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色褪せ

「いつか一緒に死のうね」



 そんな約束をした。

 本当なら、そんな言葉はすぐにでも否定するべきなのかもしれない。

 でも僕だって彼女だって、生きる目的を持っていなかった。生きる時間だってなかった。


 今は高三の五月、散り損ねた桜の花びらが地に舞い落ちていく様子を見ていた。

 僕らは病人。病院の屋上から、高い位置から地上を偉そうに眺めている。


 憂鬱げな彼女の横顔を、僕は眺める。

 結局「そうだね」と僕は答えた。彼女の言葉を否定する気力がなかったし、どうだってよかった。


 生きるとか、死ぬとか。

 約束を守るとか、守らないとか。

 興味がなかった。


 うん、と彼女は答える。僕の返事になんの意味もないみたいに。

 ――死期が迫っている病人がするべきことはなんなのだろうか、と彼女を見ながら考える。やはりそれは、個人の裁量によって決められるべきなのだろう。

 刺激的な日々を送ろうが、いつもと同じ日常を送ろうが、どちらでも構わないはずだ。


「きちんと正しく死にたいね」と彼女は言う。それもまた、死期が迫る病人が取れる選択の一つなのかもしれない。


 僕は軽く頷く。きちんとした死に方なんて、僕にはわからないが、彼女には彼女なりの死に方が思い描かれてるはずだ。僕が関わる余地なんてない。


 予想ばかりを立てている。聞けばすむものを問い詰めたりしない。そういう現状に満足して、完結している、それが僕という人間。


 夕暮れ時が迫って来ていた。赤い光が彼女を照らす。長く、整えられた黒い髪。ほっそりとした手足。ぱっちりとした目と、伏せられたまつ毛。僕と同学年である彼女は、はっきりいって容姿は優れているように思えた。僕のような価値のない人間と違って、生きる価値があるように思われた。


 けれど死んでしまえば僕だって彼女だった同じ、臭い肉の塊だ。価値はほとんど等しいものになる。


 こういうことを考えると気分がいい。死に向かう病人に許された卑屈な考えは、僕にとって数少ないアイデンティティーのようなものだ。別にこういう考えを咎められても笑い飛ばせるのは、僕が失うものなんてなにもないからだ。


「もっと生きていたくはないの?」


 と僕は試すように聞く。


 彼女は笑って答えた。


「もったいないな、とは思うよ。生きられないのは。でもいいかなって思うんだよ」

「へえ」

「妥当な結末かなって、思うんだよね」

 それで会話は途切れた。


 なにをもって妥当なのか、なにをもって彼女が完結しているのか、僕にはわからない。

 想像する余地すらもない。

 でも頑張れば、少しぐらいは想像できたかもしれない。


 彼女の思いを、苦痛を、悲しみを、やるせなさを。


 推して図るべきだったのかもしれない。


 でも僕はどうでもよかったのだ。死期が近い人間としてなげやりな生き方をすることを選択したから。いつだって「どうでもいいや」と考えていたから。


 ――でも、けれど。


 もしも、僕がもっと想像力を働かせていたら。

 もしも、彼女に共感しようとしていたら。


 ……なにかがかわったかもしれない、のだろうか?


 たぶん何も変わらない。変わらなかっただろう。

 僕は彼女を死にたがりと決めつけた。


 ◇


『概念色欠乏症』


 それが僕の病気に与えられた名前だった。

 つい最近になって、いろんなことがわかるようになってきた病気。昔から存在していた病気の癖に、なぜつい最近になってわかるようになってきたのかは理由がある。


 患者は主に、色を失っていく。例えば、健常者が『赤』と定義する色があるとする。


 患者は病気の進行に伴って、『赤』が『青』に見えるようになる(緑に見えるようになったり、変化は人によって様々だ)。そして今まで『青』に見えていた色が『赤』に見えるようになる。

 だがその中身は同じものだ。信号の色が青く見えるようになったからといって、現実で青となるわけではない。そしてそれは患者にだって本来の色は自覚できる。


 色の反転は頭で考えれば理解できるし、日常生活においてそこまでの支障はない。

 そしてこの病気の面白いところが、「患者がその色を赤と認識しない限り、反転は起こらない」ということだ。つまり、オレンジには「赤」が含まれているが、それはオレンジそのままの色として認識される。


 目の病気ではない、脳の病気。


 患者の脳内で起こる出来事がゆえ、説明は難しく、検証は不可解なものとなる。


 こんな命題がある。


『あなたの見る赤色は、他の人が見る赤色と全く同じものなのだろうか?』


 今だって証明する手立ては存在していない。『赤』は人が赤と認識するから赤になるのであって、自分の視覚情報を完璧に、そのまま他者に伝達する手段など存在しない。


 概念色欠乏症の患者は世の中に違和感を覚えながら、誰にも理解されることはなかった。


 いつの間にか死んでしまうから、なにかの病気なのだろうということだけがわかっていた。


 現代の脳解析によって、脳に異変があることが察知できるから、それで今は、概念色欠乏症という病気が認知されている。


 ◇


 僕の病名が診断された次の日のことだった。

 高三の春、新学期早々ついてないな、と他人事みたいな悪態をつきながら、僕は病院を出た。

 そこで僕らは初めて出会ったのだ。


「やっほ」


 明らかに待ち構えていたとわかる登場をしたのは、同じクラスメイトの女子だった。


 ほとんど関わったことがなかったクラスメイトの挨拶は、僕を困惑させるばかりだった。


「……やっほ」

「ノリいいねー。同じ病院勤め同士、よろしくね」

「何か用?」

「用? 用はあるよね。呼び止めたんだもの」


 とびきりの秘密を抱えてるみたいに、彼女は勿体ぶる。どうでもいいや、と思って彼女の横を通り過ぎようとする。


「仲間意識、あるんだよね。君に対して」


 興味がない。


「今どんな気持ちなのかなって思うんだ。同族として」


 どうでもいい。


「まあ? そういう意味では私は君の先輩だしね!」


 一人でしゃべり続けているかわいそうな子がいるな、という認識を僕はしていた。


 ――背後から、からかうような声音が放たれる。


「ねえ、『もうすぐ死んじゃうクン』は今どんな気持ちなの?」

「……」

「聞いてみたいんだよね、同族として。今後の人生の参考として」


 彼女が僕と同族だというのなら、残りの寿命はあと一年もないということが予測できた。今後の人生の参考、は皮肉的な意味で使われているのだ、と思う。将来のない彼女の暇つぶしが、今行われていることだ。災害的な運の悪さ。


「ああ、こんなもんかって思ったよ」

「……」

「強がりかもね。死にたいわけでもないし。でもまあ、抵抗しても無駄なんだろうなってわかった。だから精一杯、いじらしく僕は死ぬことを消化しようと思うんだ。どう、面白かった?」


 暇つぶしに絡まれたことの腹立たしさが、僕の言葉を攻撃的なものにしていた。


 精一杯、いじらしく。とんだお笑い草だ。死へ抵抗を諦めたものが「いじらしく死ぬ」なんてまるで同情できない案件だ。そんな奴は勝手に死ねばいい。死ぬことに対して同情を買おうとするべきではない。


 僕の言葉はおそらく「いじらしく死のう」としている彼女に対しての嫌味のようなものだった。僕はもうすぐ死ぬような人間の大抵は、「同情されて死にたいと思っている」という偏見を持っていた。


「へー」


 しかし、返ってきた言葉は、彼女の様子は、予想外のものだった。


「君、面白いね。怒ったからなのかもしれないけど、死ぬことに対してあまり怯えてないみたい。実際は違うかもしれないけど、『そう振る舞えてる』」

「あ、そう」

「もしかして自殺しようとしたことでもある?」


 あるわけがない。そんな理由を持つほど、落ちぶれちゃいない。


「へー、ないんだ。だとしたら咄嗟にこんなことを言えた君は相当変人だね。まるで日常的に死ぬことについて考えてた経験があるみたい」

「言葉を返すようだけど、君も相当な変人だよ。僕の目に映る君は、もうすぐ死ぬ人間をからかおうとした低俗なやつだ」

「あ……そっか。ごめんね、それはちょっと悪かったかも」


 今更になって気づいた、という様子を見せる彼女に狼狽させられる。


 僕は無神経な質問をする彼女に対して、怒りを抱いたのだ。

 ……でも、彼女に悪気はなかった?

