5
◇
一緒にクレープを食べながら、僕らは青空を見上げていた。
二人で一緒にベンチで、遊園地を回った疲れを癒す。
あれから、僕らはいろいろなところを回った。彼女はメリーゴーランドを何度も乗りたがった。空中ブランコで、はしゃいでいた。名前がよくわからない、いろんなアトラクションをやった。絶叫系はがんとして拒んだ。
「生きてる」と彼女は再確認するように呟く。疲れ切った声音。
「もしかしてなんだけど、『死んじゃうちゃん』って遊園地初めて?」
「うん、親が忙しくて、一回も来たことなかったんだ」
「へえ、珍しいね。だいたい一回はみんな来たことあるのに」
「まあ、ね」
彼女は医者の娘。確かに、大病院の院長である父を持つと、忙しさで家族で旅行などは難しいように思える。けれど、休みを取れないわけではないはずだ。
……僕には関係ない話だ。
「そんなにびっくりしないでよ」と彼女は明るく笑う。
彼女はとてもおいしそうに、クレープを食べる。
「それでも私は恵まれてるんだよ。お金持ちで美人。両親は健在。飢えることなく服を着て、友達だっている」
「自分で自分のこと美人って、普通言う?」
「まあまあ。ともかく、私は思うわけ」
死を宿命づけられた彼女は、気丈に笑って見せる。
「君は、『もうどうせ死んでしまうなら、他人のことは関係ない。どう踏みにじっても、なにも問題はない』って言ってたよね。でも、私はそう思わないの」
「どうして?」
「私は恵まれているから」
だってね、と彼女は言う。
「私は幸せを感じられる人で、人の善意が好きなんだよ。今まで生きてこられたのは、誰かのおかげ。だから、私は誰かに恩返ししないといけない。その誰かって言うのは、私の周りに住んでいる人すべてだよ。私はね、そうやって死にたいなって、思うんだよね」
僕はそうは思わなかった。自分が死んでしまうなら、他人は一切自分に関係がなくなってしまう。そんなものを気にかけても仕方ない、意味がない。意味がないことはしたくない。無駄なことは嫌なのだ。
そんな僕の反論に、彼女は笑った。
「でも私は、自分のことをいい子ちゃんだと思いたいの。自分にある程度満足して、死んでいきたいの。私は、善意を受けると嬉しい。私だって、善意を返したいって、心の底から思うんだよ」
善意の繋がり。誰かが誰かに優しくする。それを受けた誰かは、誰かに優しくしようと思える。そうやって、善意のバトンが繋がっていく。
――私はね、その中にいたいの。本当の本当に、そういうことが大好きなんだよ。尊敬が、憧れがあるんだよ。
「自己満足かもしれない。でも、私はそうやって死んでいきたい。それが、私にとっての誇りだから」
彼女は綺麗に、綺麗事を謳う。それもまた、正しいのだろう、と僕は思う。
しかし、僕はそれを一切認めないだろう。自分とは別の思考だと考え、自分にとって関係ないことだと信じるだろう。
僕の世界は完結していて、つけいる余地がない。余分なものは必要ない。この世に、意味なんてない。
「優しい人は、救われるべきなんです」と彼女は言う。
それは、どこかの物語で呟かれたセリフ
「私にとって、この言葉は真言なの。頑なに、作られた空想を信じてるの。それで、いいんだと思う」
物語の中に死ぬ。それは幻想だって、彼女はわかっている。
でも、彼女にとってそれが真実だ。彼女が信じたものが、彼女の世界にとっての真実なのだ。
似ているようで全く違っている僕ら。
全く違っているようで似ている僕ら。
僕らは世界から断絶されている。
持たざることが個性であり、特権である。
自分が信じたものを信仰し、そのために死んでいく。
◇
僕は彼女のことを少なからず、好ましく思っていたんだろうなと思った。
いや、本来なら好ましく思っていた、と言うほうが正しいのか。
こういうことを考えると、胸が苦しくなる。
それは恋でも何でもない、純粋な嫌悪感だ。
――僕は。
僕は、もう終わってしまった人間だ。
比喩めいたことを言えば、僕という人間はとっくの昔に死んでいる。
『概念色欠乏症』は色の概念のみに影響を与える病気ではない。雲のことを、『机』と認識してしまうことだってある。視界には雲が映るのに、『机』という概念が侵入してくる。
狂人めいた、ごちゃごちゃな思考。
共感覚、という人間固有の感覚がある。それは、音を聞くと味を感じたり、色を見るとなにかに触れた気になる、五感が別の感覚に繋がる、そういうもの。
概念色欠乏症の患者は、おそらく色を伝い、他の感覚に影響を及ぼしてしまっている。
例えばの話、好物は『好物だから』、『おいしく』感じる。しかし、『好物だから』という概念を病が変化させると、『好物だから』だから『おいしい』が、『好物だから』、『まずい』に変換されてしまう。
同じように、『僕が好ましく思う人間』がいるとする。この概念が変質し、『僕が好ましく思う人間』のことを『嫌い』と感じるようになる。
想像できるだろうか? 好物だからという理由で、僕は肉が食べられなくなった。でも、好物でもなんでもない魚は食べられるし、おいしくも感じる。
僕が『好ましく思う人間』を見てしまうと、嫌悪感が溢れるようになった。概念が、変質してしまった。
……こんなバカなこと、想像できるだろうか?
