ミキおばさん
晴れてはいるが窓から見た関東の空はいかにも三月の空らしくうすい青だ。そんな空を見上げて空也は落ち着かない。子どもを遠出させた心配ではなく、いつもいる母親がいないという落ち着かなさであった。
空也は昔から万事に不器用で身の回りのことは、独身時代は八歳年上の姉に、結婚してからは妻任せだった。整理整頓されているのが好きで清潔が異常なまでに好きという、かたや片付けるのが不得手で掃除もまた不得手て、ハタの人間にはこの上なく厄介な男だった。
一人暮らしを始めると身辺の雑事にたちまち音を上げ、シズの勧めで思い切ってロボを購入したのだが、すべてのタイプを含めても全国にロボがまだ数百体に達してない早い時期だった。
それが昨年の五月でそれから十ヶ月たつ。今ではトオルが居ないと息をするのがせいぜいという男になっており、つまるところ車イスに頼るサトと変わらない。
ま、たまにはトオルにも息抜きをさせてやらんとな。
と、初めは、自分が書く時代小説に登場する大店のあるじのような鷹揚な気分でいたのが、ものの半日も経たないうちに、長すぎたな、と空の米櫃と煮物がこびりついた割れ鍋を見て吐息をつく傘張り浪人に成り下がっていた。
寒いと思ったら暖房のスイッチが入っていない。
パソコンに向かって〆切が迫っている連載小説を書き上げようとしても、いつもならさっさと出てくる熱く濃いコーヒーがない。さっきまな板にこぼしたままになっているミルクの始末も気になる。
これらはいつもなら、なにもいわなくてトオルがさっさとやってくれることで、第一、トオルならミルクをこぼしたりしないのだ。
やれやれ・・・しまったな。
妻のヒロに電話しようと思って手を伸ばしたが止めた。お前の実家にやったのだから、その間だけはこちらに来て俺の面倒をみろと言おうかと思ったのだが、どうせトオルのようにモクモクサクサクとはいかず、挙げ句は一時間もたたないうちに喧嘩になる。
決まっているんだ。
口論になるのは、少なくても半分は自分の無能に原因があるのだが、それを頑なに押しやって舌打ちしたとたん、ピーピーと電話の音が鳴った。空也はこれがまた嫌いである。いつもは消音してフラッシュに変えているのだが、トオルのいない今、眠っている時にかかってきたら困ると思い、出がけにトオルに切り替えさせていた。
――もしもし、内山さんのお宅でしょうか。
あ、あ。
「おお、トオルか。今どこだ」
空也は声を弾ませた。
――はい。トオルです。三分前に菊田さんのお宅に着いたところです。
「そうか。もう着いたか。早いな。そっちはどうだ。寒いだろう」
――こちらの玄関前で四度でした。シズ姉さんは寒いといってます。
「それじゃ寒いな。雪は?」
――日陰に少しありました。汚れていますから古い雪のようです。お父さん。少し熱がありますね。
「え、本当か。今朝、お前が出ていくときには何でもなかったんだがな。だろう?」
――はい。今から四十分前に上がりました。
「そうか。どうすればいいかな。いわれてみれば少し寒気がするし体もだるい」
――エアコンの温度を4に、湿度を7にセットして下さい。まずはそれをしてください。
「ああ」
空也はいわれたとおり、4,7にした。
「やったよ」
「はい。それから生姜湯を一杯飲んでください」
「生姜湯? ああ、あれか。でもそれってどこにある」
――キチンの緑色の蓋つきグラスに粉末をいれて置いてあります。そこから見えるとおもいますが、見えますか?
「あ、うん。見える」
――それにお湯を注いで、そばのスプーンで五回ほど掻き回してから飲んでください。
「そうか。どうりで仕事が捗らないと思ったんだ」
空也はすべてを熱のせいにして、安堵し、心も落ち着いた。
――三十分ほどで効果が感じられると思います。何か他にご用はありませんか。
「あ・・・うーん、今のところはないな」
本当は、いつ帰ってくるのかと聞きたかったのだが、先方に着いたばかりというトオルにさすがにそうはいえなかった。菊田家の誰かがそばで聞いているだろうし。
――そうですか。では、お母さんにはお父さんから連絡してください。
「あ、そうする」
――では、またこちらから電話します。お父さんは腕時計を外さないようにしてくださいね。シズ姉さんに代わりますか?