 だからといって彼女のしたことがなくなるわけではないけれど、僕だって彼女に対して攻撃的になるべきではなかったのもしれない。


 なぜ僕がこんなことまで考えたかというと、彼女に対して想像を働かせたからだ。

 今までの会話で、彼女の死期が近いのは見て取れる。だから、彼女は焦ってしまったのかもしれない。


 贔屓目かもしれない。けれど、死期が近い同族として、少なくとも僕は彼女を責める気にはなれなかった。


 彼女の焦るような様子を眺める。冷静な人間を気取っていたのにボロがでて、取り繕うとする愚かな人間を眺めている。


「君、似合わないことをしようとしたんだね」


 僕はそんな言葉を放った。勝手に相手のことを理解したフリをしたセリフ回し。

 意趣返しとして僕は言葉を続ける。


「『もうすぐ死んじゃうちゃん』は焦ってるんだね。まるで最近残りの寿命がはっきりしたみたいだ。それで、相手の気持ちを考えずに、とにかく焦って話しかけてしまった」


 よくよく見れば、彼女の息遣いはわずかに乱れているように見えた。まるで、ついさっき僕の病気のことを知って、急いで追いかけて来たみたいに。

 僕は彼女に質問をぶつける。


「――あとどれぐらいで死ぬの?」

「……一年ぐらい、かな」

「そう。じゃあ、お揃いだね」

「ふふ、お揃いって、なんじゃそりゃ」

「まるで同族みたいだ」

「なに、冗談でも言ってくれてるの?」


 彼女の表情に余裕が戻っていく。活発が色づいて、呼吸が落ち着き始める。


「ね、もう少し話さない? 私が『なんでもうすぐ死んじゃうクン』の病気のこと知ってるか、話さないとフェアじゃない気がするし、さ」


 余裕を持った彼女は、僕に一歩近づこうとした。


 けれど、


「ごめん、そういう気分じゃないんだ」


 なにもかも、どうでもいい話だった。


 もうすぐ死ぬ人間が何を思うか、とか。

 どうやってこれから生きていくのか、とか。


 どうでもいいのだ。彼女はそうは思わないだろうが、僕はそんなことに意味を見いだせなかった。


 どうせもうすぐ死ぬなら、なにを知ろうとなにを思おうと全て無駄。


 彼女との短い会話に付き合ったのは不快感を持ったからであって、それ以外に理由がない。

 僕はもはや彼女に何も感じていない。悪い人間ではないとわかると、かえって興味が薄れてしまった。


「じゃ、じゃあさ!」


 彼女が慌てて言う。


「明日! 学校終わって、その後、病院での診断まで時間あるでしょ? それなら暇だし、別にいいよね?」

「まあ、いいけども」

「やった!」


 笑顔を見せた彼女は、まるでもうすぐ死ぬ人間ではないかのようだった。


「じゃあね! また明日会おうね、『もうすぐ死んじゃうクン』」


 病院にUターンしていく彼女。

 僕らはお互いの名前すら知らずに別れた。


『もうすぐ死んじゃうクン』『もうすぐ死んじゃうちゃん』


 そんな皮肉な名前を呼びあって。


 ◇


 次の日の学校。

 僕は無為な時間を順調に消化することに成功した。


 誰とも喋らず、誰とも関わらず。

 それが僕の生き方だった。別に病気になったからこうなったわけではない。

 ……いや、そうとも言い切れないかもしれない。一応、一日に二度三度ぐらいは、学校で話す機会もあった気がする。友達、と言えるかはわからなくても、宿題の範囲を聞けるぐらいの相手はいた気がする。


 でも、どうでもよかった。今まで人間関係をつないでいたのは今後困ることのないようにするためだ。今となっては『今後』が行方不明だし、気にしても無駄だ。


 こうやって僕は没落していくんだろうな、と思う。

 まるで、世捨て人みたいに。まあそれはそれで面白いかもしれない。


 そうして下校。そこから清水継葉しみずつぐはに会ったのは必然というか、仕組まれたことだった。


「なんたって待ち伏せしてたからね!」


 昨日、病院の前で出会った『もうすぐ死んじゃうちゃん』は「やっほー」と声を、校門付近でかけてきて、それで自然に自分の名前を自己紹介してきた。


 なるほど、彼女の手腕は鮮やかなものだ。昨日言った通り、なんとしても僕と対話をするつもりらしい。


 どうやっても逃がしてやらない、と宣言された。凄い人間だなあ、と皮肉的に思う。


 病院に行く道すがら、僕は彼女に言う。


「君ってストーカーの素質ありそうだよね」

「失礼な! 私が得意なのは戦術的潜伏と遠距離からの調査だよ!」

「……」


 彼女は少し、変な人種なのかもしれない。まあ、こちらも人のことは言えないのだけど。


 僕らは病院からある程度近くにある喫茶店に入った。


 どこにでもあるような喫茶店。机と椅子が並び、メニュー表が立てかけられている。

 人はあまりいなかった。少し寂れている雰囲気。

 少数の社会人、大学生がカタカタとキーボードを打つ音が聞こえる。

 彼女がまず椅子に腰を掛けた。「レディーファースト!」と言いながら。


 追従する僕は静かに椅子に腰を掛ける。

 彼女はニコニコという。


「寂れた喫茶店。男女二人。言葉だけでドキドキするね?」

「まるでデートみたいだね」

「二人とも仲良くデッドするしね」

「心臓の音が止まりそうなぐらいに緊張するね」


 僕らは長年連れ添った夫婦みたいに死人ジョークを言い合う。どうでもいい茶番だ。


「第一ね、最初に私が君を誘った時、意外と断られてびっくりしたんだけど」


 愚痴みたいに、彼女からそんな言葉が飛び出す。


「断るならね、『ぼ、ぼ、僕なんかが一緒に行けないよぉ』みたいな感じで断ってほしかったな」

「注文が多いね。はい、そんな君に喫茶店のメニューをあげるよ」


 彼女は僕の言葉を無視した。


「だいたいね! 自分から男の子を誘うなんてこと、はじめてだったんだから! すごい傷ついた! 責任取ってよ!」

「いや、知らないけど。まあ、君ってモテそうだし、誘いを断られるのは予想外だったのかもね」

「いきなりそういうこといっちゃう?」


 彼女が照れた。

 あらためて見ると、彼女はそこそこオシャレに気を使っているように見えた。


 薄い、ナチョラル系の化粧。香水の甘い匂い。

 カバンにはアクセサリーだかキーホルダーがついているし、制服を着ている状態で目いいっぱい気飾りしている。


 思春期だなあ、と僕は遠い立場から達観的に思う。

 もうすぐ死ぬくせに、よくもそこまで気を配れるものだ、とも。


 まあ、人の価値観なんてそんなものなのだろう。僕と彼女は違う人間だ。


「すみませーん」と彼女が店員を呼ぶ。


 その店員に彼女は注文をしていく。


「カフェラテと、スボルガ~チーズのドーナッツ、カマンベールカルボナーラ、甘い果実のカラフルボール。あ、ふわふわ卵のスフレチーズケーキもお願いします!」

「……すごい量、注文するね」

「そう? 普通だと思うけど。それと――」


 店員さんは彼女の早口な詠唱をすらすらと紙に書き留めていく。優秀な助手の適性もありそうだな、なんてことを思う。


「ほい。じゃ、君はなに頼む?」

「僕? ……おいしい水を」

「ええー、それなんかすごいいい水で、すごいお金取られるよー。ジュースにしなって」


 ……喫茶店って、水もお金とられるものだったっけ? まあいい。

 僕は彼女の忠告に従ってオレンジジュース(580円)を頼んだ。


「コーヒー頼まないとかこっども~」と言ってくるのは無視した。


 ここは個人経営の喫茶店。変わり種の料理が多いのだとか。

 注文の品が来るまで、僕らはしばし雑談をする。


「それで、どうして私が君の病気のこと知っているのかって言うと……別にストーカーじゃないよ?」

「わかってるから。続けて」

「よしゃ。うん、それでね。私が君の病気のことを知ってるのは、君の通ってる大病院の院長が、私のお父さんだからなんだ」

「へえ。すごい身分。でもなんでわざわざ僕の診断だかなんだかの、僕のことを書いてある紙を盗み見たの?」

「そうだね……。君の病気って、今世界的に注目されてるじゃん? 『概念色欠乏症』。今の君って、結構モルモットなんだよね」

「……へえ」


 それはまあ、心中穏やかではない話だ。

 モルモット、実験動物。

 ……別に痛みを伴ったりするようなことは、されたことはないけれど。



『この色を見てほしんだ? 何色に見える』『なるほど、これは水色だ。私の目にもそう見える、じゃあこれは?』『いいや、こっちは色を変えたんだ。これは青色だよ。君は蒼を緑として見てるんだよね? でもこれを水色として見た。つまり……』『視神経としての以上ではなく、脳に問題があるのだな。青を認識しなければ、やはり君は通常どおり色を見れるらしい』



 ……心当たりは、まあまあある。


「お父さんが脳医学専行だったから、すごく興味があるみたい。『その人が見る景色はその人のものだけである。同じ色彩の景色を共有することはできない』」

「……」

「人が見ているものは同一じゃない。私たちは同じ物質を『リンゴ』と名付ける。でもそれが同じ形をして、同じ色をしている保証なんてない」

「うん」

「そういう脳の神秘を解明できたらって考えるとね。すごい楽しくなるみたい。私のお父さん、変だから」


 なんだかな、と思う。

 彼女は妙に寂しそうに自分の父について語った。そして、脳医学、概念について妙に詳しい気振りがある。

 もしかしたら、父にはあまり構ってもらえてなくて、それで父の専行について詳しくなったのかも――。


 これは推測だ。当たっていても外れていても、どうでもいい推測。


 僕はいつだって自己完結していて、その真相を質問したり、確かめることがない。

 想像して推測して、勝手に決めつけて満足している。本質的には、どうでもいいことだから。


「お父さんからいろいろ聞いたから、それでその患者が私と同じ学校に通ってて、同じ年だったから、喋ってみたかった。それだけ」

「……」

「勝手に病気のこと知っちゃって、ごめんね。あんまり知られたくないはずなのに……」


 彼女は憂鬱げにそう言った。

 話せば話すほど、彼女は勝手に泥沼に嵌っていった。


 たぶん、たぶん彼女は、病気のことを他人に知られるのは嫌がる人種だった。

 それに触れられたくない人種だった。

 けれど僕の病気に触れてしまった。

 自分がされた嫌なことを、人にしてしまった。

 それがたぶん、彼女の後悔。


 たぶん、たぶん、そういうことだ。


「別に、気にしてないよ」

「……え?」

「そんなこと、気にする必要ないと思うよ。僕だって君だって、もうすぐ死ぬんだ。そんなに他人に気を使う必要がどこにある? 誰かを踏みにじる権利なんて誰も持っていないけど、もうすぐ死ぬ僕らは、権利とか、世の中のルールとか、気にする必要、あるのかな?」


 世の中のすべて、どうでもいいものでできている。

 本当は違うのかもしれない。僕以外、誰もそんなことを思っていないのかもしれない。


 けれど僕にとって、「どうでもいい世界」が真実だった。


 どうせ死んでしまうから。

 信念なんて意味がないから。


 誰かが僕を咎めたとする。『残り少ない寿命に意味はある』って。でも、そいつに僕のなにがわかるんだ?


