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2.この世とあの世の境界で


 五十年前に基礎が築かれた、人界と〈冥界〉を分かつ巨壁――その上部。

 どの建築物よりも高所にある、人の手に成るその世界の境界線からは、


 かたや、長期間の隔離の果てに、自然に還ろうとしている街が。

 かたや、新たな混乱の果てにやつれながらも、人の営みを残す街が。

 ……死者の街と、生者の街が。


 対照的な二つの――かつては一つであった街が、一目に見下ろせた。



 時刻は夕刻を過ぎ、地平線に隠れゆく太陽とともに、二つの街は宵闇に沈みだす。

 それに伴い、やがて生者の街には、ぽつり、ぽつりと……。

 訪れる闇に遠慮するように控えめに、小さな灯が点り始めた。

「…………」

 それは、記憶の中にある、財宝のごとくきらめく夜景とは比べるべくもない、さびしいものながら……しかし伊崎(いざき)彰人(あきと)にとっては、この上なく美しいものでもあった。

 それは、その灯がまさに人の生きている証、人が生きるために点している炎であり――かつての、華やかながらその多くが虚飾で無為であった虚ろなものと違い、人の生命の炎そのものだからだ。

 そして……。

 こうして、人がそこにあり、生きていける――そんな世界を、自らの手の届く範囲だけとはいえ、何とかここまで守り抜いてこられたことは、彰人の、人生における誇りの一つだった。



 ……人類が、その文明を、そして生活のほとんどを委ねきっていた『電気』が、世界から失われて、はや数十年。


 〈暗夜〉――。


 世界中のあらゆる電子機器が前触れ無く機能を失い、電波による通信すら失われたその日――新たな異変の始まりとなった日を、後に人々はそう呼んだ。


 〈暗夜〉が世界に――人類にもたらした影響は、ともすれば、『死』の喪失により摂理がねじ曲がった〈その日〉をも凌駕していたかも知れない。


 電気も水も、ライフラインは軒並み止まり、

 社会基盤をなす施設のほとんどは機能を失い、

 飛行機や車といった交通手段は次々に事故を起こし、

 そして混乱した人々がその事態を他所へ伝えようにも、通信する手段すら無い――。


 電子の網によって縦横に繋がっていたはずの世界は、一瞬にして千々に寸断され、情報を得ることも発することも出来ない閉塞した坩堝は、さながら混乱が共食いして肥大化する、蠱毒のようですらあった。


 その状況を、完全な崩壊前でかろうじて食い止め、制御し、改めて人が生活するための社会という秩序を、長い年月を経て再構築するに至ったのが……。

 早々と機能を失っていた日本政府ではなく、カタスグループ――引いてはそのリーダーたる八坂(やさか)邦大(くにひろ)、そして……後に彼の跡を受け継いだ彰人だったのだ。



 ……隔壁から見下ろす夜の街のさびしさは、たった一夜にして大きく後退する羽目になった人間の文明が、未だ往時には遠く及ばないことを如実に表している。

 だがそれでも、降りかかった異変の大きさからすれば、驚異的とも言える生活水準の復旧だった。

 日本が狭い島国であり、〈暗夜〉によって海外と切り離されたことが、流言飛語や難民の際限ない流入を防ぎ、混乱を早期に沈静化すると言う意味では良い方向に働いたからでもある。

 それを証明するように、限りなく弱体化した通信手段がもたらす断片的な情報ですら、海外は日本よりもよほど酷い状況になっていることを伝えていた。


「…………」

 ついと、彰人は視線を『死者の街』へ向ける。

 そちらは、完全な暗黒の世界だった。文字通り、死んだように闇の中に沈む世界。


 そこは、かつては伏磐(ふせいわ)という名で呼ばれていた、彼の故郷の街だ。


 歳月とともに拡張され、より高く増設されてきた巨壁によって隔絶されたその街は、今では紛う方無き〈冥界〉だった。

 大都市ほどでないにしろそれなりに洗練され、自然とのほどよい調和の中にあった往年の姿はすでに失われて久しく……人の生活の名残が死に逝くまま野ざらしに荒廃している光景は、生きる屍のみが住まう幽世(かくりよ)に相応しい。


