2.人と、人でないモノと
――踏み込んだバスの車内には、死がこびりついていた。
椅子の上で、通路で……乗客は皆、物言わぬ亡骸と化している。その中でただ一人、彰人の白色の幼馴染みだけが、確かな生命を備えていた。
だが、その生命が放つのは――光ではなかった。
輝く夕日の赤をも呑み込み、赤黒く塗り固めて撒き散らす闇だった。
そう、言うなれば――生命の、闇。
「……カイ、リ……。おまえ、なにを……」
掠れた声が、彰人の口からこぼれ出る。
――幼馴染みは、喰らっていた……彰人の唯一人の姉、その血肉を。
餓鬼のように、獣のように……救いを求めてすがるように、その華奢な身体を抱きすくめて、ただ、一心不乱に。
「なにを、してる……。なにを――ッ!」
彰人は声を荒げた。
だがそれは、純粋な怒りから発せられたものではなかった。むしろ、急速にわき上がる恐怖心に抗おうと、怒りを拠り所にして虚勢を張ったに過ぎない。
その異様な状況は、確かに恐れを呼び起こすのに充分だっただろう……だがそれだけでは到底説明がつかない、異常なまでの恐怖の理由を、しかし彰人はすぐに悟った。
白子ゆえのその外見はもとより、心根からも白だったはずの身を、鮮血の紅と血糊の黒に染め抜いて――ゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返った幼馴染みの少年と、瞳を交わしたそのときに。
その瞳は、たとえばフィクションに出てくる怪物のように、白く濁り、命を感じられないような……いかにも常軌を逸した類のものではなかった。色素欠乏ゆえに赤みがかった瞳は、確かな魂を宿し、意志の輝きを備えていた。
だが――それゆえにか。
いつも通りのものだからこそ、そこにある正体のない『違い』を明確に悟れたのか。
理屈も何も無い――ただ本能の、恐らくは最も根源の部分で、彰人は絶対的な隔たりを理解させられていた。
目の前のあれは、〈人間〉ではない――と。
そう……そこに感じられるのは、間違いなく絶対的な隔たりだった。
人間というのはもちろんのこと、哺乳類、動物、生物――いやそれどころか、同じ世界の〈存在〉とすら認識出来ないほどの隔絶。
(……なんだ、なんなんだよ、アレは……!)
彰人の身を、外からは圧し潰し、内からは突き破らんばかりに、圧倒的な恐怖が襲う。
「え……カイリ……君……?」
すぐ背後で聞こえた、そのか細い少女の声がなければ、彰人は腰を抜かしてそこにへたり込んでいたかも知れない。
「結衣、お前なんで――!」
蛇に睨まれた蛙……まさにそんな状態だった自らの呪縛をかろうじて断ち切り、いつの間にか後を追って来ていた結衣を振り返る彰人。
「わ、わたしだって心配だから……。そ、それより、なに、どうなってるの――っ?」
結衣が、カイリの行動をどの時点から見ていたのかは分からない。
だが今、まさに彰人が感じているのと同種の恐怖が彼女を襲っているのだろう。およそ親しい友人を見ているとは思えない、強張った真っ青な顔をカイリに向けていた。
「そんなの、俺だって――!」
言いかけて、彰人はまた信じられないものを見た。
背後、結衣の肩越しに――。
衝突で見る影もなく潰れていた運転席の残骸の隙間から、血に汚れた手が覗いたかと思うと――誰かが、そこから這い出そうとしていたのだ。
そこに座っていた人間がどうなったかなど、意識的にそちらを見ないようにしていたぐらい、はっきりしている。被害者に幸運の及ぶ余地があったとして、それはせいぜい、最期の瞬間、苦痛を感じたか否か、という程度でしかないはずなのだ。
――にも、かかわらず。
その血に汚れた手は、振動、自重、引力……そんな自然のものとは明らかに異なる、それ自身の力で、ひしゃげた運転席の間仕切りを、ぐっと握っていた――。
どれほどに凄惨か、想像すら出来ないようなその身体を、外へ引っ張り出そうとして。
「っ――! 来い、結衣!」
常識を覆す、到底理解の及ばない事態が立て続けに起きる中、ただその異常さ――それだけを現実として受け止めた彰人は、瞬間、棒立ちの結衣を抱えるようにして、バスの外へと飛び出した。
これ以上余計なものを見たり感じたりして、再度恐怖に足がすくんでしまうその前に。
余計な思考はいっそ切って捨て、力の限りに警鐘を鳴らす本能の求めるままに。
姉の死に。〈何か〉に変じた幼馴染みに――。
彰人の人生にとって、途方もなく大きな要素を占めていたはずのそれらに背を向け――彼は逃げ出した。
少なくとも今の彼には、それ以外の対処など思いも寄らなかった。
*
――彰人……結衣……!
