1.変わる世界
我々はそもそもの大前提から間違っているのではないか。
死とは真に必然のものなのか。死とは真に喪失なのか。
記録も残らぬ遙かな昔、何者かに言い含められたことを、
我々はただ無邪気に信じ込んでいるだけではないのか。
我々が本来持つ、『悠久』の可能性に――。
無意識の枷をはめているだけではないのか。
〈R・ウェルズ 『新世生命論』〉
*
「あ……先生! 先生が、僕を助けてくれたんでしょ?」
北欧ノルウェーのオスロ市救急病院の医師、トルヴァルト・ボルクマンは、先日手術をした少年の様子を見に行くや、ベッドの上の当の本人に、出し抜けにそう指を指された。
「正解だ。けれど、良く分かったね? 君が目を覚ましているときには会ってないはずなんだけどな」
「お母さんが、おっっっきな先生だ、って言ってたから。すぐ分かったよ!」
「ああ……やっぱりそれか」
両手を目一杯広げる少年を前に、ボルクマンはおどけた調子で肩をすくめる。
……幼い頃より、同年代の子供より頭一つ大きかった彼は、今でも同僚の中では一番背が高い。
世界的な記録に残るほどではないが、それでも2メートルを超えるとなると、外見的特徴として、それを真っ先に挙げられるのは避けられなかった。
「お話で読んだ、〈巨人〉みたい!」
「おっと、それだけ元気なら、検査する必要もなさそうだ」
苦笑混じりに言いながら、ボルクマンは今にもベッドを飛び出しそうな少年の身体を、てきぱきと検査していく。
――〈巨人〉か。
やるべき仕事をこなしながら、ボルクマンは懐かしい想いに捕らわれていた。
『へえ、出身はリレハンメルの方?
ははは、じゃあまさしくキミは〈巨人の居所〉から来た〈巨人〉というわけだ』
オスロ大学で同期だった、風変わりな友人が初対面のときに見せた、屈託ない笑顔が脳裏を過ぎる。
自分がスカンジナビア有数の山岳地であるヨトゥンヘイメンの近郊で生まれ育ったのは確かだが、そうまではっきりと身体的特徴と併せてからかわれたのは初めてだったので、いささか頭に来て……そのときは、まさか在学中、一番親しい友人になるなどとは夢にも思わなかった同級生。
――今は、どこでどうしているのだろうな。
研究者として将来を嘱望されていたその友人はしかし、卒業して十年もしないうちに、学会を始め、その分野の表舞台から姿を消していた。追放されたとも聞く。
以後、そこからのさらに十年というもの、最も親しかったはずの彼でさえ、その行方は杳として知れなかった。
「……そうだ。ねえ先生、先生はどうしてお医者さんになったの?」
検査を終え、懐かしい思い出の余韻と戯れながら、少し少年と雑談をしていたボルクマンは、そんな無邪気な問いかけに、またはっとさせられた。
「別に、面白い理由はないさ。人を助けたかったからだよ」
この手の質問は今までにも何度もされてきたことなので、ボルクマンは迷うこともなくすらすらといつも通りの答えを返す。
実際、それは、少なくとも言葉の上では嘘ではないので、疑われることもなければ、自身が罪悪感を覚えることもない。
そして、気にかかることもないはずだった――かつての友人の思い出が、そこに噛み合ってくることがなければ。
『なるほど、そうかも知れない。そう、確かにキミは人を助けたいんだ……ただしその人のためでなく、キミ自身のために。
ああ、僕には分かるよ。
キミはね、ヨトゥン……人を〈助けてやりたい〉んだ』
ボルクマンが心の奥底にしまっていた、彼自身ですら、自覚しながらもはっきりと形に出来なかった本音――それを一瞬で看破したのは、後にも先にもその友人だけだった。
そんなことも思い出したからだろう、ボルクマンは少年が側に置いていた飲みかけのオレンジジュースを手に取ると、「昔、私の友達が言っていたことなんだけどね」と言いながら、窓辺に歩み寄った。
そして、ジュースの容器を、窓辺に置かれた透明な花瓶の上で傾け、ほんの少し、中の水へとこぼして見せた。
花瓶の水が、わずかに、本当にわずかなだけ濁る。
「ごらん。オレンジジュースは水に溶けたね? けれど、消えたってわけじゃない。花瓶の水がもっと多ければ濁りも分からなくなるだろうけど、それでもやっぱり、消えて無くなったりするわけじゃないんだ。……このことは分かるかな?」
「うん。すっごく薄くなった……小さくなったってことだよね?」
