6.苦悩の声すら無く
――旧フランス共和国中部。
ロワール川中流、パリの南西に位置し、首都に近い要衝として長い歴史を刻んでいながら、ここ数年は住む者もほとんどなく、廃墟と化していた都市――オルレアン。
十五世紀、仏英百年戦争の末期に、イギリスの猛攻に遭い陥落寸前だったこの地を奇跡的に解放し、オルレアンの乙女と呼ばれたのが英雄、ジャンヌ・ダルクだった。
そしてそれ以来、悲劇的な最期を遂げ、後に聖女に列せられたその少女を奉り、街を挙げて偉業を伝えてきたこのオルレアンに――。
今、同じく〈乙女〉と呼ばれる、奇跡を行う少女がいた。
それはまるで、この苦難の時代に、かつての英雄が衆生を救うべく再来したかのようであり……現に、その奇跡にすがり街に集まる多くの人々が、そうだと信じていた。
だが、それも無理からぬことだった。
そうした認識に繋がる様々な事柄が、〈乙女〉を奉る〈白鳥神党〉によって、巧みに演出されたものだったからだ。
「……さあ、皆さん。今日も我らが真白き〈乙女〉に、感謝の祈りを!」
年老いた日本人の祭司が、少し訛りのあるフランス語を張り上げた。
荒れ放題だったところを、この数年で整備し直されたここ、サント・クロワ大聖堂に集まった大勢の聴衆は、その一言を合図に、深く頭を垂れる。
――壇上に立つ、一人の少女に向かって。
「…………」
ゴシック建築特有の高い天井を見上げていたその少女――〈海〉は、何を答えるでもなく……どこか憂いさえ感じられる表情で、礼拝堂を埋め尽くさんばかりの聴衆に視線を落とす。
……メールが言葉を発さないのは、別に威厳を保つための演出というわけではない。彼女はただ、発声器官に問題があるのか、生まれつき声を出すことが出来ないのだ。
そしてそれは、一度人間としての命を落とし、屍喰となった今も変わらない。
ケガをしてもすぐに治り、その姿が幼いままに老いることはなくとも――声までが新しく生まれ出ることはなかった。
もっとも――。
今、彼女が声を与えられたところで、やはり何を述べることもないだろう。
なぜなら……彼ら、集った聴衆一人一人の生活を思い……それに相応しいかけるべき言葉を考えるのは、今の彼女にとってあまりに辛いことだったからだ。
自分の……そして、選ばれた少数の人間のエゴのためだけに――。
そのためだけに、彼らの生活から、それと気付かせることなく多くのものを奪い取っているというのに、何を偉そうに語ることなど出来るのか――と。
――わたしはただ、パパとママを喜ばせてあげたかっただけなのに……。
どうしてこんなことに……と、少女は声にならない声で誰にともなく問いかける。
……かつて彼女の両親は、小さな農村で神への信仰心を頼りに質素な生活を送る、心優しい人々だった。
無論、家は貧しかったが……そもそも〈暗夜〉の影響による混乱が今よりも大きく、見せかけの裕福さなど、ほとんど意味を為さなかった頃である。自給自足で食料が確保出来るだけ恵まれているとも言えたし、事実、メールは充分満ち足りていた。
それが変わる切っ掛けとなったのは、やはり、彼女自身の変化だった。
……それは、メールの11歳の誕生日が間近に迫ったある嵐の夜のこと。
自警団が村を離れているスキに、備蓄されている食料を狙う野盗の一団が村を襲った。
そのとき、何とか両親を守ろうと、無謀とも言える勇気を振り絞って立ち向かったメールは、野盗と揉み合う中で、相手が持っていた猟銃の暴発に巻き込まれ……野盗ともども致命傷を負ってしまう。
そして――彼女は蘇生したのだ。
生屍ではなく、〈屍喰〉として。
その瞬間の記憶は、曖昧としていて、彼女自身もよく覚えていない。
ただ……激しい衝動に押し流されるまま、彼女とともに死に、生屍となっていた野盗を喰らったことは事実だった。
そしてその後、彼女はたった一人で、人間離れした力を振るい、十人からいた野盗をすべて村から追い払う。
そんな彼女の所業は、見ていた村の者に、この上ない畏怖をもたらしたことだろう。
