2.追い続けて
「んん〜、終わったあ……」
ローテーブルに置いたノートパソコンのキーを、最後に一度、景気よく叩くと――。
霧山結衣は、全身を伸ばしてごろりとカーペットに寝転がった。
「ふー……」
ちらりと、その状態から壁掛け時計に目を遣れば、既に日付は変わっていた。
……頼まれていた原稿は仕上がったんだし、このまま寝てしまえ――。
脳裏をかすめるそんな甘い誘惑を、結衣は頭を振って何とか追いやる。
そして、のそのそと起き上がってキッチンに向かうと、小さな冷蔵庫から出したコーラの缶を片手に、テーブルへ戻ってくる。
結衣は酒が嫌いでも飲めないわけでもなかったが、酔って思考や判断が鈍るのが嫌で、基本的には飲まないことにしていた。
「……さて――と」
さっきまで使っていた仕事用のノートパソコンを閉じると、脇に置いていたもう一台、プライベート用の赤いパソコンを引き寄せ、電源を入れた。
それが起ち上がるのを待つ間、コーラを開け、一息に三分の一ほどを喉の奥へ流し込んだ結衣は、ふー、と大きく息を吐き出しつつ、部屋をぐるりと見回す。
……内装そのものは、このマンションで一人暮らしをすると決まったとき、時間をかけて調えたので、いかにも女性らしい、暖色系に彩られた柔らかな雰囲気を、まだ何とか保ってはいる。
だが……綺麗か、と問われれば、まず彼女自身がそう思えなかった。
もともとは掃除はマメにする方だったのだが、ジャーナリストとしての仕事に追われるうち手が回らなくなり、いつしか部屋の中は、様々な資料が所構わず散乱する事態に陥っていたのだ。
最低限、本当のゴミだけはきちんと処理することで、雑然とはしていても、汚いという状態にまで堕ちずに踏み止まっていることだけが、彼女なりの、最後の矜持の表れと言える。
「婚期って、こうやって逃げていくのかなー……」
ふとつぶやく彼女の視線が止まった先には、今朝方届いた、高校の同級生の結婚を報告する葉書があった。
「ま、コレがビールじゃないだけマシ――なのかね」
コーラをもう一口含み、結衣は自虐的に笑う。
……結婚がどうとか、そういう話は本気でどうでもいいくせに、と。
そう――。
未だに、たった一つの想いを追いかけ続けているくせに、と。
「……まったく」
とっくに起ち上がって待機状態にあるパソコンを、感傷を振り払うように素早く操作して結衣は、仕事を通して知り合った人物や友人からのメールの確認から始めて、国の内外どころかアンダーグラウンドなものまで含めた、様々な情報サイトをチェックして回る。
……それは、〈その日〉を生き延び、生活が落ち着いた頃から、彼女が欠かさず繰り返してきた日課だ。
もちろん、学生の頃は今ほどディープかつ幅広く手を広げることは出来なかったが、しかし、追い求めているもの自体は変わらない。
それは――〈屍喰〉と、そして、白髪に紅い瞳の少年についての情報だ。
さすがに十年も経つと、当初は都市伝説のように囁かれるばかりだった屍喰も、実在が認知され始めていた。
だが、生屍と異なり、基本的に意思の疎通が可能だということは、社会に溶け込めばそれと判断するのが極めて難しいということでもあり、その正確な絶対数などは明らかになっていない。
ただ、カタスグループが創設した〈黄泉軍〉や各国の軍隊が、人が死んだ直後、その処理を行うことが世界的に正式に法律で定められ始め……遺族の意志にかかわらず、介入した彼らが正確な統計を取り始めてからというもの、『生屍と明らかに異なる存在』として起き上がった事例は世界でわずか二例だけだというから、その数が圧倒的に少ないだろうことは想像に難くない。
しかも、その二例とも、捕獲はもちろん制止することさえ出来ずに逃げられており、『彼ら』の実態を掴む手掛かりには何らなっていないことになる。
そして、彼ら屍喰という存在に対する世間の反応は、概ね否定的だ。
生屍しか喰らわないようだとは言われているが、生きている人間も殺されてしまえば結局同じなのであり……そもそも人間を食用とし、支配するために、死ぬと生屍になってしまう病気か何かをばらまいたのだと、元凶のように語られることも多い。
人類を救う救世主だとか、現人類を超越した超人類だなどと支持する声もないではないが、比べればこちらは実に少数派だ。
そして、正体不明なのだから、恐れられるのも当然と言えば当然なのだろうが、そうした風潮を生む切っ掛けとなった人物がいる。
誰が呼んだか、〈アートマン〉の通称を持つ、インドの無差別殺人鬼がそれだ。