「いいよ。それじゃ、そちらのお宅にもよろしくな。あ、そうだ東北に近いうちに大きな地震があると、だれかがいってたな。気をつけてお帰り」
――ありがとうございます。
トオルが、では切ります、というと、ミキは感に堪えないという口調でいった。
「凄いわねえ。これじゃ姉さんは用無しでしょう?」
「そうなのよ、叔母様」
「体の中に無線機が入っているわけ?」
「無線機っていえばまあそうだけど、要はスマホよ。性能は市販の物よりずっといいらしいんだけど」
「口にも耳にもなにも当ててないから、なんだか独り言をいってるみたいでヘンよね」
「本当は声は外に出さないでもできるのよ。でも、お父さんがそうさせているの。傍に人がいるときはかえって失礼だからって」
ふうん、なるほどねえ・・・
ミキはその意味を考えたが、結局わからなかったようである。
「ねえ、いきなり聞いて悪いけど」
ミキはそういきなりいい、それから、本人(?)の前だと気がついて心持ちトーンを下げた。むろん、対トオル的にはまったく意味がない。
「いくらしたの。あれ、広告に出ている金額ではわからないのよね」
ミキがいみじくもいうとおりである。
製作販売を独占するソミック社はロボの標準価格を公表している。しかし但し書きにも書いてあることだが、たいていの場合、実際の引き渡し価格はそれよりは高めになるといわれている。
なぜならばバイオ樹脂で構成されるボディはその生成にBOS(Body Operating System)との相性があり、できあがりに、特に体の働きに大きな差異をもたらすからである。製作者としてみれば要は出来不出来で、実際出荷されずに不合格品として処分されるものも少なくないという。
ソミック社では企業秘密としてその詳細を明らかにしないのだが早耳のネット掲示板には、そのあたりの機微がまことしやかに載っている。ソミック社が意図的にリークしているといわれるほど、それは穿ったものだった。一方、ソミック社は否定してない。
主流の説は――他にも多くの異説があるが――、合格品は-5~-1、0、+1~+5 にグレード分けされ、それごとに受け渡し価格が異なる。そして同一個体に多数の希望者が集まった場合は抽選あるいはオークションで決まるというものである。更に加えて、現実の製品は、+5どころか+4すらも滅多に出ないのだという補足情報もあった。
空也は購入者だからそのあたりは知っているはずなのだが、シズが聞いてみたところでは、掲示板でいうような数字的なグレイドは聞いてないそうである。空也が語るトオルを入手した経緯は次のようなものだった。
まず基本体(顔や声は標準仕様)が二十体提示され、購入希望者が面接する。その段階でのロボには、最早機能上の出来不出来の差は無い、というのがソミック側の言い分だが、購入して一緒に暮らすことになる買い主からみればちがう。ちょっとした仕草や目の配り、対話の応答の自然さなどにかなり個体差がある、と空也は見た。そして、ある個体と出会ったら、「ぴったりと来て」もうそのロボしか考えられなくなったという。自身は不器用なくせに人様のアラにはひと一倍目が利く空也だった。
ただし、そのA500010号は空也ひとりがそうみたのではなく、その面接に参加した十人ほどの購入予定者のほとんどが注目したという。
(抽選でもオークションでもなく入札だった。俺は、それ以外のロボだと後にひきそうでね、お母さんには内緒だよ、思い切って張り込んだ。けど駄目だと思ってたな。お前も名前を知ってる億万長者がやはり札を入れたからね。ところがどういうわけか俺に落ちた。嬉しかったなあ。あとでその億万長者が、あんたいくらと書いたんだ、と口惜しそうに聞いてきたが教えなかったよ。公表するなといわれていたしね)
シズは金の問題じゃないかも、と思ってる。空也自身もまた思っている。
「高級自動車三台分としかいわないわ」
「それじゃ、一千五百万円くらいかしらね。いいわねえ、稼ぎのあるお父さんで」
「菊田の叔父様だってあるじゃない」
「作家としがない公務員じゃ、雲泥の差。月とスッポンよ」
