宮城沖大地震
夕食は広いダイニンングで、サトのお気に入りだというテレビのバラエティ番組を見ながら始まった。シズがおみやげ代わりに駅で買ってきた仙台牛のすき焼きである。トオルはサトとシズの間の少し下がったところでちょこんとイスに掛けている。
「トオル君。テレビ面白いかい」
マスオが箸を運びながら聞いた。
「わかりません」
「あ、そう。じゃ、詰まらないよね」
「詰まらないことはありません」
「あ、そう。面白くも詰まらなくもないか。悟りを開いているみたいだな」
マスオがもっともらしく肯くのを、色々な言い方があるものだと思いながらシズは聞いていた。
「めしは食わないんだ」
「はい」
「でも料理は上手なのよ。お祖母ちゃんもなにか好きなものがあったらいってみて」
シズがいった。
「お煮染めは作れるかい?」
サトが聞いた。
「できます。お母さんに教わりました」
ほう。
ミキとマスオが感嘆の声をあげた。
「レシピの通りに作るだけです。お母さんのお煮染めも自分でレシピを造りました。でも僕は味覚はあります。歯も舌も機能します」
トオルはそういって口をあけて見せた。
皆がはっと息を飲む気配がシズにはおかしかった。口の奥に歯車やチューブなどが見えたら怖いと思ったのだろう。しかしトオルのそれは人間の子どもの口と少しも変わらない。歯並びがきれい過ぎるのが違うといえば違う。それだけである。
口見せも信頼を得るためなのね。テイクノートしておこう。プッシュ。
「体に悪いものとかおいしくないものを、お父さんにあげないようにしませんと」
「ああ、それはそうだわねえ」
ミキが大きくうなずいた。
「お風呂は?」
「入ります」
「洗剤があるの。トオル専用の」
「中性洗剤だよね」
マスオがビールで染まった赤い顔で肯いた。
そういえば、トオルは指輪のことをなんにも聞かない。シズは毎日服を替えるのだが、トオルもなにもいわない。むろんトオルの前では着替えをしないのだが・・・
(いい洋服です。お似合いですね)
これをいえないから洋服のことはいわないのか。じゃ指輪と同じことか?
金華山沖、東方二十キロ、深度十キロの比較的浅いところで起きたこの日の地震は、マグニチュード七・五という3.11に次ぐ巨大なものだった。沿岸部では震度六、仙台市内でもところによっては五強を記録した。
菊田家は夕食とテレビでにぎわっていた。いつもは中年夫婦と老人がひとりという、やや枯れかかったメンバーの食事だったが、今日は若いシズとロボが加わったために食卓にも華やぎがある。ミキがヒロに訴えたような雰囲気は少しもなかった。
「あのね。なんといっても実の母娘だからね。大丈夫なんだ」
ふたりの様子を見るシズの目にマスオは気がついたらしい。シズに小声でそういってくれた。なかなかどうして察しがいい男のようである。
午後六時五十一分。
突然、トオルが立ち上がった。
「地震がきます。大きいです」
そういいながらサトの手から箸を抜きとると、車イスごとテーブルから離した。
え、なに?
テレビの画面に砂嵐のようなノイズが現れ、シズは囂という地鳴りを聞いた。
トオルは卓上IHを切断、有無をいわせずに鍋をキッチンに持ち去る。そこまでの時間がおよそ五秒である。とって返して車イスを押さえた瞬間、家がきしみ、卓上の小皿が一斉にふっとんだ。
「立たないでください」
うわわあ!
