10.〈預言者〉に問う
――アメリカ、マンハッタンの、ハーレム地区に近い一画。
本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほど、荒廃したアパートの最上階――。
その最奥、目的のドアを前にして、結衣は一度大きく深呼吸した。
――ようやく、たどり着いた……。
……人間の生屍化による混乱を未然に防ぐ名目で、国家の枠組みを超えて急速に進められている、個々人へのバイタルチェック埋め込みの義務化――。
その先駆けとして、まず、国連加盟国の首脳陣や、ライフライン関係の仕事に従事する人間に埋め込まれた、その機器の根幹となるシステムを開発した人物……それが、このドアの向こうにいるはずだった。
実際に、機器の開発者として記録に名を連ねているのは、研究開発をしていた研究所の人間たちだが、その彼らに、密かに技術供与を行った真の開発者がいたことを、結衣は突き止めたのだ。
そして――その真の開発者こそ、彼女が行方を追い求めていた人物だった。
この十年、彼女が探しに探し続けた、カイリと、彼の身に起きた異変への手掛かりだったのだ。
「…………」
果たして、その手掛かりがわずかなものに過ぎないのか、謎の全容まで迫れるものなのかは分からない。
しかし、その先へ行くためにも――絶対にこの機会を逃がすわけにはいかないと、結衣は気を引き締め直す。
「……よし」
インターホンのようなものは見当たらなかったので、取り敢えずドアをノックしてみると……意外にもすぐさま「どうぞ」と返事が返ってきた。
誰か、と問われることもなく、いきなり入室を許可されたことに一瞬戸惑うものの、意を決して挨拶とともにドアを開ける結衣。
アパートの一室であるはずが、しかしまるで倉庫のような、間取りは広くてもごちゃごちゃと置かれた物のせいでそうは感じない部屋の中央――。
車椅子に座った初老の男が、笑顔で彼女を手招いていた。
「……失礼します」
もう一度そう言い、結衣は促されるまま慎重に、大きめのスチールテーブルを挟んで、初老の男と向かい合う位置に置かれた、簡素なパイプ椅子に腰掛ける。
「ロアルド・ルーベク氏ですね。わたしは――」
「覚えているよ、霧山結衣さん――だね。
伏磐の病院ですれ違って以来だから……十年と少し振りかな」
柔和な笑顔のまま、穏やかな口調でロアルドが述べた言葉に、結衣は凍り付く。
――消息を追いかける自分のことを、相手も知っているという可能性は、限りなく高いと踏んではいた。
結衣が調べられただけでも、ロアルドはいくつかの犯罪組織と繋がりがあり、その上で巧みに身を隠しながら、世界を転々としていたような人間だ。
いきおい、情報を扱う技術に長けているのは明白で……だから今日、こうしてようやく見つけた住居を訪ねるにあたり、連絡が筒抜けになって警戒され、逃げられてしまっては元も子もない――と、行動は偽装に偽装を重ねた上で、以前ファミリーレストランで会ったときに約束した、彰人への報告も絶ってきたぐらいだ。
それにもかかわらず、自分が来ることを見透かされていた――。
(違う……問題はそこじゃない)
消息を追う人間の一人として、情報だけで処理されていると思っていた自分。
そんな、取るに足らない人間だろう自分を、十年前の、まるで接点などなかった頃の、些細な記憶とも結びつけられる点にこそ、結衣は戦慄したのだ。
二の句を継げずにいる結衣に、ロアルドは優しく、「そう固くならずに」と告げる。
「――時平カイリ君……彼のことを聞きたくて、私の所へやって来たのだろう?」
びくり、と正直に結衣の体が反応する。
……首尾良く会えたなら、バイタルチェックの開発についての何気ないインタビューのような形から、徐々に話を掘り下げていこう――。
そんな風に考えていた結衣の目論見は、早々に砕け散っていた。
いわく、『すべてを見透している』
いわく、『常軌を逸した天才』
いわく、『預言者』――。
消息を追う過程で見つけた、ロアルドと関わった人間による、いくつかの断片的な人物評が、ふと結衣の脳裏を過ぎる。
その人物評を見た当時の印象は、それほどに頭が良いのか、という程度でしかなかったが……今まさに彼女は、そう評した者たちの真意に触れた気分だった。
出鼻を挫かれるどころか、完全に呑み込まれたような形だが、逆にそうして、萎縮しそうになるほどの存在感を見せつけられたお陰だろうか。
かえって腹を括って開き直れたらしく、一呼吸置いた結衣は改めてまなじりを決し、ロアルドを見据えた。
「――ええ、そうです。でも、それだけじゃありません。
〈その日〉以来続く、世界の異変についても……あなたの知っていることを話してもらいたいんです」
「……どうも皆、大きな勘違いをしているようだけどね。私が知っていることなど、ほんの少しでしかないんだよ。
仮に君が、真実を、全貌を――などと求めたとしても、それは世界の真理をつまびらかにせよ、と言われるのと同じぐらいに不可能だ。
つまりだね、君たちが言うところの『異変』は、私などがどう頑張ったところで引き起こせるものじゃないんだ」
異変の首謀者として疑われていることは承知している、とばかりにロアルドは言う。
結衣は、一語一句、真贋を見誤るまいと、神経を研ぎ澄ませる。
「では、どうしてあなたは〈その日〉が来ることを予見出来たのですか。
あなたが学生の頃に書かれた論文を見る限り、ただの当てずっぽうとは思えません」
