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屍喰神楽 ~シニカミカグラ~  作者: 八刀皿 日音
二章 灯が消えるまで
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3.屍喰たち


 ――聖なる河ガンジスとともにあるインドの古都、ワーラーナシー……ヒンドゥー教徒たちが毎日何万人と巡礼に訪れてきた、数千年の歴史を持つ聖地だ。

 そしてそれは、〈その日〉を経た今も、大きく様変わりはしていない。

 さすがに、最盛期に比べてはるかに数は減ったものの……大河ガンジスに沐浴しようとこの街を訪れる人間は、未だ途絶えることはなかった。街を逃げ出した住民と入れ替わったかのように、至る所に生屍(イカバネ)がたむろしているにもかかわらず――である。

 いや……あるいは世界がこんな状況だからこそ、罪が清められ、輪廻より解放されるという恩恵を求めて、方々から人がやって来るのかも知れない。


 完全に放棄されるわけでもなく、聖地という特殊性から、安易に〈冥界〉として隔離することも出来ない古都。


 ――死者と生者が共存する。まるで、あの世とこの世の境界線だな――。


 ガンジスの川岸に沿って多く連なる階段状の沐浴場(ガート)……その段の一つに腰掛けた若者は、膝で頬杖を突きながらそんなことを考え、どことなく気怠げにため息を吐く。

「いや……境界線って言うなら、今や世界そのものがそうか。

 曖昧になっちまって、あっちとこっちの区別なんて無いようなモンだ」

 そんな彼はもう数日こうしていたが、その間、沐浴に来る人間が途絶えたためしはない。

 今も、数人の老人が、若者の脇を抜けて、夜明けの薄霞漂う大河へと降りていったところだ。

「……退屈だな」

 溜め込んでいた感情を、若者はいよいよはっきり口に出す。


 この世とあの世がない交ぜになったような今の世界は、まるで神話の時代に巻き戻ったかのようだ。

 しかし、だとすれば……。

 絶対の力を持つ神というのは、何て退屈なものなのか――。


 一見すると、この国のどこにでも居そうな一人の若者でしかない彼。

 今も風景に溶け込み、何ら目を引くことのない彼は――かつて〈アートマン〉と呼ばれ、恐れられた殺人鬼だった。

 そう――かつては、だ。

 この数年というもの、彼はただの一人も人を殺めていなかった。

 しかしそれは、これまでの己の行いを省み、改心したからというわけではない。

 死刑の際も、その後、屍喰(シニカミ)として蘇生してからも……。

 彼は、己の罪を悔いたことなど一度としてない。

 彼が人を手に掛けなくなった理由はただ一つ――そこに、高揚感が無くなったからだ。

 これまで人を殺す理由など考えもしなかった彼だが、屍喰となって数年、その人外の圧倒的な力で暴威を振るううち、はたと気付いてしまう。


 ――ただ殺せればいいというわけではなかったのだ、と。


 他でもない、人間という『同じ存在』の命を引き裂くからこそ――その禁忌の中に自己の確立を感じるからこそ、抗い難い愉悦を得られたのだ。

 しかし屍喰として、文字通り人を超越した力を得てしまうと、殺人など、アリを踏み潰すよりも容易な、ただの作業でしかない。

 あるいはそうした行為にこそ愉しみを覚える者もいるのかも知れないが、彼はそうではなかった。

 たちまち、人を殺すことに飽きてしまった。退屈してしまった。


 銃弾すらたやすく見切り、受けたところで傷も負わず、老いもしない不死の体――。

 鋼鉄すら紙のように切り裂き砕き、走れば車も軽く抜き去り、見上げるばかりの大樹も安易に飛び越えられる、超人的な力――。


 それらを得たとき、初めはまさに神のごとき力だと、優越感に狂喜した。

 しかし今では、あるいはこれこそが、罪を重ねに重ねた己への罰というものなのかも知れない、とすら思っている。

 唯一にして至高の快楽を喪ってしまえば、この力も、退屈の中に永遠を生きろと押し付けられているようなものだ。


 ――なら、それこそが、地獄ってやつなんじゃないか……?