 自由に生き、投げやりな人生を送ることができるのは、もうすぐ死ぬ人間に残された唯一の尊厳だ。


 高尚な人間だったら、正しく、善い人間として生き抜くことを思考とするのかもしれない。

 でも残念ながら、僕はそんな高尚な人間じゃない。


「だからさ、そんなに気にするなよ。どうせ君は死ぬんだ。最後にやりたいことぐらいやってしまえばいい。きっとみんな優しいから、君の我儘は許されるはずだ」

「……じゃあ、君はどうするの? 私を……許すの……?」


 縋るような目付き。

 どうして彼女がそうも気にするのか、僕にはわからない。


「どうでもいいよ。許すとか、許さないとか。でも少なくとも、今僕は君に怒ったりはしてないよ」


 それで彼女は、少し力が抜けたような顔つきになる。

 からかうように、彼女は言う。


「もうすぐ死ぬ人間として、ルールを気にせずに私を傷つけようと思わないの?」

「そうだね。じゃあイライラしたら頑張って君にやつあたりしにいくよ。覚悟しておくといい」


 僕は無責任で、適当な発言をする。

 僕は彼女に怒りを感じる利益を感じなければ、意味も意義も感じない。


 それでいい、と僕は思う。


 僕はこういう人間でいい、こうやって死んでいけばいい。


 にへら、と彼女は笑う。


「『もうすぐ死んじゃうクン』って、変な人だよね」

「そりゃ変にもなるよ。もうすぐ死んじゃうんだから、仕方ない」

「うん。でも君、魅力あるよ」

「……どうも」


 そしてまもなく、頼んだ料理が運ばれてきた。

 量はあまり多くない。なんというか、そこはかとなく高級料理っぽさがある。

 だから彼女はあれだけの量を注文したのだろう。これぐらいならまあ……平均以上の多食能力がある高校生なら食べれそうだ。

 といっても値段は張るし、普通の高校生の頼み方ではない。

 彼女は医者の娘。きっと恵まれているのだろう。


「オレンジジュースだけで寂しくないの~?」

「いいんだ。好きなんだよ、オレンジジュース。色的にも。あと、ここのオレンジジュース他のところよりもおいしいし」

「オレンジジュースって書いてあるけどスムージーだからね。この店、ちょっと特殊で普通のものは出したがらないんだ~」

「確かに、こだわりみたいなのを感じる。値段さえ高くなければ、頻繁に立ち寄ってもいいかも」


 彼女は嬉しそうな顔をした。彼女もこの店が好きで、それが褒められたから嬉しかったのかもしれない。


「ほら、いっぱいあるから私のも食べていいよ。はい、マカロン」

「いらない」

「じゃあ、あ~んしてあげようか?」

「価値がない」

「ひどい!」


 そういいつつも、僕は彼女のマカロンをひょいとつまみあげ、頂戴した。


「奪うな!」と言われる。無視する。


 ……結構おいしい。


 僕は彼女がいろんな食べ物を平らげていくのを眺めている。もっとゆっくりと食べればいいのに、ハムスターみたいに頬を膨らませて彼女は目の前の食べ物を平らげていく。


 生き急いでるみたいだ、なんてことを思う。

 そうして全てのものを食べ終わるころには、彼女はすっかり満腹状態となっていた。


 幸せそうな表情。お腹をつつけば倒せそうだ。


「デブになりそうな食べ方だ」


 感想を呟く。


「うわ、女の敵が現れた」

「女の敵ってなにさ」

「太った? とかいうような人のこと。デリカシーなさすぎ。そんなんで友達とかいるの?」

「ひどいこというね。僕にだって大切な友達の一人や一人ぐらいいるよ」

「一人しかいないんじゃん……」

「十分さ」


 彼女はこちらをかわいそうな人を見る目付きで見た。

 きっと彼女は友達の多い人間なのだろう。価値観の相違は違う人間である以上しょっちゅう起こる。彼女がそう思うならそう思えばいいし、僕には関係のないことだ。


「じゃあさ、私が友達になってあげようか?」

「いらない」

「ええー、じゃあ戦友になろうよ」


 彼女的になにを譲歩したというのだろう……?

 断ろうとして、僕は言葉に詰まる。


 僕はこの世を「どうでもいい世界」と定義づけていた。


 ――でもそれは所詮、設定だ。


 僕は己がそうであるべきだと定めた。自分のキャラクター性。幽霊みたいな人間であるように設計した。

 なにもかもどうでもいい。ならそれなら、彼女の提案に「拒否」という意識を見せることは間違っているのではないだろうか?


 あやふやだ。僕は自分の心を持たない。「なにかをしたい」が存在していない。

 だからこんな風に、迷ってしまう。


「なにもかもどうでいい」と考える人間はどうするべきなのかって。


 拒否する意思を見せてはならないから、彼女の誘いに乗る。

 もしくは、「面倒だから」という理由で断る。

 だが僕の心は、おそらく「面倒」とは感じていないようだった。


 なぜなら、病院でじっと診察を待つよりも、ここでだべっておいた方が楽だからだ。


 僕という人間。僕というキャラ。

 こんな決定で、正しいはずだ。


「戦友ならいいよ」

「ん? いいの?」

「まあ、たぶんいい」

「へえー。相変わらずよくわかんないね。『もうすぐ死んじゃうクン』は。でもひとつわかったことがあるよ。君って押して押せばだいたい折れてくれるね!」

「……もう二度と折れないようにしとくよ」

「げ、今のノーカンでお願いします」


 元気だなあ、と思う。

 もうすぐ死ぬ人間とは思えない、としつこいぐらいに思う。

 立場は似ているはずなのに、こうも違う人種が目の前にいると、さすがの僕も思うところが多々ある。まあ、どうでもいいのだけど。


「じゃ、ライン交換しよー。ふるふるやりたーい」

「別にQRコードでよくない?」

「いいじゃんいいじゃん。やっとこうよ、ふるふる」


 ふるふるって言葉がなんか好きなんだよねー、と彼女は言う。まあ、刃向かう理由もない。

 ふるふる、と携帯を振る。彼女のアイコンがでる。


『継葉』。葉っぱが写っている、綺麗なアイコン。意外とセンスがいい。


「げー、『もうすぐ死んじゃうクン』、初期アイコンじゃん」

「いかにも死にそうなアイコンだよね」

「初期のままでラインを放置とか……なんか許せないな。こんな生き物、伝説上の生き物だと思ってた」

「思うんだけど、『もうすぐ死んじゃうちゃん』ってそこそこの頻度で失礼だよね」

「よーし! せっかく喫茶店いるんだし写真とろー!」


 メンタルの強い彼女には僕の嫌味は通用しないらしい。


「でももうご飯食べ終えたし、オレンジジュースも飲み終わったよ」

「じゃあ私とツーショットで写真撮る?」

「なんでそうなるのか理由がわからない」

「女の子一緒に写真取れたら嬉しいかなって思って」

「僕の思春期は終わったからそういう感情はないんだ。ごめんね」


 冷静に断ったが、彼女は突然後ろを振り向き、パシャリと彼女と僕が写っているであろう写真を撮った。おい。

 次に、ラインで画像が送られてくる。さっき撮った写真。


『間抜け面』とメッセージが添えられる。


「それ、君のやつのアイコンにしようよ」

「やだよ。おかしいでしょ。メインで写ってるの君じゃん。僕、そこらへんの通行人がたまたま写っちゃった人みたいじゃん」

「それもまた風流だよ」


 意味不明なことを言いながら、彼女は僕の携帯をさっと奪った。


「野蛮」と僕は呟く。人の物を盗む彼女の行動は、なにを失っても困らない『もうすぐ死んじゃうちゃん』にふさわしい行動と言えた。

 なにやら僕の携帯を操作し、その後すぐに、僕に携帯を返す。


「……」


 ……さきほどの写真が僕のアイコンになっていた。

 彼女がねっとりと囁く。


「ラインを開けば、いつでも私はそこにいるよ」


 アイコンを初期のものに戻した。


「ああ! ひどい!」

「当たり前でしょ」

「別に友達いないなら影響ないし、よくない?」

「よくない」


 中々突飛な発想力を持つ彼女は、独自の解釈と理屈を持っているらしい。

 しかしこの携帯の所有権は僕にあるので、彼女の理屈は通用しなかった。


「まあ、ともかくこれで君に一人友達が増えたわけだ!」

「『戦友』だよ」

「そうだね! 特別な仲だ」


 解釈というものはすべからく個人の見解に委ねられるので、そう考えるのも個人の自由だろう。

 僕は携帯で今の時刻を見る。五時が近い。

 そろそろいかなければ。


「そろそろ診察の時間だから出よう」

「おっけー」


 会計をすまして喫茶店を出る。僕の会計は580円だったが、彼女の会計は3000円ほどで……。なかなか、高校生の離れしている。

 病院へと向かう途中「そういえばなんだけどさ」と僕は言う。


「なあに?」

「君ってなんの病気で死ぬの? 僕と同じ?」

「ううん、違うよ。私の病気は現実迫観念症(リアルイデオロギー)っていうんだ。どういう病気かって言うとね……」


 彼女は言いかけて、口を閉ざした。

 そして困ったように笑って、僕に言う。


「あはは、ちょっと自分で調べてみて。あんまり、自分でこういうの、言いたくなんだ。弱点を曝け出して相手に気を遣わせるのって、なんか悪いから」


 弱点。日常生活に支障をきたすレベルの病なのだろうか?