僕の感性は、一部一部が死んでいる。概念の意味がごちゃごちゃになって、狂ってしまっている。
それでも僕がまともな人間を気取れるのは、僕がこの世のすべてに意味を感じていないからだ。『好ましく思う人間』を見てもどうでもいいと強く信じる。それで、僕はその人物に嫌悪感を感じなくなる。
僕はありとあらゆることから自衛をする。
この世の中には意味がない。……もう、死んでしまいたい。
あまりにも苦しい。僕は僕の感性の一切を信じるわけにはいかなくなっている。
僕が『嫌い』と思っているものは、実は『好き』なのかもしれない。僕が見ている『赤』は実は『青』なのかもしれない。
もともとが何色だったかなんて、全部忘れてしまった。
僕は、昔の自分の行動規範に従って行動している。たぶん、これは昔の僕が好きなものだった。だから、好きなものに対する行動を行おう。これは僕が嫌いなものだった。だから嫌いなものに対する行動を行おう。
しばらくはそうやって生きられたけど、疲れてしまった。
今は、せめて僕が好きだったものを憎まないようにと必死なだけだ。
彼女のことを思う。湧き上がるのは嫌悪感。
でも、これは正しい感情じゃない。僕は彼女のことを好ましく思っているから、嫌悪感を持ってしまうのだ。
正しくない。間違っているんだ。彼女のことは嫌いじゃない。
……もう、限界だ。
◇
自分の概念が置き換わっていくのを感じる。
寝て覚めた時、今度はどんな概念が変質してしまっているのだろう?
起きるのが怖い。眠るときも怖い。
僕が『呼吸をする』という概念を忘れたら、どうなってしまうのだろう?
呼吸することを忘れ、ぼくは苦しみながら窒息死するだろう。
……いや、これはまだましだ。
『なにもかもどうでもいい』という思考奪われたら、僕はどうなってしまうのだろう?
僕の考えがいくつも奪われたら、僕は僕でなくなってしまう。
今は必死に、好ましく思う人間を見ても、嫌悪感を隠すことができる。
でも、概念が変質して、こういう行動をとれなくなったら、いったいどうなる?
◇
小学生の頃の自分は自分ではない、と考える人が何人かいる。それは直感的な言い分だ。
子供の頃の自分と、今の自分はあまりにも思考が違う。だから、直感的に、小学生の頃の自分と大人の自分は別人だ、と感じる人は多い。
ガキな自分は自分ではない。頭が悪い自分は自分ではない。昔の欠点だらけの自分を、自分だと認めたくない。もう、今の自分は変わった。アレは別人だ。
そう、人はある一定の変化を迎えると、過去の自分と決別する。自分だと認めなくなる。
思い出は持っている。昔の友人のことを大切に思っている。
けれど、もう自分は『別人』だ、と。
僕は何度も何度も自分のことをそう感じる。昔の僕と今の僕では、概念が変質しすぎている。感受性が、概念が、思想が、もはや別人のそれだ。なのに、なんで別人の思考を受け継いで、躍起になっている?
