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色褪せ2

 ◇


「最近の検査の結果がよくなくてね」


 彼女はさりげなく僕のじゃがりこを奪いながら、そんなことを言った。最後に残ったチーズ味。


「このままだと、私たちのデスレースは私が先に勝ちそうだね!」

「……いや、それって勝ちって言えるの?」

「そりゃそうだよ。レースは先にゴールした方が勝ち。私が先に死ぬから私の勝ち! わはは!」

「……」


 彼女の心境は測れない。彼女の笑い声は嘘のように聞こえると言えばそんな気もするし、いつも通りな気もする。


 だがそれはあまりにも僕には関係のないことだ。レースの結果だってどうでもいい。僕が先に死のうが、彼女が先に死のうが、たいした意味はない。その差がいったいなにを生むっていんだろう? ほんの少し長く生きながらえることに、僕は羨ましさを感じない。


 ふと興味がわいて、僕はこんな質問をする。


「ジェットコースターの話なんだけどさ」

「げっ」

「まって、話を聞いて」


 そういう話じゃない。


「……こういう例え話があるんだ。乗ったら七十五パーセントの確立で死んでしまうジェットコースターに乗るか、乗ったから五十パーセントの確率で死んでしまうジェットコースターに二回乗るか。『死んじゃうちゃん』ならどっちを選ぶ?」

「うーん、確率的にはまったく同じってことだよね? 一回怖い思いをするか、二回怖い思いを体験する代わりに、少しでも生きるびる時間を伸ばすか」

「そうそう。人によっては、直感的にこっちのほうが助かりやすい、とか考えて選択する人もいるけど、本質的にはそういう質問かな」


 それに、人生の経験論的に結論を出す人も多い。例えば、五十パーセントの確立を乗り越えやすかった人生を送った(気がするような人)はもちろん五十パーセントを選ぶだろう。これは逆説的にも言えることで、五十パーセントで失敗が多く感じた人は、もういっそ、と七十五パーセントを選ぶはずだ。


「私は五十パーセントかなー」

「どうして?」

「だって、死ぬ可能性が高い! ってなってから考える考え事って、価値があるような気がしない? 走馬燈もいっぱいみれそうだし、後悔とか、幸せなこととか、そういうことを感じる能力があがると思うんだよね」


 面白い意見だ、と僕は思う。


「『死んじゃうクン』はどうなのさ」

「僕? そりゃもちろん、七十五パーセントだよ。生き残れる可能性が同じなら、恐怖を体験する時間なんて短い方がいいに決まってる」

「えー、えらく理性派だね。私、そんなに割り切れないなあ」

「僕からしてみれば、感情派に思える君こそ、怖い時間を削るために七十五パーセントを選ぶべきだという気がするけどね」


 それに、死ぬと確定してからの思考が価値を持つなんて間違いだ。そんなものにはなんの価値もない。むしろ、死ぬとわかったら後悔する時間の方が間違いなく長くなるだろう。


 その葛藤や苦悩を人間的美しさと言うのなら、本質的に僕の思考とは相容れない。


「まあでも、私ジェットコースター怖いし、一回しか乗らない方がいいかもしれない」


 彼女は適当な言葉でこの疑問を閉めた。

 彼女は雲のかかった大空を仰ぐ。


「君はさ、死ぬのって、怖くないの?」

「どうしていきなりそんなことを聞くの?」

「平気そうに見えて、羨ましいから」


 ジェットコースターの話。死ぬことに対して理性的に対応すること。最善を選ぶこと。


「逆に『死んじゃうちゃん』は死ぬことが怖いの?」

「うん、怖いよ。私は綺麗に死ねるんだろうかって、そればっかり考えてる。私はちゃんと死にたい。でも、そんなことできるのかな?」


 彼女は平気そうな顔で笑っている。それこそ今口にしている悩みが嘘のように。

 僕は彼女の真の感情を読み取ることができない。その必要もない。


 彼女は言葉を続ける。


「ねえ、『死んじゃうクン』はいつ死ぬの?」

「……」

「生きていたいって思う? なんのために生きたいの? 夢は? 希望は? なにもないならさ――」


 彼女はひどく歪な顔で微笑む。


「――一緒に死のうよ」


 呪いのような言葉。

 僕は、彼女の瞳を見つめた。相変わらず、彼女の感情はわからない。いったい何を考えているのか、推測する手がかりすらない。


「どうせ生きることに意味なんて感じてないんでしょ? 私のことなんてどうでもいいんでしょ? それは知ってる。でも、どうせならさ」

「メリットがない」

「死ぬことが怖いの?」


 彼女は安い挑発を返す。


 どうなんだろうね、と僕は曖昧な返事をする。


「私は怖いよ。でも、自殺はできる。自殺する勇気を持ってる。馬鹿馬鹿しいって君は笑う? でも、『自分で死ぬ勇気』を持ってることは、私にとって誇りなんだよ。私は弱くなんかない。私は自分で選べる。病気なんかに殺されてやらない」


 君はどうなの? と彼女は問いを投げかける。とても挑発的に。


 嫌なことに、その言葉は僕の琴線に触れた。


「僕は自分で死ねる」


 たった一人で。


「この言葉は嘘かもしれない。誰かが僕を否定するかもしれない。でも、そんな誰かの言葉なんてどうでもいい。君の言葉でもだ。僕が自分を殺すことを、僕だけは信じる。何が起ころうと、それは僕にとっての真実だ」


 やせ我慢。嘘つき。強いフリをしている愚か者。


 そんな幻聴が、いつだって聞こえる。


 僕は彼女を真っすぐに見つめる。

 馬鹿にするように、「一緒に死んであげるよ」と笑いながら言う。


「どうせ自殺するつもりだったんだ。生き証人は欲しかったんだ。だからついで(・・・)に僕が君と一緒に死んであげる」


 彼女の言葉のせいじゃない。僕は自分で選ぶ、自分で決める。

 彼女は人形みたいな笑みを見せる。


「うん、一緒に死のうよ」


 病院の屋上からは、散り損ねた桜の花びらが舞い落ちていた。


 相対的に感じられる、静寂の支配と、薄い死の香り、終わりの連想。


 春が終わる。命の芽吹きを象徴する季節が、終わりを迎える。


 彼女は僕の手を握る。外見的には、一部たりとも動揺は見られない。僕も彼女も、普通の人間みたいに自死について口にする。


 そこに僕がいるか確かめるように、彼女は僕の手を強く握る。


「――いつか一緒に死のうね」


 私はきちんと死にたいから。

 だから。


 ――逃げないでね?


 彼女は僕の手を握りしめる。


「もちろんだよ。君も頑張ってね」


 僕は皮肉げに言い放つ。


 本当なら、僕は彼女の言葉を否定するべきだったのかもしれない。死ぬのは愚かだって、自殺は命を軽視することだって、偉そうに説教を始めるべきだったのかもしれない。


 でも、僕らには生きる上で希望なんてなかった。


 いつかよくなると思えることが。

 幸せになれると信じられる希望が。


 この生は、どんどんどんどん悪くなるって、信仰のように掲げて、信じ込んで、精神的に死んでいた。


 僕らはの選択は限りなく妥当なものだった。


 ずっと苦しんで視界が狭くなって、それで生きることを諦めることを、誰かは愚かと笑うだろう。でも、その誰かは逃れられない苦しみを知らない。


 いつかよくなると思えないことが、明日が来ることが苦しいことが。

 眠ることが怖いことが、朝起きる時に吐き気に襲われることが。


 まるで想像できない、そういう誰かだけが、僕らを否定するだろう。


 僕も彼女も死にたがりだ。でも、それのなにが悪い?


 ◇


 僕は、彼女のことなんて点で理解していなかったのだ。

 その気力がなかった。どうでもよかった。

 たしかに、あれは対決だった。決着は行動によって、間違いなく変えられた。

 僕は彼女のことを、もっと想像するべきだった。

 僕は彼女のことを勝手に決めつけた。

 だから、約束をした。

『いつか一緒に死のうね』って。

 ――もしもあの時、彼女の思いを想像していれば。

 彼女の思いを、苦痛を、悲しみを、やるせなさを。

 推して、図っていれば。

 共感しようと、していれば。

 ……そんなもの、すべて無駄だ。

 この考えは信仰であって、理性ではない。


 ◇


 対決のあとに着くのは『決着』だと鷹野瞬は言った。

 僕と彼女の関係は、まだ終わらない。

 対決はまだ済んでいない。


 ◇



 最近の日々は気だるげだ。


 とても、とても。


 でもそれこそが僕にとっての正常で、異常ではない。

 最後の鐘がなった学校では、幾人もの生徒達がせわしげに右往左往していた。

 誰も彼もが『次』のために必死だ。部活のために、はやく家に帰るために。

 それは希望にあふれた行動だ、と僕は思う。


 次のために行動できる人たちはすごいと思う。生きる希望に満ち溢れた人々だ。もちろん、彼らは日々を生きることを楽しさと辛さのないまぜになっているものだと理解しているだろう。

 僕らは高三の受験生。特に、勉強ばかりの生活を送ることに嫌気を指す人はとても多い。でも、そいつらの根底にあるのは希望だ。自らの躍進を願っている。勉強してよいものを得ようと頑張っている。それはとてもすごいことだ。敵わないと思う。