みんなが一斉に悲鳴をあげた。せっかくトオルが注意したのにシズはイスから立ってしまい、同じく立ち上がってしまったマスオともつれて箸を手にしたまま床に倒れてしまった。壁際の大きな食器棚の食器やグラスが音を立てて滑り、一部はラッチ機構が緩んでいた扉を押し開いて飛び出し、鋭い音をたてて床で割れた破片をまいた。
「テーブルの下に入ってください。ガラスの破片に注意!」
トオルが叫び、サトを抱きかかえて下に入れた。揺れは大きく、シズはもう駄目だ死ぬとまで思った。テーブルの下で皆サトに折り重なるようにして恐怖に震えた。
「また大きな揺れが来ます。五、四、三、二、一」
まるでトオルが呼び寄せでもしたかのように再び大きな揺れがきた。二階でどどどんという象でものたうち回っているような重い音が何度かした。洋服ダンスでも倒れたのだろう。頭上の吊り照明が大きく揺れているせいで周囲の影がおどろに揺れる。
「いたたた」
「お祖母ちゃん。大丈夫」
シズが必死で叫んだ。
「ミキ。足、足をどけて。わたしの顔に当たってるよ」
トオルはテーブルに手を置いて体を支えテーブルを上から押さえ、耳を澄ますような表情で天井をじっとみつめている。
「まだ出ないでください。またきます。五、四・・・」
「トオルは大丈夫なの」
「僕は大丈夫です。二、」
一の声ともにまた揺れがきてテレビが音を立てて台から落ちた。
「今の何の音?」
ミキが聞いた。
「テレビだよ」
意外に落ち着いた声でサトがいった。
「トオル。3.11なみ?」
「ちがいます。震源地、金華山沖、二十キロ、マグニチュード七・五、津波警報が沿岸に発令」
トオルがそう叫んだ。テレビかラジオの電波をキャッチして語っているのだ。
「各地の震度、六が気仙沼、石巻、塩竃、六弱が多賀城、仙台市東部、一関、五強が大崎市古川・・・・石巻に火災発生、仙台市宮城区および泉区に火災発生、・・・津波の第一波はすでに到着、気仙沼大島で高さ九十センチ、住民は大至急避難してください。繰り返します・・・・。茨城、栃木では震度四・・・埼玉、東京では震度三ないし二。叔父さん、マスオ叔父さん」
マスオの返事がない。
「シズ姉さん。叔父さんの呼吸音がおかしいです。落ちたテレビが頭に当たって失神しているようです。転んだ時に足も痛めたかもしれません。今のうちに庭に出ましょう。ぼくは先ず叔父さんを運び、次ぎにお祖母ちゃんを運びます。叔母さんは救急箱と懐中電灯をお願いします。救急箱は本棚の一番下の段。懐中電灯は玄関の靴箱の横の壁にあります。シズ姉さんは、そこの座布団とソファにある毛布を全部庭に出して敷いてください。皆さんは玄関から履き物を履いて出て、今度家の中に入るときにはそのままで上がるようにしてください。それから、南側の生垣を破ってどこかの車が入ってきてます」
トオルは人間の思考能力が麻痺している内に矢継ぎ早に戦場の小隊長のような大きな声で指示を出し、自らは一秒の無駄もなく行動した。
凄い。最高のプレゼンテーションになったわ。あ、モニターに私、どう映ったかしら。さっき熱いお豆腐をべろっと吐き出してしまってみんなに笑われたけど、トオルは私の真後ろだったから映ってないわよね。
サザンカと大きなトキワサンザシに挟まれた冬枯れの草むらの上にシズが毛布を敷くと、トオルはマスオとサトを運んできて、それぞれに別の毛布を掛けた。雪が積もっていないのがありがたい。
マスオの頭に手を当てていたトオルがいった。
「叔父さんは脳震盪を起こしただけです。ミキ叔母さん。叔父さんの頭の右横から出血しています。消毒液をかけて包帯をきつく巻いてください」
「あらあ、消毒液がないわ。焼酎が台所にあるけど。それじゃ駄目?」
ミキが聞いた。
「それでいいです」
「じゃ、取ってくるわ」
「ガラスで滑らないように足もとに注意してくださいね。また揺れが来るときは僕が声を掛けます。そうしたらすぐに飛び出してきてください」
「どうして来る前にわかるの?」
「沿岸の地震計の記録がリアルタイムでネット上に公開されてます。同じ震源地ならここに揺れが来る八秒前にはわかります。もしもし、お父さんですか。トオルです。テレビみてますか? そちらはどうですか・・・よかったですね。こちらは叔父さんが少し怪我をしたのでこれから病院にいってきます。シズ姉さん、お祖母ちゃん、ミキ叔母さんは無事です。お母さんにもそう伝えてください。では、いったん切ります」
ミキが焼酎瓶を持ってサンダルの音をがたがたいわせながら出てきた。シズは手当を手伝ってやった。
「叔母さん、トシオ君とシュン君にも報告しますか」
「あ、忘れてたわ。テレビ見てたら心配してるわね。トオルちゃん、やってくれる。ええと電話番号は、どこだっけ」
「僕が知ってます・・・もしもし、菊田トシオさんでしょうか。今起きている宮城県の地震のことを知ってますか・・・では、お知らせします。仙台の菊田さんご一家はみなさんご無事です。僕は内山トオル。内山シズさんと一緒に今日から木下のお宅にお邪魔してます・・・はい、そうです。ええ、家の中は少しやられたようですが皆さんはご無事です。シュンさんにはトシオさんからこの旨を連絡していただけますか・・・いいえ、どういたしまして。よろしくお願いします。では失礼します」