およそ十年前、死刑と同時に処理され、〈冥界〉へ隔離されるはずだった彼はしかし、生屍とは違う存在として起き上がり、満を持して通常の倍配置されていた兵士の銃撃をものともせず、刑務所中の人間ばかりか近隣の住民まで、思うがままに虐殺し、喰らい、そして逃亡したという。
以来、その行方は知れず、彼によるものと思しき被害も出ていないが、生き残った人間の手で撮影された動画や監視カメラの映像は、これまであやふやだった屍喰という存在の実在を世界に知らしめるとともに、その第一印象としての恐怖を人々に刷り込んだのだ。
そうしたことがあり、世間的にも危険視されているのが理由かは分からないが、屍喰の情報といえば、たまたま生屍を捕食する様を見かけたという目撃談や、焦点が合わずはっきりとしない写真や動画が出るばかりで、屍喰当人が表に出てきたことはない。
いや、鮮明な映像が出回ったりしたこともあるが、それらはすべて、嘘や捏造でしかなかった。
だから結衣は、同時に、〈白髪の少年〉の情報も探していた。
こちらはこちらで、白髪の少年が世界にカイリ一人しかいないわけでもなし、また、生屍と違い歳を重ねている可能性もあるのだから、やはり雲を掴むような話ではあった。
だが、白子ゆえのその髪や肌の白さと赤い瞳が、息を呑むような神秘性となっているカイリの独特の雰囲気は、他とは一線を画して目立つはずだと、結衣は考えていたのだ。
だが、結果は芳しいものではなかった。
とある目撃情報から、どうやら日本を出たらしい――ということまでは掴めていた。
ただ、それ以後は、街中の監視カメラにちらりとそれらしい人物が映っていたりする程度のあやふやなものばかりで、かろうじて足跡らしきものは追えるものの、それすらどれほどの信憑性があるかも分からず……結果として、確かな消息はようとして知れない、というのが現実だったのだ。
そんな中で――。
十年前、カイリに助けられたという、とある一家の目撃談だけは、疑いようのない確実なものとして、記録にも、結衣の記憶にも残っていた。
「〈白鳥神党〉……か」
その目撃談のことを思い出し、ふと口を衝いて出た言葉は、結衣自身思いもしないほどの苛立ちが籠もっていた。
――白鳥神党。
それは、二十年近く前、北海道を拠点に勢力を広げていた、新興の宗教集団だ。
数々の奇跡を謳い文句に、多くの信者を獲得していた彼らは、その名の通り、白鳥に神性を見出す教義を掲げていた。そして、その御旗に据えられていたのが、幼き日のカイリだったのだ。
当然、奇跡などはでっち上げであり、後日、信者の親族の訴えなどによって、詐欺や脅迫といった暗黒面が露わになると、指導者らは逮捕され、団体も解散となった。以来、表立った活動など出来るはずもなく、そのまま風化していくと思われたのだが……。
「…………」
結衣はしかめ面で、軽やかにキーボードを操作する。
新しくディスプレイに映ったのは、その〈白鳥神党〉の名を堂々と掲げるサイトだった。
……マインドコントロールの効果というのは、一度定着するとなかなか消えるものではないという。そのせいなのか、白鳥神党の解散後も、同団体とその教義を信じ続けていた人間は少なからずいたようだった。
そして――あろうことか、十年前にカイリに助けられたというのは、そんな、未だに白鳥神党に心が囚われたままの一家族だったのだ。
しかし、だからこそと言うべきか――もとは同団体の〈生き神様〉だったカイリを見間違えたり勘違いしたりするはずもなく、目撃談の信憑性を高める結果となっていた。
加えて、他の誰でもない結衣自身が、数年前、当の本人たちに取材し、その目で、その耳で、真贋のほどを確認したのだから間違いはない。
――ともかく、カイリに関わる、確実な情報が得られたことは幸運ではあった。
カイリが、殺人鬼のような存在に成り果てず、少なくともその時点では人の心を保っていたと分かったことも。
だが――同時にこれは、不運でもあった。
彼が接触してしまった人間がまずかったのだ。
未だ神党の教義を――そして御旗であるカイリを盲信している人間が、紛う方なき奇跡そのものの、人間離れした力を振るうカイリと再会したこと――。
それは、日常生活に戻ったはずのかつての白鳥神党の信者を、もう一度まとめ上げるこれ以上ない基礎となってしまった。
しかも、カイリを新時代の救世主として崇める彼らの新たな教義は、生屍の存在に怯え、今の世に不安を抱える、これまでは神党と関わりの無かった多くの人々をも虜にし、着々と新しい信者を増やしているという。こうして、堂々とサイトまで開いている辺りが、その何よりの証拠だ。