昔の自分の思考のために、溢れ出す嫌悪感を否定している。そんなのはおかしい。もう、僕は変化したのだ。自分が持っている嫌悪感こそが真実で、それに従うのが当然じゃないか?
――違う、と僕は思う。
僕は、僕は、僕は。
僕は、そんな人間になりたくない。僕は、今の自分がいかに低俗で、どうしようもない人間なのかを知っている。でも、こんなクズを自分だと認めちゃいけない。
いつも世の中を恨んでいて、好ましく思っている人間のを傷つけたがっていて。
今の僕はそういう人間だ。
でも、そんなのは、僕じゃない。
――いいや、今の姿こそが真実のお前の姿だろう?
確かに、そうなのかもしれない。でも、それは嫌なんだ。
それだけは嫌だ。僕は今の自分が嫌いだ。だから、昔の自分を模倣し、思考を受け継ぐ。
今は、今は。
きっと、この思いも、いつしか変質してしまうのだけども。
そうなる前に、僕は死にたい。切実に、そう思うのだ。
◇
一人で泣きたくなる日がある。
誰も助けてくれない。
誰も僕のことを理解しないだろう。
◇
そうして、一か月が過ぎた。今は高三の五月。
僕と彼女はたまに喋るという関係のまま、変化せずにいた。
近況はぼちぼちといったところだろう。しかし、怪訝なこともある。最近、彼女の周りでは人が減り始めた。彼女が進んで一人になっているというより、あまり人が近づかなくなったという表現が正しい。
はっきりとした原因は知らない。しかし、嫌でも聞こえてくる噂話を頼りにするに、彼女の病気のことが関係しているように思える。病気持ちだから、関わりたくない、ぐらいの軽い忌避。今はその程度のことで留まっている。
僕の世界の外では、そんなことが起こってはいた。しかしそれは僕にはまるで関係のないことだった。
今日は日曜日。学校がない、休日。
普段はインドア派の僕だが、今日は雨が降っているのであえて外に出てみることにした。ひねくれていることこそが、僕にとっての美徳だ。
といっても、特にやることもない。外に出たはいいが、目的地がなかったのでコンビニで戦略を練ることにした。
一般的なコンビニ、という外観をしている建物の前に立ち、自動ドアが道を開けるのを待つ。同時に、コンビニの客が店の外にでようとした。
「……あ」
「……あ」
そいつは僕の知り合いだった。僕はそいつを真っすぐに見つめる。
「……不良」
あまりにも小さい呟きは、非難というより感想の一種で、真実そいつの今の姿を表していると言えるだろう。
――鷹野瞬がタバコの箱を片手に、ニヤリと笑った。
「よう。奇遇だな。俺のことはチクってもいいぞ」
そんなことするわけがない。
「なにしてるの」
「ああ、今日雨だろう? 外に出ようと思ってな」
「僕と考えが一緒過ぎて怖いよ」
「おまえもか? やっぱり俺達、気が合うんだな」
どうでもよさそうに言う彼は、タバコを一本取り出し、しかし興をそがれたようにまた戻した。
「ここだと話をするのもなんだな。移動するか。屋上行くぞ屋上」
「なんで屋上にこだわるの」
「いいんだよ。好きなんだよ、高いところ。こっから一番近い屋上は、お前が通ってる病院か?」
「まあ、出入りできるところと言えばそこだね」
「よし、ついてこい」
そうも堂々と僕がついてくる前提だと、ひねくれた返事でもしたくなってくる。
「嫌だと言ったら?」
「俺が悲しむ」
「なにも問題ないね」
「何も問題ないな。まったくもって」
◇
雨が止んだ。
病院の屋上には、人の気配がない。今は昼だからか、さっきまで雨が降っていたからか、単に人が寄り付かなかったのか。
僕が通う病院は大病院であり、重篤の患者も多く在籍する。だからだろうか? 病院の屋上は、広さを除けば学校のほとんど変わらなかったが、大きめのフェンスが存在していた。ガン末期患者が、変な気を起こして飛び降り自殺しないためとか、そんな理由だろう。といっても、本気でよじ登れば越えられない高さではない。
『人は壁があるだけで挫折するものだ』
そんな言葉を思い出す。どこかの節の引用。まあ、そんなものなのかもしれない。
珍しく、鷹野瞬はいつもの位置である給水塔の上まで昇っていかなかった。僕の隣で立っている。僕らは話しながら、仲良くじゃがりこを食べている。
「へえ、限界、ね」
興味深げに、鷹野瞬はそう言った。
話したのは、僕と彼女の関係性、起こった出来事。
なに、暇つぶしだ。僕らは会話をする。人とコミュニケーションをとって、意思疎通をしている。
「案外正常な反応なのかもしれないぜ。清水継葉。最近周りから人が消えていってるだろう? みんな嫌気が指したのかもかもしれないな。死にゆくものが醸し出す、特有の暗さのせいで」
「いいや、噂のせいだ。お前だって知ってるだろう? 僕が知ってるぐらいだ。彼女は悪くない」
「そうか?」
じゃあ、お前が彼女に向き合って抱く辛さ、限界さはなんて説明するんだ?
