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5.〈巨人〉の意志


「ふむ……思ったより経過はいいな。これなら、そろそろ漁にも戻れるだろう」

 診察台に腰掛けた男の脚――ふくらはぎから踵にかけての、裂けたような大きな傷痕を診たヨトゥンは、そう言って男の向かいの椅子に座り直す。

「よっしゃ、さっすが先生だ! それじゃ――」

「調子に乗って無理をしなければ、だがな」

 いかにも漁師らしい、日焼けした顔に浮かんだ満面の笑みに向かって、ヨトゥンはぴしりと指を突きつけた。

 途端、男の笑顔は苦笑のそれへと崩れる。

 筋骨逞しい、ヨトゥンに負けず劣らずの大きな体も、合わせてしぼんだようだった。

「……へい」

「そうだよ、ゲイブ。その傷、先生がいなきゃ、歩けなくなるどころか死んでたっておかしくないぐらいなんだからね。もうちょっとは大人しくしてな」

 荒れ果てていた診療所を片付けただけの、間に合わせの粗末な診察室――。

 その中で、ある意味最も存在感があると言ってもいい、立派な体格の老看護師が、ぶっきらぼうにそう言って鼻を鳴らした。

「わ、わーってるよぉ、サンドラ婆さん……」

 ゲイブと呼ばれた漁師の男は、機嫌を伺うように、自分の母親ぐらいの年齢だろう老看護師を見上げるが、当のサンドラはその顔を手に持ったバインダーでバンと叩いた。

「婆さんは余計だって言ってンだろ」

「一応患者だ、ほどほどにな」

 微苦笑混じりに、ヨトゥンは愛想の良い言葉を二人のやり取りに差し挟む。


 ……ヨトゥンが、地図に書き忘れられていたとしてもおかしくないような、このアメリカ東海岸は片田舎の小さな漁村で診療所を始めて、もう一ヶ月になる。

 きっかけは、特にどうというほどのことでもなかった。

 通りすがりに、ケガをした住民を助けたことで是非にと請われ、しばらく居着くことにしただけだ。


 ……〈暗夜〉により、文明レベルと社会的活動が世界規模で大きく後退――のみならず、この数十年復旧の兆しも見せず、旧時代然としたまま停滞し続けていることは、学校のような、教育機関の運営にも多大な影響を及ぼした。

 当然、それは正しい知識と技術を学んだ医師が、新たに世に出る道を阻害することにもなり――ゆえに今世界で医者と呼ばれる者は、その多くが〈暗夜〉以前から医師であったすでに老齢の者か……。

 幸運にも若くして医師としての勉強を修められたが、その貴重さゆえに、この時代にあっても何とか権力を維持している人間に早々に抱え込まれている者の、ほぼ二種に大別される。

 つまりは、ヨトゥンのような――少なくとも見た目は――未だ若々しく、それでいて腕も確かなフリーの医師というのは、めずらしく、得がたい存在だったのだ。


 そうした社会的な理由もあり、ヨトゥンが請われてしばらく医療活動に従事したことは、別にこの村が初めてというわけではない。

 むしろ彼は、〈暗夜〉以前から、世界を巡っていたとき、無医村などで同じように一時的な診療所を何度も開いてきた。

 だがそれは――医師としての使命感から、というような体の良い理由ではない。

 いや、そういう面もあるにはあった……が、それがすべてと言えるほど、彼は自分が博愛主義者でも聖人でもないことを自覚している。

 そしてそれは、自分が人間という〈同族〉では無くなった今となってはなおさらだった。

 当然、報酬のためというのも違う。

 金が欲しければ、それこそ権力者の門を叩くべきであるし、そもそも屍喰(シニカミ)となった以上、生きていくために必要なものというのはほとんど無いのだから。


 ――では、なぜ?


