13.魂の在処、魂の行方
――初めてその言葉を言われたのは、いつのことだっただろうか。
幼い頃、生き神という枷をはめていた白鳥神党の解体によって、カイリは自由を得た――しかし彼の心までは、同じように解放されたわけではなかった。
罪の意識と、それに根ざす世間への後ろめたさが、重鎖となって彼に纏わり続けた。
太陽の下をまともに歩けないという、色素欠乏症ゆえの体質が、それはただ病気というだけでなく、お前の本質が穢れているからだと、絶えず呪詛を囁いていた。
それらは、子供にはあまりに重い荷物だった。いきおい、顔は下を向く。
やがて、心も、身体も、うつむくのが当たり前になる。
それ以外の在り方など思いもしなくなる。
そう――思いもしなかった。彼女に言われるまでは。
『ほら、かおをあげなさいっ』
初めて言われたのがいつだったか、実のところ覚えは無かった。
始めの頃は、まるで聞く耳を持たなかったからだ。
しかし、何度も何度も言われているうちに。
そして、それを言う彼女の輝きに目を引かれて。
彼はいつしか、言われた通りに顔を上げていた。
身体も――心も。前を向くことを知った。
それこそが当たり前なんだと、世界を見据えられるようになっていた。
だから、それは……カイリにとって、かけがえのない大切な言葉だ。
七海と自分を繋ぐ、結びの言葉――。
『ほら、かおをあげなさいっ』
その一言を、カイリは、改めて耳元で聞いたような気がした。
それは――生きることを投げ出そうとしていた彼に、今まさに、殺人者アートマンのとどめの一撃が振りかぶられた、まさにその瞬間だった。
――ナナ姉……僕ももうすぐ、ナナ姉のところに……。
肩の荷が下りたような、これまでになく、穏やかで――静かな心持ちだった。
だが――。
『ほら、かおをあげなさいっ』
その一言は、彼の心をざわつかせた。
甘い思い出として、彼を優しく寝かしつけるのではなく――。
心の奥底でくすぶる熾火に、息吹を込めるかのようだった。
それは、カイリの心臓に、確かな熱となって感じられた。
――何だ? こんな感覚、初めて――いや、違う。
これ、これは……この感覚は……。
初めての感覚だと思った。
だがすぐに、そうではないと気が付いた。――気が付けた。
その熱は――今、突然現れたわけではない。
今までもずっと、そこにあったのだということを。
――これは…………間違いない。間違えるわけがない……!
そうだ――〈ナナ姉〉だ……!
……アートマンが言ったように、自分たちが喰らうのが魂なら。
その魂は、〈地の声〉が言ったように、星へ還されるべきなのだろう。
だが……何の因果か。
いや、むしろ――二人が共に、離ればなれにならないようにと願ったからか。
カイリは――自分が七海の魂の欠片を、星へと還すことなく、ずっと自分の中に秘めたままにしていたことを、ようやく悟った。
〈地の声〉が自分を指して、『お前たち』と呼ぶことがあった理由にも、ようやく得心がいった。
〈地の声〉には見えていたのだ、カイリの中の七海が。その上で、カイリ自身が気付くのを待っていたのだ。
『おそい』――と、七海に笑われた気がした。
――ああ………そうか。そうなのか……。
七海の存在を自覚し――。
そして、それを取り込んだ自分の存在――恐らくそれを『魂』と定義するのだろう――を自覚したそのとき。
カイリは――屍喰としての己を、初めて、ほんの一端でも……本当の意味で『理解』出来たと感じた。
迷い続けた霧が晴れるように――闇夜に灯を見出すように。
「……何だ? やっぱり、死にたくなくなったか?」
カイリの雰囲気が変わったことに気付いたのだろう――腕を振り上げたまま、アートマンがいぶかしげに問いかける。
カイリは、諦観ではなく――達観した表情で、静かに頷いた。
「僕は……死ぬわけにはいかない。――僕の中には、僕の大切な人もいるから」
「そうか。だが残念だな」
気安げにそう言い放つや否や、カイリの胸を貫こうとアートマンは腕を振り下ろす。
いや――振り下ろしたはずだった。
妙だと感じて、アートマンは自分の腕を見る。
果たして――彼の右腕は、いつの間にか、肘から下が綺麗に消えてなくなっていた。
「なに……? なんだ、なにがどうなって……?」
「ようやく、気が付いたんだ」
混乱するアートマンを、軽々と押しのけ、カイリは立ち上がる。
「僕もあなたも、人間として――この世界の『生き物』としてしか、この体を、力を、使えていなかった。
それでも確かに、あらゆる生き物を凌駕する力を発揮出来ていたけれども、それは間違いだった。
……誤解していたんだ、屍喰としての〈力〉の使い方を」
「な、なにを……」
奇妙な迫力に圧されて、アートマンは後ずさる。
……その足下へ、空から降ってきた彼の右腕が突き刺さった。
「この世界で人として生まれ、生きてきたから、生き物としての法則に縛られ過ぎていた。それすら『変えられる』ことを理解していなかった。だから――」
一歩一歩、カイリが歩を進めるたび、同じだけアートマンは後退する。
……アートマンには、さっきまで同族と見えていたカイリが、もっと別の――より大きな存在になったように感じられていた。
「ぅ……おおっ!」
