9.おもかげ
――〈古き民〉の子供たち十人ほどを引き連れたカイリは、〈地の声〉に指示された、サバンナのただ中を流れる小川へとやって来ていた。
日が高くなり始めた時間ということもあって、子供たちは水を汲むための焼き物の容器を置いて、水際で思い思いにはしゃいでいる。
その様子を、手近な岩に腰を下ろして見守るカイリは、ふと、以前〈地の声〉が人類を指して、まだ幼い子供だと言っていたことを思い出していた。
……文明を発展させ、繁栄を極めた今の人類は、そこはかとなく漂う閉塞感じみた退廃の風潮も含めて、むしろ老いに入っているのではないか――。
そう考えるカイリは、そのとき、〈地の声〉の言葉に同意は出来なかった。
しかし、こうして雄大そのものの大地と、その懐で戯れる子供たちの姿を見ていると、〈地の声〉の言葉の方が、しっくりと胸の奥に落ちると思えた。
〈その日〉以前の日常世界を顧みても、技術と知識を以て文明を極めたように見えて、人はそれを完全に制御出来ていなかった。
理性を以て本能を御すことも、出来ているとは言い難かった。
そのための社会性を助けるべき法の整備などもまた、改良の余地はまだまだ多く、目指すべき完成形にはほど遠いものだったろう。
それらを指して、人は愚行を繰り返すばかりの存在だ、という認識が拡がっていた。
いつまでたっても学ばず、変わらないそれは――愚かさは、人の本質だと。
カイリも、全面的にとまではいかないが、それを肯定していた。
だが――彼が今、改めて思うのは、それは本質どころか老成によるものでもなく、ただ幼いがゆえなのではないか、ということだ。
人が人らしい歴史を刻み始めて、少なく見ても数千年は経っているのだろうが……考えてみれば『たかが』数千年に過ぎないのだ。
それは百年程度しかない寿命では悠久にも見える年月だが、この星そのものが生命として刻んできた何十億年という時間と比較してみれば、ほんのちっぽけなものであるのは明白だ。
そう――〈地の声〉が言った通り、人はまだ幼いのだろう。
進化しつつ、しかし後退するような、一見愚かしい歴史しか築けていないのも、種として成熟しきれていないからだ。
まだまだ若く、幼いからなのだ――。
世界を渡り歩いてきた多くの経験もあって、カイリはそんな風に考えを改めていた。
あるいは屍喰となったがゆえの変化もあったのかも知れないが、最近、人間そのものに慈しみのような感情を覚えるのも、つまり彼らが傍若無人に振る舞う成人ではなく、道行きを探して迷う子供だからなのではないか――と。自分自身も含めて。
大きく一息ついたカイリは、改めてぐるりと辺りを見渡す。
……今現在、人間世界で起きている混乱などまるで意に介することなく、空でも、水でも、大地でも――動物たちはこれまで紡いできたものと同じ生と死を、変わらず、この雄大な大地の上に繰り広げていた。
いや、あるいは彼らは、人間に起きた異変を知った上で……それを受け入れた上で、それでも変わることなく自らの生を生きているのかも知れない――そんな風にも感じられる。
それはカイリにしてみれば、自分のような者に比べて、まるで悟りを開いた賢者にすら思えた。
「……すべてを受け入れて、生きる、か……」
突き抜けるように青い空を仰ぎ、カイリは独りごちる。
彼にとって、『受け入れる』ということは、屍喰となった己が身の上のことだけでなく、命に代えても守り抜こうと誓った七海を喰らってしまった、その事実も含まれている。
七海について考えるとき、以前はただひたすらに、激しい罪の意識と悔恨、恐怖に苛まれるばかりだったものの、今では、哀しみこそそのままに、もう少し冷静に――客観的に見つめられるようになった。
そう出来るようになったのも、ヨトゥンや〈地の声〉という同族との交流はもちろん、世界中の生屍を、そしてそれらと戦いながら共存する、多くの人間の姿を目の当たりにしてきたからであるのは間違いない。
だがそれで、心底にある、疑念に根ざした感情まで払拭出来たわけではなかった。
そもそもの、七海があのときまだ生きていて、生屍とするために止めを刺したのが自分なのではないか――その疑いが消えていないのだ。
だから、生屍となり、死してなお現世に縛り付けられている者たちの救済策の一つとして――それが〈衝動〉に駆られてのことであろうとも――彼女を喰らったのだ、という見解を、彼は未だに素直に受け入れられずにいる。
いや……彼がそう納得し、自分を赦すことが出来ずにいる理由は他にもあった。
まずは、生屍が、本当に屍喰が喰らうことでしか解放する手段が無いのか、という疑問だ。
確かに、未だ研究も進まず、いかなる兵器でも完全に消滅させることが出来ない現在では、それしか手段が無いように思える。また、屍喰としての感覚なのか、本能的にそうだと確信している節すらある。
だが、研究が進んでいないということは同時に、将来何らかの切っ掛けで道が開けた場合、別の手段が見つかる可能性も残されている、ということだ。
それはあるいは、生屍に人間的な、尊厳ある死を迎えさせてやれるものかも知れないし、ともすれば、生屍は完全な死を迎えてはいないだけで、改めて人間として蘇生させてやれるようなものかも知れない。
もちろん、それらが甘ったれた希望的観測でしかないことぐらい、カイリも承知している。