 ――現実迫観念。


 少なくとも、僕は初めて聞いた病気だから、あまり有名な病気ではないのだろう。

 わかった、という意志表示のために頷く。

 彼女はためらいがちに口を開く。


「……それで、君が私の病気のこと調べても、態度を変えないで欲しいんだ。私を傷つけてもいいし、無視してもいい。私にとって、私にとってはそれが一番いいから」


 死に向かう病気だ。本人も思うところがあるのだろう。

 だが彼女の心配は杞憂というものだ。僕が彼女の内容如何によって態度を変えることなどありえない。もしも、彼女が実はあと一か月で死んでしまう、ということが判明しても、僕は彼女に気を使ったりはしない。


 僕らは病院に入っていく。まもなく僕の名字が呼ばれ、診察室に招待される。


「じゃあね」と僕は言う。

「またね」と彼女は言った。


 ◇


 家に帰ったあと、インターネットで彼女の病気について調べてみた。


 現実迫観念症(リアルイデオロギー)。彼女の言った通り、この病気はとても珍しく、かかってしまえば死んでしまうことは確実。脳疾患の一種で、生まれつきで発症するもののようだ。


  しかし、赤ん坊の頃はまったくその兆候はつかめず、論理的な思考を行える年にならないとこの病気が発覚しない。この病気の特徴は、思想が現実に影響を及ぼすことだ。

  自分を責めすぎると、虫に刺されたような腫れが肌に浮かび上がったり、さらに言えばこの病気の患者は『自分の心臓を止めたい』と願えばそれが叶ってしまう。僕らのような普通の人間が全力で自分の心臓を止めようとしても不可能だろう。そんな機能は体に搭載されていない。


 つまりはこういうことだった。『患者は自分の体に悪い影響を与えることができ、心臓すら止めることができる』。よってこの病気にかかった者の自殺率は非常に高い。


 この脳疾患にかかった者は感情を表に出さなくするよう訓練されるようだ。辛くて自分の死を願ってしまわないように。そのために自分の感情をコントロールできるように。……そのわりには、彼女は感情的な人間だったけれど。


 そして興味深いことに、この脳疾患にかかった患者は自分の死ぬ時期がおおよそわかるらしい。寿命の蝋燭が溶けていくのを見ている気分だと、実際にこの脳疾患にかかった患者がインタビューしていた。


 その患者は二か月後死んだと書いてあった。


 ◇


 僕が鷹野瞬と出会ったのは、三か月前のことだ。

 図書館で居眠りをし終わって、遅い下校をしていた時のことだ。


 夕暮れ時。一人でこぐ自転車。世界から人間が減ってしまったかのような、錯覚。


 川原を通ったとき、なにかを抱えてうずくまる少年の姿が目をひいた。シャベルを持っていたから、目を引くのは当然といえば当然で。


 だいたい同じぐらいの歳にみえて、やけに興味をひかれた。そいつはなにかをこらえているように見えた。たぶん、泣いていた。


 野次馬精神だったのかもしれない。同じ年ぐらいの、いい歳した男が泣いている。なにごと興味を持たない僕でも、劇的なシーンには意識を引っ張られる。


 なにを考えたのか、僕は彼に声をかけた。病気で死んでしまう僕だから、なにをしたって失うものがない、ある種の破滅主義的な面が作用して、彼に声をかけた。


「なにしてるの?」


 彼は死んでいない(、、、、、、)目で答えた。


「埋めてるんだよ、猫を」


 僕は足下にある土に塗れた残骸を見つめる。毛は土に汚され、頭は埋まり、動き出す素振りをみせない肉の塊。


「バカみたいな行為だ」と彼は言う。


 腹を立ててるみたいに、彼は呟き続ける。

 バカみたいだ、バカみたいだ、だって。


「何の意味もない。死んだ命は所詮肉の塊だ。俺がなにを思おうが、祈ろうが届きやしない。自分が満足したいがための代替行為だ」

「……」

「でも俺はこのバカみたいな自己満足を求める行動を、他ならぬ自分が見下してるんだ。そうじゃないと、自分を保てないから」


 バカみたいだ、と彼は呟く。


「肉の塊なんかに、価値なんてない。誰かに確認しなくてもわかる事実だ。死体に価値があるなんてのは感情論だ」


 彼の言葉には憤りが混じり、不満が混じり、やるせなさが混じっていた。


 彼は怒っていた。それはこの世のすべてに対してかもしれないし、他ならぬ自分自身に対してかもしれない。


 僕は彼が猫に土をかける姿を見ていた。スコップが土に刃を突き立てる動作は力強く、猫にかける土は優しげに見えた。たぶん、それは錯覚に過ぎないのだろう。僕が彼からなにかを感じ取って、それで見る光景が歪んだが故の、錯覚。

 彼が猫を埋めるのを待って、僕は彼に言う。


「お疲れ様」

「ああ」


 彼の目は不思議と澄んで見えた。消化し終えて、飲み下したみたいに、まともな理性を保っているように、そう見えた。


 怒りを失って、憤りを忘れた彼はまるで死体のようで、空気の抜けた風船みたいだった。


 彼はスコップを担いで土手を上がっていく。


「元気でね」と僕は声をかける。


 彼は僕の言葉に立ち止まって、ゆっくりと振り返った。


「おまえもな」


 やっとといった様子で笑顔を向ける、彼の摩耗した様子を見て、僕は彼を嫌うことはないだろうな、とぼんやりと思った。


 ◇


「へえ、面白いことがあったもんだな」


 放課後の屋上、給水塔の上。

 そこから鷹野瞬はそう言い放った。


「お前は病気で死ぬ女の子と知り合って、そしてお前自身も死ぬ宿命にあるわけだ。そりゃ、面白いな」


 第三者として、彼は最もな感想を投げてくれた。

 夕暮れ時、学校にある西校舎から見る景色。茜色の日が落ちて、世界が変わる瞬間。


 闇に落ちて、世界のすべてが一変する数刻時。

 僕と鷹野瞬は決まって西校舎の屋上に集まる。彼はいつも給水塔の上、僕はいつもフェンスの間から夕暮れを覗いている。


 つい最近会った清水継葉とのことを、彼に話した。面白い、と彼は言った。


「でもさ、お前、無理があると思うぜ」


 かちり、とライターの音がする。なにも見なくても、彼がタバコを吸っていることが僕にはわかった。


「お前は世界に対してなにも感じない、興味がない。全てがどうでもいい、関係がない。そう思っている? 人間をやめるつもりなのか?」

「そうかもね。馬鹿馬鹿しいと笑ってくれていいよ」

「違えよ。俺が言いたいのはそういうことじゃない」


 鷹野瞬は煙を吐き出している。


「おまえ、そんなことができるやつか? そもそも一人称をいつから『僕』なんてものに変えた? 不思議なんだよな。おまえ、準備してただろ」

「……」

「いつでも外界からの干渉を断てるように、世の中をどうでもいいと思えるように、死んだ人間になれるように。いつからだ? いつから死ぬのがわかってたんだ?」

「そうだよ。僕がしゃべり方を変えた時からだ。『僕』と言い始めた時からだ。死ぬのがわかったんだよ。なんとなくだけど」

「自分の死期を悟るとか、猫みたいなやつだな」


 鷹野瞬は皮肉げに笑う。


「お前と喋ってると退屈しないよ。お前は飛び切りおかしなやつだ。ユニークでもないのに人を笑わせる素質を持ってる」

「バカにしてるでしょ」

「そんなわけないだろ。信じろよ、俺を」


 そういう彼の口調は、どうにも僕のことをバカにしているようにしか見えなかった。


「僕は死ぬんだよ」


 鷹野瞬が黙る。


「死ぬんだ。終わりなんだよ。抵抗は無駄だ。でも僕が『おかしなやつ』なのは、僕にとって意味があることなんだ」


 もうすぐ死ぬものが願うべきことはなんだろう?

 最大限の幸せ? ささやかな日常?

 劇的なイベント? 他人に自分を継承させること?


