7.〈出楽園〉の巫師
「失礼します、博士」
元は、国の重要人物を保護するためのシェルターの一つだった地下構造物――。
そのとある一室に立ち入るたび、彼――八坂洋一郎は何か、時間や空間といった不可視の境界線を踏み越えたような錯覚を感じずにはいられない。
この部屋のように、書類や資料、レポートといったものが所狭しと積まれ、散乱している場所は他にもある。……というより、組織に属する研究者たちの部屋と言えば、どこも似たようなものだ。
つまり、別段めずらしいわけでもない……それだけを見れば。
だがここは、そもそもその規模がケタ違いだった。
もともとが多人数が集まれるように設計されている広い空間に、後から運び込まれた巨大な本棚と資料用のキャビネットが幾つもそびえ立ち、さらにそれらの谷間に、裸の資料やレポートといった紙の大河が溢れかえるさまは、大自然の戯画化のようですらある。
そしてその中央――。
数々の実験器具に埋もれたデスクに、たった一人向かい合う黒人の老研究者は、その真摯で厳かな雰囲気が部屋の風景と相まって……さながら科学を以て大自然と語り合う、敬虔な巫師だった。
「……おお、洋一郎か。どうした?」
深く皺の刻まれた、老いながらも精悍な顔を少年のような笑顔で崩して、部屋の主――生屍研究の第一人者にして、通称PDと呼ばれる彼ら〈出楽園〉の中心でもある巫師、ランディ・ウェルズは客を迎え入れた。
彼はその地位と権威にもかかわらず、基本的に誰にでも気安いが、それはこの東洋人の――いかにも軍人然とした、恵まれた体躯をきっちりした服装と態度、そして厳粛な雰囲気で包み込んだ青年を相手にするときも変わらない。
「ご依頼のあった件で、集まった資料をお持ちしました」
「おう、それはそれは。わざわざすまんな」
クリップで留められた分厚い紙束を受け取ると、ランディは早速に目を通し始める。
取り敢えずは概要を把握しようというのか、紙を手繰るその動きは、実はまったく見ていないのではないかと、邪推してしまいそうなほどに速い。
「――しかし洋一郎よ。こんな、わしの付き人のようなことをしておると、親父殿がいい顔をしないのではないか?」
動きを止めずにランディがそんな問いを投げかけると、かたわらでその様子を見守っていた洋一郎は、相手に見えないのは承知で「いえ」と首を横に振る。
「父は父、自分は自分ですので。
それに……正直なところを申し上げれば、祖父の妄執をそのまま受け継いだような父の考えは、ナンセンスでしかないと思います」
「……そう言ってやるな。確かに過ぎたるは何とやらだが、そうした価値観もまた、人間の歴史の中で、社会を形作ってきたものの一つではあるんだ」
ランディがそう穏やかに諭すと、洋一郎は素直な返事とともに一礼する。
彼――八坂洋一郎の祖父は、〈その日〉の異変の折、カタスグループを文字通りの世界的組織へ押し上げた当主、八坂邦大の弟であり……紛争地帯の間際として重要拠点の一つに数えられていた、中東支部を任されていた人物だった。
弟として兄を。
また、幹部として組織を――それぞれ支えてきたという、強い自負のある祖父。
……そんな人物にとって、〈暗夜〉により世界中の支部が分断され、独自に活動するほかなくなったグループの惨状と……。
か細く海の彼方より伝わった、故郷の日本本部の全権が、一族出身の者ですらない成り上がりの人間に託されたという報せは、到底容認出来るものではなかった。
しかし抗議の声を上げようにも確実な通信手段は無く、また、そもそも現地が混迷の中にあってはそれどころではなく……。
中東支部は、グループの基本理念としての社会秩序の守護を忠実に行いつつ……また、それを為し続けるだけの基盤保持と組織そのものの存続のために、後にPDと呼ばれる団体と融合する道を選ぶことになった。
……つまるところ、それは苦渋の果ての打算的選択であり――洋一郎の祖父や、その影響を色濃く受ける父は、裏切り者とすら捉えている日本本部を一族の手に取り戻す……PDとの融合は、そのための踏み台に過ぎないと考えていたのである。
だからこそ、PD――引いてはランディのことを真に信用したわけではなく、また理念に共感したわけでもないので、一族の末たる洋一郎が不必要にランディと親しくすることは、本懐を投げ出しているかのように映って苦々しいのだ。
だが……。
時代とともに、かつてのグループの中心が若手へと移っていったことで、今やそうした過去に執着する人物など、数の上ではほんの一握りとなっていた。
