12.終の願い
人を超越した存在――屍喰と屍喰の争い。
その激しさは、まさしく人智の及ぶところではなかった。
舞うように繰り出される互いの腕がぶつかるたび、脚が交差するたび――。
常軌を逸した圧力の余波が、大地を削り、砕き――空を断ち、歪ませる。
それは――それこそは、〈神楽〉の本来の姿だ。
人が、神に奉納するためのものではなく……。
神代、神魔が己の生き様を世に刻んでいた、その頃の――彼らの激しく燃え盛る命の躍動そのものだ。
同じ屍喰であれば、屍喰を殺すことも出来る――そんな理屈があるのかどうかは分からない。
だが少なくともカイリが、意識すれば抑えられるものの、痛みらしい痛みを久し振りに味わっているのは事実だった。
加えて、アートマンを名乗る男に殴られるたび、蹴られるたび……骨が折れたり動かなくなったりはしないが、少しずつ身体から力が削れていくような、そんな気もする。
「――――っ!」
相手の拳を避け、交差する瞬間――まるで意識していない角度からの蹴りをまともに受けて、カイリは数十メートルは跳ね飛ばされた。
並の人間なら、そもそも吹き飛ぶ前に爆ぜて肉塊にでもなっていたことだろう。さしもの屍喰でも、意識的なものか、激痛というような感覚が全身を巡っていた。
「屍喰としての力はともかく、お前、ケンカもろくにしたことがないみたいだな?」
やれやれとばかりに首を振りながら、しかし楽しそうにアートマンは言う。
一方カイリはそれに答えることなく、ゆっくりと起き上がりながら――実際には乱れてはいない呼吸を、それでも改めて整えるかのように、無意識に大きく息を吐いていた。
……アートマンの奇襲によって戦いの口火が切られてから、カイリは防戦一方だった。
屍喰としての腕力や脚力といったものにそれほど差異があるとは思えなかったが、アートマンが指摘したように、そもそもろくにケンカもしたことのないカイリに比べ、相手は実際に多くの人間を殺めてきた殺人者である。
命のやり取りについての経験の差は歴然であり――またそれは、この戦いにおける殺意においても同様だった。
かたや殺す気でいる者と、かたや、そこまでの覚悟を持てずにいる者と。
起き上がったカイリに、アートマンは鼻歌交じりに近付く。
なかば反射的に、カイリは反撃の拳を繰り出すが……。
「ンだそりゃ」
アートマンは、風を切り裂いて放たれたそれをわけなく受け流すと、カイリの無防備な腹を蹴り上げ、さらに背中を殴りつけてもう一度地に伏せさせる。
そのカイリの体よりもむしろ、それを受け止めて放射状に亀裂の走った大地こそが、悲鳴を上げたかのようだった。
立て続けに背中を踏みつけ、アートマンは喉の奥で嗤う。
「……まだ、人間だった頃は……人間を殺すのが愉しくて仕方なかった。
殺してから、肉を喰らったり、犯したりするのも最高でな……これが信じられないぐらい興奮するンだよ。
動物でも虫でもない、人間という同族の『存在』を、徹底的に蹂躙するってのは、たまらない快感だった。
同族だけに、自分も同じ目に遭う危険が隣り合っているっていうのも、また得も言われぬ刺激だった。
――だがな。
こうして屍喰になっちまうと、そのすべてが色褪せちまった。
当たり前だよな、人間はもう同族じゃねえ、取るに足らない虫ケラなんだからよ。
だから――」
背を踏みつける足の力が増す。
カイリの華奢な体はそれでも砕けはしないが、地面そのものがわずかに沈み込んだ。
「今この瞬間は最高に充実してるぜ? 愉しみで仕方ねえよ。
お前の心臓……いや『魂』は、どんな味がするのかって想像してるとな……!」
「……たま、しい……?」
けげんそうなカイリの一言に、アートマンは眉根を寄せる。
「何だ……お前、気付いてなかったのか?
あの〈衝動〉、あれは生屍どもを喰らえって訴えてるみたいだが……多分、違うぜ?
少なくとも、肉を喰らえってわけじゃない。さんざん人間の肉を喰らってきたオレには分かる。
あれが真に求めてるのは――魂だ。
生屍の、多分心臓とかに定着しちまってるらしい、魂ってやつなんだよ。
……まあ実際、正確にはどう呼べばいいのかは知らんがね。表現としてはそう間違ってもいないはずさ」
話すのに夢中になっていたせいか、一瞬、踏みつける力がゆるむ。
「――っ」
その瞬間を見計らって、アートマンの足下から脱け出し、すぐに体勢を整えるカイリ。
一方のアートマンは、それを失態と捉える風でもなく、余裕をもってそちらへ向き直った。
「何だ、まだ諦めないのかよ?
