったく変わりがない。これまでもずっとそうしてきたように、今もまだ、そうしてある。
反面、白鳥神党と彼女の両親は、歪み続けた。
いや、まさにこの瞬間も、さらに歪んでいこうとしている。
――朝のことだ。
神党が本部としている、1982年までは同市の市庁舎であったルネサンス様式の立派な邸――その一室で行われていた運営会議には、当然のごとくメールも出席していた。
神党とともにこのオルレアンにやって来た当初は、〈暗夜〉以降の長い年月と略奪によって荒れ果てていたその邸も、今では、往時もかくやと言わんばかりに飾り立てられている。
しかしそれは、伝統や格式を残すためなどではない。
豪華絢爛――と、同じ言葉で表そうとも、その根底にある意識がまるで別物であることは、どこからともなく滲み出る毒々しさが如実に物語っていた。
はっきり言えば醜悪だと、メールは感じる。
だがそれこそが、父母の望むものであったのだ――いびつに変化し、あふれ出る欲望を受け止めきれない心の器、それをそのまま鏡に映したかのような光景こそが。
そうしたものに触れ、心を痛めるたび――何とかしなければという想いが、メールの胸を過ぎる。
もっとも、その想いが報われることなどなかったので……最近では、ただ心を殺し、唯々諾々と両親や神党の幹部の指示にうなずくばかりだったが……。
今日は、あらためて、少しでも神党の歪みを正そうと――両親にも、かつての優しい心を思い出してもらおうと、決意を秘めて会議に臨んだのだ。
しかし――。
「…………」
ゆったりと流れる水面を見下ろしながら、メールは懐から、手の平に乗るほどの小さな小さなぬいぐるみを取り出した。
クマにもネコにもイヌにも見えるそれは、お世辞にも出来が良いとは言えず、また、古びて薄汚くもある。
しかしそれは、彼女の宝物だった。
彼女が本当に幼かった頃、本当に物が無かったときに――母が必死に材料を集めて作ってくれたものだったのだ。
決して器用でもない母が、娘のためにと、それこそ一生懸命に。
(……プペット)
もらったのが幼い頃だったことと、声に出して呼ぶことがないので、何となくきちんとした名前を付けることなく、ただ『お人形さん』と呼びかけてきたぬいぐるみ。
今となってはそれは、母の心から抜け落ちた、優しさそのもののようにすら思えた。
『お母さんたちはもう、そんな苦しい生活に戻りたくはないんだよ』
今朝、もう人を騙すのはやめようと、声には出さずに必死に訴えたメールに返ってきた答えがこれだった。彼女が握り締めるプペットを見て、涙ながらにもらした言葉だった。
それを前にしては、もう、メールに反論する意志はなくなっていた。
――ただ、悲しくて、つらかった。
母にとってのプペットの思い出が、苦しさしかなかったことが。
もらって嬉しがった自分も、それを喜んだ母も。
一生懸命可愛がる自分も、それを見守る母も。
破れたところを、二人で力を合わせて繕った思い出も――。
メールにとって何より大事な、暖かい思い出が、そっくりと滑り落ちていたことが。
そして――それとともに痛感させられたのだ。
屍喰となった自分と、短く限りある命を生きねばならない両親との、生への感覚の絶対的な違いを。
老いて、死が明確に近付くのが分かる今、どうして改めて苦労に身を投げ出さねばならないのか――そんな、両親のある意味当然とも言える欲求を。
「…………」
結局、信者の人たちと両親、その両方への想いの板挟みから脱け出すには及ばず……それどころか、溝がいっそう深く大きくなったかのような無力感を抱いて、小さくため息を漏らすメール。
――そのときだった。
「どうかしたの?」
投げかけられた優しい言葉に、メールは驚き、慌てて頭を跳ね上げる。
屍喰として感覚が鋭くなり、気配に敏感になっていたがゆえに、却って、気が付かなかった驚きが大きくなったというのもある。
だが、それ以上に――。
「………!」
声をかけてきた少年を見た途端、メールは息が詰まるような感覚を覚えた。
初対面のはず、なのに――。
……ようやく、会えた……?