さすがに、少数派とは言えそれらは古い実力者なので、簡単に勢力として潰えはしないものの、そもそもその本家筋にあたる洋一郎やその兄弟が、風の噂によれば日本を立派に安定させているという件の日本本部と、胸の内では敵対どころか再び協力関係を築きたいとまで考えているほどなのである。
早年、彼ら若手の思想が主軸となり、PDと完全な融和を果たすことは自明の理と言っても良いほどだった。
少なくとも洋一郎は、そうなる――出来ると、信じて疑っていない。
「……ふうむ、それにしても……やはり、と言うべきか」
「何か分かったのですか?」
資料の収集を手伝うため、各所に手を回したのは洋一郎自身だ。
しかし、ランディに要求されたデータがあまりに雑多で多種多様だったため、結局最後まで何を目的としていたのか分からなかった彼は、複雑な表情で首を捻りながら、やや身を乗り出して問いかける。
「以前、わしの師匠が、〈暗夜〉について仮説を立てておられたことを話しただろう?」
「ええ……覚えています。ロアルド・ルーベク博士ですね。
確か……地磁気の反転と、同時期に起きる太陽フレアの爆発により降り注ぐ強烈な放射線で、地球上の電子機器が一斉に沈黙し、大きな文明の後退となることを事前に予測しておられたと。
結局は、その〈暗夜〉の影響で、各種観測機器のデータもほとんどが消失してしまい、明確な証明は難しいとのことでしたね」
洋一郎が淀みなく答えると、ランディは「うむ」と一つ頷く。
「わしは、この件については師匠から情報を託されただけで、直にお話を伺ったわけではない。なので、師匠の真意のほどは分からんのだが……」
語ろうとする話について、そう前置きしながら、ランディは数十年前の出来事を思い返していた。
――〈暗夜〉が起こるまさにその直前、師のロアルドから頼まれた、マンハッタン島を出るほど遠方への使い。
それは、そのときは知る由もなかったものの、師との永遠の別れでもあった。
そして――。
指定された場所に保管されていたのが、まさにその情報を初めとする、ロアルドのこれまでの――まるで形見分けであるかのような、研究データのすべてだったのだ。
――『これをどう使うも、お前の自由だ』
そんなメッセージが残されていたわけではないが、ランディは言外に師の意志をそう感じ取った。
そして――師の研究の跡を継ごうと決めたのだ。
その頃はまだ少年と言っていい年齢だったが、それでも、自らの意志で。
「……どうかしましたか?」
少し思い出に耽りすぎていたのだろう。怪訝そうに様子を窺う洋一郎に、何でもないと手を振って、ランディは意識を本題に引き戻す。
「実は、以前からどうも……師匠が仮説を立てられていた〈暗夜〉の本質について、正確には、『何かが違う』ような気がしていてな……。
――まず、あらゆる電子機器を破壊するほどの放射線が降り注いだにしては、人体に出る影響が少な過ぎたきらいがある。
加えて、そもそもそうした放射線や電磁波への対策が、幾重にも施されていたはずの機器まで――そう、まさにこのシェルターのような場所にあった機器まで、ほとんどが軒並み機能を失っていたというのが、どうも腑に落ちなかったのだ」
「それは……人類としても経験の無い未曾有の出来事でしたし、『そういうこともある』あるいは『そういうものだった』ということなのではないですか?」
「かつて、厳然たる真理だったはずの『死』までたった一日で覆されたのだ――そう考えるのも、まあ間違いではないだろうがな」
洋一郎のどこか無邪気な問い返しに、ランディは苦笑をもらした。
「ともかく、それを確かめるために……お前がさっき言ったように明確な計測データは今やロクに手に入らんから、関係ありそうなものを片っ端から集めてもらっていたわけだ。
……それで、わしは確信したよ。
やはりこの〈暗夜〉には、指向性が感じられる――とな」
デスク上に投げ出した資料の束を、手の甲で叩くランディ。
「指向性……ですか」
「そう。つまり、この事象は単なる災厄ではなく――人類の文明を一旦破壊する、というその一点に集約しているということだな。
実際、これがすべて宇宙からの放射線によるものなら、人類はそれこそ、もっと壊滅的な状況になっていてもおかしくないはずだ。
いやむしろ、とっくに滅んでいても不思議じゃない。
だが、結果としてそうはなっていない――なぜか?