 その一方で、僕は体を動かす気力すらない。彼らの方が立派で、僕は落ちぶれている。そんなことは、わかりきっている。


 生徒たちが去っていく。教室は空へと近づいていく。それでも僕は、その場から一歩たりとも動かなかった。体の動かし方がわからなかった。

 疎ましい周囲の人間を僕は眺め、しかし彼らは気にもしない。


 そうして、教室は僕と、あと一人を除いて空になった。

 そいつは、いつもなら誰かに帰りを誘われるはずなのに、今日はそんな出来事が起こらなかった。


「『死んじゃうクン』はなんでまだ教室にいるの?」


 彼女は気安く僕に話しかけてくる。


「……家に帰るよ。でも今は休憩してるんだ」

「長い休憩だね」


 たしかに、と僕は思う。

 僕はつまらなげに空の教室を見渡す。


「『死んじゃうちゃん』はなんでまだここにいるの? 人気者の君は、いつもなら人に囲まれながら帰宅するはずなのに」

「それは偏見だね。私は嫌われてるよ。だから一人ぼっちなんだ」


 どうだか、と僕は思う。


「最近なにもかもやる気がでないね?」

「知ったような口、きかないでくれる?」

「じゃあやる気はあるの?」

「ないけど」

「じゃあ、やる気のない自分への抵抗、始めない?」


 彼女はたまに意味の分からないことを言う。


「始めようよ!」


 自己完結的な彼女は勝手にエンジンをかけ始める。しかもその走行の先にいるのが僕なので、こちらとしても動かないわけにはいかない。


「よーし、なんかやろ! ……なんで急に帰る用意を始めるの?」

「ちょっと用事思い出して」

「うそでしょ? 知ってる」

「……」


 ◇


 気だるげな日々を革命するために、彼女がとった行動は以下のような事柄だった。


「新しい部活を創造するぞー! 同好会でもよし!」


 彼女は頭が悪かった。

 そもそも、僕らは受験生でありそんなものは認められるはずがない。


 しかし、彼女は僕を引き連れて職員室に突撃をかまし、結果というものを手に入れてしまった。


 それが起きたのが三日前。


 今、僕らは放課後の学校で、一室を借り受けている。


「作ってしまったね? 勉強同好会」

「……めちゃくちゃ頭悪い行動をし始めたと思ったら、君もずいぶんとしたたかだよね」


 彼女は高三の今の時期から、勉強できる環境づくりの重要性を教員に説いた。

 最初はしぶい顔をしていた教員も、正論から始まる彼女の切り口に言い返すことはできなかった。そしてなにより、彼女は学校の教員からの信頼が厚い人間だったのだ。


 彼女は優等生という人種である。頭、悪そうなのに。


「先生の手を煩わせずに、自分で組織を作って運営する。しかも、放課後の教室なんて余りまくってる。そして『勉強のために』という大義名分。頑張ったよね、『死んじゃうちゃん』は。高三で同好会を作るなんて、なかなかできることじゃないと思うよ」

「褒めるなよー、えへへ」


 八割嫌味だ。


「でもこの同好会、二人しか今はいないんだよね。もっと人員を増やしたい! 『死んじゃうクン』の友達は呼べない?」

「僕が一人しか友達いないのわかってて聞いてる?」

「あー、そうだったねー」


 失礼な奴だ。


「でも大丈夫だよ。私も友達いないし」

「全然大丈夫じゃないじゃん。今の同好会は仮の物で、あと二人は人を集めて来いって、先生に言われてたでしょ」

「ひょっとして詰み?」


 どこまでも無計画で無鉄砲な人間。それが彼女という存在だ。


「第一、教室にいるだけなら同好会なんて作らなくていいでしょ」

「そうだね、君と二人っきりでラブラブするのもいいかも」

「つまり君は同好会を作ることでなにかをしたかったはずなんだ。それを教えてほしい」

「女の子がラブラブって言ったんだから無視しないでくれる? そうだねー。たしかに、私はやりたいことがあったな。それは……」


 彼女が立ち上がる。


「夏合宿!」


 ……あんまりにも脈絡がなさ過ぎて、僕は普通にびっくりした。


「あははー、間抜け面してる~」

「……怒るよ」

「ごめんなさい」


 ともあれ。


「……え、ほんとにそれだけだったの? なにかあると思ってたんだけど」

「いや、やりたいじゃん夏合宿。ていうかね、死ぬ前に思い出が欲しかったんだよね。でも友達いなくなっちゃうし、寂しいし、最近私居場所ないし、だからこういう場を作ってみました!」

「一夏の思い出作りと」

「そうそう!」


 まあ、彼女にも彼女なりの理由があったらしい。

 僕らがそんな話をしていると、教室の扉が開いた。そこから現れたのは鷹野瞬。

 彼は僕と彼女を交互に見ると、考え込むように俯き、重い苦しい声を出した。


「なんだデートか。邪魔したな、すまん」


 そして扉を閉める。

 僕らはなんの反応もしなかった。


「なにあれ」と僕が言って見せる。


「妖精でしょ」といかにも適当なことを彼女は言う。


 ところで、教室には扉が二つある。右側に前と後ろ一つずつ。

 鷹野瞬は後ろの方の扉を開けて、また僕らに声をかけてきた。


「なあ、無反応は寂しいんだが。デートって勘違いされたら、普通必死になって否定してこないか?」

「昭和の恋愛漫画の読みすぎじゃない?」

「てめえ、もし俺が勘違いしておまえが好きあってるって噂を広めたらどうするつもりだったんだ?」

「君はそんなことするようなやつがじゃない」


 彼は唸ると、僕と彼女がいる位置にやってきて、近くの椅子を引いて座り込んだ。


「それで、おまえはなんで俺を呼んだんだ?」


 その言葉に反応して、彼女が僕の方を輝いた眼で見つめてくる。


「もしかして君って……すごくいいやつ?」

「……」

「なにっ! 優しいところあるじゃん! 同好会の人数増やすために、唯一の友達を呼んでくれたの! 私のために! 唯一の友達をっ!」

「……そうだね」


 唯一の友達唯一の友達うるさい。


 鷹野瞬は呆れたようすで僕と彼女を見ていた。彼は現在、自分がなぜ呼ばれたのかわかっていない。だがなぜか、自分が歓迎されているということを感じ取り、困惑している。


「……よくわかんないけど、おまえら想像以上に仲いいんだな。殺し合いをする仲なのかな、とか思ってた」

「将来を誓い合う仲だよ」

「そっか……。嫉妬しちゃうな。お前は俺だけだと思ってたのに」

「普段そういうこと言わないのに、急にどうしたの?」

「いや、この同好会? とやらにはこういう雰囲気が必要なのかなって思って。わかるだろ?」


 わからなかった。


「よーし! あと一人! あと一人だ! それで私の同好会が完成する!」

「いつから君のものになったの?」

「え? 私が部長だよ?」


 鷹野瞬が会話に入り込んでくる。


「それは民主主義的に決めるべきだな」

「え? 私部長やりたい……」

「でも、なあ?」

「うん、民主主義は必要だよ。僕はそう思う」

「……君ら、仲いいからって、そういうのずるくない?」

「いや、おまえら二人の方が仲いいだろ」

「やめてくれ。僕は誰とも仲良くないから」


 状況が混沌を呈し始めたところで、僕はストップをかける。


「あと一人の部員、どうする?」

「ああ、俺の妹連れてこようか?」

「……新しい君! 有能だね!」


 とんとん拍子に、進んでいく。


 ◇


 ある日、屋上で鷹野瞬が言った。


 たぶん二か月前ぐらいのことだったか。よく覚えていない。


「ムカつくんだ。世の中のなにもかもが」


 それは怒りとやるせなさと失意が混じった声だった。


「わからない。わからないんだ。なんでどいつもこいつも、まともに生きてられんだ? 生きる意味を、なんでみんな見つけているんだ? ……わからないんだ。俺からみた『皆』は生きる意味なんて持っていないように見える。なのに、なんでこうも辛そうじゃないんだ?」


 意味がないのに生き続けることは苦痛でしかない。無意味からは行動を取り出すことができない。『目的』『理由』『希望』が人を動かすのであって、それなしに人は動作をしない。

 死ぬのが怖いから生きている奴らだっている。でも、そんなやつらは案外希少種だ。


 そう、彼は語る。


「みんなみんな、希望を持って生きているように見える。いつかよくなるって、大人になればましになるって、今よりもよくなるんだって、馬鹿みたいに信じ込んでる。俺はそのことが怖いよ。こいつらはいったいどこまで愚かなんだろう? そんなことばかり思う」


 彼の意見は、あまりにも一方的な意見だった。独りよがりで、自分視点のみからくる結論だった。

 でも、それに当てはまる事柄があるのは事実だ。『皆』は生きる意味を持っているのか、持っていないのかにかかわらず、平気に生きている。そう見える。


 ……彼のやり方。

 生きる意味を持っている者のことを彼は馬鹿にして、見下して、見くびる。そんなものに意味があるのはまやかしだって、決めつける。人に優しくする。人を助ける。自分が楽しくなる。そんなものは、死後にすべて消えてしまうのだと嘲笑う。それは妄信でしかないと、『わかってない』と判決を下す。


 一方で、生きる意味を持っていないやつらのことだって、彼は否定する。意味もないのに生きられる奴は異常だ。意味がないのに生きられるのは、頭が空っぽだからだ。意味がないことを自覚しつつ生きる奴は、常に空虚感に支配される。そうならない奴は、頭が空っぽな奴で、頭が悪くて想像というものを知らない奴らだ。劣っている馬鹿な人種だ。

 そんな風に。


 彼はすべてを否定する。意味があることを否定し、意味がないことに賛同する。

 意味がないのに生きられることは矛盾だと彼は語気を荒げる。


 果たして、僕は彼に反論をする。誰でも主張できる一般論を言い募る、対話者を気取る。


「みんな本心を隠してるんだと思うよ。苦しいけど、苦しくないふりをして生きてるんだ。誰だって不安がっている。君が言うほど、『皆』は何も考えてないわけじゃない」

「本当に?」


 死にたがるような奴らは異常者だとみんな言う。

 考えているなら皆死にたがるはずだ。


『人は心のどこかで死にたがっている』。


 そういう言葉を知っている。でもそれは事実か? どこかって、いったいどこのことだ? ほとんど表面化していないじゃないか?