だが、いかに確率として低いものであろうと、可能性として存在している以上、自分は早まったことをしたのではないか、という後悔は消えない。
そしてもう一つ――。
これは彼自身、気付くまでに時間がかかった、極めて自分勝手な願いだ。
――彼は、七海を喪いたくなかった。
ともに在りたかったのだ――たとえ生屍であろうとも。変わり果てようとも。
自分の愛した人間に、ただ、この世に存在していて欲しかったのだ。
それはきっと、七海の尊厳を貶めるものだと――そう分かっていても、カイリにすればこれが、嘘偽りの無い、純粋な願いだった。
ただ、一緒にいたかった――と。
「……彰人……結衣……。君たちは、どう思うんだろう……」
関係を絶って久しい友人たちの姿が、脳裏を過ぎった。
二人が今の自分の心情を吐露されたなら、どう感じることだろうか――。
カイリは視線を落とす。
自分の影が、自分のものでないような錯覚がした。
きっと二人は、こんな身勝手なことを願う身でありながら、〈衝動〉に屈して、彼らにとっても大事な姉、そして友人であった七海を喰らった自分を、おぞましいとなじるだろう。
そして、それは彼女を救うためだった、と言い訳をしようものなら、ならどうして他の生屍を喰らわないのかと責めることだろう。
喰らうことで救えると信じるのなら、なぜ、と――バスの中で会ったあのときの恐怖の表情に、さらなる怒りを、憎しみを、嫌悪を塗り込めて。
その光景は彼にとって、想像するだに恐ろしかった。
もし屍喰が人と同じく睡眠を必要としたなら、きっと消えない悪夢となって、延々、彼を苛み続けたに違いない。
だが――。
今さらながらカイリは、それでもあえて、その誹りを受けるべきだったのだろうと思う。
自分がいったい何者になったのか、その正体が把握出来ない以上、彼らの安全のためにもそばを離れた方がいいと考えたのは嘘ではないし、完全な間違いだったとも思わない。
しかしそこに、責められる恐怖から逃れたいという、身勝手な理由があったこともまた確かなのだ。
まさに遅きに失するだが、彼らの弾劾を受けていられたら、自分の気持ちに、生き方に、踏ん切りを付けて、もう一歩先まで進んでいたのではないか――と、そう思わずにはいられない。
『やり直すのに、遅いなんてことないよ』
「……え」
――声が聞こえたとか、気配を感じたとか、そんなことは一切無い。
だがカイリは、ふと七海に触れられた気がして、あわてて顔を上げていた。
当然、そこに見慣れた姿など無いことを理解していながら、辺りに視線を走らせ、そして小さく息を吐く。
しかしそれは落胆によるものではない。むしろ、安堵による穏やかなものだ。
「………ナナ姉」
これも、自分の勝手な願いが成せる業なのかも知れないと、そう自分自身に呆れる。
だが、これまでも何度か、こうして心が挫けそうになるとき、七海に触れられた気がして、安心させられたことがあった。
かつてのように、手を取り、両の瞳を真っ正面から真っ直ぐに見つめて、叱咤してくれているような――そんな気がして。
それが、自分の心が勝手に、七海の幻像を体良く利用しているだけだとしても……。
それでも、少なくとも今は、素直に受け止めようと思った。
「……そうだね。まだ、遅くはない……か」
今となっては彰人たちの連絡先も分からないし、〈その日〉以来、スマートフォンのような通信機器は手にしていない。だが大都市にでも行けば、インターネットを始め、何らかの手段があるはずだった。
差し当たって、自分でも分かるアフリカの大都市と言えば、南アフリカのケープタウンだろうか――そんな風に考えながら、感覚的に南だと理解出来る方へ首を巡らせたとき、カイリは妙な気配を感じ、あわてて立ち上がりざま、逆方向に振り返った。
……気付けば周囲から、動物たちの気配が完全に消え去っている。
子供たちも、遊ぶのを止めて戸惑い気味に立ち尽くしている。
空気すら、ぴんと限界まで張り詰めて息を呑んでいる。
天変地異の前触れのような怖気を催す静寂が、雄々しく逞しいサバンナすら震え上がらせている――。
そんな中、屍喰として超人的に研ぎ澄まされたカイリの赤い瞳は、まるで大地を従わせているかのように、悠々とした足取りで近付いてくる人影を、遙か遠方に捉えた。
実際にそんなことが起きているわけではないが、海を割って歩く聖者よろしく、その人影の歩みに合わせて、まるで大地が道を空けているようですらあった。
カイリは注意をそちらに向けたまま、子供たちを呼び集めると、すぐに集落へ帰るように指示した。
子供たちも、彼らなりに何かを感じ取っていたのだろう、いつも一緒に遊ぶときのように、いかにも子供っぽい駄々をこねることもなく、素直に従って急いでここから立ち去っていく。
――これは、同族……。
子供たちの背中を見送りながら、本能的に、カイリは人影の正体を悟っていた。
未だ遙か彼方に離れていながら、そこから、真っ直ぐ自分に向けられていると分かる意志があった。
そしてそれは――同族とは言え、ヨトゥンとも、〈地の声〉ともまるで違う性質のものだった。
鋭く尖りつつ、幾重にも絡みつく、禍々しさすら感じるその『意志』に、思わずカイリが連想したもの――。
それは、大きく鎌首をもたげ、惜しげもなく毒牙を剥き出しにする大蛇だった。