「その通り。……じゃあ、この花瓶の中の水を川だとしよう。
川はやがて海に流れ込み、世界中に広がって、そのうち、今度は雨になって地面に降り注ぐ。そして、その雨がまた川になる。溶けた小さな小さなオレンジジュースも、その中で、もっと小さく散り散りになっていく。それでも、世界から消えてしまうわけじゃない。
さて……それじゃあ問題だ。
そんな散り散りになったジュースが、こぼしたのとまったく同じジュースが、偶然にまた一つの場所に集まって、元通りになる……そんなことがあると思うかな?」
ボルクマンの問いに、少年は快活に笑った。
「そんなことあるわけないよ。お水は僕らだって飲んだりするんだから、僕らの身体の中に入っちゃってたりするかも知れないし。世界はすっごく広いんだし。絶対ムリだよ!」
断言する少年に、ボルクマンも笑顔で頷く。が、
「そうだね、私もそう思う。けれど――だ」
そう言って、医師は目を細め、窓の向こうの朝日を見上げた。
「私の友達が言うには、その集まったオレンジジュースなんだそうだよ……私は」
*
田舎、というほどに田舎ではないが、都市部、というにも何かと物足りない――。
そんな、一種絶妙なバランスの上に乗った街が、ここ、伏磐市だった。
都心にもそれなりに近いので、主要駅近くの街並みや道路は綺麗に整備されているが、逆に言えばそれだけで、繁華街としてはいまいち中身が乏しく、高校生ともなれば多くの場合、買い物に遊びにと、電車やバスを使ってより都心寄りの街へ足を伸ばすことになる。
六時はとっくに過ぎていたが、未だしぶとく地平の縁にしがみついて赤く燃える夕日の中、仕事帰りらしい人々や他の学生に混じって駅を出てきた、伊崎彰人と霧山結衣の二人もまた、そうして伏磐の外での用事を終えて戻ってきた人間の一部だった。
「もう九月だってのに、この暑さは何とかならねえのかよ、ったく」
駅の近くで貰ったものだろう、焼き肉店の広告が印刷されたうちわで扇ぎながら、忌々しげに彰人は夕日を睨み付ける。
「ちょっとはマシになったと思うけどね。まあ、あと一ヶ月はガマンしないと」
にこやかに応じながら、彰人と並んで歩く結衣。
二人が向かう先は、駅近くの大通りに面したバス停だった。
「……それにしても、今日はホントにありがとね。お陰さまで、考えてたのよりも良いのが買えちゃった」
結衣は、学生カバン以外にもう一つ持っていた、どことなく高級感のある小さな紙袋を持ち上げて礼を言う。
中身は、彼女が父の誕生日プレゼントにと買い求めたネクタイだった。
「いや、俺もいいヒマ潰しになったし、いいんだけどよ……俺なんかの意見が本当に役に立ったのか? 自慢じゃねーが、センスとかそんな自信ないぞ、俺」
「むしろセンス自慢の方が厄介だよ。お父さんのネクタイなんだから、あんまり若々しいデザインの選ばれても困るもん」
「……お前、それ、暗に俺がオッサンだって言ってるか?
おーおー、そりゃカイリみたいなのに比べりゃ、俺なんて図体はデカいし、高校生のわりに顔も老けてるオッサンだろうけどなー」
「スネないスネない、冗談だってば」
屈託なく笑いながら結衣は、バス停側の植え込みの縁に腰掛けた彰人に続き、その隣りに座り込む。
「そういえば、カイリ君が家に一人きりのときは、伊崎家で一緒に晩ご飯を――っていうの、もうどれぐらい続いてるの?」
「ん? そうさなあ……あんまし詳しく覚えちゃいないが……カイリが宮司さんのところに来て、ちょっとは経ってからだろうから……まあ、五、六年にはなるだろうな。
あ〜、なんなら結衣、今日、お前も来るか? 知っての通り、ウチは親いねえから遠慮する必要もねえし、お前なら姉貴も大歓迎だろうし」
彰人の提案に、結衣は苦笑混じりに首を振る。
「ありがと。でも遠慮します。ナナ先輩の料理はすごく魅力的だけど……でも、やっぱりまだちょっと、幼馴染み水入らずの輪の中には入りづらいから」
「ンなこと、いちいち気にしなくていいんだがなあ……」
呆れたように言いながら、彰人は自身のポケットの振動に気付いたのだろう。スマートフォンを取り出し、着信が姉の七海であることを確認して電話に出る。
「――ああ、姉貴? ちゃんと待ってるって。そう、バス停の後ろ、階段の植え込みのところ……って、なに、見えたって?