 だから俺はその説を否定する。


「『皆』はな、なにかしらの希望を持っているんだよ。無理やり見出してるんだ。明日の楽しみを、一週間後の約束を。お金を貯めて、欲しいものを買うことを」


 ――それはまやかしに過ぎない。


 唇を噛み締め、憤りながら彼は宣言する。


 希望をもって生きること、前進すること。


 ロバの鼻面に人参をぶら下げて、食欲をそそる。人参好きのロバは人参に食いつこうとして前進する、人参はロバに括りつけられているためロバと共に移動する、ロバはなんとか人参に食いつこうとして走り続ける。ずっと、ずっと。


 ――ロバ(人間)の鼻先に人参(希望)をぶら下げること。


『希望』を持った人間はそれを手に入れようと生きる。人生においての前進を行い続ける。

 でも、希望はまやかしだ。鼻先でぶら下がり続けるそれは手に入らない。そうやって嘘をついて、誤魔化して、幻想を見て、人は生き続けている。


 それは愚かだと、彼は言う。


「それで人が生きられるなら、それでいいじゃないか」

「だが、そこに意味はない。生きる理由は、全部誤魔化しだ」

「いったいそれのなにが悪い? 人は生きて生きて死ぬ。それをただ繰り返す。それだけだ」

「悪いなんて、いってねえよ」


 ただ、と彼は言う。


「軽蔑するんだよ。相容れねえんだよ。誤魔化しの中で幸せに生きられるなんて、俺にはできないんだよ。……羨ましいのかもしれないな? 幸せな奴らが。俺にできないことができる奴らのことが」


 彼は心底悔しそうにそう言った。

 怒っていた、嘆いていた。なんで自分は『皆』とは違うんだって、本気で憤っていた。

 残念ながら、彼は死にたがりで、それはすなわち世間一般で言う『異常者』だ。

 彼の意見はすべて間違っている。すべて受け入れられることがない。


「俺に賛同しない奴らが、憎らしいよ。全員殺してやりたい。俺のことを理解できないやつらのことが、俺にはちっとも理解できない。でもそれが現実ってもんだ。そうだ、全部俺が間違ってる。だから憎いんだ」


 彼は怒りを原動力にして生きている。そんな気がする。

 世の中に対しての不満を糧に、彼は生き続けている。そんな彼のことをきっと世間は子供だとか、幼稚だとか言って笑うのだろう。


 彼は世間に対しての反逆者だ。一人ぼっちの抵抗者。

 彼はつまはじきものだ。彼が全力で世界を見放した時、きっと彼は自殺する。


 でもそれは敗北だから、彼は死んでいない。ただそれだけの理由。


 けど、その理由はいつまで持つんだろう?

 彼はすでに、世の中に対しての執着をほとんど捨てているように見える。

 もう期待していなかった。失望していた。見くびって見下して見限って、誰にも理解を求めていなかった。


 ――ふっ、と彼の雰囲気が変わる。


 熱が冷めたような感覚。


「バカなこと話したな。でも、お前は俺の考えをすべて理解してるんだろうなって思うよ」

「どうだか」

「ずっと思ってたんだ。お前は俺より強い」


 ずっと思ってた、と彼は繰り返す。


「俺のこの考えは、全部お前の後追いな気がするよ」

「……」

「なあ、覚えてるか? 他人が落とした財布を、おまえが拾って渡したって話」


 俺が拾おうとした。けれど、できなかった。

 周りがやってくれるだろうって、日和った。言い訳だった。


「なあ、覚えてるか? お前が迷子の子供を助けた話」


 泣いていた子供をなだめに行って、両親を探してあげた。

 俺だって子供を助けようとした。でも、実際にやったのはお前だった。たぶん、俺はやる気になってただけで、実際にはやらない、やれないような、卑劣なやつだった。


「なあ――」

「――もうやめたら?」


 彼か抱いているのは幻想だ。

 確かに、それらは僕が行った行動だった。でも、だからなんだっていうんだろう?

 そういうことを言われるのは、不愉快だ。だって、今はそんな過去の自分のことが好きではないから。


「お前のこと、本当にすごい奴だと思ったんだ」


 それでも彼は、なおも言葉を続ける。


「俺にできないことを、俺がやりたかったことをお前はやり続けてきた。偶然だろうが、三度もだ。そして今、お前は心を閉じている。世界を見くびって見下して見限って、独立している。たぶん、俺はお前に負けている」

「勝ち負けなんてないよ」

「俺にとっては違うんだよ」


 彼はいつも、僕のことを羨ましがる。


「お前にとって、俺はとるに足らない奴なんだろうな。敵対にすら値しない奴だ」


 ――おまえは俺を対等と見ていない。


「お前は俺と対決しないだろう。敵対ができない状況だから。決着だっていつまでたってもつかない」


 ――お前と同じ舞台に上がってやる。


 お前の思考を理解してやる。考えてやる。

 お前と、敵対して、対決して、決着を、つけてやる。

 いつか、いつか。


 それを聞いて、僕はなんとも思わなかった。

 確かに僕は彼を軽んじている。世の中のすべてがどうでもいいから、彼のことだってどうでもよかった。



 ◇


 鷹野瞬が『勉強同好会』の部員として加わった翌日、僕らは勉強同好会のメンバーとして教室に集まっていた。

 この場にいるのは、彼女と鷹野瞬と僕と、それと鷹野瞬の妹だ。


「ようこそ! 勉強同好会へ!」


 まず先発として、祝砲の大声を彼女が上げる。

 流れるような動作でぽたぽたせんべいとポッキーを妹に手渡した。


「そんなもの学校に持ってきちゃダメでしよ」


 僕が律儀に注意すると、「この人は私たちの同好会の取締役だから、注意してね!」と適当なことを言われる。僕は今日、あまりしゃべらないでいることに決めた。


「あ、ありがとうございます」


 鷹野瞬の妹は、戸惑いながらも彼女のお菓子セットを受け取った。

 長いまつ毛に、強気そうに吊り上がった眼。身長は平均的なもので、彼女よりも少し低いぐらい。

 やはり兄弟は似るのだろう。鷹野瞬の顔の造形が整っているように、その妹もそこそこの顔の造形をお持ちのようだ。


 借りてきた猫のように大人しく、妹は鷹野瞬の隣から離れない。


「それとねー、君のお兄さんが副部長で、私が部長! 妹ちゃんはなにしたい? 書記? 会計士?」


 なにげに彼女が部長になっている。


「えっと……勉強、ですかね? ここってそういうところであってますよね……?」


 彼女が雷に打たれたような顔をした。忘れていた、と言わんばかりに。

 ごほん、と鷹野瞬が咳払い。


「あー、あのな。ここはその、思い出を作る場所だ。勉強をしないわけじゃないんだが……そうだな、ここは基本的に遊ぶところだ」

「お兄ちゃん、なにいってるの……?」


 彼は気まずげに頭を掻く。兄とは違い、どうやら妹の方はは真面目な生徒のようだ。


「まあその、とりあえず座ってくれ。トランプしよう」

「お兄ちゃん、勉強は?」

「みんなと仲良くするのが優先だ」


 最もらしいことを言いながら、彼は妹を座らせた。

 おもむろに彼はトランプを取り出し、カードを配り始める(なんでそんなものをもってるんだ?)。


 大富豪をやることになる。ゲームはなんどか続いた。意外にも彼女が一番強く、鷹野瞬が一番弱かった。


「なんだよこれ!」と憤慨したように、彼はカードを投げ出す。三回連続の大貧民。


「やっぱ民主主義はだめだな。というか資本主義がだめだ。やっぱり時代は共産主義じゃねえと――」

「お兄ちゃん? ここって、勉強するためのところなんだよね?」

「えっと、そういう意味も含まれていなくはないな」

「……ここって、サボり部なんだね?」


 おお、珍しい。


 僕は感動しながら二人のやり取りを見つめている。

 鷹野瞬が押されている。妹には形無しということだろうか? いつも気丈で、いつも屈しず、いつも世の中の不平不満に反発するような彼が、妹には勝てない。なんともまあ、面白い。


「でもまあ、おまえ最近入院してただろ? いままで続けてた部活もやめちまったし、せっかくなら新しいなにかを始めてもいいかな、と思ってさ」

「もしかしてさ、お兄ちゃん」

「な、なんだ?」


 この鷹野瞬という男、妹に対して態度が弱すぎる。


「……もしかしてお兄ちゃん、私のために居心地のいいところを探してくれたの?」

「え?」

「うん、いいよ私。お兄ちゃんと同じ同好会ってのも悪くないし、楽しそう。それがサボり部ってのはどうなのかと思うけど、誰かに迷惑をかけてるわけじゃないし、いいかもね」


 けっこうズバズバいう女の子だ。

 鷹野瞬はたじろいでいる。


「……まあ、そうだな。悪くない選択だ。うん。おまえの自由だ。入ってくれるなら、俺は嬉しいかな。うん」

「うん! じゃあそう言うことで、部長、取り取締役さん、よろしくお願いします」


 流れで勝手に取締役にされて不服だが、うなずいて入部を承諾しておく。

 彼女は輝く笑顔で万歳をした。本当に嬉しそうに。にこにこと彼女は妹の手を握る。


「これからよろしくね! いい思い出を作ろ!」

「えっと、はい」


 気圧されたような反応だが、まんざらでもなさそうだ。

 そんなやりとりのまま、談合が始まる。身の上話とか、妹の部活のこととか。僕らの病気のことは話さなかった。しかし、鷹野瞬は僕らのことを知っているし、彼女も鷹野瞬に自分のことを知られていることを知っている。