幼いカイリを利用し、散々に悪事に手を染めていた……カイリの当時の養い親でもあった以前の指導者は、未だ獄中のため今の神党には加わっておらず、少なくとも今のところは信者を食い物にして私欲を満たすような犯罪行為はしていない。だがそれでも、彼らが勢力を増すことは、結衣にとって不快極まりなかった。
その理由としては、どう繕おうとも、かつてカイリに、罪悪感という消せない負い目を刻みつけた組織だから、というものがまず一つ。
そしてもう一つは――。
生き神であれ、救世主であれ……彼女にとって大切な友人で想い人でもある人間を、人でない〈何か〉として位置付けようとしていることだった。
人としてもう一度会い、叶うなら人に戻してあげたいと願う――そんな彼女の想いを嘲笑うかのように。
「……ハズレ、か」
もしかすると彼らなら、その組織力で何か新しい手掛かりを掴んでいるのでは――と、苛立ちを抑えて白鳥神党絡みの情報を追ってみるが、彼らも手を尽くして捜しはすれど、カイリのことは、未だ痕跡も見つけられずにいるようだった。
落胆し、今日はもうこのぐらいにして寝てしまおうかと思ったそのとき――。
ディスプレイに、メールの新着を告げるサインが表示された。
明日でいいか、と思いつつ……条件反射でメールボックスを開く結衣。
「あ〜……アイツかあ」
届いたメールは、海外の知人からのものだった。
英語で綴られた文面は、今度日本に行ったときはソバの美味い店を紹介してくれ、という他愛のないものから始まって……。
君の探しているものとは違うが、面白いものを見つけたと、一つのファイルが添付されていた。
その送信者は、生物学の研究者に広い人脈をもつものの、無類の冗談好きでもあったので、これも何かバカげた編集動画の類だろうと、結衣はため息混じりに開いてみる。
しかし案に相違して、それはどうやら論文らしい文書データだった。
まさか、つまらないことを延々と、さも論文のように書き連ねているだけじゃないだろうか……などと疑いつつ、斜め読みの気分で、頬杖を突きつつ英文を眼で追う結衣。
しかし――。
「え……ちょっと、これ、って……」
やがて、そんなつぶやきとともに彼女は、一転して身を乗り出し、真剣極まりない眼差しをディスプレイに向けていた。
付随されていた送信者の注釈によれば、その論文は何十年も前に書かれたものだが、あまりに突拍子もない内容から、まったく顧みられることがなかったという。
それもそのはず――その内容は、見ようによっては、生屍、そして屍喰の出現を示唆するようなものだったのだ。〈その日〉以前なら、単なる行き過ぎた妄想と、一笑に付されてもおかしくはないだろう。
そして、このファイルを送ってきた結衣の知人も、この論文自体を一種の冗談と取っているらしい。
執筆者が、当時オスロ大学の学生で、のち、学会から追放されたという経歴の持ち主であることから、必要以上に悪感情を持たれているという被害妄想からの逆襲のつもりか、自分の出来の悪さを隠すつもりか……はたまたそれこそ壮大なジョークとして、こんなとんでもない説をぶち上げたのだろうと推測している。
たしかに、論文を細部まで見ると、とても科学的とは言い難い、まるで卜占か神託のようなものになっていて――この論文だけを読んだのなら、結衣も知人と同じような感想を抱いたかも知れない。
しかし――。
知人の注釈にある、この論文の執筆者のデータが。
知人同様に結衣も、これは学生の冗談だと切り捨てることを許さなかった。
『――彼はきっと、世界を変える』
――それは高校生の頃、〈その日〉より少し前のことだった。
カイリが熱中症で倒れたと聞いて急いで向かった病院……そのロビーですれ違った西洋人の独り言が、鮮明に結衣の脳裏に甦る。
英語で、しかも囁くような声でしかなかったが……結衣は不思議とそれを聞き取り、そして覚えていた。
それは、今日、このときのためだったのかも知れない――。
その西洋人が、倒れていたカイリに応急処置を施し、病院へ運んでくれた当の本人だと聞いたのは、そのすぐ後、カイリの病室でのことだ。
ただ、付き添っていた宮司もカイリも、恩人の名前までは聞いていなかった。そうする間もなく、立ち去っていたのだという。
――ロアルド・ルーベク。
論文執筆者として添えられた画像データの青年。
それは、年齢の違いこそあれ――。
あの日、あの時。結衣が病院ですれ違った人物に、間違いなかった。