だが……彼女の両親は、驚きながらも、娘を突き放すようなことはしなかった。
それでもお前は大事な娘だからと、何より変わってしまった自分自身に恐れを抱く彼女を受け入れてくれたのだ。
もっとも……。
一家は悪評を恐れ、家も畑も捨て、村を離れることを余儀なくされたが。
そうして――。
人目を避けて暮らす、それまで以上に貧しい生活が何年も続き、何とか両親の助けになろうと、メールが率先して人里へ物資の調達に出るようになると、少しずつ両親は変わっていった。
メールがただの人間だったならば、物資を調達すると言っても危険ばかりが先に立ち、大した成果は得られなかっただろう。
だが彼女は、地球上のあらゆる生物を圧倒する、屍喰だった。
生屍の数が多く、誰も近寄れない街へ行っても問題なく帰ってくることが出来たし、他の人間に力尽くで成果を奪われることもない――。
それは、望むなら、最低限の食料どころか、財となる物まで、濡れ手で粟のごとく集まることを意味していた。
その事実に気付いたとき、彼女の両親は変わり始めたのだ。
――清貧の鑑のようだったそれまでから、真逆の方向へと。
あるいはそれは、知らず溜まっていた鬱屈の裏返しだったのかも知れない。
しかし――いや、だからこそと言うべきか。
自分たちだけが老いていく両親の、いつまでも変わらず幼い姿の娘へ向ける愛情は、廃れるどころか深みを増すばかりだった。
生活の在り方が変わり、他者を平気で見下すようになっても、娘を蔑んだりすることだけはしなかった。
――娘の情にすがり、その行いを褒め、得られる結果を喜んだ。
メールは自分の精神年齢において、屍喰となったときの幼さに引き摺られているのか、実際年齢ほどの成長が出来ておらず、まだまだ幼いままだと自覚していたが――。
しかしそれでも、本当に何も知らなかった幼い頃と、まったく同じではないのだ。
両親が自分に傾けてくれる、そうした『愛情』が、今となっては、彼らの生き方同様に歪んでしまっていることぐらい、理解していた。
それでも――少女にとって、それが『愛情』であることには変わりなかった。
バケモノのようになってしまった自分を、受け入れ、包み込んでくれる、唯一の居場所であることには変わりなかったのだ。
だから、メールは……。
彼女の噂を聞きつけて来た白鳥神党の老人に、神党のシンボルに、とせがまれたとき、二の足を踏む自身の心を押し殺し、両親の賛成に従った。
――それから、十年近く。
当初は、メールの力を真っ当に利用し、真っ当に力無き人々の力になっていたはずの神党はしかし――いつしか、彼女を歪めて利用し、偽りを以て弱い人々をも利用し、財力と権力を集める存在として肥大化してしまっていた。
だが、それすらも、メールはただ看過するばかりだった。
……怖かったのだ――彼女は。
唯一の拠り所である両親の愛情を失うことが。
そして――。
騙されながらも、彼女こそ救い主と、光を見出して集う純朴な人々が、今や生きる糧ともしているそのささやかな希望まで、砕いてしまうことが。
「――〈乙女〉! 〈乙女〉! 〈乙女〉!」
だから少女は、今日も〈乙女〉となる。
人々の祈りに応えて。
祭司の求めに応じて。
そして、老いた父母の願いに沿って。
――死なぬ身の己の心。ただ、それだけを殺して。
*
……いかにもやる気の無さそうな主人に案内された三階の部屋は、これでよく宿と名乗れるものだと、逆に感心してしまいそうなほどに酷い荒れ具合だった。
だが――伊崎晃宏は、それについてはまるで気にした風もなく、ガラスも無い窓辺に腰掛けて、眼下の街並みをいかにも愉しそうに見やる。
「思ったより活気があるな。……良い街だ」
――旧インド北東部の大都市、コルカタ。
かつてはカルカッタと呼ばれた有数の貿易港は、当然〈暗夜〉以前とまではいかないまでも、郊外の雑然とした街並みを行き交う人々はそれなりに多く、一定の賑わいを見せていた。
「何の、こんなものじゃなかったぞ、七十年前は」
晃宏に続き、並んで街を見下ろす老人。