「書いた通り、『視えた』からだよ――人を形作る情報の中に、そうしたものが。
差し当たっては無難な、数字というイメージに置き換えたが……あれを正しくどう表現するべきなのかは、今もって分からない。あるいは、人間の感覚では無理なことだったのかも知れないね」
「では……〈その日〉以来、人に何が起こっているのか。どう考えているんですか」
期せずして、当初目的にしていたインタビューのような形になっていることに気付く余裕もなく、結衣は質問を重ねる。
「……そうだね。私見でしかないのだが……私は、一つの時代が終わり、もともとあった姿へ戻りつつあるのだと思うよ。単純な進化や退化といった、二方向的なものではなくね。
そして恐らく、それを告げる報せのようなものが、私が人の中に『視た』ものの正体なのだろうと思う」
「戻る……?」
「そう。知恵の実によって得た時代は終わり……人は再び、エデンに還る時が来たんだ」
「それは、つまり……死ぬこともない、生きているわけでもない生屍が、あの状態が、人間のもともとの姿だって言うことなんですかっ? そんなの、ありえません!」
結衣は思わず言葉を荒げるも、ロアルドに気にする様子はない。
「そうかな? 私から見れば生屍は、余計なものを取り払った、いかにも人間らしい本能の下に行動していると思うがね。
孤独を恐れ、違う存在を恐れ、同種の中に埋没することを望み、人を襲う。
それでいて積極性は無く、基本的には可能な限り怠惰。
しかも、見えなければ――近くにいなければ、そうした対象が存在すると、特別気にすることもない。見えないものは無いも同じ。
――どうかな?
食欲、睡眠欲、性欲といった、生屍には必要ないものを除いて考えれば、人間の行動原理とさして変わりはしないだろう?」
「そんなの……!」
納得など出来ない。
だが結衣には、その意見をまったく違うと、全面的に否定することも出来なかった。
個を殺し、ただ群れるばかりの、己が意志で『生きて』いるかも定かでない存在――。
結衣とて、自分も含めた人間というものを、そんな風に蔑んだ経験がないわけではないからだ。
それに加えて、生屍の体組成が、生きている人間のそれと変わらないという現代科学による分析結果も、一つの証拠として、ロアルドの見解を後押ししているように思えた。
そうして、明確な反論の言葉が見つからずにいる結衣にロアルドは、分かっている、とばかりに頷いてみせる。
「……納得出来ないのも仕方のないことだし、それはそれで構わないとも。
先に言ったように、これはあくまで私個人の考えを述べただけだ。真実と限ったわけではない。……もちろん私は、これこそ真実と信じているのだがね」
「では、あなたは……この異変は、誰の手によるものでも……いえ、それこそ『異変』ですらなく……起こるべくして起こったことでしかない、と――そう考えるのですか」
「そうなるね。……だが私も、世界規模で人の身に『何か』が起きるのは分かっていても、それがこうしたものであることまで分かっていたわけではない。
つまり、今述べたような見解も、実際に事が起こった後だからこそ至れた考えに過ぎないんだよ。
しかし、それを確たる証拠付けするべく生屍を研究するにも、科学が今のままの道を進む限りは、決してその真実に迫ることは出来ないだろう。
現代科学の根底たる世界の法則が、決して絶対のものなどではなく――さらに、それを上位から支配して然るべき、別の法則があるということ……それを認めない限りは」
「……では……屍喰については」
いよいよ、と高まる緊張ごと抑え込もうとするように、一旦そこで言葉を切って、結衣は唾を飲み込む。
眼鏡を整える手も、心なし震えているような気がした。
「そして、カイリ君については――何を知っていて、どう考えているんですか。
あなたがわたしを覚えていたように、わたしも覚えています。十年前のあの時、すれ違ったあなたが、『彼はきっと世界を変える』――そうつぶやいていたのを。
それは、あの時点で彼が屍喰になるのが分かっていたということではないんですか。
いいえ、それだけじゃない……あのときのあなたの言葉には、もっと別の意味もあったのではないですか?」
「フム……どうしてそう思うのかな?」
「あなたは件の論文の中で触れています。
ほとんどの人間に、先に話された、数字めいたものだけが同じように『視える』中……まったく別のものが『視える』人物もいたことに。
論文中ではそれ以上の追求はされておらず、取るに足らない一文のようですけど……それが、屍喰となる人間のことを指しているのなら、あなたは十年前の時点で、すでにそうした特異な人間がいることを察していたことになります。
なら……あのときのあなたの言葉が、カイリ君も含めた、屍喰という存在そのもののことを指していたのなら、『彼ら』と複数形でなければおかしいじゃないですか。
でも……わたしは確かに聞きました。
あなたは『彼』と、カイリ君だけを指していた。
あの頃は、今よりずっと英語は未熟だったけど……でも、間違いありません」
早口で一気にまくし立て、結衣はじっとロアルドを見る。
ロアルドは鷹揚に頷くと、小さく手を叩いた。
「やや乱暴ではあるけれども……見事な推察だ。――その通りだよ、結衣さん」
ロアルドの瞳の輝きが、力を増したように思えた。
老いばかりを感じさせる彼の顔立ちにあって、それはまるで子供のようだった――憧れの玩具を手に入れて、無垢な歓喜に満ちあふれている子供。
「彼は――カイリ君はね。……特別、なんだよ」