おほほほ。まさかあ。
「父だってずっと地方公務員だったのよ。それに菊田のおじ様はまだお若いし、なんといっても叔母様は資産家でしょう?」
ここよね。肝心なところは。
「あら、シズちゃん。いうわね。姉さんにどう聞かされているかしらないけど、資産といったってたいしたことないのよ」
「そおお?」
七年前に死亡したシズの祖父、つまりヒロとミキの父親は、四十年勤続した小学校の教師だった。ふたりの娘への教育費は惜しまなかったが、自らは貯蓄が趣味かのように質素に生き、代々の土地を守っただけではなく、かなりの貯蓄も残してくれた。子孫にとってはまことにありがたい先代である。
それを妻のサトとふたりの娘が相続をしたのだが、ミキが家を継いでサトの面倒をみてるということでヒロはわずかな取り分でよしとした。
(それなのにミキったら、お父さんが作家として名前が知られるようになったら、それでさえも多すぎたなんてことをいうのだから。あれはね、きっと母が亡くなったときの布石のつもりなんだよ)
ヒロは娘にそういい、トオルを連れていく役を回したのである。
法律家が(まだ卵だが)相手なら妹夫婦も阿漕なことはいうまい。出来ればガツンと釘を打ってきて欲しいと。
冗談めかしてはいたが母親はなかなか本気だとシズはみた。それをばかばかしいと思う一方で、ドラマに出てくるような陰湿な空気が、もしあるのならだが、それはそれで「人間洞察力」を磨くにはいい経験になるのじゃないか。三月は大学院も春休みだし、そう思って、仙台行きを承知したのである。
「そこなのよ。シズちゃん。なんの芸もなくずっと公務員のままのうちの人とはそこで差がついたのよ」
しかしそれは空也の才能と努力であり収入は結果なのである。だがミキは現実に収入の差があるのだということを、先ずこの敵方の代理人に認識させておきたいようである。
「それはともかく」
シズは古典的な常套句を用いて話を強引にもどした。
「介護タイプのロボならお祖母ちゃんが対象者として認定されるから色々と他の条件もあるけど、最高で四割ほどは国が負担してくれるはずよ」
「それは知ってるわ。じゃ、一千万円ってところかしら」
「九百万ね」
シズもしぶとい。
「ねえ、トオル君、そうなの」
姪を少し怪しんだらしい。ミキはトオルに水を向けた。
「僕はわかりません」
「あらあ、あんたにもわからないことがあるの」
ミキは、あんたたちグルなのね、と、顎を引いた目でトオルをみた。
「叔母様。トオルはいうなといわれているのかもしれないわ」
「あら、誰から」
「もちろん、父からよ。この子への絶対の命令者だから。本当に知らないのかもしれないけど」
「あらそう。義兄さんのいうことが絶対なのかあ」
「法律に背くことでない限りはね」
「あ、それはそうよね。泥棒しろとか命令したら困るもの。でも指紋がないんでしょう。捕まらないわよね。あ、はははは」
お、ほほほほ。
シズも笑った。思考回路のよく似た姉妹のようである。この分では明後日あたりまではトオルに付き添っていなくてはなるまい。
もっとも、ここでなら父の干渉なしにトオルの頭脳をフルに使えるから元は取れるというものだ。携帯してきたパソコンにはゼミの教授から出された課題がびっしりと詰まっている。判例の検索などトオルはお手の物だ。
「でも、シズちゃん。ますます美人になったわね。ここいらにはいないわよ」
「あらあ、お上手なのね」
「誰に似たのかしら。姉さんとはちがうし、義兄さん? まさかね」
おほほほ。まさかってのはナイじゃない?
「シズ姉さん。お祖母ちゃんにご挨拶をしたいです」
トオルが心なしか遠慮がちにふたりの会話に割り込んだ。
「あ、そうよね。でもね、今はいないの。うちの人がドライブに連れていったの。シズちゃんたちが来るって知って親孝行なところをみせたいのじゃない」
根は正直で善良な叔母である。
「叔母様。わたしとトオルの部屋はどこをお借りできますか」
「あ、二階の八畳よ。うちの自衛隊が使っていた部屋だけど。どれ、行ってみようか。今日は朝から暖房入れてるからね」