 どれも僕にとって、無価値で無意味なものにしか見えない。だって、僕はどうせ死ぬ。


 僕が幸せになろうが、安らぎを得ようが、わくわくしようが、誰かのためを思おうが、全部無意味だ。


「僕は世界なんてどうでもよくて、冷めてないといけないんだよ。そういう人間じゃないといけないんだ。誰に馬鹿にされようが、僕のこの考えこそが無意味だと言われようが、自分に操をたてないといけないんだ。どんな変わったことでもいい。唯一性を保って、僕は死なないといけない」


 すべてがどうでもよくて無意味なら、きっと『すべてをどうでもいいと思う思考』すら無意味だ。だが僕はひとつ誓いを立てなければならない。自分だけが理解できて、他の誰にも理解されない、馬鹿げた決心を立てなければならない。


 そうやって死ななければならないのだ。きっと僕は後悔をして、世を恨み、ボロボロになって死んでいくだろう。でも僕はそれに対して「なにも感じない」と思い込む。それで終わりだ。


「死ぬことばかり考えてるんだな」


 鷹野瞬の言葉に熱が帯びる。僕が許せない言葉を吐いたみたいに。


「じゃあお前にとって世の中はひどく無価値で、興味を惹かれるものではなくて、おまえはそれでいいのか? 死ぬからっていって死んだように生きて、そんなんでいいのか? その生き方は敗北だろ。プライドが許しちゃいけないだろ」


 そもそもそんな風に生きれる人間なんていねえだろ、と鷹野瞬は言う。


「お前の周りで誰が傷つこうが、お前に関心を持とうが、おまえはそれらすべてに対して無反応に生きていくのか? 無理だ。好意は嬉しい。悪意は嫌だ。人間である以上、感情がどうしても沸いてくるんだ。お前にそんな生き方、無理だろ」


 人間という生き物は理性を持っていて、感情を持っている。


『理性』は人間が『使う』ことを意識して発揮される。

『感情』は人間が『反射』して起こる自然現象。


「おまえ、変だぜ」


 お前は所詮人間で、そこから抜け出すことはできない。お前の言っていることは無理がある。いつか崩れて余計に苦しむ羽目になる。


 だから、やめとけよ。


「――そもそもおまえは、人の気持ちを考えすぎるやつだろ?」


 猫のこと。鷹野瞬が猫を埋めていた時、僕が同情していたこと。

 ……それで?


「敗北」と僕は呟く。プライドのない負け犬。

「感情」と僕は呟く。逃れられない人間性。


 ……でもそれらはを持つ人間には共通の絶対的な核がある。


 僕と彼女が持てない共通のものが。

 生が、希望が。

 いつかよくなる、と思えることが。


 ――僕らは世界から断絶されている。


 持たざることが個性であり、特権である。


「――なあ瞬、でもお前に僕の気持ちはわからないだろ?」


 もうすぐ死ぬ人間のことは、もうすぐ死ぬ人間しかわからない。

 いや、同族だって理解できない。第一、理解できると思うこと自体がおこがましいし、あまりにも想像力が足りてない。


「もうすぐ死ぬ人間が敗北してなにが悪い? 死ぬ人間に『次』はない。敗北も勝利も、死ねばなんの意味もないんだよ。感情だってそうだ。僕になにかが起きれば反射的に感情が動くだろう。否定しない。けど、それをどうとらえるかは個人の自由だ。僕が『怒ったように見えた』かもしれなくても、僕にとってはそうじゃない。周りの人は僕が怒ったように解釈するかもしれない。好きにすればいい。僕は自分が信じる解釈をする」


 世のすべてがどうでもいい、と考える思考は便利だ。

 その思想の持ち主は世界をどうでもいいと定めることによって、世界から見捨てられ、そして世界から独立できる。


 敗北も感情も意味はないと言い切ることができる。

 でも一つは核がないと地に足をつけられないから、「おかしな唯一性を持つ死んでいるみたいな人間」として、僕は自分の足を地につけた。そういうくだらない、破滅的な人間であれることを望んだ。誰にも理解されないことがプライドだった。

『世界のすべてがどうでもいい』という信念一つを持てば、ありとあらゆる信念から解放される。たった一つの誓いで、僕は解放されることができる。


 自己欺瞞? どうでもいい。


「死ぬ人間には、死ぬ人間だけが考える馬鹿げたプライドがあるんだ」

「……」

「それ一つ守れればどうでももいって思い込むんだ。事実なんてどうでもいい。死ぬ人間に残された、たった一つの願いなんだ。僕は本当に満足している。そうやって思い込むんだ(、、、、、、)

「…………」


 沈黙が続いた。


 給水塔の上からはため息ばかりが聞こえてくる。

 笑えもしない馬鹿げた空想を宣う僕に呆れているのかもしれない。

 でも、それだって僕にとってはどうだっていいことだった。そう思わなければ(、、、、、、、、)ならないのだ(、、、、、、)


 そして長い長い、沈黙が続いて。

 日は暮れていって、カラスが鳴き声が耳障りになっていく。

 はあ、と鷹野瞬のため息が聞こえる。


「じゃあ、想像してやるよ。お前の気持ち」

「それこそ無茶だと思うよ」

「いいや、できる。お前の気持ち、汲み取ってやる。首長くして待ってろ」


 不可能だ、と僕は思う。

 健康な人間一人を理解するのだって、人は苦労する。徒労に終わる。

 綺麗に理解しあえてハッピーエンドで終わるのは物語の中だけだ。現実では決してありえない。


 でも僕は彼を止めようとも思わなかったから、勝手にやらせておくことにした。


「なあ、そういえばなんだけど僕、女子と写真撮ったよ」

「……あ?」


 鷹野瞬が給水塔から降りてくる。

 僕は清水継葉と撮った(撮られた)写真を携帯から見せた。

 彼女の顔はドアップで、後ろで僕がポツンと佇んでいる写真。


「……なにこれ、おまえ景色?」


 背景に溶け込んでいるという新手の褒め言葉なのだろう。


「ラブラブ写真だよ、たぶん」


 はあ、とこれ見よがしに彼はため息をつく。


「おまえも災難だな。自撮り大好き女子の写真災害に巻き込まれたらしい。おまえの顔、死にすぎてるだろ」

「そりゃもうすぐ死人デビューするしね」


 そういうことじゃねえよ、と彼は言う。


 ◇


「遊園地行こうよ!」と奇怪な音声が聞こえたのは僕の気のせいではなかった。


 学校から病院まで道すがら、僕と彼女はよく行動を共にするようになっていた。

 僕と彼女以外、誰もいない一本道路。電柱の陰には猫が潜んでいる。おとなしいカラスがこちらを観察している。人間は……ともかく僕と彼女しかいない。


「僕に言ってるの?」

「今私の目の前にいて奇妙な表所をしている知的生命体に私は言ってます」


 僕はよく考えた。彼女が僕を誘うには理由がないし、そして僕が彼女と一緒にいくメリットなんてない。


 そういうことを考えるとめんどくさくなってくる。どうでもいいや、と。


「僕なんかが一緒に行けないよ」と気弱そうな声を出してみる。

「……え、なにそのわざとらしい言い方」

「あれ、違った?」

「……結構前に言った私の要望か。よく覚えてるね」

「記憶力だけはいいんだ」


 病気の欠陥のせいか、僕の記憶力はすこぶるいい。多少異常なぐらいには。


「べーつに、そういうの今求めてないから! 君は私の誘いに乗る! そして爽やかなスマイルでありがとう、という! わかる?」


 ……そもそも、なぜこんな誘いをしてくるのかが気になるところだ。

 僕は勝手に彼女のことを想像しようとする。しかし、それは途中で彼女の不満主張によって寸断された。


「確かにね、病気で死ぬ運命にある私たちは世界に対して反発したくなるときもあるよ! こんなの知るか―! って。でも私に対しては優しさを見せてくれてもいいじゃん。ほら、私たちの関係は?」

