3.〈回帰会〉と〈出楽園〉
――旧イタリア共和国北東部、ベネツィア。
その特徴的な地形環境と、将来的な地盤沈下による現状維持の困難性を鑑み、『切り離しやすい』という理由から、イタリアの〈冥界〉候補として有力だったものの――歴史的にも芸術的にも計り知れないほど価値あるこの土地を切り捨てるなどもってのほかと、多くの反対意見によって守られた、水の都。
それは、〈その日〉から数十年、〈暗夜〉を経て、イタリアどころか、世界中のほとんどの政府がまともに機能しなくなった今日でも変わらない。
当然、〈暗夜〉の影響はこの古都でも大きかったが……今では、近隣から、生活の安全を求める人々が大勢流れ込んでくるほどに安定した都市となっていた。
その最たる理由は、ここが〈暗夜〉後、各国政府に代わって人々の生活を束ねるようになった数ある組織の中でも、ヨーロッパどころか、世界でも有数と言えるだろう大きな勢力を持つ〈回帰会〉の膝元だからだ。
そして、そうした安心感、安定感といったものは、夜の空気にも良く表れていた。
そこにあるのは、息を潜めるかのような静寂でなく、どこからともなく、ささやかな喧噪の余韻が夜風に乗って流れてくる、ほっと安堵を感じるような心地好い静けさだ。
そんな夜の趣を楽しんでいるのか――。
古い家々の合間を流れる、渓谷のように細い運河を進む一艘のゴンドラがあった。
途中、小さな石橋のたもとで一人の小柄な人影を乗せると、さらにゆっくりと、優雅に海の方へと向かっていく。
「……実に久し振りだ。前に会ってから、もう十年ぐらいになるか――」
先にゴンドラに乗っていた細身の老紳士は、新しく乗り込んできた、物騒な世相を反映してか、最近では珍しくもない、フード付きの丈の長い外套を羽織ったその人影に、笑顔で握手を求める。
「本当に、会った頃から変わらず君は愛らしいままだな――結衣」
「その十年前にも言ったと思うけど……一応わたしもいい大人なんだから、愛らしい、はないでしょう、アントーニオ?」
被っていたフードを上げると、弾みでずれた、赤いフレームの眼鏡を直しながら……。
霧山結衣は老紳士――〈回帰会〉の創立メンバーの一人にして幹部でもあるアントーニオ・ベルニの大きな手を、苦笑混じりに握った。
「仕方ない、正直な意見だ。本当に君は『こうなった』とき、二十七歳だったのか?」
「逆方向にサバを読んだって仕方ないでしょ。しっかり、実年齢で言えば七十過ぎのお婆ちゃんよ、わたしは」
数十年前と何ら変わらぬ姿の結衣は、自嘲めいた笑みを浮かべながら、アントーニオと向き合う形で腰を下ろす。
「とにかく、あなたも変わりないみたいで良かった。……さすがに老けたけど」
意趣返しとばかりの結衣の言葉に、手厳しい、とひとしきり笑い返すアントーニオだったが、すぐさまその表情は憂いに沈む。
「……残念ながら厳密には、変わりない……とは言えないがな。私も、回帰会も」
「………そうね。確かに変わったと感じる。あなたはともかく……会については」
結衣もまた険しい顔で、小さく頷いた。
……結衣がアントーニオと出会ったのは、四十年近く前になる。
マンハッタン島で屍喰として蘇生した後――。
同族のよしみと、しばらく面倒を見てくれたヨトゥンと別れた結衣は、とにかく一つの目標としてカイリを追おうと、ロアルドから最後の消息として教えられていた、アフリカ大陸へ向かおうとした。
しかし、〈暗夜〉の影響で交通機関は壊滅的状況にあり、大洋を渡る船などそうあるはずもなく……方法を探してさまよった彼女は結局、アラスカの果て、ベーリング海峡を流氷を使って渡り、ユーラシア大陸へとやって来る。
そうして、北米と同じく混乱の極みにある大陸を歩き続け、一旦ヨーロッパ方面へ出たところで彼女は、アントーニオと、その仲間に遭遇したのだった。
当時アントーニオたちは、日本の本部と連絡が途絶し、個別に活動することになっていた、カタスグループの黄泉軍現地支部と協力して治安維持にあたっていた。
その活動の最中、生屍の集団に囲まれ、絶体絶命の死地にあった彼らを助けたのが結衣だった。
そのとき結衣は、当然のようにさっさと姿を消すつもりだったが――それを引き留め、彼女が屍喰だと知った上で、アントーニオは自分たちへの協力を呼びかけてきたのだ。
――世界を、元の通り、人が死ぬべきとき、安らかに眠れる世界へと戻したい。
皮肉にも、結衣自身がそれを破る不老不死の存在になってしまっていたが……アントーニオが掲げたその目標は、彼女も捨てきれずにいる願いだった。
