サトおばあちゃん
菊田家は仙台市若林区木下にある。藩政の時代からの地所だったそうで、これまでに何度か公道の拡幅などで削られたが、首都圏に住む人間なら腰を抜かすほど広い。
長女のヒロが東京の私大を卒業しても仙台にはもどりたがらず、そのうちに埼玉人の空也と結婚するといいだしたため、次女のミキが婿養子を迎えて家を継ぐことになった。
婿となったマスオはミキの高校時代の同級生だったそうで県庁勤務の公務員である。姉妹そろって地方公務員と結婚したわけだが、おかげでなにかと比較される。
ヒロにいわせると、マスオは覇気がない人だというのだが空也はそうはみてない。
(マスオさん、いいじゃないか。ああいう人、なかなかいないよ。人間の暖かさというものを俺は感じるな)
実際、マスオは舅、姑とはまことによい人間関係を結んだようである。
三百坪は優にある敷地は手入れもひと苦労だとみえ、庭には自由勝手に草木が生え繁っている。南の端に近所の人から目印にされる樹齢百年ほどのケヤキが二本そびえているが、あとはサザンカ、キンモクセイ、トキワサンザシなど、人間でいえば中肉中背のものが多い。
西のブロック塀に沿って、かつて祖父が鶏を飼っていたという大きな鶏小屋があるが今は物置となっていて、前面の金網には蜘蛛の巣が真綿のように貼り付いている。家屋は十数年前に建て直した総二階のパネルハウスで建坪は五十坪に近い。
マスオ、ミキ夫婦には息子がふたり。長男のトシオは山形の大学生、次男のシュンは高校を卒業して航空自衛隊に入り、今は千歳にいる。
一方シズには六人のいとこがいる。トシオ、シュン、空也の八歳年上の姉内山テイの息子リョウ、娘アキ。空也の弟タケルの息子サンタ、娘マリ。
シズとトオルが案内された二階の洋室は一年前まではシュンが使っていた部屋だったそうで、その当時のままにしてあるというのだが要は誰も片づけないということだろう。いかにも男子高校生が住んでいたらしい部屋で、壁や天井には水着の胸をこれ見よがしに突きだしたアイドルの写真が張ってあり、部屋の隅には古いCDや妖しげな表紙の雑誌が山のように積まれていた。
(うっへえ。シュンというのはこういう趣味の坊やだったのか)
普通ですよ(筆者)。
「トオルちゃん。ここ、掃除機かけようね」
シズの「ようね」は、共同作業の呼びかけではなく依頼である。トオルにはむろんわかっている。
「はい。すぐに掃除します」
「それからパソコンをネットに繋ごうね」
これも同じである。
シズは机の上のチリを払って資料とパソコンを置いた。
トオルは自分の持ってきた大きな鞄をあけ、まずカメをだした。
(カメちゃん。窮屈だったかい)
トオルがそういうかと思い、シズは少し緊張したがそうはいわなかった。
「カメちゃんも頑張ってね」
代わりにシズが声をかけてやり、トオルの顔を盗み見ると少し微笑んだようにみえた。むろんシズの感覚でしかないのだが、富田からは「あなたの感覚」があればこその頼みなのだとウマイことをいわれていた。右手の指輪に力をこめる。プッシュ、テイクノート。
「トオルちゃん。富田先生からは最近なにか連絡がある? お父さんにでも」
「いえ、電話はありません」
トオルは鞄の底から出した小さな無線機器をPCに取り付けながら返事をした。
「小野さんからは?」
「小野さんからは昨日ありました」
「そう。なんて?」
「気をつけて行っておいでっていってました」
「私が一緒だということもいった?」
あ、すでにわかっているな。
「はい。いいました」
なんかいってた、といいかけたが止めた。その時のトオルの表情になにかしらテイクノートすべきことを感じた気がしたのだが、それは形を結ばなかったが、一応、指輪をソフト気味に押した。
「シズ姉さん。叔母さんから掃除機を借りてきます」
カメちゃんは二階に残った。
祖母サトは昔から多分に我が儘なところがあって、若い時分には夫をだいぶ悩ませたそうである。しかし娘たちが成人したころから穏やかな気風に変身したのだそうだが、車イスの生活が始まるとブリかえし、思うに任せないことがあると、ミキを罵るという。しかしそれを嘆くミキもまた甘やかされて育っている。
と、これはシズの母ヒロのいうところである。
(なにしろ堪え性のない母子だから)
しかし、とシズは考える。
介護となればなんといっても介護する方が辛い。
(なぜ、わたしが?)