 特に意識もせず、もう一度大きなため息を吐き出したとき……。

 彼の耳は、周囲で会話する声の中から、一つの単語を拾い上げた。

 ――〈神の化身(アヴァターラ)〉。

 弾かれたように顔を上げ、彼はそちらへ注意を向ける。

 声のもとは、沐浴場を見下ろす位置でたむろし、会話する老人たちのようだった。

「……ああ、ありゃ、そうに違いねえ。俺ゃ、この間までトルコの息子夫婦のところに厄介になってたんだが……」

 聞き耳を立てれば、老人の一人が、先日トルコで生屍の群れに襲われて危機に瀕したところを、一人の少年に助けられたことを語っているのが分かった。


 ……人間離れした力を振るう、透き通るように美しく白い髪と肌に、赤い瞳のあの少年は、〈神の化身〉に違いないと。


 話を聞いていた〈アートマン〉は、胸の内に、久しく忘れていた感覚が首をもたげ始めるのを感じていた。

 ふつふつと、沸き上がるその感覚のままに、口角も持ち上がり、自然と笑みを形作る。


 ――いた。いたじゃないか、殺すに値する存在が。


 すっくと立ち上がった彼は、愛想の良い笑顔をそのままに、老人たちに近付いた。


 ……そうだ、神に等しい力を得たのなら――。


「やあ、悪いけど爺さん、今の話、もっと詳しく教えてくれねえか?」


 ――殺せばいいのだ。人や生屍などではなく……。


 同じ、神のごとき者を。




             *


「ああ、いや、結構。ありがとう」

 客室乗務員のサービスの申し出を穏やかに断ると、ヨトゥンは――。

 彼の体格にはやや窮屈な、エコノミークラスの座席に改めて深く背を預け、窓の外へと視線を向けた。


 空から見る景色は、見渡す限り、幾色もの青に染め抜かれていた。

 空の濃淡と、海の明暗、それぞれ同じものでありながら、数え切れないほどの表情を見せる、数多の青に。


 それは、ともすれば何の変哲もない、退屈な光景かも知れない。

 事実、かつて仕事で空路を利用したとき、同じようなものは幾度となく見てきていた。

 しかし……。

 それにもかかわらず、ヨトゥンはその光景を、ただ、美しいと感じていた。

 何の因果か、人間を超越した存在となりながらも、かつてのように。


 ――いや。だからこそ……なのか。


 ヨトゥンは内心首を振る。

 人ではなく、むしろこの世界そのものにより近しい存在となった今だからこそ――ことさらそれを美しく感じるのかも知れない、と。


 ――しかし、ここに人間という存在が混じり合ったとき、果たしてどうなるか――。


 ちらりと、機内に視線を移す。

 そこには、目的地までの時間を思い思いに使う、老若男女の姿がある。

 これが社会の縮図だ、とまでは言わないが、その一角であることは間違いないだろう。

 ……人は、獣との違いとして、知恵を持った。ゆえにその知恵を磨き、より純粋な別個の存在たる『人』として進化を遂げてきたはずだ。

 しかしそれにもかかわらず、ヨトゥンの目には、現代の人間はむしろ、獣にこそ近付いているように見えていた。

 ――進化の先の退化。

 それは、停滞どころか、ただの退化よりも性質(タチ)が悪い。戻る先は元の獣でもなく……より凶悪で手に負えない『何か』だろうからだ。

 そして、人によっては、それを醜悪と捉えるだろう。

 世界の美しい調和を汚す、この星の害悪そのものだと。

 だが……ヨトゥンはそうは思わなかった。

 人間とて、疑いようもなくこの星の一部ではあるからだ。調和の一端ではあるからだ。

 ただ――。

 その、進化の先の退化――それが、そうならざるをえない、人の本質というものであるならば……それがただ、ひたすらに憐れに思えた。


 ――するとあるいは、〈その日〉の異変は、人類そのものにとっては僥倖だったのかも知れん……。


 思索に耽りながら、ヨトゥンは上着の内ポケットからメモ帳を取り出す。

 ……いかに不老不死を得ようとも、生屍のような状態が、人の進化、新しい姿だとは思えない。

 では、自分たち屍喰はどうかと言えば、進化は進化なのだろうが、しかし人の本来辿るべき道からは外れていると感じる。

 突然変異で系統樹から分化したか、あるいはそもそも――友人の言の通り、生前から『人』とは違う系統にいたのか……どちらなのかは定かでないが。


 ――ともかく、これまでは緩やかに破滅を辿るかのようだった人類の行く末に、あの異変が一石を投じたことは間違いないだろう……。


 今でこそ、これまでのいわゆる『人間らしい』歴史、生活を守ってはいるが、死の在り方を――絶対の真理と思われたものを、根底から覆したその一石の波紋が、このまま消えゆくはずもない。


 ――人間はきっと、この先大きく変化していく。

 それはしかし……悪い方へ、なのかも知れないが。


 ヨトゥンはメモ帳のページを手繰る。

 走り書きされているのは、彼が追いかけ続けてきた〈友人〉の足跡に関するものだ。


 ――いや。それも含めて、〈必然〉だと言うのかな……ロアルド、お前は。


 メモを閉じ、再び機外へ目を向ける。

 屍喰となり、人を超越しながらも、未だに――。

 かの友人だけが見ていた景色は、見えそうになかった。





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