 妹だけが知らないのもどうかと思うが、別に話してどうにかなるようなものでもない。伏せておくのが無難だろう。彼女も、基本的には自分の病気のことを知られたがらないようだし。

「あ、そろそろ私行かなくちゃ」


 診察の時間だろう。時間を見て驚いた彼女は、いそいそと帰りの準備を始める。


「じゃあ、俺は屋上行ってくるわ」

「お兄ちゃんって、ほんとに屋上好きだよね」

「屋上に行かないと俺は死ぬ生き物だから」

「タバコでしょ?」

「……」

「いいよ、家族はみんな気づいてるし、いまさら何にも言わないよ。でもまあ、ほどほどに、ね?」

「……おう。心配かけて悪い」


 気まずげに鷹野瞬は屋上へ昇りに行った。

 教室は妹と僕二人きりになる。


「じゃあ、僕も帰るよ」

「――待って」


 その声に込められた力の強さに、僕は持ち上げかけたカバンを降ろす。


 ――妹は、僕を睨むような目で見ていた。


 生まれ持った鋭い目つきが、僕に向かって突き刺さる。『敵』として僕は認識されている。


「あなたですよね?」

「なにが?」

「お兄ちゃんを苦しめてる人」


 どうなのだろう、と僕は思う。それはある意味で当てはまると言えば当てはまるし、そうでもないとも言える。だがまあ、妹にとってはそれが真実なのだろう。


「そうなのかもね」

「誤魔化さないでよ」


 もはや口調から敬語は取り払われていた。妹は僕のことを上級生と思っていないし、同じ同好会の先輩としても認めていないだろう。


「聞きたいことが、あるの」


 そうか、と思う。たぶん、妹が同好会に来たのは、僕と会うためだ。一目見て、文句を言いたかったからだ。だが、文句を言ったところでいったい何になるんだろう? きっと何も変わらない。

 まあ、どうでもいいことだ。


「私、あなたの病気のことは知ってる。あなたが辛いのもわかる。でも、だからといって私のお兄ちゃんを巻き込まないでくれる?」

「なんのことだかさっぱりだ」

「……とぼけないで。お兄ちゃんは、家ではそういうそぶりを見せないけど……死にたがってる。なにがいけないんだろうって、ずっと考えてた」


 目の敵として見られている感触。


「昔はこうじゃなかった。あなたに……アンタに会ってから、お兄ちゃんは変わった。皮肉っぽくなって、思いつめたような顔をするようになって――自殺しかねないぐらいになった。あんた、いったい私のお兄ちゃんになにしたの?」

「君の言うことにはまるで妥当性がない。全部推測だろう?」


 なにをした、なにかをした。


 まるで覚えのない話だ。水掛け論ならいくらでもできる。僕にはまるで関係のない話だ。


 ――本当に?


「もうすぐ死んでしまう病人が何を考えているのか、私にはわからない、けど。でも、死ぬことについて考える時間はいくらでもあるんでしょう? その中で魅惑的ななにかでも思いついた? 生きるより死んだ方がいいって、口先うまくお兄ちゃんに囁いたんでしょう!」

「……」


 ――どうだか。


 暗い、暗い感情が昇りくる。僕ではない何か。変質してしまった自分。

 昔からこの暗いなにかを、ずっと抱えていた気がする。それが表面にまででてくるようになったのは、僕が考え事をしすぎたからなのか。それとも、僕の中のなにかの概念が変化してしまって、こんな怪物が生まれてしまったのか。


 ――僕には相手が考えていることがよくわかる(・・・・・)


 それが怪物の一端。


「あんたが――」

「――だったらどうだっていうんだ?」


 別に、因縁を付けられて腹を立てたわけじゃない。ただ、幼稚だと思っただけだ。


「鷹野瞬が死にたがっている。それが僕のせい? ほんとうに?」


 煩わしかった。放っておいてほしかった。目の前の人間が邪魔だと思った。

 傷つこうが構わないと、そう思った。


「なんで自分のせいだって思えないのか、甚だしいぐらいに疑問だよ。僕のせい、僕のせいだって?」


 何を言っているんだ、という目付きが向けられる。

 理解しようとしないものの目付き。

 加害者になってもそれを自覚しない者の目付き。

 きっと、こういうやつが無自覚に正義を押し付ける。間違ってるって、誰かを非難して相手が言い返しても、首をかしげるだけで取り合わない。

 僕は、妹の一句一語すべてに腹が立った。病人と言ってくることが、それを理由にすることが。


 僕のことを何だと思ってるんだ? まあ、どうでもいいと思っているんだろう。


 それはお互い様というものだ。


 でも、無自覚に人を傷つける理由にはならない。それは僕がいるような、暗いクズの掃きだめまで落とされたって文句は言えない重罪だ。


「鷹野瞬は死にたがっている。彼は恵まれているのに。ねえ、君は恵まれていることこそが

 、辛いんだって考えなかったのかな。思わなかったんだろうね」

「なにをいって」

「期待されてるからだよ。正しい自分を期待する、親しい誰かの声は重荷なんだよ」


 僕は妹の目を覗き込む。

 僕には妹のことがよくわかる。


「――君、本当は、兄がタバコを吸うことが嫌なんだろ?」

「……あ」

「彼はそのことをよくわかってる。口に出して注意したことがない? タバコを吸うことを認めている? でも、心の中では散々非難しているはずだ。影で悪く思って、心底やめてほしいと考えたはずだ。正しくない兄が、嫌でたまらなかったはずだ」


 そう、たぶんこの妹は、世間の一般的な観念にそって鑑みれば、珍しいぐらいに兄のことが好きだった。

 兄に優しくした。一度たりとも咎めたりはしなかった。


 でも、心の中では咎めていることを鷹野瞬は知っていた。彼は自分のことを低俗・下劣だと感じてしまう人種だ。公正を期待する家族の心情を知る彼は、きっと辛かった。


「君、いまの兄がそんなに好きじゃないんだろう? 『昔みたいな』兄に戻って欲しいはずだ。君はとても自分の兄のことを否定してるんだよ」


 鬱病患者に「頑張れ」は禁句である。時間をかけて引っ張り上げなければならない。背中を押すことは得策じゃない。


 メランコリー親和型。責任感が強くて、真面目で几帳面で、他者との衝突を避けるような人間。


 そんな人間に、更に追い込むようなプレッシャーをかけても無駄だ。

 彼女はまったくもって理解していない。鷹野瞬は頑張って頑張って、それで折れてしまった人間なのだ。


『もう、努力は嫌なんです。もう、努力は辛いんです』


 そんな言葉が思い浮かぶ。折れてしまった人間はもう頑張れない。そいつに期待を押し付けて、頑張らせようとするのは最悪だ。


「……違う」と妹は言う。


「じゃあ、死にたがる兄のままでいさせてやれば?」と返す。


 それで妹は黙った。

 僕はさらに追い詰めるように言葉を重ねる。


「そういう姿を、君は強く否定するんだろうね。君は兄の現在を否定して否定して、拒絶している。お兄ちゃんが好き、だって?」


 馬鹿馬鹿しくて、僕は笑ってしまった。


「お兄ちゃんが好き、こそが彼を傷つけてるんだって気づけよ。彼は期待なんてされたくないんだ。君こそがより彼を追い詰めてるんだって、わからないわけじゃないだろう。人のせいにしないでくれ」

「――あなたは!」


 突然、妹が大声を出した。

 追い詰められた者特有の、感情論でも飛んでくるのだろうか?


 そんなことを僕はぼやぼやと空想する。


「……あなたのこと、お兄ちゃんが褒めてました。人の気持ちがわかるんだって、機敏に聡いって。すごく優しい奴だって。確かに、それは一部は正しいみたい。でも――」


 キッ、と妹は僕のことを睨む。『許せない相手』として僕を認識する、目。彼女が僕をそういう概念として認識する。


「――でもあなたはそうじゃない。優しくなんか、ない。人の気持ちを読むのが得意なだけ。私のお兄ちゃんへの思いを読み取って、利用してる」

「でも事実だ」

「……だとしても」


 泣きそうな表情。

 僕は笑っている。


「相手の気持ちがわかるくせに、それをあえて踏みにじるなんて――」


 震えながら、悲しみながら、怒りながら。


「――最低」


 僕は笑っている。


「そっか。いいたいこといえて、満足した?」

「……」

「でも、なにも変わらない。鷹野瞬は死にたがる。なにもかわっちゃいない。彼は苦しみ続ける。おめでとう」


 もう耐えきれないとでもいうように、妹は教室から出ていった。

 それでようやく、僕は表情を真顔に戻した。ニュートラル。何も感じていない。

 そして、見計らったかのように鷹野瞬が教室に戻ってくる。


「ああ、聞いてたの」

「……」

「妹さん、立派だね。君、すごく愛されてるみたいだ」


 彼は、とても悲しそうな顔をしていた。


「なあ、瞬。頑張らないとね。自殺はいけないことだ。僕と一緒に頑張ろうよ」

「おまえは、さ」


 ただただ、悲しそうに彼は口を開く。


「別にお前が悪いとは思わねえよ。俺のことは俺の責任で、お前が関係しているわけがない。妹は言いすぎた。……でも、あんな風に言わないでやってくれ。俺はお前を責めない。だから、これはただのお願いだ」

「……ごめん」


 言葉が自然と零れて、僕は唇を噛み締めた。


「人を傷つけて自分が傷つくぐらいなら黙っておけばいいのに。本当に馬鹿だよ、おまえは」


 彼は教室の天井を仰ぎ見る。


「全部、全部俺が悪いんだ。俺はできないやつじゃない。子供のころからずっと期待されてきた。今になって模範的な人間じゃなくなっちまった。俺は親からの、妹からの愛情を知ってる。それを裏切ってきたのは、全部自分だ」