だからこそ彼女は、自分の個人的な感傷によるアフリカ行きはひとまず置き、その目標のために組織を作り、世界の安定を目指すというアントーニオたちに力を貸すことに決めたのだ。
あるいはそれも、カイリに近付き、彼を――そして引いては自分も救う道なのだと信じて。
……そうして数十年。
世界を元の姿に戻すとの意を込めて、〈回帰会〉と名付けられたその組織は、誠実かつ確実な治安維持の仕事で人々の信頼を得、目標の方向性が同じカタスグループの現地支部を取り込み……さらには、やはり生屍のような存在を認めるわけにはいかないバチカン市国、カトリック教会と協力関係も結び、いつしか世界有数の一大勢力へと成長を遂げていた。
だが――。
組織が大きくなるにつれ――また、目指す目標を固く誓い合った創設メンバーが年老い、若手へその座を譲るにつれ――いつしか組織の方向性は、当初の宿願と食い違い始めているようだった。
屍喰という特殊性から、アントーニオたち創設メンバーと、彼らの信用するわずかな人間しかその存在を知らない、いわば協力者といっても外部の人間のような立場にいるゆえに結衣は、特に顕著に、その様子を感じ取っていたのだ。
「去年、ピエトロの研究所に検査を受けにいったとき、彼、また規模を縮小されそうだって嘆いていた。今の執行部は勢力を広めることしか頭に無い、いくら〈回帰〉を謳っているからといって、封建時代の王侯貴族にでもなるつもりなのか、って」
神経質そうに顎髭を弄り倒しながらグチをこぼす、老研究者の姿を思い出しながら、その発言を繰り返して見せる結衣。
……彼女は、彼女にしか出来ないような仕事を幾つか任されていたが、そのうちの一つが、彼女自身を研究対象として差し出すことだった。
無論、不老不死と思しき身体になったからと言って、自らをモルモットのような境遇に置くことが快いはずもない。
それは、アントーニオたちを信用しての覚悟の志願であり――またアントーニオたちもそれに応え、完全な秘匿性を確保した上で、決して非人道的な実験などは行わないという誓約に守られたものだった。
だが……だからといって、そこに結果も付いてくるわけではない。
〈暗夜〉の影響で電子機器も使えない現在、研究と言っても出来ることなど限られており、分かったことと言えばせいぜい、屍喰も、体組成そのものは生屍と同じように、人と何ら変わるところがない、という程度のことだった。
しかも、抜け落ちた髪の毛のような、本体から離れた体組織は、異常な生命力も耐性も発揮することなく、ごく普通の人間の細胞と同じように朽ちるのだ。
それは確認された事実と言えばそうだが……
屍喰が、人間を遙かに凌駕する筋力を発揮出来る点も、
信じられないほどの再生力を有する点も、
高温にも低温にも影響されない理由も、
食事も睡眠も必要としない理由も――。
何もかも、科学的な観点で解明するには、かえって謎を深めたようなものだった。
――当然、不死を終わらせる方法についても同様だ。
「ピエトロには、私から釈明しておいたよ。執行部に掛け合って、これ以上は研究規模も資金も縮小させはしないとね。
ただ……それも本当に、私の目が黒いうちは、だ。いつまで守り続けられるか。
……今の若者たちは、〈その日〉以前どころか、〈暗夜〉の前すら知らない世代になってきている。
世界を在りし日の姿に――と謳っても、その実感のない彼らにしてみれば、ただの世迷い言にしか聞こえないのかも知れないな」
「……人が増え、組織の規模が大きくなり、時も経てば……いつしか高潔だったはずの初志は歪み、消え、挙げ句は別物に成り代わる――。
人間の歴史の中では散々に繰り返されてきたことのはずだけど、こんなことばかりはこんな時代になっても変わらないのね」
「あるいは……〈PD〉の連中の考え方こそが正しかったのではないかと、弱気になることもある。……私も、歳を取ったということかもな」
「気持ちは分からなくもないよ、アントーニオ。
……でもダメ、〈PD〉の思想を認めるなんて。その行き着く先に、人の正しい道があるわけないもの。
あなたが語った理想は間違ってなんかない、気をしっかりもって」
結衣が強い口調で励ますと、ややうつむき気味だったアントーニオは、簡潔に礼を口にしながら、小さく、しかししっかりと頷いた。
――PDとは、〈出楽園〉という名を掲げる、回帰会と同じようにカタスグループの支部など旧時代の組織と融合合併しながら、中東から中央アジア、ロシアにまたがる一大勢力を築いた、治安維持と地区住民の生活安定を担う民間団体だ。