「戦友」

「その通り」


 彼女はしたり顔で言う。


「だから私たちは絆ポイントを貯めないといけないんだよ。そうじゃなきゃ最後の戦いに勝てなくなる」

「その最後の戦い、確定敗北イベントって噂だよ」

「ともかく!」


 彼女が声を張り上げる。僕はそれを終わらせるために口を開いた。


「いく」

「私は――。うん?」

「いくよ。言ってなかったっけ。僕、幽霊みたいな人間になりたいんだ。お化け屋敷に行きたい。本職と競り合ってみるのもこの際いいかもしれない」

「……それはちょっと言ってる意味がわからないけど」


 そんなことを言う彼女は、なにやら焦った様子で腕を後ろに回していた。そして急にこちらに視線を合わせなくなり、前を向く。


 彼女の艶やかな黒髪が揺らめく。


「……ジェッドコースターじゃ、だめ? お化け屋敷はちょっと……」

「いくのやめとく?」

「もうすぐ死ぬ女の子に意地悪すると地獄に落ちるって聞いたよ」

「もうすぐ死ぬ男の子は無敵判定があるらしいよ」

「……ほんとにいくの?」

「もうすぐ死ぬ僕らが幽霊に負けるわけにはいかないでしょ」

「弱みを握った途端ノリ気だね……いいよ、行ってやろうじゃないか……」


 すごく行きたくなさそうだった。

 ごほん、と僕は咳払い。


「別に無理しなくても……」

「なんで今頃無駄に優しさを見せるの!? いや、いいよ。女に二言はないから」


 ワイルドな女の子だ。

 僕は彼女の評価を上方することにした。


「あ、『もうすぐ死んじゃうクン』。遊園地、今週中には行くからね?」

「え、早くない?」

「実はチケットの消費期限が迫ってて……」


 なるほど。

 そんな会話をしていたら、病院に着いた。さっ、と彼女が僕の手にチケットを握らせる。


「来なかったら弁償」


 するりと彼女は病院の奥へと消えていった。

 ……手ごわい。


 ◇


 僕達の様子を見ていた看護婦さんが「いい思い出ができるといいね」と言った。

 ――あなたは精一杯楽しむ義務があるんだから。

 そんなことを、看護婦さんは言った。


『義務』という言葉。強制系。


 それは善意だ。死ぬものに対する同情だ。

 別に気にすることじゃない。

 でもこういう些細な言葉に苛立って、勝手に押し付けるなよ、なんて思ってしまう。

 こんなこと、考える方が間違いだって、僕はよくわかってる。


 ◇


『優しい人は救われるべきなんです』


 善意はなんであれ、良いものだから。

 昔、本で読んだそのセリフが忘れらない。


 救われる、『べき』。


 表面上は暖かい言葉でも、その詩の作者は優しい人が救われない時があることを知っている。だから『べき』という言葉を使った。


 きっと、その作者は救われない優しい人々の存在を嘆いていた。


 ◇


 次の日、学校に行こうと家から出ようとした時だった。

 ピンポーン、と音が鳴る。こんな朝からなんだろう? と思って玄関の扉を開けて……閉めた。



「あけろー!」



 外から騒がしい声が聞こえる。

 僕は扉を開く。


「なんで一回閉めたの?」

「悪霊の類かと思って」

「まだ死んでないし!」


 いや、なんでここにいるんだ?


「今日は決闘という名のデートの申し込みに来ました」

「病弱なので応じるのはとても難しい」

「いや、今こそ限界を超える時だよ。やればできる、もっと熱くなれってテレビの人も……わー閉めないで~」


 今日は金曜日。学校のある日だ。


 僕は制服、彼女も制服。なのにデート?

 昨日の遊園地の話が思い浮かぶが、今日に限ってはありえない。

 とりあえず、親が来る前に僕は急いで玄関から遠ざかることにした。


「どうしたの? 急に早足になって。そんなに学校が恋しい?」

「僕の近くにいる霊から逃げようと思ったんだ」

「いや、絶対に逃がさないから」

「……」


 ある程度自分の家から遠ざかった後、普通の歩く速度に戻す。

「それで、今日の用なんだけどね」


 彼女が切り出す。


「『もうすぐ死んじゃうクン』って不良?」

「僕はいい子だよ」

「世界に刃向かいたくない?」

「どっちでもいいけど」

「じゃあ、学校サボって遊園地いかない?」


 ……まさかの話だった。


「『もうすぐ死んじゃうクン』は世の中のルールを気にしないんだよね? 寿命が残り少ない以上、そんなの気にしたって意味がないからって」

「そうだけど」

「じゃあ付き合ってよ。私、学校サボってみたかったんだー。死ぬ前にやりたいことは数多く! その一つに『悪い生徒になる』が含まれております!」

「……はあ」


 よかったね、とどうでもよさそうな返事をする。

 それにそもそも、彼女の計画にはいくつも問題がある。


「僕らは今制服だよ? こんな姿で行ったら怪しまれるでしょ。通報されるのはさすがに嫌だなあ」

「ダイジョーブだよ。どうどうとしてたらバレないから。大学生が制服コスプレデートしてる感じでいけば平気だって!」

「それはそれでちょっと嫌だな……」


 世の中のすべてがどうでもいいからといって、積極的に辱めを受けたいわけではない。


「どこまで私たちの姿が通用するか、チャレンジしてみよ?」

「無駄なチャレンジ精神だね」


 彼女には少々無謀なところがある。死にたがり感というか、生き急ぐというか。

 破滅主義的な投げやりな突発的行動。結果は失敗が多く、行動力が高くなる意外にはあまり恩恵がない生き方。


「どーしても! どーしても行きたいの! おねがい!」


 全力で手を合わせてお願いしてくる彼女。

 彼女は友達が多い。実は僕と彼女はクラスが同じで、そういう人間関係は嫌でも目に付く。普段学校で僕らは話さない。彼女の周りにはいつも誰かがいて、僕の周りにはいつも誰もいない。


 それなのに彼女が僕をわざわざ誘うということは……さすがにここまでの無茶を聞き入れてくれる人がいない、ということなのだろう。


「君の友達を誘えばいいんじゃないの? 『もうすぐ死んじゃうちゃん』が誘えば、みんな快く来てくれそうだけど」


 ――空気が凍った。


 彼女の顔がこわばった。表情は白く、腕が不器用に動く。

 泣きそうな顔で、彼女は言う。


「……私の病気のことは、親以外知らないよ」


 嘘だな、と思う。

 病気のせいで友達の誰かとトラブルがあったんだろう、と勝手な推測を建てる。


「それに、もうすぐ死ぬことを理由に相手を従わせたく……ないもん。だめだよ、それは。自分を許せなくなる」


 とても苦しそうに、彼女は言う。


 ――現実迫観念症。


 心・精神的に負ったダメージは現実のものとなり体に作用する。暴言を受ければ虫刺されのようなあとが肌に浮かぶこともある。大きな失敗からくる精神的ダメージで手足が、麻痺することもある。


 がくん、と彼女の膝から力が抜けるのが見えた。

 彼女の体は、前へ。僕の方向へ。

 仕方がないので僕はそれを受け止めた。今は学校の通学路。彼女に肩を貸して道の壁まで運び、ゆっくりと地面に下ろす。


「じゃあ、『もうすぐ死んじゃうちゃん』は誘える友達がいないんだね。君の病気のことを理解してくれるような人じゃないと、誰も学校をサボってくれないだろうから」

「……そうだよ」

「そっか」


 彼女は苦しげに息を吐く。

 壁に身を寄せ、座り込んでいる彼女。それを僕は見下ろしている。

 座り込んで広がったスカート。自分の身を抱きしめ、彼女の制服がしわになっている。

 彼女は僕の目を見る余裕すらない。僕は無言で彼女の様子を眺めている。


 大丈夫? なんて言葉はかけなかった。僕の言葉が彼女を傷つけようが、殺してしまおうが、僕には関係のない話だった。


 彼女は病気のことを知っても普段通り接してほしい、と言ってはいたが、ここまでのことを望んでいたんだろうか。


 どうでもいいや、と僕は思う。


 やがて彼女の息遣いが静かになってきたころ、僕は声をかけた。


「遊園地、いける?」

「……君はいくの?」

「戦友だからね」

「……そっか」


 彼女は無理やり笑って見せる。

 文句も何もなく、極めて自然に振る舞おうと努めているように。

 彼女から見た僕は、冷たい視線を終始浴びせかけるロボットみたいなやつだろう。多少の動揺もなしに、自分で決めた規則に従っている。生きているくせに生きていない、幽霊みたいなやつ。


 彼女が僕に手を差し出す。起こせ、ということだろう。

 それぐらいには付き合ってもいいだろう、と彼女の手を伸ばす。

 起き上がった彼女はもう、普段通りに見えた。力強く、断固とした意志さえ持っているように見えた。


 僕は……。


 罪悪感など、感じていない。


 そう言い聞かせた。


『感情』は『反射』で起こる。


 だから『理性』を『使って』、『感情』を抑える。


 僕はなにも感じてなんかいない。


 世の中で起きるすべてのことはどうでもよくて、僕には関係ないことだ


 そうやって僕は死ななければならない。



 ◇


 平日の真昼間から行く遊園地は非常に人が少ない状況にあった。平日の真昼間から遊園地に高校生が入れるのは、僕らが何も失うものがない半死人だからだ。咎められたって気にする必要がない。こういう時、このステータスは非常に助かる。


「わーい! 乗り放題ー!」


 彼女は喜んでいる。


 各種アトラクション。水族館や、お土産が並ぶ建物。通路を歩けばたくさんのキャラクターがお目にかかれる。


 ごおおおお、とジェットコースターの動く音。追って聞こえる数多の人々の絶叫が耳によく響く。


「ジェットコースターのりたーい!」


 彼女は元気だった。


「どうぞ。ついていくから好きなのに乗るといい」

「お? 珍しく優しさ見せるね~。ひょっとしてさっきのこと気にしてる? 私の病気が悪いんだから、いつも通り振る舞ってくれていいからねー」


 そういって気丈に振る舞う彼女の姿は。


 ……僕にとって気持ちのいいものではなかった。


 やめてほしいのだ。いいひとみたいに、優しい人間みたいに、気を遣ってくる振る舞いは、僕にとって毒だ。


 侵食される感覚がある。


 ――『お前はあくまで人間だろ?』


 鷹野瞬の言葉を思い出す。


 ――『心を封じて、人間じゃないみたいに生きるなんて無理があるぜ。おまえ、人並みに善意が好きなやつだろう?』


 ……それでも、僕はこの世界から受ける感覚すべてを無視しなければならない。


 幸・不幸の感情はコントロール可能なもので、所詮は反射で起きる生理現象。たんなる感情如きに左右されるわけにはいかない。人間は『理性』で『感情』を支配できる。


 ――『じゃあ結局、おまえは自分が人間だって認めるわけだ』


 僕はゆっくり目を閉じる。

 潮時なのかもしれない。彼女と過ごすことに、僕は耐えられない。

 僕は生きているくせに死体のように余生を過ごしていきたいのに、それに限界を感じてしまう。


「さっ、レッツゴー!」


 こっちの気を知ってか知らずか、相変わらず彼女は元気だ。


 運の悪いことに、僕らが最初に目指したジェットコースターはちょうど駅に到着していた。さらに平日ということで、待ち時間がなく僕らはジェットコースターに乗ることになる。安全装置は僕らを逃がさない檻みたいで、まるで囚われているみたいだ。僕はジェットコースターの上でため息をつく。