どうしてか、そんな歓喜が、真っ先に胸を突いていた。
続けて、これまで感じたことのないような多くの感情が、よく分からないままに入り交じり、雪崩を打って押し寄せる。
だが――そんな騒ぎ、掴み所のない心の中にあっても。
間違いようのない、たった一つの事実だけは……本能的に理解出来ていた。
そんなメールの心を見透かしたように……白銀の髪に、紅玉のような赤い瞳をしたその少年は、小さく頷く。
「そう……僕はキミの同族だよ。カイリ――そう呼んでくれればいい。キミは?」
カイリと名乗った少年の問いかけに、メールは、ざわつく自分の心の正体を掴めないまま――しかし表向きは何とか平静を保って、小さく首を横に振る。
そして、喉や口の辺りに指をやって、手振りで、声が出せないというのを伝えようとした。
「……声が出せないの? そうか……でも、大丈夫だよ」
そう言ったカイリの、次の言葉――それは、メールの頭に直接響いてきた。優しく微笑むカイリの口もとは、まったく動いていない。
《僕らには本来、言葉すら必要ない。伝えたいと思えばそれでいいんだ。
さあ……出来るって、そう信じてやってごらん》
言われるがまま、メールは自分の名前を伝えようと念じてみる。
生まれついて、声に出して『語りかける』という行為をしたことがなかったので、自分の心の伝えたいことを、そのまま、相手の心に運び、届けるかのようなイメージをもって。
すると――。
《わたしは……わたしの名前は、メール》
するりと、さも当然のことのように……その思いは形となった。
音ではないのに、柔らかで暖かく、心地好い響きを伴って――相手に伝わったのが分かった。
《これ……声? わたしの……声?》
「正確には少し違うかも知れないけど……そう思った方が扱いやすいかもね。
……けれど……そう、メールっていうんだね。……じゃあ、やっぱりキミが……」
ぽつりと独りごちるカイリに、メールは首を傾げるも……当のカイリは、何でもないと頭を振るだけだった。
「――さて。ともかく、これで話せるだろう?
何に悩んでいたのか、僕に聞かせてくれないかな……メール?」
……そう言われたところで、初対面の相手に話す内容ではない、という考えはもちろんあった。
何せそれは、メール自身の悩みであると同時に、白鳥神党という組織の内面を暴露するものでもあるからだ。
だが……彼女は話したいと思った。聞いて欲しいと望んだ。
――この人なら……。
話しても大丈夫だと――話すべきだと、そう、信じられたのだ。
初めて会う同族だから、というわけではない。心の奥底にある、彼女自身の根っ子のような部分が、彼だからこそ……と、囁きかけていたのだ。
だから、メールは語った。
覚えたばかりの話し方で、ぽつりぽつりと――。
自分の生い立ちから、屍喰となった経緯、変わっていく両親、そして白鳥神党との出会いを経て今に至るまで……。
そのすべてを。彼女にとっての、長い長い物語を。
「……そう……」
すべてを聞き終えたカイリは、ただ、静かに頷いた。
石橋に並んで立つ二人を照らす陽は、すでに赤く燃え、彼方に沈みゆこうとしていた。
「それでメール、キミは……どうしたいの?」
ふっと投げかけられる、カイリの単純な問い。
だがその単純さゆえに、メールは答えに窮した。手の中のプペットを、胸に掻き抱く。
そうしてうつむく少女の頭を、カイリはそっとなでた。
「メール、僕らはね……確かに人間にはない力を持ってる。人間という『生き物』でなくなったから、人間には出来ないことも出来る。
けれどね……それでも『人』なんだ。『人』でしかないんだよ。
だから、何でも出来るわけじゃない。何もかもが思い通りになるわけじゃない。
その代わり、『人』だからこそ――同じ『人』と、話し、意志を通じ合うことも出来る。
想いを、伝え合うことも出来るんだ」
メールはカイリを見上げる。
カイリは、優しく……そしてどこか哀しげに、微笑んでいた。
「板挟みで悩んでいるのなら、キミの心は、どちらにも寄り添っているということ。どちらも捨てきれないということだ。
なら――それこそが、疑いようのない、キミの望みなんじゃないのかな」
《……でも……》
メールはまたうつむいてしまう。
すると……カイリの手が、その額を軽くぴしゃりと叩いた。
「……!」
驚いて、顔を上げるメール。カイリは、微笑んだままだった。
「そう――それでいい。うつむいたままじゃダメだ。……顔を上げて」
――かおをあげて。
何気ないその言葉が、どうしてか、じわりと――メールの胸の中に広がっていく。
「キミに、この言葉を贈るよ。
返す――と、そう言った方が正しいのかも知れないけど」
膝を折り、メールの瞳を真っ正面から見つめ――カイリは大きく頷いた。
「メール。……ほら、顔を上げて」
「…………!」
メールもまた、真っ直ぐにカイリを見つめ――そして、大きく頷き返した。
すぐに諦め、甘える心を、叱咤された気がした。
自分の想いが、間違いなどではないと、励まされた気がした。
自分だからこそ出来るし、やらなければならないのだと、背中を押された気がした。
そう、彼女の心は、定まっていた――前へ、と。