ミキにそう正面切って尋ねられたら、だれがどう納得させてあげられるのだろう。
損得などを持ち出せばミキにはわからない。介護を職業とする者なら、それに見合う報酬がある、が家族の場合にはない。
ではなぜか。
ひとつは孝心とか縁であろう。母がよく用いる心の「タガ」も考えてみる必要がありそうだ。誰もがいう愛は過渡に期待しない方がいい。愛を無限であるとするのは現実的ではなく、実際、肉体が疲弊すると愛は次第に小さくまたは変形する。
ミキの案内でシズとトオルは家の中を見て回った。古い家であるだけに物が多い。部屋の中だけではなく階段の踊り場にも廊下にもスペースがあれば必ず何かが積まれている。
トオルは空也の住むアパートとヒロ、シズの実家以外はほとんど知らない。そのせいだろうがゆっくりと観察している。ゆっくりといっても観察の仕方が丁寧だからそう思えるだけで、トオルは、「ほほう。これはこれは」などと爺臭いことはいわないし、「あ、いいものみっけ」などと子どものように戦闘機の模型を摘みあげたりも、もちろんしない。
「叔母様。これは誰の?」
代わりにシズがうるさい。父に似てきちんとしているのが好きなシズは、このていたらくに少し腹を立てていた。
「アルバムかい? みんなお祖父ちゃんのよ。学校の先生というのは写真が多いのサ。今とちがってみんな焼き増して配ったからね。中には焼き増して配らないでしまったものもあるのよ」
それをまだ持ってるってか。
シズが力任せに一冊、分厚いのを引き抜くと、数十枚の写真が音を立てて滑り落ちた。
「シズ姉さん。お祖母ちゃん、携帯を置いていってますね」
トオルがカメをおぶって下から上がってきた。キチンの掃除の手伝いを終えたようである。
「おじ様が一緒だからでしょう」
シズは早くもPCに向かって指を動かしている。
「心配なの?」
「いえ。でも、早くこの時計をしてくれるといいんですが」
トオルはポケットから大きめの腕時計を出しながらそういった。空也の予備のものを借りてきたのである。
トオルの顔が案じ顔にみえる。ロボの顔には人間の細分された筋肉とほぼ等しいだけの構成が有り、それを作動させる基本ソフトもある。ただしそれをドライブするところが未開発なのだと父、空也は言っていた。
しかし、今、シズの見るところ、トオルの顔のそれは明らかに案じ顔である。
テイクノートだわね、プッシュ。
案じ顔が作れることには驚かない。しかしなぜ案じるのか。それともサブマスターのわたし向けのオモネリか。ちがうわよね。そっちの方はもっと高級だわ。
「トオル。何が心配なの」
「このままでは役目が果たせませんからなるべく早く渡したいのです」
「なるほどね」
は、そういうことか。でも、一応、プッシュ。疑わしきはテイクノートしよう。
その時庭先に車の入ってくる音がした。
「あら、噂をすればなんとかよ。お祖母ちゃんが帰ってきたわ。トオル。行ってみよう」
「はい」
トオルも立ち上がった。シズはその顔をみた。人間なら緊張するとか勇むとかの表情が現れるところだ。だが、それらしい変化は現れなかった。