見たところお前……それほど生きたがってるようにも感じねえんだがな?」
「! それは――」
カイリは反射的に目を伏せてしまう。
――アートマンの指摘は正鵠を射ていた。
とっさに抵抗してはいるものの、彼の中にはあったのだ――。
このまま殺されれば、すべてから解放されて楽になれるのではないか――そんな想いが。
やはり自分は死ぬべきなのではないか――そんな失望が。
永い永い時間を生き続けることは想像を絶する苦痛なのではないか――そんな恐怖が。
そして――。
「……ナナ姉……」
叶うのなら、七海と同じ場所に逝きたい――そんな願いが。
「へえ……図星、か。
まあ、生きようとしたところでムダだけどな。
分かるだろう? お前じゃ、オレには勝てやしねえンだ」
アートマンの評価は事実だと、カイリも理解していた。
何らかの武術を習得していたわけでも、ましてや運動センスが特別良かったわけでもない彼に、本物の人の殺し方に精通した相手に勝つ道理など、あるはずもない。
――そうか……ここまで、なんだ。
ふっと、あらゆる感情や思考を真っ白に塗り潰して、そんな理解が思い浮かんだ。
緊張感も敵意も消え失せて、棒立ちになったその瞬間に、獲物に食らいつく肉食獣よろしく、アートマンはカイリの首根っこを捕まえて地面に叩き付ける。
「……諦めたか。もっと抵抗してくれても、それはそれで面白かったんだが」
ニヤリと嗤うアートマン。
その歪んだ顔を見上げながら、カイリがつぶやいたのは、やはり彼女の名だった。
――せめて……死んだ後も、見失わないようにと。
*
〈預言者〉ロアルドから世界に異変が迫っていることを聞かされた結衣――。
部屋を飛び出した彼女は、古びたアパートの階段を飛ぶように駆け下り、外の通りに出るや否や、すぐさまスマートフォンで彰人の番号を呼び出した。
一応背後を振り返ってみるが、やはりと言うべきか、追ってくる様子は無い。
「彰人君……お願いだから、電話に出られる状況でいてよ……!」
黙っていれば秘密にしておけるものを、わざわざ自分に話して聞かせるあたり、ロアルドのやろうとしていることも、次の異変も、もう目と鼻の先まで迫っているのは明白だった。止められはしないと高をくくっているのだ。
「そうはいくもんですか……」
どれだけ時間の余裕が残されているのかは分からない。だが、彰人に連絡が付けば、一気に手を広げられるのは間違いなかった。
今さらながら、先んじて約束通り彰人に連絡を入れておかなかったことが悔やまれる。しかし、だからといって諦めるにはまだ早い。
――早く出て、とコール音が鳴るたびに待ちわびる。
苛立たしげに足踏みする彼女のそばでは、つい先程ここへ来たばかりらしい、ビルの清掃業者が、あわただしく準備をしていた。
こんなボロアパートでも清掃業者が入るんだ……。
こうしている今も崩壊の危機にさらされている日常光景が、しかし、変わりなく繰り返されていることに、どこか可笑しさすら感じる結衣。
だが……彼女はすぐさま、妙な違和を覚えた。
――清掃業者? このアパートに? 掃除された様子なんて、まったく……。
ふと、業者の車の方へ向き直ったその瞬間――。
腹部を何かで突かれたような衝撃がして、ことんと、両膝が地面に落ちる。
「………え?」
何が起こったのか、一瞬、まるで理解出来なかった。
――こちらを向いた業者の手に、消音器の付けられた拳銃が握られているのを見るまでは。
「………うそ」
業者がもう一度、人差し指に力を込める。
溜め込んだ空気が抜けるような音がして、もう一度――今度は胸に衝撃を感じた結衣は、そのまま突き飛ばされたように仰向けに倒れた。
彼女の手を離れたスマートフォンが、地面を滑る。
「……あ……」
そのまま空いた手で体に触れ、それをゆるゆると目の前にかざしてみれば……。
べったりと、余すところなく真っ赤な血に濡れていた。
しまった――と、事ここに至ってようやく、結衣は自分の失態に気が付いた。
複数の犯罪組織に必要とされ、関わりを持ちながら、そのどれにも属さなかったロアルド。
それはつまり、彼が様々な組織にとって重要な情報を抱えたまま宙に浮いている、ということでもある。
そんな彼を危険視し、あわよくばその研究成果を奪い、独占しようと考える組織などいくらでもあったはずだ。しかしそれら組織も、これまでは情報操作によって巧みに姿を隠していたロアルドを追い切れないでいたのだ。
だが――状況は変わった。
結衣は気付かなければならなかったのだ――。
一介のジャーナリストに過ぎない自分が、その消息を突き止められたのは、他ならない、ロアルド自身がそうし向けたからなのだと。
そして、自分に突き止められるのならば、彼を追っている他の者たちも同様に、その消息を掴めたのだと。
彼女以外の――彼女よりずっと凶悪な目的を持った連中も、ここを目指しているのだということを。
自分の迂闊さを呪いながら、急速に力を失っていく体をずり動かし、転がったスマートフォンに向かう結衣。
いつもの赤いフレームの眼鏡が滑り落ちるのも構わず、必死に手を伸ばすも、それはむなしく空を切る。
眼鏡を失ったせいか、意識が朦朧としてきたせいか……。
ぼやける彼女の視界の向こうで、業者がスマートフォンを拾い上げ、さらに別の人間がカバンも奪い去っていく。
「……待っ……て……」
夢中で呼びかけるも、業者に扮した者たちはそのか細い声に耳を傾けることなく、アパートの中へと姿を消した。
すぐに死ぬような傷を負わさなかったのは、生屍となって脅威になることを警戒したからだろう。
だが、すでに痛みを通り越して悪寒となった全身の感覚は、取り返しがつかないほど体外に血が流れ出てしまったことを教えている。
――ああ……死ぬんだ、わたし。
自分でも驚くほどすとんと、その事実が胸に落ちた。
体から余計な力が抜け、再度、仰向けに転がる。
視界いっぱいの空が、もう何色なのかさえ判別出来ない。
「おと……さ……。あき……と……く……。ごめ……」
――このまま死んで、生屍になったら……彰人君に処理されるのかな。
うん、彰人君ならいいかな……彰人君自身は……きっと、つらいって思ってくれるんだろうけど……。
彰人に悪いと思いながら……でも、と、最期の――本当の願いが頭をもたげる。
――もしも……叶うのなら。
カイリ君、あなたに……喰らって欲しかった。
ナナ先輩のように、わたしも――。
赤い瞳をした純白の少年が、いつもの優しい笑みを浮かべてくれる――。
意識が闇に沈むまさにその瞬間、彼女はまぶたの裏にそんな光景を見ていた。