旧イラン北部が活動拠点になっており、今の世界ではその勢力と規模の大きさにおいて、回帰会と一二を争うと言っても過言ではない。
依然として消えない生屍の脅威から人々を守り、かつての文明を失い困窮する社会を、新たな秩序を持って安定させる――その基本的な活動は大差なく、ともすればこの二勢力が手を取り合うことにより、一層、この混迷の世界を平らかにする道へ近付きそうに見える。
だが、それはこの上なく難しいことだった。
生屍や屍喰の研究において第一人者と言われる研究者、ランディ・ウェルズを中心に組織されたPDは、回帰会が掲げる主義――すなわち、生屍や屍喰を人の『間違った姿』であると断じ、元通りの安らかな死を取り戻さなければならない、という主義に対して、その真逆の――。
『生屍は人のあるべき元の姿であり、この変化も起こるべくして起こったものであるので、否定するのではなく受け入れた上で、人類は新たな歴史を紡がねばならない――』
そんな理念を掲げていたからだ。
「……そうだな。文字通り、自らの命を以てまで『死』を取り戻そうとしている結衣、君を前にして吐くような弱音ではなかったか。――すまん」
「まったく、本当にね」
口もとに柔らかな笑みを浮かべながら、結衣はゆるりと首を振る。
「それで……と。今回、わたしを呼びつけた理由は何なの?
まさか、グチを肴にお酒でも、ってわけでもないんでしょう?」
「それはそうだ。君を誘ってもムダなことは、二十年前、通算五十回目の失敗をした際、深く心に刻みつけたからな」
一時、アントーニオは冗談めかして笑ったが……すぐに表情を引き締めた。
「君を呼んだのは他でもない。PDについて、見過ごせない情報を手に入れたからだ」
続いての真面目な言葉に、結衣は無言でその先を促す。
「どうやら彼らは、新たなプロジェクトを起ち上げたらしい。
詳細の程は分からないが、彼らはそれを〈生命の木の実〉と呼んでいると言う」
眼鏡の奥で、結衣の大きな眼がぎゅっと細くなる。
いかに詳細が分からずとも、その呼び名だけで、それが何を目的としたプロジェクトなのかは、容易に想像がついた。
「……本格的に、人を人のままに、生屍や屍喰のような不老不死にする研究を軌道に乗せる――ってことかしらね」
「恐らくは」
アントーニオも、真剣な面持ちで頷く。
「じゃあ、わたしにその詳細を調査してこいってこと?」
「まあ、そういうことだ。
……実は、その情報を得た執行部は、これ幸いと、PDを攻撃する口実にするつもりでいるようでね。
そして、内容が内容だけに、これまではお互い協力関係にありながらも、つかず離れずの距離を保っていたバチカン――引いてはカトリック教会も、全面的に執行部の決定を後押しする形を取るだろう。……つまり、放っておくと、人間同士で下らん争いをする事態に発展しかねないというわけだ。
もちろん、PDのその思想は危険で、放っておくわけにはいかないものだが……だからといって力ずくというのはいただけないだろう? いくら何でも、彼らの研究が、今日明日にも成果をもたらすとは思えないしな。それに――」
一度言葉を切ったアントーニオは、大きくため息を吐いた。
「執行部の行動が、純粋に人間の未来を憂えてのことならまだいいのだが……。今の彼らは、PDの研究成果を横取りしようという我欲が先に立っているように思えてな」
結衣は一言、そう、と頷く。
世界を、元のあるべき姿へと戻す――その光明となるはずだった組織が、いつの間にかそうまで変わっていたのだという事実は、結衣にしてもやるせなかった。
不死を無くすことを目標にしている組織で、不死の自分が表に立つわけにはいかないと、一定の距離を保ち、必要以上の干渉を避けて協力してきた結衣だったが……こんなことになるなら、もっと上手い方法があったのではないかと悔やまれる。
「ともかく……わたしをPDの方へ調査に送り込んで、出来る限り衝突を回避するようにしたい、というわけね。
もしPDのプロジェクトが本格的に危険なものだったりすれば、わたしが率先して妨害するなりして、火種から消してしまえばいい、と」
「そうそう上手くいくものではないかも知れないが……打てる手は打っておきたいと思ってね。
……もっとも、そう言いながら私がすることなど、こうして頭を下げるぐらいで、実際に行動するのは君なのだから……心苦しくもあるのだが」