 ――この世とあの世が隣り合う光景……か。

 世界は本当に、神話の時代へと立ち返ろうとしているのかも知れん。


 現世と幽世、生と死の境界線――。

 その隔壁の上で、二つの世界を見比べる彰人の胸に去来したのは、そんな思いだった。


 だが……たとえそうだとして。

 ならば、人は神の意志にすべてを委ねれば良いのかと問われれば、彼は決してそうは思わない。

 人は自らの意志を持って自らの命を生き、それを紡いで歴史を刻んでいくのだと、信じて疑わないからだ。


 たとえその歴史が、過去と同じく愚かしさばかりが目に余るようなものだとしても――いや、だからこそなおのこと。

 何者かに、行く末を丸投げするような真似はしてはいけないと。


「……あるいは……そうした意志を忘れ、ただ呼吸するばかりの……。

 それこそ『生きる屍』となりかけていた人類に、再び〈命〉を吹き込むためにこそ、この混迷の時代は訪れたのかも知れん、か……」

「ん……何だって? どうかしたか、爺さん?」

 彼の独り言に反応した若い男の声に、彰人は首を反らして後方を見やる。

 彼が座っている車椅子にそっと手を添えたのは、軍服姿の青年だった。


 伊崎晃宏(あきひろ)――。

 カタスグループが政府に代わる日本の自治組織となったのに伴い、生屍(イカバネ)対策のみならず治安維持を一手に引き受けるようになった、元私設軍隊〈黄泉軍(ヨモツイクサ)〉――通称イクサ。

 彼こそ、その若き猛者として――またまとめ役として辣腕を振るう、彰人の孫だった。


「いや……何でもない。所詮は、昔日を見る老人の戯言だ」

「〈暗夜〉以前の時代のことかい?

 世界中、いつでも誰とでも一瞬で情報がやり取り出来たとか、未だに信じられねえよ。たかだか五十年程度昔のことでしかねえはずなのに、まるでおとぎ話の世界だ。

 ……人間は、死んだら朽ちて土に還るのが当たり前だった、ってのもな」

 闇に沈み込んだ〈冥界〉を見やりながら、晃宏は小さく鼻を鳴らした。

「……そうだな。真理というのが、仮に世の多数決で決まるのだとすれば……。

 もはや、この世界の真理を常識として捉えているのは、お前たち若者の方だろうな」

 そう言って彰人は、今の自分の発言に可笑しさを感じた。

 死の摂理が変化したことも、文明が一夜にして崩壊したことも、自分たちの世代では想像を絶する途方もない変異だったはずだが、以降の時代に生まれた者たちにしてみれば、それらは何ら騒ぎ立てるほどのこともない、ただの常識に過ぎない――。

 その当たり前の落差に、何か馬鹿馬鹿しいような可笑しさを感じたのだ。

「まあ、でも……少なくとも情報のやり取りって話に限って言えば、オレは、今みたいに退化しちまって良かったんじゃねえかって思わなくもないな」

「ほう……なぜだ?」

「人間なんて、そんな何でも出来る上等な生き物じゃねえだろ。

 オレなんて、イクサって仕事のこと、仲間のこと、家族のこと……その辺に向き合ってるだけでもう毎日いっぱいいっぱいだ。

 そりゃあ、オレより良く出来た人間なんて幾らでもいるだろうが、それでもそうした当たり前の関係を保った上で、一瞬で世界とやり取り出来るような量の情報を処理出来るなんて思えねえ。

 ……もちろん、情報が大切なのは分かるけどさ、そこまでいくと、もう便利を通り越して先に立っちまう気がする。

 生きるために情報を活用するんじゃない、情報に活用されるために生きるハメになるんじゃねえかなって」

 どこか、探るような調子で展開された孫の持論に、彰人はしゃがれ声で笑った。

「なかなかの暴論だ。あながち間違いでもないが……」

「……何だよ、何か引っかかる言い方だな」

「正しいわけでもない、ということだ。

 ……手に負えんからと尻込みするのでは、人間は人間としての先には進めんよ。

 失敗し、間違え、愚行の果てにようやくわずかに前へ進む……それが、人間というものだろう」

 彰人はもう一度、ぽつぽつとわびしく灯が点る、現世の方へと目を落とした。

「それはともかく……すまないな、晃宏。

 この老骨のワガママで、お前や、お前の部下にまで、余計な仕事を押し付けることになってしまった」

「なに、構やしねえよ。そんな危険でも大変でもないしな。だいたい――」

 車椅子がわずかに揺れる。

 椅子を掴む晃宏の手に、強く力が籠もったのが分かった。

「――爺さん。アンタは、この国の平穏を守るために、文字通り人生を捧げたんだ。

 最期の――死に場所を選ぶぐらいのワガママ……許されて当然だろうが」

「……そうか」

 静かに頷いて、彰人は改めて、闇に覆われた世界の方へ視線を向ける。


 そこは往年の面影を失って久しい、命の灯が消えた世界。この世に現出した冥界だ。

 だがその地は、恐れ忌み嫌われるその呼び名以上に……。


「姉貴――」


 やはり、『故郷』であるのだと――

 彰人は一人、込み上げる万感の想いを噛み締めていた。





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