そうなることを望んだ――あるいは、決めた『意志』があったからではないか――わしには、そんな風に思えるのだよ」
「では……その『意志』というのが、つまり……?」
洋一郎は目を細めた。
何らかの期待が籠もっているのか、表情には朱が差して見える。
一方ランディは、そんな洋一郎を諫めるように、神妙な顔で小さく頭を振った。
「――明言は出来ん。『意志』が真に望むのが何であるかは、矮小な人の身に過ぎぬわしには計り知れんのだから。
あるいはもしかすると、この世界の変化を人の進化の兆しと捉えるわしの考えは、その真意に真っ向から背いている可能性もあるのだ。
……そんな顔をするな、洋一郎。だからといって、わしはお前たち若い者も大勢巻き込んだこのPDの理念まで、間違っていたと否定するわけではない。
ただ、その理念は何者かに押し付けられたものではなく、我々が、我々なりに正しいと信じているものなのだと、そのことを改めて認識して欲しいだけだ。
……あるいは神とも呼べるような大きな意志に沿い、ただ差し出された実を食らって楽園を出るのでは、かつて来た道をなぞるだけなのではないか――とな」
ゆったりと、年長者ならではの重みを以て語られたランディの言葉に、洋一郎は表情を引き締め、大きく一礼した。
「……博士の仰る通りです。短慮に過ぎました、申し訳ありません」
「謝るようなことじゃない。むしろ褒めてやりたいほどだよ、お前のその柔軟さは」
ランディが手を伸ばして肩を叩くと、洋一郎は一言礼を口にして頭を上げた。
「……ところで洋一郎。話は変わるが、西の方から、何か報せは?」
「はい、それについては、つい先程。
……どうやら〈回帰会〉は、バチカンを初めとする諸勢力の協力を取り付けた上で、我々を本格的に武力制圧することを決めたようです」
そうか……と、ランディはため息混じりに呟く。
「互いに相容れない信条を掲げていたのは確かだが、噂を聞く限り、回帰会の創設者たちは、無用な争いを避けるだけの分別は備えていると思っていたのだがな。
――いや……あるいは、あちらの組織も代替わりが進んでいるということかも知れん。我々とは逆の方向に」
「衝突を回避出来るよう、交渉努力はするつもりですが……我々とて座して蹂躙されるわけにもいきません、いざというときの準備も同時に進めたいと思います」
「……仕方あるまい。だが、くれぐれもそれ自体が挑発とならないよう、慎重にな」
「はい、心得ています」
姿勢良く敬礼を返し、用の済んだ洋一郎は部屋を後にする。
「……ロアルド先生……あなたのように、世界を見透すことが出来たのなら……」
ドアが閉まり、去って行く足音も見送って――ランディは静かに目を閉じた。
ここまでご覧いただき、本当にありがとうございます。
つきましてはご報告ですが……。
今後の展開について、時間を取って練り直すべきだと考えまして……。
誠に勝手ながら、次回以降の投稿は、週一どころか大幅に遅らせていただくことになるかと思います。
多少時間はかかっても、当然ながら、きちんと完結までもっていくことはお約束しますので……。
恐れながら、長い目で見守ってやっていただければ幸いです。
本当に申し訳ありません。
どうか、今後ともよろしくお願いいたします。