慣れ親しんだその名を、どれだけ叫びたかったことか――。
しかし、それは叶わなかった。
カイリは、背後の気配に気付いて振り返ったその格好のまま……一歩も踏み出せず、また、一言も発することが出来なかった。
〈衝動〉は、襲ってきたときと同様に、彰人の姿を見た途端、まるでウソのようにあっさりと消え去った。
だがそうして冷静になるのは、〈衝動〉に我を忘れることよりも、カイリにとってよほど残酷なことだった。
……自分が一体何をしたのか。
そして、彰人が――結衣が。
誰より親しい友人のはずの二人が、今、自分をどんな目で見ているのか――。
突きつけられる、とても真正面から受け止められないほどに恐ろしい事実。
それは、心が必死に首を振るまま、有り得ないと拒み続けることも――夢だの冗談だのと片付けることも許されなかった。
口もとを濡らす七海の鮮血が、その暖かさが……そこにある現実から目を背けることを許さなかった。――決して。
一言、たった一言、彼らの名を呼ぶことさえ出来たなら――。
そうすれば、今、カイリの中にある、ぐちゃぐちゃに混ざり絡み合った――感覚を、感情を、思考を……勢いに乗って一緒に、言葉足らずでも、吐き出すことが出来たかも知れない。
彼自身もまた、自分の身に何が起こったのか、どうしてこんなことになっているのか、まるで分からなくて混乱していることを――言い訳にすらならなくとも、わずかでも理解してもらえたかも知れない。
だが、そのたった一言が、出なかった――恐ろしくて。
自分自身が、そして……そんな自分を、明確に拒絶されることが。
だから彼は、彰人が結衣を連れてバスを飛び出す瞬間、その最後の機会にも、二人を呼び止めることは出来なかった。
喉まで出かかった、呼び慣れた名を呑み込み、そして――。
(――危ない!)
彰人も目撃した、潰れた運転席から伸びる血塗れの手を見たその途端――〈衝動〉が、再度その目を覚ます。
だが、わずかにそれに先んじて、自らの意志でカイリは……彰人たちを助けようと、足下のガラス片を拾い上げるや否や、不吉に伸びる血塗れの手を目がけて投げつけた。
目標へ向かって飛んでいく――そんな中途の動きを完全に省いたような、常軌を逸した速度で飛ぶガラス片。
それは、彰人たちを捕まえようとしていた血塗れの腕を貫き、縫い止める――どころか、あまりの威力に、骨ごと木っ端微塵に粉砕した。
「これ、は……」
二度目ともなると、多少なりと慣れるということなのか。
沸き起こる〈衝動〉に、今度は呑み込まれることなく、何とか自我を保ったままに彼は、周囲の異変を察知していた。
確かに死んでいたはずの人々が……蠢き始めていた。
彼の足下に横たわる七海以外の、誰もが……あのときの七海と、同じように。
時平カイリという人間は、特別肝が据わっているわけでもない。
死体を見れば驚いただろうし、ましてそれが動き出すとなれば、とても平静ではいられないはずだった。
だが――今の彼に、恐怖など微塵もない。
動き出す死体が、人間として生き返ったわけではなく、〈別のもの〉に成り変わっていることを直感的に理解して、それでもなお。
彼はわずかに驚きこそすれ、恐れることはなかった。
……理由は単純だ。
これもまた、理屈抜きに直感的に――今の自分が、周囲の〈何か〉よりもあらゆる面において、絶対的に優位な存在であることを理解していたからだ。
そして、もう一つ……内なる〈衝動〉が求めていたからだ。
奴らを――『喰らえ』と。
なぜ。どうして。何が。何のために……。
数多浮かび上がる疑問も、形を成していられたのは、周囲の人間だった〈何か〉たちが、彼にはっきりそれと分かる敵意を向けるまでだった。
――瞬間。
彼の脳は、答える者もない当然の疑問を、そこにまつわる思考を、邪魔だとばかり一息のもとに掃いて捨て――そしてそれと同じくらいに素早く、手近な〈何か〉の首を、ただ手刀の一薙ぎのみで切り飛ばす。
一拍の間を置いて上がる血飛沫。それを合図に、幕は上がった。
戦いどころか、狩りですらない――一方的で、圧倒的なまでの蹂躙の幕が。