 彼自身、昔は何度か自問もしたが、今でははっきりと答えが出ている。

 結局のところ、医師としての仕事は、それ自体が魅力的なのだ――彼にとって。

 それは、純粋に人を救えるから、などではない。


 人の生――運命。

 その生殺与奪を、己が手に握ることが出来るからだ。

 他者の運命を掌握すること――それが彼にとって、屍喰となっても変わることなく己の中にある、一番の欲求だからだ。



  『キミはね、ヨトゥン……人を〈助けてやりたい〉んだ』



 ――何十年も前に、ロアルドから指摘された言葉が、ふっと脳裏を過ぎる。

 当時、自分自身すらはっきりと自覚出来ずにいた感情を、まったく的確に表現したものだと、未だに感心させられる。


 ……ヨトゥンの父親は、暴力一色とまではいかないものの、それを問題解決の一手段として、常に選択肢の筆頭に挙げている程度には、乱暴で高圧的な人間だった。

 加えて、それなりに由緒ある家柄の出ということもあり……暴力と権力、それらを駆使して、気の弱いところのある彼の母親や、故郷の村の人間を、自分の意に沿うように従えていた。


 ……そんな父を嫌悪し、反撥したからこそ、人を助ける医者を目指した――。


 昔はそう思っていたヨトゥンだったが、それは上辺だけのものでしかなかった。実質、彼は確かに、そんな父の血を受け継いだ子であったのだ。

 父親は、物心両面の暴力によって、人の運命を握っていたが……。

 それに対して彼は、医術というもっと直接的で根幹的な手段によって、人の運命を握ろうとしていたのだ。

 正反対の道を選んだつもりが、その本質では、同じ領域において父を超えようとしていただけだったのだ――村という狭い範囲の中で王を気取る愚かな父を踏み越えるどころか、より高尚な、命を救う医療という手段を以て、はるかに多くの人間の運命に関与することで。


 屍喰となった今……彼のその欲求は、医術に絞らずとも、もっと大きく果てなく広げられるものだろう。そうする手段も時間も、いくらでもあるのだから。

 だが彼は、それを実行に移そうとはしなかった。

 本質として彼は、人間という存在に慈しみをもっているからだ――憎悪や軽蔑でなく。

 だからこそ、人の運命を握る手段として医術を選んだのだ。

 だが……。

 同時に、今やその慈しみは、同じ『人間』としての目線によるものではない。

 超越者として、見下ろす形のものであり……だからこそ彼は、時に残酷にもなる。

 ロアルドが〈暗夜〉についての予言をし、それを煽るような細工について語ったとき、結衣(ゆい)のような行動を取らなかったのもそれが理由だ。

 必要悪と自分で判断する犠牲については、今の彼はある意味寛容なのだ。


 ……そんな彼が、自らの足で世界を、人を見て回る理由。

 それは――。


 人間はこの先、どういう道を選び取ろうとするのか。

 自分はそこに、どう関与するべきか。

 そして、自分のこの手に握るべき運命は何なのか――。


 それらを、自らの目で見極めるためだった。



「さて……サンドラさん。次は?」

 しばし物思いに耽っていたヨトゥンは、サンドラとゲイブの会話に区切りが付いたのを見計らって、口を挟む。

 老看護師サンドラは、ゲイブに向けていたものとはまるで別の、柔らかな微笑みを浮かべてそれに答えた。

「ああ、ごめんなさいね先生。今日はこのバカが最後です、どうもお疲れ様でした」

「そうか。お疲れ様。……デイブ、くれぐれも無茶はしないようにな」

「わ、分かってますよぉ、先生。第一、漁に出たくても、ちょっと様子を見ねえと……」

 歯切れの悪いデイブの物言いにふと興味を引かれたヨトゥンは、診療に使った道具の片付けをサンドラに任せ、改めてデイブと向き合う。

「……どういうことだ? 天候に問題はなさそうだが……」

「ついさっきアタシも小耳に挟んだんですけど……港に流れ着いたらしいんですよ、その……生屍(イカバネ)が。だろう? デイブ」

 テキパキと動きながら差し挟まれたサンドラの言葉に、デイブは首を縦に振る。

「そ、そうなんですよ。幸い、チャーリーたち自警団がすぐに駆けつけてくれたんで、何事もなく済んだみてえなんですが……一体だけってことも考えにくいし、漁に出て沖にいるときに船に這い上がられちゃたまんないですからね。ちょっとの間警戒しよう、って話になってて」

「……なるほどな」

 ヨトゥンは目を上げて、窓の端、かすかに顔を覗かせる閑散とした港を見やる。


 ……不死である生屍を処理するための方法の一つとして、彼らを海へ流すことはその発生当時から行われてきた。

 しかし、そもそも人である生屍は大人しく海底に沈んだままでいてくれるわけではなく、生きたまま漂着物として海を漂うことになる。それは航行中の船に取り付くことも、他所の海岸に流れ着き、そこから被害を拡大させることもあった。