「まあ、何から何までありがとうね」
「どういたしまして。お祖母ちゃん、寒いでしょうが、もう少し我慢してください。腕時計ちょっと貸してください」
トオルはそういうと手品師のような器用さでサトの手首から腕時計を外し、サザンカの下をくぐって垣根の方に走っていった。
「トオル、どこに行くの。あ、そういえばさっき車がどうのといったわね」
シズが後を追った。かなり寒いはずなのだが今は感じない。
外は意外と静かだが、それでも遠くから救急車らしいピーポの音がいくつか聞こえる。暮れかかった空が不気味に赤いが、どこかで火事が発生したのかもしれない。
なるほど白いセダンが分厚いカナメモチの生け垣を突き破って頭から入っていた。エンジンは停まっているが、ライトがまだ点いたままだ。トオルが運転席のドアを開くと、白っぽいセータを着た二十歳ほどの小柄な女が額に手を当てながら出てきた。トオルはその手首に素早く時計を巻いた。女はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。弾んでハンドル取られてしまって」
言葉が少しもつれて聞こえる。心身のショックが大きかったのだろう。
「いいのよ。こんな時だから。それより大丈夫? あら、額を打ったのね。少し血が滲んでいるわ。トオル、どう?」
「はい。大丈夫のようです。軽い貧血だと思います」
トオルがそういった途端に女はふらりと倒れそうになった。間髪を入れずにトオルがうしろからすいと抱き上げた。
女は自分を抱き上げてくれたのが、最初にかけつけてくれた子どもだとは思わなかったようである。
「ここで休んでお茶を飲んでてください」
家の中からの明かりが注ぐ毛布の上におろされ、それがその子どもだとわかると丸い目が更に丸くなった。
「この子はうちのロボよ。安心して。あなた、お名前は?」
「塩谷ミミコです」
「おうちはどこ? 連絡したい人いますか、携帯は混んでて繋がりませんから番号をいってくれれば、こちらで連絡してあげます」
「叔母さん、ガーゼをいれてもう少し強めに巻いてください」
トオルは夫の手当をするミキに声をかけ、女の子の腕から外した腕時計を今度はマスオの腕に巻いた。
「血圧が少し高くなってます。脈拍も少し増えてます」
「あんたあ。しっかりしてよ」
「マスオさん、マスオさん」
サトも声を掛けた。
「トオル、救急車を呼んで」
「救急車は呼んでもきません。病院に運びます。稲田医院が近いですね」
「駄目駄目、稲田さんは血圧が高くなったといって大学病院に入院したから」
「それじゃ、長谷川診療所はどうでしょう」
「なんでも知ってるのね。ああ、あそこならいいわ。外科もやるし。でもちょっと遠いわね」
「お姉さん、車で行きましょう。叔父さんの車のキーわかりますか」
「あ、キーね。はいはい」
ミキががさがさとマスオのポケットのあちこちに手をつっこんだ。
「さっき、玄関の鏡の下のフックに吊しました」
「あ、そうよ。あそこよ。見てくるわ」
「叔母さん。少し待ってください。また大きな揺れが来ます」
その言葉がおわると同時に足が掬われるような揺れがきた。サザンカがざわざわと枝を揺らし隣の家の瓦かスレートかが、がらがらと滑り落ちる音がし、同時に、わあ、という悲鳴が隣家の垣根越しに聞こえた。
「今なら大丈夫です」
ミキは急いで中に入った。幸い停電にはなってない。しかしミキは直ぐには出てこなかった。
「ねえ、ミキまだなの。ほんとうにぐずなんだから。マスオさんが死んじゃうよ」
サトが険しい声で叫んだ。
「お祖母ちゃん。落ち着いて。おじ様は大丈夫よ」
ミキがもどってきた。目が吊り上がっている。
「駄目。見つからないわ。上の鏡が割れて落ちてるから、その時に外れて落ちたんだわ」
「あの、よければわたしの車使ってください。鍵は入ってますから」
ミミコがいった。
「あ、それじゃ。悪いけどお借りしますね。わたしが運転するわ。トオル、叔父様を運べる?」
「はい。運べます」
シズが車に向かうと、トオルはマスオを掬うように抱き上げてついてきて、ミミコが開けてくれた後部座席に巧みに滑り込ませた。ミキとミミコも心配そうにみている。
「叔母様、叔父様は私たちに任せてお祖母ちゃんを看ててちょうだい。でも、ここじゃ寒いから、ガラスに気をつけて中に入ればどう? 叔母様、お祖母ちゃんをおんぶできますよね。トオル、いいんでしょう、もう」
「大丈夫だと思います。中に入ったら車いすに乗せてください」
「わかったわ」
「塩谷さん。あなたも一緒に行って手当を受けた方がいいのじゃない」
「あ、いえ、私はもう大丈夫ですから。ここで待たせてもらいます。あの、家に連絡してくれてありがとう」
ミミコは、車内にしゃがんでマスオを支えているトオルにぎこちなく頭を下げた。
「いいえ。どういたしまして」
「トオル、道はわかるのよね」
「はい。わかります。お姉さん。真っ直ぐバックして車道に出たら直進三百メートルで左に曲がってください。今、うしろオーライです」