「……瞬」

「わかってる、わかってるんだ。俺はもったいないぐらいに愛されてる。大事にしてもらってる。死にたがってるなんて、我儘が過ぎるんだ。とてもとても、恵まれてるくせに、こんなことを思うなんておこがましいんだ」


 俺が悪いんだ、と彼は言う。


「能力不足だ、全部俺の。せめて悟らせなければよかったのに、それすらできなかった。全部中途半端だ。俺は生まれてくるべきじゃなかった」


 彼は固く目を閉じる。

 そして、再び目を開いた。


 ――でも(・・)と彼は意思を込めて言った。


「俺は死なないよ、絶対に」


 俺は家族に愛されているから、愛情を自覚しているから。そしてなにより、俺だって家族のことが――俺を愛してくれる人たちのことが好きだから。


 俺は、生まれてきてしまったからには恩返ししなきゃならない。愛情を受け取ったからには、避けるわけにはいかない。


「俺は生きる意味なんて持っちゃいないし、死んでも別に構わないとは思う」


 それでも、と彼は言う。


「確かに、俺は死にたがっている。それがすなわち敗北で、俺のプライドを傷つけるようなことだとしても、どうせ死んじまえばなにもかも関係ない。屋上に昇って、外に落ちてしまえば楽になるって、思わないわけじゃない」


 それでも、と彼は言う。


「けど、重要なのは『俺が生きたくない』より『俺は生きることを望まれている』だ。俺は本当に、愛されているんだ。――父のことが、母のことが、妹のことが。俺のことを愛してくれる人のことを、俺が嫌いになれるわけがない。借りが、あるんだ。今まで俺に構ってくれた誰かに対して」


 だから俺は。

 絶対に、絶対に。

 例え、理屈が間違っていたとしても。


「だから俺は、生きなくちゃならないんだよ。死ぬわけにはいかない」


 噛み殺した悲鳴のような、固い決意の咆哮。それこそががきっと、彼が繰り返し考え続けてきたことなのだろう。淀みがなかった。迷いがなかった。


 きっと溢れ出る呪文のような言葉の数々は、ずっと彼が頭の中で、たった一人で溜め込み続けたものだ。


 それは不屈の信念であり、最後の拠り所であり、絶対の己だ。

 彼はきっと、いつまでも死にたがる。でも、きっと最後の線を越えはしないだろう。


 彼は屋上から落ちない。


 ◇


 あれから時は流れ、今は七月下旬。現在は、夏休み、という現象が受験生に襲い掛かっているところだった。受験生である僕らにとって、夏休みは魅惑の響きを持つ言葉ではない。勉強勉強勉強、の言葉が迫ってくる、苦痛の時期だろう。そこに安息はなく、そして一部の人間は休みを満喫し、自分は苦痛を味合わされるという苦痛。檻の中から、みんなが楽しそうに遊んでいるのを見ているかのような。


 まあ、それもこれも僕には関係のない話だ。


 残念ながら、僕の命は四月まで持たない。彼女も同様に、次の桜を見ることはないだろう。

 ようするに(前言を翻すようだが)、僕ら末期患者達にとって、夏休みは祝福めいた休息である。最後の晩餐めいた楽しさなのだが、周りが苦しんでいる時に自分が苦しまなくていいという状況は、否が応でも優越感を得てしまう。


 現在、僕は電車に乗っていた。例の勉強同好会のメンバーで一泊の旅行をすることになったのだ。山に行って、テントを立てて、寝る。それまではキャンプやら川遊びやら、いろんなことをして過ごす。


 荷物のほとんどは鷹野瞬が持って来てくれるらしく、僕が持っているのは着替えだけだ。


 電車に揺られ、今回の旅行のことについて思い馳せる。

 彼女の望み。最後の夏の思い出。楽しいことをすること。

 綺麗に死にたがる、彼女のこと。たぶん、後悔しないためにこんなことをしたのであろう、彼女のこと。


 どうしてこうなったのやら、と僕は思う。

 この旅行は彼女が切望していたものであり、鷹野瞬が実現させたものだ。

 勉強同好会の雰囲気は良いが、依然として妹は僕を敵対的に見ている。それを除けば、楽しいメンバーでの旅行、というになるのだが、本当にこんなことをする必要があったのだろうか。僕が参加する必要はあったのだろうか。あまり、ない気がする。


 電車が止まる。乗り換えのために、僕は駅内を闊歩する。

 次の電車を待つ。着く。扉が開く。

 今は朝だからか、客が多い。電車の中身はごった煮で、見るだけでも嫌になってくる。


 電車に押し入ろうとする人々の群れに流されながら、僕は電車の中に封じ込められた。


「あれ、『死んじゃうクン』?」


 そこにはなんと奇遇にも、『死んじゃうちゃん』が乗車していた。

 不意を打たれながらも、僕は彼女に返事をする。


「ああ、こんにちは」

「おはよう、だね? なんとも運命的な出会いだね! 赤い糸が見えるよ!」

「ああ……そう、赤いね」

「ところで『死んじゃうクン』。学校のない日に電車に乗るとは、今日は何の用だね?」


 君らと一緒に旅行にいくんだよ、と言うべきなのだが、彼女に言わされたみたいな状況になるのが嫌で、僕はひねくれた言葉を返す。


「人の我儘に付き合うことになって、嫌々家を出て来たんだ。あの子ったら、僕がいないとどうしようもなくて」

「へえ、我儘な恋人さんだね。末期患者を連れまわそうとするなんて、よほど肝が据わっていると見える」

「うん。今回はダブルデートの予定なんだ。僕の友達と、その妹と、アホ面の同好会の部長と、楽しく旅行をするんだよ」

「へえ。でも私が持ってる情報だと、同好会の部長さんはアホ面じゃないみたいだよ。真の姿を直視しちゃうと焼き焦げちゃうぐらいの美貌の持ち主らしいよ」

「……ゼウスじゃん」


 神の真の姿を見たただの人間が、そのオーラで消し炭になった話。


 電車はごとんごとん、と動き始める。

 ところで、この会話は周りの人からどう聞こえているんだろうか? たぶん、僕はゲームでよく『死んじゃうクン』で、彼女は似た者のゲームでよく『死んじゃうちゃん』、みたいに聞こえているんだろう。

 まあ、あまりにもどうでもいいことだ。


「へえ、楽しそうだね。ところで、『死んじゃうクン』の恋人ってすごく可愛かったよね。食べちゃいたいぐらいに。すごく羨ましいなあ」


 どうやらまだ彼女はこの話を続けるらしい。


「うん。すごく可愛いよ。背は普通ぐらいで」

「普通ぐらいで」

「目元がきつめの美人で」

「目元がきつめの美人で……?」


 違和感を覚えたような彼女の顔。


「おまけに僕の親友の妹なんだ」

「へ、へえ。ちなみに私は何の役なんだっけ?」

「アホ面のマスコット役」

「違うわ!」


 電車が突然強く揺れる。


 彼女が僕の胸に頭をぶつける。抱きすくめる形になる。


「ロケット頭突きしないでくれる?」

「どうみても事故ですけど? ……君って、意外と背、高いよね」

「一般的な男子高校生ぐらいの身長だよ」

「あと、汗臭い」

「……それは仕方ない」


 彼女は依然として、僕から身を離そうとしない。というより、したくてもできないぐらいに電車は窮屈だ。僕から離れることは、もっと知らない赤の他人と身を寄せ合うことであり、そんなことをするぐらいなら、僕に引っ付いていた方がまだましだろう。


 妥当な判断だ。


「ねえ、そのダブルデート、妹さんとお兄さんがくっついてるって噂を聞いたよ。そこだけは間違いないって」

「兄妹がくっつくわけないでしよ」

「愛があればなんとでもなるでしょ。私は近親相姦を応援するよ」

「へえ、そりゃまた」

「残りの二人は、どうしようね」


 残りの二人。


「残りの二人は天涯孤独の身だろうね」

「どうして?」

「死んでしまう者は誰かの心を引きずってはならないから、誰も巻き込んではならないから」

「それって、すごく寂しいね」

「仕方がないよ。最後には人は一人で死ぬしかない。誰かを道ずれにしてはならない。物語で語られる、死んでしまう者との恋は現実的じゃない。どうせ死ぬようなやつは、せめて誰も巻き込まずに死ぬしかない。誰かを巻き込むようなやつはよっぽどの自己中だ」


 それを聞いて、彼女は寂しそうに笑った。


「どうせ死んじゃうんだから、淡い夢を見させてあげればいいのに」

「だめだ。それはあまりにも自分本位が過ぎる。大切なのはもうすぐ死ぬ人間ではなく、これから生きる人間だ」


 事実だけを、効率だけを見るならば、そこは美化してはならないところだ。

 老人よりも子供の方が、ずっと尊い。若者よりも老人が尊ばれるのは、弱者が守られるようにと世界が回っているからだ。老人と子供、同じ弱者で比べれば、優先されるのは未来のある方となる。


 もうすぐ死んでしまう人間の感情には大した価値がなく、それに巻き込まれる人間への影響を考えるべきである。死んでしまえば、意味などすべて剥奪される。臭い肉の塊が、いくら悲壮な過去をもとうが、肉塊である時点で、それそのものは感情を持たない。