あ〜、じゃああのバスか……」
スマートフォンを耳元に当てたまま立ち上がり、道路の方へと首を伸ばす彰人。
その視線を追って結衣も目を向けると、逆方向からサイレンを鳴らして駆けてくる救急車のために、一台の路線バスが交差点に入る前に停車しようと、スピードを落としているところだった。
「ああ、バスは見えたよ。
――姉貴たち? この距離で見えるかよ、俺は姉貴みたいな自然児めいた異常な視力してねえからな……って、いいよバカ、手ェなんか振るなよ、ガキじゃあるまいし、まったく小っ恥ずかし――」
口調とは裏腹に、穏やかなはにかみ笑いを浮かべていた彰人。
しかし――その笑みは。言葉は。……一瞬にして凍り付いた。
鉄の塊がぶつかり合う、激しく凄まじい轟音がしたはずだった。
だが、あまりの出来事に、それは遠く離れた別世界の事のように実感は薄く――。
脳が、すべての情報を整理し、事態を正しく理解したのは……一瞬とも一分ともつかない、奇妙に澱んでまとわり付く、刹那の時間のあとだった。
――バスは、周囲の車も巻き込んで吹き飛ばした挙げ句、道路の中央で止まっていた。
空いた車線を駆け抜けると思われた救急車が、突然蛇行し――猛スピードのまま、バスに正面から突っ込んだのだ。
「――ッ! 姉貴! カイリっ!」
その場にいた誰もが、予想だにしない事態に、まさしく言葉を失っていた。
そしてほんのわずか、その一瞬の静寂の後、揺り返しのように狂騒が巻き起こるその先陣を切って、彰人はバスに向かって駆け出していた。
――事故現場は、遠目からの想像以上に凄惨を極めていた。
交通量はさほどに多くなかったが、それでも巻き込まれた車は一台や二台ではすまなかった。さらに、ひしゃげた車内からかろうじて這い出てきたり、自転車やバイクとともに倒れ伏している人間の数ともなると、もはや十指にも余るほどだ。
彰人とて、博愛主義というほどではないものの、一般的な道徳心と多少なりと強い正義感を持つ少年だ。場合が場合なら、とにかく手近なところから、一人でも多くの人を助けようと尽力したことだろう。
しかし、今の彼にそんな余裕などあるはずもなかった。
一部の車は火を噴いたりさえしている、そんな状況の危険さも目に入らないとばかり、残骸を飛び越えたり迂回したりしながら、必死に、ただひたすらバスを目指す。
「姉貴! カイリっ!」
出せる限りの声量を絞り出して呼びかけながら、巻き込まれた後続車が支えになっているらしく、何とか横倒しにはならずにいるものの、見るも無惨な姿で道路の中央にたたずむバスへと近付く彰人。
衝突の凄まじさそのままに、車の原型などまるで留めないほどひしゃげた前部は、当然ドアも潰れていたが、何とかくぐり抜けるだけの空間は確保出来そうだと、ドアの成れの果てを無理矢理引き剥がし、車内へと足を踏み入れる。
そうして、彼はすぐに気付いた。
もともと乗客が少なかったのか、想像よりもがらんとしたバスの最後尾、こういうときばかりは目立つのが有り難い、見慣れた真白い髪が、射し込む夕日の中で煌めくのを。
「カイリ、大丈夫か! 姉貴は――!」
一も二も無く、うずくまる幼馴染みの下へ駆け寄る彰人。
そして――彼は見た。見てしまった。
燃えるような夕日よりも、ことさら視界を赤く染め抜く、その光景を。
大きく変わりゆく世界、その始まりを。
彼自身の、この先の人生の変遷――その切っかけとなるものを。