そこに生まれた恐怖に抗おうと、自分でもそれと分かる虚勢とともに、残った左腕で殴りかかろうとするが――その途端、今度はその左腕が、ぼとんと地面に落ちる。
痛みも衝撃も何も無く……ただ左腕が、そこにあるのを拒否するかのように。
「だから僕は、生き物であることを捨てる。
人としての心まで、捨てるわけにはいかないけれど……〈人間〉という生き物としての自分を――捨て去る」
「そうすることで、お前は……こんな芸当を身に付けたっていうのか……?」
斬られたわけでも千切られたわけでもなく、ただ地面に落ちた自分の左腕を見下ろしながら、アートマンは乾いた声で問う。
「あなたは……まだ、人として、生き物としての法則に縛られているから。
自分が本当はどういうものなのか、『気付けて』いないから。
だから――そこに干渉するのは、難しいことじゃない」
「いったい、なにを……」
後退する意志も奪われ、立ち尽くすアートマンの胸に、カイリはそっと手を当てる。
「……あなたの言った通りだ。『喰らう』という行為さえ、僕らは誤解していた。
あれも、ただ、〈人間〉の感覚では最適の表現がないから、ひとまず、最も近しいと思われる『喰らう』という表現に置き換えて理解していただけだったんだ。本当は――」
アートマンの胸の辺りが、ぼんやりとかすかに輝く。
そしてそうかと思うと、カイリは当てていた手をぐっと握り締めた。
途端――。
糸が切れた人形のように、アートマンは力無くその場に膝を突く。
「口を使う必要すらなくて。
あなたが言うところの魂を、こうして自分の中に通す――それだけで良かったんだ」
「あ………あ……?」
何が起こったのか分からないという驚愕を顔に貼り付けたまま――アートマンの身体はとさりと柔らかく大地に倒れ伏す。
……抜け殻となったその身体は、もはや動くことはなかった。
「………さようなら」
寂しそうに一言別れを告げると、カイリはそっとその瞼を閉じてやる。
そうしてふと感じた気配を目で追えば、逃げた子供たちが呼んだのだろう、〈地の声〉が近付いてくるところだった。
安堵を覚え、表情を和らげるカイリ。
だが――。
「――――!」
その赤い瞳は、すぐさま引き締められ、空へと向けられた。
そこに何が見えるわけでもない。しかし、彼は感じ取っていた。
――何かが起きる、と。
世界が迎えることになる、新たな、大きな変化――その兆しを。
*
――ふっと、目が覚めた。
寝心地の良いベッドで、充分に睡眠を取った後のような……すっきりとした、気持ちの良い目覚めだった。
「…………あ、れ……?」
なにげない疑問が唇から漏れる。
何か……違和感があった。
「気が付いたか」
夕焼け空がいっぱいに広がる視界に、ぬっと、背の高い男性が割って入ってきた。
見覚えの無い人物だったが……なぜか警戒心は起こらない。
代わりに覚えるのは、妙な親近感だ。
「わたしは……いったい………」
改めて口に出して、そしてようやく気付いた。
あわてて体を起こし、周囲を見回す。――覚えのある、古びたアパート前だった。
続いて視線は、自分の体に落ちる。
やっぱり――と、思った通りに。
着ているスーツは、固まり始めた赤黒い血で――自分の血で、汚れていた。
「そんな、まさか……。まさか……!」
「その通りだ」
背の高い白人の男が、労るような口調で告げる。
「君は、一度死んだ。そして、蘇生したのだよ。
そう、我々と同じ――〈屍喰〉として」
「う………そ」
……ふと動かした手が、何かに当たる。
拾い上げてみると、それは赤いフレームの眼鏡だった。
……想い人に、よく似合うと褒められた、思い出の眼鏡。
それがあるから、子供っぽいとは思いながらも、変えられずにいた眼鏡。
彼女の――霧山結衣の、トレードマークだった眼鏡。
――彼を元に戻してあげたい。死なない命は、間違っていると思うから――。
つい先刻、ロアルドに言い放った自分の信条が、頭の中で反響する。
「あ……そんな、そんな……そんなっ!」
……間違っている、正されるべきと信ずる存在に、あろうことか自分が変ずる――。
あまりに皮肉な現実に、結衣はただ、慟哭するばかりだった。
ここまでご覧いただき、ありがとうございます。
屍喰神楽はこのパートをもって二章終了となります。折り返し点、といったところです。
全体的にこの作品、時系列は無視していないものの、時間も場所もシーンごとあちこちに飛び、さらにはそのシーンの中でも1カットを切り取って語るような形なので、好みに合わない方もいらっしゃるかも知れませんが……申し訳ありません、別に手を抜いているわけでなく、一応仕様なんです。
メインとなっているのが、歴史の大きな流れ――でもありますので。未熟ながら、その表現の一つとしてこうした構成にさせてもらっています。……といっても、作中でここまでまだ十年程度しか経っていませんが……。
ともかく、この先も、とりあえず『時間をムダにした』と思われない程度のクオリティは最後まで維持出来るよう(今の時点ですでに無い、と言われるとそれまでなんですが……)努力して進めていきますので、三章以降も続けてお時間を割いていただければ幸いです。
そしてその上で、少しでも楽しんでいただけるのなら、それはもう本当に、もっとさらにこの上なく幸いというものです。
……では、長々と失礼いたしました。今後ともよろしくお願いします。