「そっか。『死んじゃうクン』も結構他の人のことも考えてるんだね」

「そうなのかもしれないね。違うと思うけど」


 電車が、止まる。目的地。

 人々が一斉に電車から放出される。僕も流れに沿おうとするが、なぜか彼女が動く素振りを見せないので、電車からでられなかった。


「ご、ごめん。体、動かなくて。……病気のせいで」


 現実迫観念症。


 よほどさっきの話が心に来たのか、彼女は体をこわばらせていた。

 よほど一人で死にたくないのだろう。まあ、だいたいの人はそう思う。


 僕は電車の扉が閉まる前に、彼女の手を引いて外に連れ出した。

 背後で、扉の閉まる音がする。


 僕は彼女の体調のことを聞いたりしなかった。聞く必要もなかった。

 重要でも何でもないことだった。僕に関係のないことだった。


「『死んじゃうクン』は先にいかないの?」

「いかないよ」


 彼女は弱気に笑う。


「……私を置いて、先に行っちゃうのかと思ってた。君って、誰のことも気にしない、そういうイメージがあるから」


 冷酷な人間。

 本来なら、彼女を待つ理由なんて、これっぽっちもない。それは事実で、本来ならそれが実行される予定でもあった。


「約束したからだよ」と僕は言う。


 彼女はますます身をこわばらせる。


「いつか一緒に死のうねって、約束したでしょ。『一緒に』だ。だから僕は、君を待つよ」

「……うん、うん」


 僕は彼女と約束をした。


 僕はかつて、嘘をつきたがらない人間だった。ルールを守る人間だった。品性公正であろうとした、人間だった。

 ……かつての僕の話。今はまるで違うのが現状で、かすかな過去に縛られているのが今の僕だというだけだ。


 そのかすかな過去の僕の特性は、『約束した』彼女を置いていくのをなんとなしに拒否した。

 完全な理屈が通っているわけじゃない。でも「いつか一緒に死のうね」と誓い合った相手を置いていくのは、なんだか後ろめたい気がした。感情論。


「一緒にいるから」

「なんで、そんなこと言うの?」


 僕の一言に、彼女はますます顔を歪めた。

 苦しそうに震えている。より一層、僕の手を握りしめる。決して離さないようにという意志が、そこから少しうかがえる。


「……余計、動けなくなっちゃったじゃん」


 そして彼女は「……ばか」と小さく呟いた。


 ◇


 駅から出た僕らを待ち受けていたのは、一台の車だった。

 運転席から、サングラスをかけた鷹野瞬が顔を出す。


「よお、そこの高校生二匹。おまえらデートか? とりあえず俺の車に乗ってけ。楽園に連れてってやる」

「……いや、なにやってんの」


 いろいろと。


「お兄ちゃんは不良だからね。車の運転も、できてしまうんだよね」


 助手席からそんなことをいったのは、鷹野瞬の妹だった。

 サングラスをかけている。サングラスの兄妹。ペアルック。


「俺はだいたいなんでもできるからな。実質無敵だ」

「お兄ちゃんは高校生にして、事故ったことは二回しかないからね。安心して車に乗りなよ」

「おう。俺に三度目はない」


 もうなんか、怖すぎる。


 僕があっけにとられていると、なぜだか彼女は早くもシートベルトを締めていた。


「『死んじゃうクン』、なにやってるの? 早くしないと置いてかれるよ」

「……いや、高校生が運転って、おかしいでしよ。違和感を感じないの?」

「何言ってんの。私も内心ドン引きしてるよ。でもここまで来たからには仕方ない」

「はっはっはっはっ!」


 鷹野瞬の高笑いが、虚しく響く。


 ……彼がだいたいの荷物を担当する、といったからには、車を使うのだろうと思っていた。しかし、それは親戚か親が車を回してくれるのだと、そう思っていた。


 観念して、僕は彼が操る車に乗り込む。


「おい、最高に楽しいな?」と彼は嘯く。


「僕はあんまりかな」

「おいおい、そんなこと言うなよ。なーに心配するな。じいちゃんにしっかり運転は教わってる。ちゃんと俺はできるから」

「でも事故ったんでしょ?」

「まあ、眠かったからな。仕方ない」


 言うことが完全に犯罪者のそれだ。

 たぶん、冗談のつもりなのだろう。面白くないけど。


 ……事故、といっても範囲は様々なので、せいぜい車体を軽く傷つけたとか、そういうものだと僕は解釈しておく。


「準備はいいか野郎どもー!」


 鷹野瞬が声のボルテージを上げる。


「よくないでしよ。いやほんとに」

「いえーい! お兄ちゃんサイコー!」

「いえーい! 夏がきたよー!」


 なにげに彼女が妹の声に追従している。

 世の中はマイノリティの正しさを掻き消すものだ。

 そうして、僕の声は無と化した。狂人どもの宴に取り残された気分になりながら、僕はため息だけを吐き出している。


 反対に、彼は感心したように息を吐きだしている。


「やっぱり俺の妹はよくできた妹だなあ。あと部長も」

「突然シスコンみたいなこと言わないでくれよ」

「お兄ちゃんー! 愛してるよー!」

「おう、俺は愛されている」


 この人たちってこういう関係だったのか、と僕は思った。

 まあなんというか、想像以上に仲が良いというか。

 彼が「愛されている」ことを自覚するぐらいには、直球の愛情なのだというか。


 車がついに発進する。


「二度あることって三度あるよねー」


 事故のこと。

 妹がそんなことをぼやく。

 これが物語なら、このさりげない台詞は伏線となり、僕ら四人は交通事故で死ぬだろう。

 まあ、もちろんそんなことは起こらない。異常なことが起こっているけれど、残念ながら今の状況は夢でも何でもない、現実だ。


 ◇


 車を降りて、吸い込んだ空気はとても綺麗なものだった。


「つーいーたー!」


 彼女は元気よくはしゃいでいる。

 一方で、鷹野瞬の荒っぽい運転から逃れた僕は、疲れたような気分で胸に手を当てていた。

 死をも恐れぬ僕をここまでうろたえさせるとは、彼もなかなかの才能を持っている。僕は心の中で、皮肉っぽい賛辞を彼に向けて飛ばした。


 ぽん、と肩に手を置かれる。鷹野瞬。


「安心するのはまだはやいぜ」

「……どういうこと?」

「今から山登りだ。重い荷物、男二人で運ぶぞ」


 僕はそのことを女尊男卑だとか、性差別の横暴だとかをいって抵抗してみたが、どうにもならない問題なので早々に観念した。


 僕と彼は重い荷物を運びながら、女二人はルンルンと山を登りながら、目的地へと進んでいく。

 彼女と妹はそこそこに仲が良い。きっと気が合うのだろう。

 二人が似たようなタイプの人間だと思えなかったが、そういう事例は探せばいくらでもあるものだ。


 苦しみ呻きながら前進する男二人は、羨ましそうに女二人を後ろから眺めている。


「瞬。荷物、だいぶ君のほうが多く持ってるけど大丈夫?」

「ん? ああ、心配すんな。俺は平均よりもだいたいのことがだいたいうまくできるように生きて来たからな。力はそこそこに強いぞ」


 そういう彼の体つきは、確かに引き締まっている。

 いつもは気にしないが、夏の薄着から覗く腕、足の筋肉の付き方は、確かに見事なものだ。物語のように奇跡的な筋肉の付き方ではないが、一般的な高校生が頑張って手に入れられるような、現実的な凄さというか。

 不真面目そうに見えて、彼は生きてきたことに対しての積み重ねを持っている。


「なんだか嘘みたいだ」と彼は言う。


「どうしたの急に」

「……いや、なんだかこの光景があり得ないもののような気がしてさ。こんな俺が友達と夏休みを過ごしてるんだ。山の中で一泊するとか、作り話みたいなことを今からするんだ」

「別に、高校生なら夏休みにどこか旅行に行くぐらい、珍しくないと思うけどね」


 そういうことじゃないんだよなー、と彼は穏やかに言う。


「高校生が車を運転したんだ。それで旅行にいくんだ。なにより、俺なんかが、今までこんな楽しい行事をしたことのない俺なんかが、こんな夏休みを迎えたんだよ。だから、嘘みたいなんだ」

「現実が信じられない?」

「まったくもって」


 僕は自分の肩にのしかかってくる荷物のことを感じた。こんな苦しい力仕事を押し付けられているところが、やけに現実味を帯びさせる。

 楽しいことの中に辛いことがある。すべてが楽しいわけじゃない。そういうものを感じているから、僕は目の前の現実を現実と受け止めている。


 でも、今のこの荷物の重さが、うっとおしいぐらいの夏の暑さが、目的地まで行く距離の長さが、彼にとっては苦痛ではないのかもしれない。

 すべてが楽しく感じられてしまい、現実味を帯びない。だから『嘘』みたいに感じられる。


「今の現実が物語みたいで、作り話みたいに思えるんだよな。俺が受け取れっていいものじゃないように思える」

「自罰的、もといネガティブだね」

「まあ、そう言うなよ」


 彼は本当に珍しく穏やかに、幸せそうに笑っている。


「なあ、俺思うんだよな。絶望を跳ね返すためには、死にたいを掻き消すためには、なにか圧倒的なものが必要なんじゃないかって。心の底からの感動とか幸せとか、自分を永遠に誤魔化せるぐらいの圧倒的なものだ。ずっと持続できる、一生の思い出だ」


 我らが部長の気持ち、わからないわけではないんだよなあと彼は笑う。


 夏の思い出を作りたい、と言っていた彼女。

 圧倒的な思い出。

 作り話みたいな、物語みたいな、そういうもの。


 どこか作為的にすら思える幸福感。

 多福感に溺れること。


「俺、生きるための目標、決めたわ」

「どんなの?」

「『圧倒的な物語を作る』だ。俺にとっての俺の物語は、俺の行動によって作られる。俺は自分が持てる技術を使って人生を演出し、楽しいものにする。誤魔化しかもしれない。まやかしかもしれない。都合のいい幻想でしか、ないのかもしれない。でも、俺はこの目標を掲げて頑張ってみようと思うんだ」