 人間にとって掛け替えのない資源である海洋が、死によって汚染されることを危惧した当時の世界は、取り急ぎ生屍の海洋投棄を取り締まる法を定め、結果として、〈冥界〉への隔離によって管理する、というカタスグループの手法が世界標準となるのを後押しすることとなった。


 現在でも、その慣習が一応引き継がれてはいる――が、〈暗夜〉によって文明を、そして社会を大きく損なった人類だ。輸送手段が容易に確保出来る近場に冥界があるのならともかく、そうでなければ、差し当たっての処理手段として、生屍を海に流そうとするのは何ら不思議ではない。

 現に、この村でなくとも、海岸沿いで流れ着く生屍の数が増加傾向にあるというのは、わざわざデータを取ってみなくても分かるほどだ。

 だが……それも当然の帰結と言える。

 人間は条件が揃わなければ数を増やせないが、生屍は人間の数だけ増えることが約束されているのだから。

 とっくの昔に、世界の総人口は生屍の総数を下回ってしまっていることだろう。

 そして数の差が広がればなおさら、処理の方法としてより手軽な方が選ばれるのは自明の理というものだ。


「まったく、他人様の迷惑も考えず、ぽんぽん厄介なモン海に流しやがって……」

 怒りも露わに膝を叩くデイブに、ヨトゥンは視線を戻す。

「……対岸の火事すら無関心でいられるのが人間だ。それこそ、見えもしない海向こうの誰かの迷惑など考える余地はないだろう。……まして、このご時世ではな」

 言外に、ではお前は違うのか、と責められた気になったのだろう。

 デイブは曖昧な返事を返しながら、小さく頭を下げる。

「けど、そうだねえ。この海を越えたはるか先の大陸にゃ、奇跡をもたらす神サマが降臨されたとかって噂じゃあないですか。

 どうせなら、もっと良い物でも流してくれりゃあいいのにって、アタシだって思わないでもないですねえ」

 窓際に立ったサンドラが、ヨトゥンが見ていたのと同じ方向を見やりながら言う。

「……白鳥神党(しらとりしんとう)――か」

 誰にも聞こえないかすかな声で呟くヨトゥン。


 かつて彼が初めて出会った、白髪赤瞳の同族の少年――カイリ。

 その少年を幼い頃、生き神として奉っていたという宗教集団――白鳥神党には、彼も幾ばくかの注意を払っていた。ともすれば、その教団は彼の友人ロアルドのように、カイリの特殊性を見抜いていたのかも知れないと考えたからだ。

 結果として、後に屍喰となるカイリを奉ったのは、単にその外見の神秘性を利用したかっただけだと判明したが……詐欺集団としてそのまま消えゆくだけだと思われた教団は、この不穏な時世に乗るようにして、近年、再び勢力を盛り返していた。


 そしてその頂点で、かつての少年と同じように、神の化身として奉られている存在――。


 十年近く、まるで容姿が変わらないというその〈少女〉が、正真正銘同族であることを情報によるものではなく、感覚としてヨトゥンは確信していた。

 つまるところ、教団は今度こそ人を超越した存在を、そうと認識した上でシンボルに据えているのだ。

 もっとも、伝え聞く教団の『奇跡』は、同族だからこそ分かる、明らかに屍喰としての力とは関係ないものもある辺り、やはり旧態依然としたペテンを仕掛けているのは間違いなかったが。

 ――その同族の少女自身の意志が、どのようなものであるかは分からない。

 だがこのまま順調に勢力を伸ばしていくことが出来れば、いずれ、白鳥神党は世界規模の団体になるだろう。

 そしてそうなれば、その少女は真実〈生き神〉とも成り得るのだ――ただしそれは、人にとって都合が良いように散々に手を入れられたかつての『宗教』、その神輿の頂点に飾られた『神』に、取って代わるだけでしかない。

 人が、神の名を使い人を支配する――その構図は変わらない。


 ――そうではない。それでは駄目だ。


「奇跡をもたらす神サマねえ……。ま、そんな本当かどうかも分かんねえモンより、オレ達にゃ先生がいるからいいじゃねえか。――ねえ先生?」

「比べられても困るがな」

 一転して、子供のような笑顔を向けてくるデイブに、思索の半ばにあったヨトゥンは、苦笑混じりに当たり障りのない答えを返す。

 そうしながらも、


 ――そう。それでは駄目なのだ……真に、その運命を手にするためには。


 無意識に、彼はその大きな手で、デスクにあったペンを弄んでいた。





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