「どうしてそこまでして関係を続ける? 『死んじゃうちゃん』との関係なんか、切ってしまえばそれでおしまいだ」
それを聞いて、「確かに」と思った。僕は恐らく、彼女のことを人間として好ましく思っていた。けれど湧き上がるのは嫌悪感で、一緒にいるだけで苦しい思いをする。
なんなのだろう。僕はおそらく、彼女と一緒にいて、自分が苦しむことに、試練のようなもの感じ取っているのかもしれない。僕はもう死んでしまう人間だから、無意味な世の中への抵抗を、しているのかもしれない。
――僕の感性は間違っている。
好ましいと思う人間に嫌悪感を抱くなんて、絶対におかしい。
だから、間違っていることに立ち向かう。それが、面白いのだと開き直るような考えをしている。
でも、そんなことは鷹野瞬には言わなかった。
なにもかもどうでもいい、世界のすべては無意味だと唱える僕が、たった一つ恐れることが存在する。
それは今の僕の状態が知られることだ。概念が刻々と置き換わっていき、別人のようになっていく僕のこと。僕はその時――同情、されたくないのだ。
僕は無意味で空虚な誇りをもって死ぬ。そう信じる。その際に、誰かから「かわいそうに」と言われることに耐えきれない。誰かの「かわいそうに」なんて無視するつもりでいるけれど、僕はそれを無視できるだろうか?
わからない、と思う。狂いそうなほど変化を恐れる僕が、そのことを他人に指摘された時……否定できる自信がない。
病院の屋上からは、晴れた景色がよく見える。
雨上がりの独特の匂い。暗さが明るさに転じた差異が起こす、より明るく感じられる太陽の光。
屋上。病院の廊下の臭いから解放された、開けた場所。
鷹野瞬がタバコを吸い始める。病院の屋上はもちろん禁煙だが、彼にそんな注意を飛ばすのも今更のことだし、病院が汚れようが僕の知ったことではなかった。
はあー、と煙を吐く、鷹野瞬。
「なあ、知ってるか? 人間は間柄的存在らしいぜ」
いきなり、そんなことを宣い始める。
「『人間』という言葉が指すように、人は人の間で存在する、生活する。俺達は群れの中で生きるんだ。社会のルールを正しく守って、清く正しく生きる。おまえはどうだ?」
僕は、輪から外れている。周りに、高い壁を築き上げた。
鷹野瞬はわざとらしい、言うにふさわしい技巧的な笑みを作る。
「人はありとあらゆる意味で中間的な存在だ。善にも悪にもなれる。いつも思ってたんだけどな、お前って天秤みたいだよな。善にも悪にも興味がない、ニュートラルな存在。世の中の出来事がおまえを襲うが、努めてニュートラルであろうとする。どちらにも属さないように」
動物にはないものを、人間は持っている。感情を制御する能力。考えること。高度なコミュニケーション能力。善と悪。
「お前、善とか悪とか興味がない以前に、よっぽど変化するのが怖いんだな」
鷹野瞬は知ったような口を叩いた。
「……変化が怖くない人間がいるものか」
僕は乱暴な口調で言う。変化。自分が自分でなくなってしまうこと。
それを肯定的に受け入れられる奴は、よっぽど自分が未熟だと思っているか、よほどの楽観主義者だ。
「独りよがりに変化をせず、このままで死ぬ。それでいいんだ。誰かが僕を理解する必要はない。僕はできる限り揺れたくない。彼女は僕に影響を与える。そうだ、僕は無関心を貫きたいと思っているだけで、実際は貫けていないんだ。そんなこと、わかってる」
そう言ってみれば、鷹野瞬は「じゃあやめれば?」と嘲るように笑うだけだ。