 彼女の行動は忙しすぎる。おかげで、それに付き合わされる僕まで、考え事をする暇がなくなってしまった。


「うわー、むりー、ちょーむりー」


 足をばたつかせ、満面の笑みで破顔する彼女はまるで幼い子供の様だった。


 ここまで来ると僕はもう、彼女になにも言い出せない。


 ガタン、とジェットコースターが動く音。


「死んじゃうクン、死んじゃうクン! てっぺん! もうすぐてっぺん着いちゃう!」


 何気にに呼び方が短縮されている。


「そうだね、着いちゃうね」

「返事適当だね! あああー、死んじゃう、あそこで私の命終わる。うわあああ……」


 異常なハイテンション。なにがここまで彼女を興奮させているのだろうか。


「ひょっとしてさ、『死んじゃうちゃん』ってジェットコースター乗ったことなかったりする?」

「……えへへ」


 まじか。


 ガタン、とジェットコースターが峠を越える音。

 加速が、始まる。


「きゃああああああああああああ!」

「……」


 風切る景色の最中、彼女の横顔を眺めていた。


 ……すごい表情だった。


 黒い髪が荒れ狂い、暴神だか風神だかみたいな様相になっている。


「うっひゃああああああああ」

「……」

「死んじゃううううううう!」

「……」


 彼女の大声はおそらく、乗客の誰にも負けていなかった。たぶん、これも彼女の貴重な個性の一つなのだろう。


 そして元居た位置にジェットコースターは戻る。始発地点。旅の終わり。

 僕らはジェットコースター乗り場を離れ、乗り場の近くのベンチに座る。


「わー……たのし……楽しかった……ね……」


『楽しかった』がまるで遺言みたいだ。いまの彼女の口から漏れる過去形は、そこはかとなく臨終の風情を思わせる。

 そう思っていると、彼女が「うっ」と口元を抑えた。青い表情。

 僕はカバンの中からビニール袋を取り出し、差し出す。


 彼女は青い表情のまま、にっこりと嘯いた。


「大好きだよ」

「僕も」


 そして彼女は盛大に吐いた。


「おろろろろっ!」


 一応、彼女は華の女子高生である。

 遊園地の係員は心配そうにこちらを見つめているが、なにもしてこなかった。僕らはジェットコースター乗り場から少し遠ざかっている。役割があるだけに、係の人はそこから離れられない。


 仕方がないので、僕は彼女の背中をさすってやる。


「バカなの?」と皮肉を一つ置く。「おろろろろろっ!」と返事が返ってきた。まともな返事が来ないと、論破したような気分になれることを僕は知った。


「大丈夫なの?」

「おろろろろろっ」

「死にそうだね」


 涙目の彼女は「まだその時じゃない」とうわ言を吐いた。

 僕は辺りを見渡す。平日の遊園地は人が少ないけれど、それでもいないわけじゃない。何人かの往来人が僕と彼女をちらりと見る。見世物めいた彼女の存在。


 どうでもいいや、と僕は思う。


 しばらくすると、彼女は少しづつ元気になって、自分のゲロ袋をゴミ箱に捨てれるぐらいになった。


 なんとなしに遊園地に来た時の心情を忘れて、僕は積極性を見せることにする。


「お化け屋敷いこう」

「……君、鬼畜? まあ、いこうか」


 気分が悪い癖に、彼女は僕の提案に積極的だった。捨て鉢かなにかに似ているような気がするけど。


「よーし、いこう……いくぞ……うひひひっ」


 暗い目でうわ言をいう彼女は、ある意味、無敵感を纏っていた。失うものがない者特有の強さ。そういうことを考えると、僕は少し気分がよくなる。


 よれよれの体を引きずる彼女と、健康体の僕。そんな感じに、お化け屋敷に辿り着く。

 中は暗い。何が出てくるかわからない、そういう雰囲気がある。しかし、怖いとは思わなかった。中にあるのは未知でもなんでもない、人間が造った道具だ。お化け屋敷で死人がでてくるわけでもなければ、死人がでるわけでもない。


 僕らはお化け屋敷の中を進む。映像の中のお化けが、このお化け屋敷のいわくつき度を熱心に語ってくれている。ここに入った者は呪われて死ぬ。演説めいたその語り姿は、どこか滑稽にみえた。

 弱り切った彼女は震えながら言う。


「怖い……無理……『死んじゃうクン』が前歩いて……」


 弱気な彼女を煽ってみる。


「『死んじゃうちゃん』ってかわいいところあるよね」

「……そう?」

「ここ、照れるところじゃないよ」


 仕方がないので、僕が先頭を歩く。遠慮がちに背中の服を掴まれる、感触。少し乱れた息遣い。


 半死人に背後を取られている、と考えると、お化け屋敷もなかなか怖いところがあるな、と僕は変なことを思っていた。

 そして僕らは進んでいく。真っすぐに長い道。突き当りの先は覗けない。

 突き当りに辿り着く。曲がる。


 ぷしゃー! といきなり、白い煙が上がる。突然のことに体がビクンと動く。反射反応。

   別に怖かったわけじゃない。驚いただけの、人間として自然な反応だ。


「ぷくくく」


 背後から不気味な声が聞こえる。彼女の声。なんだか少しイラつく。これではお化け屋敷というより、驚かせ屋敷だ。恐怖より反射による驚きで侵入者をビビらせるなんて、趣旨がずれているのではないか?


 ひとまず、彼女のことは、人が驚いている様を見て笑う悪霊の類だろう、と勝手に定義しておいて、無視することに決めた。


 次に、棺が並んでいるエリアに着く。天井には約十本のロープ。

 壁に貼ってある張り紙には『汝、正しき道を往くには正しき紐を引くがよい。間違えれば罰が下るだろう』と書いてある。ご丁寧に、その下には「アタリはランダムに設定されるので、二週目のお客様もお楽しみいただけます」と書いてあった。


 ……雰囲気が台無しじゃないか? これ。


「慎重に、慎重に選ぼうね……」


 彼女がか細い声で言う。

 僕は面白がって三本のローブを引いた。


「ぎゃあああああああ!」と彼女。


 同時に、爆竹の音と、棺から勢いよくでてくる骸骨と、扉が開く音。

 彼女は元気よく叫んでいた。彼女こそが、お化け屋敷を正しく楽しんでいる客に違いない。設計者も大満足だろう。


 ついでに、僕はアトラクションより彼女の魂の叫びに驚かされていたりする。


「あはは……お化け屋敷……すき……」


 ついに間違った倒錯愛を抱き始めた彼女のことをなかば面白がりながら、僕は進む。背中の服を遠慮がちに握ることが定位置となり、それが彼女がしっかりとついてきていることの証明ともなっていた。


『最後の試練』と書いてある部屋の扉に手を掛ける。中に入る。


 あるのは一本道だ。そして出口の存在もうかがえる。この暗闇からは、外の景色にある光は眩しく見えた。ようやく、お化け屋敷も終わりだな、と思う。


「やったっ、ゴール、ゴールだよ……!」


 神の救いを見たかのように、彼女は興奮気味にそう言った。しかし、出口までは長い。

 無駄に百メートルぐらいある。何も起こらずに通り抜けられるとは思えない。

 希望を目の前にしたからか、勇気を回復させた彼女はうきうきと僕の背中を両手で押してきた。どうやっても先頭に立つ気はないらしい。


 ある程度進むと、あああ……とホラーめいた音声が聞こえてくる。壁のそこら中に、恐ろしい顔をした女の霊が浮かび上がる。なかなか恐ろしい。


 あああ……。

 ああああああ……。

 あああああああああああ……。


 声のボルテージが上がっていく。そこら中にスピーカーが仕掛けられているのだろう。立体感のある音声が、脳を狂わすかのような響きを持ち、恐ろしい霊気の侵食を錯覚させる。


 それは、侵入者を逃がしてしまう幽霊の嘆き。最後の抵抗。いくな、いくなと呼び止める。執念の籠った呪いの音声。


 今までで一番お化け屋敷してるな、なんてことを思う。ホラー映画の中に入ってしまったかのような錯覚。これはすごい、と僕は素直に製作者を賞賛した。


 と、その時、背後から巻き付いてくる腕があった。別に幽霊とかではなく、彼女の腕だ。

 怪訝そうに振り向くと、余裕のない彼女の表情が目に入る。


「……こ、これはですね。怖くて、やばいほど、怖くて」


密着体勢。

 切実にそう訴えかけてくる彼女をどうでもいいと思いながら、僕は彼女を引きずって前進を始めた。


「仮にも女の子に抱き着かれてるこの状況で、それを堪能せずに前に進む『死んじゃうクン』ってすごくかっこいいと思う」

「意味わかんないこと言ってないで、はやく外に出よう」


 そうして彼女を引きずりながら、なんとか僕らはお化け屋敷を脱出した。遠慮がちに、僕の体から腕が取り外される。

 彼女は恥じるように両手で顔を抑えた。


「うううう、もう絶対、お化け屋敷には行かない」


 ◇


 一緒にクレープを食べながら、僕らは青空を見上げていた。

 二人で一緒にベンチで、遊園地を回った疲れを癒す。

 あれから、僕らはいろいろなところを回った。彼女はメリーゴーランドを何度も乗りたがった。空中ブランコで、はしゃいでいた。名前がよくわからない、いろんなアトラクションをやった。絶叫系はがんとして拒んだ。


