5.金砂の海に惑う
――地平線に沈みゆく夕陽に向かい、見渡す限り、どこまでも拡がる金砂の海。
日中ともなれば時として50℃を超える酷暑は、斜陽とともに、一転して極寒の月夜へと急激な移ろいを見せる。
しかし、フード付きの外套を頭からすっぽりと被り、一人漂うカイリの白い肌には、そもそも汗一滴の名残すらない。そして、このまま夜を迎えたところで凍えることもないだろう。
砂漠の過酷な環境下、三昼夜はずっと歩き詰めのはずだが、疲労など欠片も感じない歩み……。
彼がそれを留め、言葉通りに燃えるような夕陽を――その炎に照らされた、どこまでも波打つ金色の砂丘を――ふと、改めてゆっくりと見回したのは……本当にただの気まぐれだった。
そうしてたたずむ彼を追い抜くように、一陣の風が吹き通る。
目には見えないそれを、金色に染め上げるようにさらわれていく砂塵が、足下に広がる波の形をも移ろわせていた。
少しずつ、少しずつ――あるものは小さく、あるものは大きく。
……アフリカ大陸北部を占める、世界最大規模の砂漠は、あらゆる生命を拒絶しているかのように冷厳と無機的でありながら、カイリはそれ自体がどこか、生命めいたものに感じた。
この光景そのものが、一つの感情の発露のように見えたのだ。
「地球も生きている、か……」
当たり前と言えば当たり前のようなことが、ぽろりと口から零れ出る。
だが、今まさに彼の胸に去来したのは、その言葉から繋がる、世間一般の認識とはいささか違った『理解』だった。
彼が感じたのは――厳密には違うのかも知れないが――言うなれば、『親近感』と呼ぶものに近い感情だったのだ。
数多の生命を育む母なる星――そんな漠然としたものではなく。
たとえれば一人の人間のような、そこに確かに在る一個の生命として……。
その〈存在〉を、ごく身近なものに感じたのだ。
それは、
人が人を見れば、すぐに同胞と理解出来るように――。
見知らぬ土地でたった一人いて、同じ境遇の人間に出会えば、無意識に覚える安堵のような――。
……そんな『親近感』だ。
「確かに僕は……。でも……」
自分を『人間』と呼ぶのは、もう語弊があるのかも知れない。
だが、ともかく所詮は一個の小さな〈存在〉でしかない自分が、この大自然を――引いてはこの星を、まるで同列のように感じるのはさすがにおこがましいと、カイリは小さく首を振った。
「……いのち……か」
止めていた足を動かして、カイリはさっきから何度も頭の中で繰り返されていた単語を口の中でつぶやく。
――人類発祥の地とも言われる大陸から、人間の歴史をたどっていけば……どこかで、自分の身に起きた異変についての手掛かりが見つかるかも知れない――。
かつて、ヨトゥンの勧めで日本を出て十年。
そんな考えを差し当たっての目的の一つに、渡航先だったロシア東部の小さな港町から同国内を西へ横断し、東ヨーロッパ諸国の中を南下してトルコから中東へ……そしてエジプトから足を踏み入れたのが、この地アフリカだった。
その道程の十年を振り返ってみれば……ヨトゥンが、生き方を模索する自分に、世界を見るよう勧めたのも納得だとカイリは思った。
道中、基本的には人と接触しないよう心がけてきたカイリだったが、隠棲するわけでもない以上、当然人との関わりは持たざるを得ない。
その中で彼が触れてきたのは、まさに、人間という存在の様々な一面だった。
幼少の頃の体験から、特に人の醜い面については、一般的な同年代の人間よりもよっぽど多くを見ていたはずだが、それでも、人間とはまだこんな顔を持っているのかと、驚かされることしきりだった。
そして、それは悪い面ばかりではない。
人にだまされたり、襲われたりするときもあったが……逆に助けられたり、親切にされることも決して少なくはなかった。
そのうちに、カイリには改めて気付いたことがあった。
それは――幼少、〈生き神様〉と奉られていた頃の記憶に起因するものだろうが――自分が、人というものを本質的に恐れ嫌っていたのだ、という事実だった。
悪意のままに、彼をいじめたりからかったりする人間にはもちろん苦手意識があったが、それだけではなかったのだ。
――そう言えば……ナナ姉のことも、初めて会ったときはイヤだと思ったっけ……。
今でも鮮明に、その姿を脳裏に描き出せる少女。
彼女の笑顔とともに思い出せるのは、初めて会ったときに言われた言葉だ。
『キミ、きれいだね。すごくきれい。神サマかと思っちゃった!』
神社という場所、そして新たな養い親となった宮司の手伝いのため、たまたま白装束を着ていたせいもあるのだろう。
満面の笑顔とともに、幼い七海が彼に言ったのは、そんな一言だった。
無論それは悪意などない、子供らしい純粋な賞賛をそのまま口にしただけだ。
しかし――つい先日まで、〈白鳥神党〉で神の化身を騙らせられ、罪悪感から心に傷を負っていた彼にとって、神と表現されるのは、苦痛以外の何ものでもなかった。
それだけではない。
七海の笑顔、その生き生きとした輝きは、世界すべてに負い目を感じていたと言っても過言ではない当時の彼にとって、とても見ていられないほどまぶしいものだったのだ。
だが――七海のまぶしさは、まさに『光』だった。
彼女を忌避する自分に、それでも寄り添ってくれた。
暗がりから連れ出し、行く道を照らしてくれた。
顔を上げ、前を向くことを教えてくれた――。
……そうして、真っ当に生きていけるようになったから。
だから、もう人というものを恐れたり、嫌ったりはしていないのだと思っていた。
だが――そうした暗い感情の根は、心から完全に抜き去られていたわけではなかったらしい。
あるいは、屍喰となる前に抱いていた、大切な人たちと穏やかに過ごしたいという願い……それも、裏返せば、それ以外の人間は拒絶したいという望みの表れだったのだろう。
しかし――この十年という時間の果て。
今では、そんな自分の無意識下にあった人間への悪感情が、やわらいでいるようにカイリには感じられていた。
ようやく、溝を踏み越え、歩み寄れたように思えた。
文化も風土もまるで違う、多くの人と出会うことで……良い面も悪い面も引っくるめての、人間という存在そのものへの愛おしみを、ようやく抱けるようになったと。
それはあるいは、自分が人間でなくなったからこそ至れた心境なのかも知れない。
そして、だからこそ――自分の方は人ではないという事実が、より大きく、重く、のしかかるのだ。
「……僕は、いったい……何なんだ。何であればいいんだ……?」
人という生命にようやく近付きながら、人でないという隔絶。
人という生命を慈しもうにも、畏怖と忌避の対象でしかないという齟齬。
――この矛盾の中に、どう生きる道を見出すのか――。
果てなく続くこの金砂の海のように、彼の答えは未だ、見えそうになかった。