 圧倒的な物語。


 自分の人生を丁寧に組み立てて、『嘘みたいだ』と自分に言わせたくなるような状況にする。

 こんなに恵まれてていいのかって思うぐらい、今の自分からは信じられないような現実を組み立てる。


 嘘みたいな現実を、『物語』と彼は表現した。

 それを紡ぐのが彼の願い、誓い、秘めた決意。


 鷹野瞬は死にたがっている。

 生きる意味なんてないと妄信している。

 でも、彼は一度それをやめてみるという。地に足のつかない思考を止めて、現実を真摯に受け止めてみようと、彼だって無茶だと思うことを実行しようとしている。


 彼は能力がないわけじゃない。

 勉強ができないわけじゃない。運動ができないわけじゃない。顔が悪いわけじゃない。


 彼はきっといい方向に進み始めた、のだと思う。

 それはとても素晴らしいことだ。


 僕は空虚に前方を凝視する。

 彼女と妹。楽しそうな二人の人間。


 ……裏切られたような、気持ちだった。


 彼は少なくとも、無意味に空虚に絶望して、いつか死ぬのだろうと思っていた。

 仲間意識のようなものをもっていた。


 裏切られた、なんてお門違いな心情だと思う。


 彼は僕とは違う。

 僕は彼とは違う。


 彼女だって僕とは違う。彼女は真摯に生きて、綺麗に死にたがっている。僕とは、まったくもって違っている。


 おいていかれるような感覚。でも、それでいい。


 僕は一人で死ぬ。

 何の意味もなく、堕落して、周りを貶して、死んでいく。

 世界のすべてはどうでもよくて、関係がない。


 ……圧倒的な物語。僕だってそれが欲しかった。


 でも僕は失敗した。

 今だって、彼女を見つめれば吐き気がしてくる。

 変容した概念が僕を責め立てる。好きなものを嫌いだと、感覚が告げてくる。


 希望の一切が存在しない。


 負の意味で、僕は圧倒されてしまった。

 ……でも、それはそれである意味楽しいのだ。

 これは、負け犬の遠吠えか?

 たぶん、世間一般的にはそうなのだろう。『違う』と言うようなやつは僕だけでいい。誰かが僕を理解する必要なんてない。


 ◇


 着いたのは自然み溢れる空間だった。

 キャンプ場は木々に囲まれ、近くでは川が穏やかに流れている。テントの跡地がちらほらと残っている。河原にはたくさんの石が転がっていて、サンダルを履いて川に行く連想を抱かさせる。

 それと、じりじりと焼くような日差し。


「暑いな」と鷹野瞬が言う。


 テントは組み立てた。バーベキューもセットした。食材は日陰に置いてある。


 僕らがこういうことをしている間、なんと女性陣たちは川で水遊びをしていた。サボりだ。男を奴隷として見ているのだ。

 まあ、別にいいんだけど。


「きゃっ、冷たっ! 妹ちゃんやったな~」

「ひゃっ、なかなかやるじゃないですか。仕返しの仕返しです!」


 ずいぶんと楽しそうだ。


 僕ら男二人は、木陰に入ってそんな姿を眺めている。


「馬鹿みたいだよな。あんな水ごときでキャーキャー騒いで」

「女子ってそういうものでしょ」

「まあ、そういうもんだ。女子だもんな」


 彼は深くため息をつく。そして急な話題の転換をし始めた。


「二人ともかわいいよな。どっちが好みだ?」

「僕は人類すべてが好みだよ」

「そっか。俺はやっぱり妹の方かな。すげえかわいい」

「シスコンだね」

「まあでも、真面目に俺の妹の方が可愛くないか?」


 どうなのだろうか。二人とも、顔立ちはかなり整っている方ではある。

 妹の方は顔がきつい系の美人だと表現できるし、彼女の方は明るさが似合う無邪気なかわいさがあるタイプだ。

 前者の方が好みの人は好みだろうが、後者の方がモテる度合いは上のような気がする。


「おい、惚れるなよ」

「惚れるわけないでしょ」

「なんだと? 俺の妹が可愛くないと?」

「君ってめんどくさいよね」


 兄弟愛。


 水着姿の女子をみながらだべる僕たちは、なんだかいつもと変わらなくて、屋上にいるときみたいだ。

 くだらないどうでもいいことを言いあって時間を潰す。特別楽しくもつまらなくもない、無意味な時間。

 僕はこういう時間が嫌いじゃない。


「よし、変態みたいに女子じろじろ眺めるのはやめて、そろそろバーベキューするかー」

「自覚はあったんだ」

「テント組み立てたの俺達だし、あとのことは女子たちに頑張ってもらおうぜ」

「了解」


 女子たちにバーベキューを始めることを大声で告げる。

 彼女たちは晴れやかな顔で戻ってくる。水着姿で。


「うーん! 川に入った後だと、おひさまが気持ちいいね!」

「それはよかった」

「『死んじゃうクン』は水着に着替えないの?」

「いや、そんなもの持ってきてないよ」

「えー、せっかく川あるのに、もったいない」


 彼女はルンルンと、妹と共にバーベキューの準備を始める。


 やることがなくて、僕は結局木陰から彼女たちの様子を見ている。

 水着姿の彼女。着替えないのだろうか?

 ……僕はなんとなく気まずくて下を向く。


 その時、僕の顔に水がかかった。

 顔を上げれば、にやけた面の鷹野瞬が目に入る。

 彼はでかい水鉄砲を持っていた。二丁も。


「どうした少年、表情が暗いぞ」


 水鉄砲が発射される。


「そんなことでは夏を乗れきれないぞ。戦うんだ」


 水鉄砲が発射される。


「ここは『楽しい』物語の上だ。ほら、楽しんでみろよ」

「……ねえ、服の替えとか、あんまり持って来てないんだけど」


 水でべたべたの服の状態で恨みがましく言うと、彼は澄まし顔で片方の水鉄砲を放り投げてきた。


「そうだな。一方的な戦いは俺の好みじゃない。水鉄砲は二つあるしな。おまえにも一個やるよ」

「いらないよ、めんどくさい」


 彼が水鉄砲を構える――。


「くそっ!」

「ははは」


 この水鉄砲、結構な距離まで水が飛ぶ。それと結構勢いが強い。

 市販で買ったものだろうか? なんにせよ、ちょっとだけ値が張りそうだ。


「ははは! 楽しいな?」

「楽しくない!」

「おーおー、頑張らないと一方的に弾が当てられるぞ」


 躍起になって、僕は彼を追いかける。なんというか、やられっぱなしは癪に障る。

 僕に残されたわずかな感情の一つ、怒りが彼を追いかけさせた。

 絶対に同じだけの仕返しはする。僕は一度立ち上がってしまった。

 無関係、どうでもいいという言い訳が使えなくなってしまった。こうなってしまったからには、意地でも彼には仕返しをしなければ気が済まない。


「男子っていつも戦いに喜びを見出すよねー」

「ですよねー、お兄ちゃん銃のゲームとか好きなんですよ。いったいなにがいいんだか」

「まあ、男子ってそういうもんだから」

「ですよね、男子ですもん」


 女子たちの勝手な話が聞こえてくる。

 ……勝手にそう思っておいてくれ。


 表現するのも恥だが、僕と鷹野瞬が騒いでいるうちに、女子たちはバーベキューの準備を整えていた。


 水でべたべたになった僕たちは荒い息をつきながら、なんとか女子たちのところまで帰還する。


 彼女が呆れたように言う。


「濡れすぎ。着替えてきたら? 特に『死んじゃうクン』は」

「……いい。別に負けたわけじゃない」

「意味わかんないこだわりは捨てて! さあさあ!」

「あ、お前の分の水着も持ってきたぞ」

「……意味わかんないんだけど」


 妹がくすくすと笑っている。

 納得いかなくて、僕は妹の方を凝視する。


「いや、なんか楽しいですね」

「はい?」

「怒んないでくださいよ先輩」


 先輩。妹は初めて僕のことをそう呼んだ。


「私、最初この同好会に入ろうとは思わなかったんです。お兄ちゃんがいるから入っただけで、楽しむ必要はないって、そう思ってました」

「ふうん。じゃあ今は違うんだ」

「はい。こういうのって悪くないなって思ってます。いろんな人の珍しい顔が見れてわくわくするんです。先輩のそういう感じ、初めて見ましたし、お兄ちゃんがあんなに楽しそうなのも久しぶりですし」

「内容は人を水浸しにして喜ぶ悪魔の所行だけどね」

「まあ、今は夏ですし、それもいいんじゃないですか?」


 妹はご機嫌に笑った。

 僕は、納得いかない。


「おい、着替えに行くぞ。女子たちは覗くんじゃないぞ」

「お兄ちゃんたちの着替えなんて誰も興味ないよ」

「はっ、俺たちが水にぬれてる姿を見て喜んでたくせに」

「もうっ! そういうのじゃないって!」


 僕たちはテントに籠って着替えをすませた。

 ……これで全員水着姿だ。


「なあ、俺達って今最高に青春してるよな」

「君、受験生なのにね」

「おまえもだろう?」

「僕らは関係ないよ」


 ◇


 火をつけるのは鷹野瞬の得意分野だった。

 彼はわりとなんでもできる。タバコも吸うし、車も乗れるし、火だってつけれるすごいやつだ。若干法に抵触しているような気もするが誤差のようなものだろう。

 まあ、普通に良い存在ではないのだが、僕は嫌いではない。


 肉を焦がしながら、妹が野菜を拒否しながら、せっかちな彼女が生焼け肉を食べようとしながら、バーベキューは進んだ。


 確かに、嫌な時間ではなかった。周りが笑っていることが楽しんでいることが、辛いとか苦しいとかになるわけでもない。

 僕はベジタリアンを気取って肉を食べなかったが、それを見越したかのように魚も多く焼かれていた。……肉が食べれなくなった、と彼に話したことがあったような気がする。


 夏だから、バーベキュー中はとても暑かった。女子たちは僕たちが水着姿なのを言い訳に、着替えようとしなかった。というより、このまま僕らを川まで引きずり込むつもりの様だった。


「お兄ちゃんを沈めましょう」

「『死んじゃうクン』も沈めておきたい」

「いいですね!」

「楽しそうだよね!」


 女子たちは血気に盛んな者たちが多いので、男子たちを沈める計画に夢中だ。


「お前らごときに沈められると思うな」と彼がなぜか喧嘩腰に言う。


 おどけたような言い方。


 妹の方がそれに対抗した。二人は川の方に行った。仲のいい兄弟たちだ。


「『死んじゃうクン』。私たちもいこ?」


 僕は嫌がった。


「ひょっとして泳げないとか? 川、人を沈めれるぐらいには深いもんね」

「……」

「あれ? ほんとに?」

「うるさいよ」


 ――概念の変質。


『水の中に入ること』は化け物の口の中に入ったかのような錯覚を呼び覚ます。

 昔の僕は泳げた。でも、今はどうなのだろうか?