結衣は大げさに肩をすくめて見せた。
「まったくよね。けど……そうなると、今準備中の仕事は取り止めってことね」
「……近年、フランス西部で急激に勢力を拡大している宗教組織の調査――だったかな」
「〈白鳥神党〉――よ」
アントーニオの発言を補った結衣の声には、明らかな険があった。
「そう――そうだった。確か、君にとっては因縁浅からぬ組織なのだったか」
「向こうは、わたしのことなんて知りもしないでしょうけどね」
アントーニオが――いや、彼だけでなく、恐らくは回帰会執行部にしても、今ひとつかの組織を重要視している風でないのは、当然と言えば当然だった。
〈その日〉から〈暗夜〉を経て……様々な形での終末論、救世論を説く宗教団体は、至る所に生まれていたからだ。
中でも、白鳥神党がそうであるように、屍喰を神の化身と崇め、救済をすがる団体は特に多く、またそれら団体が、奉る屍喰を――もちろん本物などではないので――『演出』して見せるのも、日常茶飯事のようになっていた。
それゆえ、白鳥神党が本物の――彼らが言うところの『神の化身』を奉り上げたという噂が届いたところで、またいつもの茶番かと、真剣に顧みられることがなかったのだ。
だが……結衣は違った。
彼女にしても、本当に『同族』を奉り上げているのかどうかまでは半信半疑だったが、その真偽以上に、あの白鳥神党が未だに消滅せず、しかもこの異国の地でまた勢力を大きくしているという事実に、心穏やかにはいられなかったのだ。
何せ彼女にしてみれば、かつて幼いカイリを利用し、その心に罪の意識を刻み込んでまで、多くの人を食い物に、その悪徳をほしいままにした憎むべき一団である。
それが、また性懲りも無くシンボルを奉り、力を増しているとなれば、仇敵に向けるような嫌悪感は当然のごとく湧いてくる。何とかしなければならないという、義憤に似た衝動も生まれる。
加えて――。
その奉るシンボルがカイリ本人であることはさすがに有り得ないだろうが、それでもカイリの居所について、神党の幹部ならば何かを掴んでいるのではないか――という期待もあった。
何しろ、かつてアフリカに渡ったらしいという情報を最後に、回帰会という大きな組織の中にあっても足跡が追えていないのだ。可能性があるならあたってみたい、という感情も大きい。なので、出来ればこのまま白鳥神党の調査をしたい……というのが、彼女の正直な気持ちだ。
しかしそこで彼女は、だけど、と内心首を振る。
アントーニオたちに協力し、回帰会のために力を貸してきたのは、今のままではカイリに出会っても、彼も、そして自分も救うことは出来ないと思ったからだ。
自分と同じ、不死を否定し、世界を元通りにしようという人々の強固な繋がりを創り、その協力も得て、まずは不死の謎を解き明かすことこそ、望む未来への近道だと考えたからだ。
今、カイリに少しでも近付きたいと願うのも――かつて彼の人生に暗い影を落とした神党に、同じような真似をさせるわけにはいかないと憤るのも、所詮は感情に任せたものでしかない。
――それは、かつての決意をムダにする、愚かなこと――。
結衣は目を閉じ、大きく大きく、ゆっくりと息を吐き出した。
――今はともかく、アントーニオの言う通りにしよう。
回帰会とPD――世界的に大きくなった二つの組織が真っ正面からぶつかれば、ただでさえ疲弊している人類が、さらに窮地に追い込まれることになるのは明白だ。
そしてそうなれば、いきおい、生屍や屍喰の研究も足止めを食うだろう。
「……分かった。アントーニオ、あなたの依頼を受けるわ」
「おお、そうか! すまない、恩に着る!」
結衣の黙考している時間が想像以上に長かったためか、断られるのでは、と不安に思っていたらしい。
結衣が承諾すると、アントーニオは勢いよく、手を差し伸べながら立ち上がる。
しかしその動作があまりに急だったせいか、ぐらりとゴンドラが傾ぎ、アントーニオの体は運河に投げ出されそうになった。
――しかし。
「……まったく」
握手しようと伸ばされていたアントーニオの手を素早く捕まえると、結衣はひょいと、まるで小さな人形を振り回すように、彼を軽々とゴンドラの上へ引き戻す。
「は、はは……重ねて、すまない。肝を冷やしたよ」
「もういい歳なんだから、あんまり無茶はしないでね。――って、三十年ぐらい前にも同じようなことがあった気もするけど」
柔らかく苦笑しながら、結衣は捕まえたままのアントーニオの大きな手と、改めてしっかり握手を交わした。