「高い壁を作って、そこから見下ろして見くびって。自分がいる位置に誰もいないから寂しいんだろ? 誰もお前を理解しない。なら、そこから降りればいい。お前には降りる力があるはずだろ」
「……」
「そうだ。俺なんかよりよっぽど、お前の方が他人の機敏に敏感で、いいやつだと思ってもらいやすくて、純粋で、優しい。なのになんでそうも拒否する? 人と関わりにいけばいい。そのほうが、今のお前の苦しみは弱まるのは明らかじゃないか」
だってそうだろ、と問いかけるように彼は言う。
違う、と僕は答えた。
「それはずいぶん……ずいぶん楽観的でしかない意見だ」
僕の否定を消極的と見なしたのか、彼はせせら笑うように続ける。
「どうだか。ともかく、今お前がやってるのはいかにも人間的な技法だ。善と悪を調律して、中間地点に自分を置く。関係ないと意思を使う。無理があるんだ。そんな方法、絶対ガタがくるし、お前だって感じてるはずだ」
人間をやめること。機械みたいに感情を閉じて、無関心を貫くこと。興味がないと、すべてを斬り捨てて生きること。
僕は『人間のように生きること』を拒絶した。人間として大切な感情など、なくなってしまえと強く願った。
「……いいんだよ、僕はそうやって終わっていきたい。全部、忘れてしまいたいんだ。人間なんかでいられなくていい」
それはまた、と彼は言う。
「ずいぶん人間みたいだな?」
「……」
「お前がとる手段は、どれもこれも人間にしかできないことだ。感情の制御なんて特に。反射から起こる感情を理性で抑えること。お前は嫌になるほど人間を否定する癖に、厭になるほど人間ってわけだ」
こんな言い争い、不毛だ。
僕は強くそう思う。
「……ほっといてくれよ。僕は勝手に苦しんで、勝手に悩んで、勝手に死ぬ。誰かが関わるなんて許さない。例え、君が相手でもだ」
もう踏み込むな。そう強い威圧をかけると、彼はあっさり引き下がった。
とてもつまらなそうに、彼はタバコを踏みにじる。
「お前と話すのはとても楽しいよ。人間ってなんだっけ? そういうくだらない定義に頭を悩ませると、現実をないがしろにできる」
「よくないことだね」
「お前が言うかよ」
彼は多分、僕のことがあんまり好きではないんだろうな、と思った。
僕の生き方がどうしても許容できなくて、憤りを覚えてしまって。
あまりにも受け入れられないやつだから、否定したくなってしまう。相手がどうなってもいいと思うぐらいに。
僕はそれぐらいおかしなやつだ。僕は間違っている。自覚が免罪に至るわけではないのも知っている。それでも僕は、独りよがりでいいと思っている。
……ほら、決定的に僕らは相いれないのだ。
曇天見下ろす天気の膝元で、僕ら屋上でたむろっている。雨露に混じった湿りのあるタバコの臭いが鼻をつく。
「……今日、用事があってな。妹の見舞いに行かないといけないんだ」
「へえ。それでわざわざ理由を付けて病院の屋上に来たのか」
「まあそうだが、俺は普通に屋上が好きだぞ。馬鹿と煙のワンセットが高いところに昇るんだし」
彼はおちゃらけながらそう言う。
「前から思ってたけど、なんでそこまで屋上にこだわるわけ?」
「ああ、そうだな。しいていうなら……屋上ってちょっと特別な感じがする場所だろ?」
「まあ、うん」
「それともう一つ、屋上は対決の場所なんだ。屋上には入り口も出口も一つしかない。扉はたった一つだ。対決をやめたければ……」
彼はフェンスの外を指さす。
「飛び降りるしかない。それはすなわち敗北だけどな。ここでは対決から逃げられないんだ。と、勝手に思ってる」
「じゃあ出入り口が複数ある屋上はなんなの?」