 なんで、なんでこんなバカげた概念が侵入してきてしまったのだろうか?

 たぶん、昔映画でみたイメージに引っ張られているのだ。海で登場人物が漂っている。サメが登場人物の血の臭いを嗅ぎつける。そして、食べる。


「ほっといてくれ。嫌いなんだ、こういうの」


 彼女は僕の弱点を気分がよくなるんだろうなと思った。それは少しだけ腹だたしかったが僕にどうにかできるわけでもなかった。

 勝手に誤解しておけばいい。僕の痛みを知らずに、泳げないと断定し、馬鹿にし、兄妹と楽しんでくればいい。

 僕は理解を求めていない。他人が僕のことをどう思おうと、関係がない。


「ねえ、大丈夫? 様子、変だよ」


 僕はまったくの無表情だった。


「変? 僕はいつも通りだよ」

「……ずっと一緒に過ごしてきたんだもん。平気なフリしてても、わかるよ」

「いや、わからないはずだ。君は鎌をかけている」

「まあ、私はここにいるよ。ちょっと疲れたし、休憩する」

「――同情のつもり?」


 そんな僕の言葉から、いったいなにを読み取ったのか。

 彼女は少し傷ついた素振りを見せながら、静かに口を開く。


「約束したでしょ」

「……」

「『一緒に』だよ。同情なんかじゃない。君がここから動かないという状況がそうさせるんだよ。わかった?」

「……そう、好きにするといい」


 彼女の言い分は不器用で、なにを考えているか丸わかりだった。

 約束は言い分けでしかない。僕が同情されることを嫌がったから、無理やり理由付けしている。


 でも、それで怒りが、溜飲が下がっていく気がした。

 僕は自分の様子に戸惑う。

 彼女の憂いに満ちた表情が、僕のことを想った行動をしたということが、それが僕を満足させた。その事実が苛立たしく、泣きそうになった。


 世の中のすべてはまるで僕に関係がない。

 誰がなにを思おうと、僕にとってはどうでもいいことだ。


 そのはずなのに、僕は今そう思えていないのだ。あまりに僕は人間的な感情に呑まれていてで、自分をコントロールできていない。あまりにも情けない。


 ――彼女のことが嫌いではなかった。


 でも僕が『好ましい』と認めた人間は『嫌悪』に置き換わる。吐き気がするほど疎ましいものとなる。

 僕はいろんなものに『どうでもいい』を張りつけられなければ、世の中に耐えられない。


 何も感じないかすべてを疎ましく感じるか、二つに一つだ。それなら僕は、せめて無感情でありたかった。痛いも苦しいも、嬉しいも楽しいもいらなかった。

 でもどうしても、外的要因が僕を搔き乱す。


「一緒にいるから」と彼女は言う。


「何も言わなくていいから、何も感じなくていいから」


 彼女は、彼女は。


「ね?」


 そうやって微笑む彼女の姿は。


 苦しい。押しつぶされそうになる。やるせなさが込み上げる。


 ◇

 《ここまでで八》



「俺は水中戦が苦手なんだ。同様に空中戦も苦手だ。俺は地上戦しかできない。だって地球を愛しているから」


 僕らは一通りはしゃげ終わった後、鷹野瞬は唐突な自己弁護を始めた。

 一度、鷹野瞬は妹に川に沈められていた。この兄、なんで妹に負けてるんだか。


 今は夜。黒々とした夜空には星が瞬く。

 木々は影となり、風景は色を失った。夜空と焚火だけが、色としての存在を強く主張する。

 自然の中にある炎、星。川の流れる水音。木々の騒めき。

 蝉の騒ぐ音は聞こえない。代わりにコオロギたちの合唱が、生き物の音としての覇権を取っている。


 今、僕たちは移動していた。一通り遊び終えた僕らは、しめとして花火をやることになったのだ。テントの張ってあるキャンプ場では、草木がありすぎるので、最初に車を止めたところまで戻っている。


「秘密兵器もあるんだぜ」と彼は高らかに言う。


「ふーん」と僕は答えた。


 僕は鷹野瞬と、彼女は妹と、並んで歩いている。

 僕と彼は、暇つぶしに会話を行っている。


「現実的かどうかを判断するのは、状況が妥当かどうかで決まると思うんだ。物語において、受け入れられるかどうかは、必然性があるかないかだと俺は思う」

「ふうん。君って、突然神様が主人公を助ける展開とか、いかにも嫌いそうだよね」

「まあな。主人公にその物語の都合が良すぎると、違和感を感じるよ。でも……なんというか、突然の幸運は受け入れがたいのに、突然の不幸とかはすんなり受け入れられるんだよな」

「例えば、突然主人公の親が急死したりする話とか?」

「そうそう。まあ、『不幸が起きた』から物語が始まって、主人公は苦しんで、乗り越えていくっていうのは、物語の『起』として認識するから、それですんなり受け入れちまうのかもしれない」


 突然の不幸。

 主人公の大切な人が死んで、そこから物語が始まること。


「それって、物語の都合で不幸が起きただけだよね」

「ああ、ある意味でのご都合主義だ。でも、幸運よりも不幸の方が、突発的に起こるものとしては受け入れやすいんだよな。突然宝くじが当たるよりも、両親が交通事故にあった、の方がなんだか現実的じゃないか?」


 それは僕らがネガティブな人種だからなのかもしれない、と思う。

 しかし、ほとんどの人は宝くじが当たった知らせよりも、大切な人が交通事故にあった時の方が現実味を感じるだろう。

 そういうものだ。幸せよりも不幸を過敏に感じ取りやすいのが人間である。痛いのも痒いのも、その感覚を知っていれば避けようとするからだ。痛いや痒いを感じる能力があるから、人間は学習しようとする。肌に残る感覚が、人間に行動を促す。

 そうやって『嫌なこと』を強く認識するように、人間はなっている。


「瞬、君って不幸になりたいわけ?」

「そういうわけじゃないさ、ただ……」

「ただ?」

「今この瞬間に、現実味がないんだ。楽しいだけで俺の人生が成立するのは、なんだか変な気持ちがするんだ」


 鷹野瞬の物語。


 不幸なき世界。現実味が感じられない、作為的な世界。


 一貫していて、揃っているのは変なんだ、と彼は言う。


 二律背反。善と悪があるからこそ、そこは現実と呼べる。

 白も黒もあるのが現実世界。

 正しさが一つではないのが現実世界。

 幸運と不幸がまぜこぜになっているのが現実世界。


「物語のアンチテーゼだ」と彼は言う。


 まぜこぜであること。


 例えば、と彼は続ける。


 登場人物は一貫できるのは非現実的に見える。それは物語的なんだ。楽しそうなやつはいつも楽しそうに過ごすのは物語的だ。皮肉的なやつが一度も素直にならないのは物語的だ。常にキャラが自分というキャラを守って行動するのは、物語的であって、どこか作為的だ。


 だってそうだろ?


 楽しそうなやつだって、どこかで傷ついて悲しんでいる。悲しそうなやつだって、家に帰れば案外楽しく家族と過ごしているかもしれない。


 楽しい表情をしているやつが実は楽しんでいないなんてよくある話だ。作為的ではない現実的ってのは、こういうものなんだ。


 一貫するわけがない。見せる姿全てが真実本物なわけがない。


 人を救いたいと願い、人を殺したいと願う。矛盾した思考に見えるかもしれない。でも本来、人はそういいうことを思う生き物だ。嫌いなのに好き、とか。全部がぐちゃぐちゃに合わさっているのが、現実なんだ。


 そういうものこそが、物語的ではない、現実ってやつなんだ。


 ――本心から死にたいとずっと(、、、)願ってる奴なんて、ほんとにいるもんなのかな?


 彼は、自分を物語の中に置いた。だからあらゆることを疑い始めた。画一化された現実を不自然と感じ、躍起になって綻びを探そうとする。

 自分を疑い始める。そして、僕のことも。


 彼はこういう生き方しかできないのだろう。そして、この生き方はきっと不幸だ。差し出された幸せを素直に受け取れないものなど、社会不適合者の極みだ。生きることに向いてない。


 僕は彼の言葉を気にしなかった。まるで相手にしなかった。



 されど物語的、という言葉は少し胸に響いた。僕は自分を偽っている自覚がある。ある役を演じているのだと、知っている。それは作為的と呼べるものである、まやかしであり、幻想であり、物語的と呼べるものだ。

 嘘で塗り固めた僕の世界。……でも、これで正しいはずだ。


 やがて、僕らは車を止めたところまで辿り着く。








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