刻まれた皺は、彼が相当な高齢であることを窺わせるが、ぴしりと伸びた背筋と、鋭く深い眼光は、衰えとしての老いをまるで感じさせない。
「へえ……ケン爺、そんな昔に来たことあったのか。〈その日〉より前だよな?」
ケン爺と呼ばれたその老人――。
晃宏の祖父、彰人の右腕として、五十年以上もの長きに渡り活躍してきたカタスグループ日本本部の重鎮、梶原兼悟は、険しさがすっかり凝り固まってしまったような表情を、少しばかり柔らかくほぐして、かすかに笑う。
「私がまだ子供の頃のことだからな。家族旅行で来て……迷子になった。
車も人も、交通法規などまるで無いようにごった返す中、途方に暮れていたところを、親切な地元の人間に助けられた記憶がある」
「ほお? 鬼の梶原に、そんな可愛らしい頃があったなんてなぁ」
「……ふん。抜かせ、洟垂れ小僧が」
微笑を浮かべたまま悪態を吐く老人を、オレももう二十半ばだと、軽口で返しつつ振り返る晃宏。
……晃宏と梶原老人が、文明の衰退により現在ではまだまだ困難な渡海を成し、日本を出てこうしてインドまでやって来ているのは、かつて〈暗夜〉で連絡が途絶し、分断された、カタスグループ各地の支部と再び連絡を取り合い、連携出来るようにするためだった。
彰人の跡を継いで新たな総裁となった晃宏は、その初仕事として、これからは日本のみならず、世界規模で社会の安定を図っていこうと、各支部と話を付けるため、自ら少数の部下とともにこの危険な旅路に乗り出したのだ。
ただ、だからといって世界中の支部を巡るのでは、あまりに時間がかかりすぎる。
そこで会議の結果、短距離の渡海で危険性の少ないアジアの支部から始め、陸路で重要拠点の一つとされてきた中東支部へ向かうのが、差し当たっての目標となっていた。その成果いかんによって、改めて、今後の展望を考えようというわけだ。
「さて……インド支部はどう出るかな」
「事前情報とこの街の様子を見る限り、中国支部のようにはなるまいが」
精悍な顔にわずかな陰を差し、晃宏は「だといいけどな」とつぶやいた。
……以前より多少なりと連絡を取り合えていた韓国支部はともかく、そもそも時の政府との軋轢によって充分に機能を発揮していたとは言えない中国支部は、〈暗夜〉の混乱に沈んだかのように、活動規模を縮小、弱体化していた。
かろうじてグループの看板は残り、意志を受け継いだ人間もいたものの……すでにして組織とは呼べないほどのものだったのだ。
あれでは連携を取る前に、まず組織としての立て直しから始めなければ……と、晃宏は内心ため息をつく。
「――晃宏、お前がそんなことでどうする。中国にしても、看板が残っていただけ儲けものだろうが」
幼い頃から、養育係のような形で面倒を見てきた青年が垣間見せた憂いに、老人は巌のような声で発破をかける。
「ああ、分かってるよ。……まだまだ、これからだもんな」
応えて、晃宏はにっと子供のような笑顔を見せる。
――しかしそうかと思うと、何かそこには無いものを見ようとするような視線を、再び窓の外へ向けた。
「――ケン爺。確か、〈アートマン〉とか呼ばれた屍喰が確認されたのが、このインドだったよな?」
「最後にその姿が確認されたのは、この国でももっと西の方になるがな。
それ以来、〈暗夜〉に阻まれたとはいえ、まるで噂を聞かないが……さて、今頃どうしていることやら」
「……さて。ま、生前殺人鬼だったようなヤツが鳴りを潜めているのなら、何であれ悪いことじゃないだろ」
自分から振った話題ながら、あまり興味無さそうに答える晃宏。
実際、彼はアートマンのことにはさして興味は無い。
彼が興味――むしろ執着とすら言えるほどのそれを持つのは、屍喰は屍喰でも、全く別の存在についてだったからだ。
そしてそれを、他の人間ならいざ知らず、梶原老人だけは誰よりも良く理解している。
「……掴めればいいな。〈白髪の屍喰〉――その行方を」
ああ、と力強く答えて。
晃宏は、傾き始めた陽の光、その金色に、真っ正面から目を向けた。
「必ず、見つけてやる……時平カイリ」