「それは俺に言わせれば屋上じゃねえな」
それはまた、ずいぶん独特な感性だ。
彼は少し、機嫌よさそうに笑う。
「お前が死ぬときは、屋上から飛び降りるのかなって思うよ。いや、ぜひそうしてくれ。人生との対決から逃げて、敗北する絵としてはなかなか完璧なものになる」
「うん。考えとくよ。もし自殺するなら、投身自殺が一番確実だっていうしね」
死ぬのが怖くないふりをするのは、とても楽しい。
「じゃあ、俺はそろそろいくから。人間と関わるのやめても、ゲームとかスポーツとか、そういうものならお前もまだ楽しめるかもしれないぜ?」
そういって立ち去る彼の口調に、もはや皮肉的な響きはなかった。
◇
僕は鷹野瞬が言ったことをぼんやりと考えている。
屋上から景色を見下ろして、考え事をしている。散り損ねた桜の花と、止んだ雨が増幅させる重い沈黙。
屋上は対決の場所。出入口はたった一つ。対決をやめたければ飛び降りるしかない。それはすなわち、敗北である。
僕は鷹野瞬のことを知っている。ああ見えて、彼はこの世の誰よりも世の中というものに対して絶望している。死にたがっている節さえある。
以前、彼は今の僕の状態のことをステータス、と呼んだ。僻み根性でそういってんだよ、とそう言っていた。
たぶん、彼は僕の状況を羨ましがっていた。彼はどこか死にたがっていて、しかしそこに特別な理由はない。うってつけが存在しないのだ。だから僕みたいに、死ぬことに値する理由を彼は探している。
ステータスを欲しがっているのだ。まるで英雄のように誰かを救って死ぬ。家族が全員殺されて、世の中に絶望したから死ぬ。
自己犠牲か、身に余る絶望を受ければ、それは当人にとって死ぬ理由になりうる。病気で絶望するのだって、理由になる。
でも、鷹野瞬はごく普通の高校生だった。彼は飢えることもなく、服を着て、学校に通い、家族全員が健全で、そこそこに愛されてすらいる。
世の中に不満を持つこと自体が間違いと言えるほどに、彼は普通に、もしかしたら普通以上に恵まれている。彼はそのことを深く自覚している。
彼は……屋上にいるとき、そういうことばかりを考えていたのかもしれない。彼は屋上にいるとき、己の苦悩と対決している。
彼は自らの思考に押しつぶされた時、その身を地へと投げるだろう。彼はそのことを『敗北』と呼んだ。
こつん、こつんと、背後から階段を昇る金属音。屋上に誰かが来る。
僕は一人でいたかった。そのための屋上だった。
だが、誰かが来るのなら、ここにいる意味を失ってしまう。
僕は立ち上がり、立ち去る準備をする。
――なんだか、嫌な予感がする。
屋上は、対決の場である。
そして、入り口であり出口でもある扉が開いた。扉が立てる、重い金属を引きずる音。
彼女がそこに立っていた。
僕はあまり余裕がなかった。誰かに構いたいと思えなかった。たった一人で、どこかに消えてしまいたかった。
けれど人と向き合ったからには、なにかしらの対応をしないわけにはいかない。
「やあ」と僕は言う。
「やほ」と彼女は笑って見せた。その表情は、歪められた形跡があった。
◇
「大丈夫だよお母さん。私、死ぬのはそんなに怖くないから」
「私にとって、普通に接してくれることが一番幸せなの」
「いいの、私に気を使ったりしないで!」
「なんでわかんないの! 私は……普通じゃない反応をされるのが一番苦しいんだよ! ほら、腕が腫れてきた」
「……ごめん、なさい。お願い、ひとりにして……。あとで、謝るから。ごめんなさい。ごめんなさい、あとでいい子にするから、今だけは一人にして……」
◇