「生きてる」と彼女は再確認するように呟く。疲れ切った声音。


「もしかしてなんだけど、『死んじゃうちゃん』って遊園地初めて?」

「うん、親が忙しくて、一回も来たことなかったんだ」

「へえ、珍しいね。だいたい一回はみんな来たことあるのに」

「まあ、ね」


 彼女は医者の娘。確かに、大病院の院長である父を持つと、忙しさで家族で旅行などは難しいように思える。けれど、休みを取れないわけではないはずだ。


 ……僕には関係ない話だ。


「そんなにびっくりしないでよ」と彼女は明るく笑う。


 彼女はとてもおいしそうに、クレープを食べる。


「それでも私は恵まれてるんだよ。お金持ちで美人。両親は健在。飢えたことはなく、友達だっている」

「自分で自分のこと美人って、普通言う?」

「まあまあ。ともかく、私は思うわけ」


 死を宿命づけられた彼女は、気丈に笑って見せる。


「君は、『もうどうせ死んでしまうなら、他人のことは関係ない。どう踏みにじっても、なにも問題はない』って言ってたよね。でも、私はそう思わないの」

「どうして?」

「私は恵まれているから」


 だってね、と彼女は言う。


「私は幸せを感じられる人で、人の善意が好きなんだよ。今まで生きてこられたのは、誰かのおかげ。だから、私は誰かに恩返ししないといけない。その誰かって言うのは、私の周りに住んでいる人すべてだよ。私はね、そうやって死にたいなって、思うんだよね」


 僕はそうは思わなかった。自分が死んでしまうなら、他人は一切自分に関係がなくなってしまう。そんなものを気にかけても仕方ない、意味がない。意味がないことはしたくない。無駄なことは嫌なのだ。


 そんな僕の反論に、彼女は笑った。


「でも私は、自分のことをいい子ちゃんだと思いたいの。自分にある程度満足して、死んでいきたいの。私は、善意を受けると嬉しい。私だって、善意を返したいって、心の底から思うんだよ」


 善意の繋がり。誰かが誰かに優しくする。それを受けた誰かは、誰かに優しくしようと思える。そうやって、善意のバトンが繋がっていく。


 ――私はね、その中にいたいの。本当の本当に、そういうことが大好きなんだよ。尊敬が、憧れがあるんだよ。


「自己満足かもしれない。でも、私はそうやって死んでいきたい。それが、私にとっての誇りだから」


 彼女は綺麗に、綺麗事を謳う。それもまた、正しいのだろう、と僕は思う。

 しかし、僕はそれを一切認めないだろう。自分とは別の思考だと考え、自分にとって関係ないことだと信じるだろう。


 僕の世界は完結していて、つけいる余地がない。余分なものは必要ない。この世に、意味なんてない。


「優しい人は、救われるべきなんです」と彼女は言う。


 それは、どこかの物語で呟かれたセリフ


「私にとって、この言葉は真言なの。頑なに、作られた空想を信じてるの。それで、いいんだと思う」


 物語の中に死ぬ。それは幻想だって、彼女はわかっている。

 でも、彼女にとってそれが真実だ。彼女が信じたものが、彼女の世界にとっての真実なのだ。


 似ているようで全く違っている僕ら。

 全く違っているようで似ている僕ら。


 僕らは世界から断絶されている。

 持たざることが個性であり、特権である。

 自分が信じたものを信仰し、そのために死んでいく。



 ◇



 僕は彼女のことを少なからず、好ましく思っていたんだろうなと思った。

 いや、本来なら好ましく思っていた、と言うほうが正しいのか。

 こういうことを考えると、胸が苦しくなる。

 それは恋でも何でもない、純粋な嫌悪感だ。


 ――僕は。


 僕は、もう終わってしまった人間だ。

 比喩めいたことを言えば、僕という人間はとっくの昔に死んでいる。


『概念色欠乏症』は色の概念のみに影響を与える病気ではない。雲のことを、『机』と認識してしまうことだってある。視界には雲が映るのに、『机』という概念が侵入してくる。


 狂人めいた、ごちゃごちゃな思考。


 共感覚、という人間固有の感覚がある。それは、音を聞くと味を感じたり、色を見るとなにかに触れた気になる、五感が別の感覚に繋がる、そういうもの。


 概念色欠乏症の患者は、おそらく色を伝い、他の感覚に影響を及ぼしてしまっている。

 例えばの話、好物は『好物だから』、『おいしく』感じる。しかし、『好物だから』という概念を病が変化させると、『好物だから』だから『おいしい』が、『好物だから』、『まずい』に変換されてしまう。


 同じように、『僕が好ましく思う人間』がいるとする。この概念が変質し、『僕が好ましく思う人間』のことを『嫌い』と感じるようになる。


 想像できるだろうか? 好物だからという理由で、僕は肉が食べられなくなった。でも、好物でもなんでもない魚は食べられるし、おいしくも感じる。


 僕が『好ましく思う人間』を見てしまうと、嫌悪感が溢れるようになった。概念が、変質してしまった。


 ……こんなバカなこと、想像できるだろうか?


 僕の感性は、一部一部が死んでいる。概念の意味がごちゃごちゃになって、狂ってしまっている。


 それでも僕がまともな人間を気取れるのは、僕がこの世のすべてに意味を感じていないからだ。『好ましく思う人間』を見てもどうでもいいと強く信じる。それで、僕はその人物に嫌悪感を感じなくなる。


 僕はありとあらゆることから自衛をする。

 この世の中には意味がない。……もう、死んでしまいたい。


 あまりにも苦しい。僕は僕の感性の一切を信じるわけにはいかなくなっている。


 僕が『嫌い』と思っているものは、実は『好き』なのかもしれない。僕が見ている『赤』は実は『青』なのかもしれない。

もともとが何色だったかなんて、全部忘れてしまった。


 僕は、昔の自分の行動規範に従って行動している。たぶん、これは昔の僕が好きなものだった。だから、好きなものに対する行動を行おう。これは僕が嫌いなものだった。だから嫌いなものに対する行動を行おう。


 しばらくはそうやって生きられたけど、疲れてしまった。

 今は、せめて僕が好きだったものを憎まないようにと必死なだけだ。

 彼女のことを思う。湧き上がるのは嫌悪感。

 でも、これは正しい感情じゃない。僕は彼女のことを好ましく思っているから、嫌悪感を持ってしまうのだ。


 正しくない。間違っているんだ。彼女のことは嫌いじゃない。


 ……もう、限界だ。


 ◇


 自分の概念が置き換わっていくのを感じる。


 寝て覚めた時、今度はどんな概念が変質してしまっているのだろう?

 起きるのが怖い。眠るときも怖い。


 僕が『呼吸をする』という概念を忘れたら、どうなってしまうのだろう?

呼吸することを忘れ、ぼくは苦しみながら窒息死するだろう。


 ……いや、これはまだましだ。


『なにもかもどうでもいい』という思考奪われたら、僕はどうなってしまうのだろう?


 僕の考えがいくつも奪われたら、僕は僕でなくなってしまう。

 今は必死に、好ましく思う人間を見ても、嫌悪感を隠すことができる。


 でも、概念が変質して、こういう行動をとれなくなったら、いったいどうなる?


 ◇


 小学生の頃の自分は自分ではない、と考える人は多いと統計が出ている。それは直感的な言い分だ。


 子供の頃の自分と、今の自分はあまりにも思考が違う。だから、直感的に、小学生の頃の自分と大人の自分は別人だ、と感じる人は多い。


 ガキな自分は自分ではない。頭が悪い自分は自分ではない。昔の欠点だらけの自分を、自分だと認めたくない。もう、今の自分は変わった。アレは別人だ。


 そう、人はある一定の変化を迎えると、過去の自分と決別する。自分だと認めなくなる。

 思い出は持っている。昔の友人のことを大切に思っている。

 けれど、もう自分は『別人』だ、と。


 僕は何度も何度も自分のことをそう感じる。昔の僕と今の僕では、概念が変質しすぎている。感受性が、概念が、思想が、もはや別人のそれだ。なのに、なんで別人の思考を受け継いで、躍起になっている?


 昔の自分の思考のために、溢れ出す嫌悪感を否定している。そんなのはおかしい。もう、僕は変化したのだ。自分が持っている嫌悪感こそが真実で、それに従うのが当然じゃないか?


 ――違う、と僕は思う。


 僕は、僕は、僕は。

 僕は、そんな人間になりたくない。僕は、今の自分がいかに低俗で、どうしようもない人間なのかを知っている。でも、こんなクズを自分だと認めちゃいけない。


 いつも世の中を恨んでいて、好ましく思っている人間のを傷つけたがっていて。

 今の僕はそういう人間だ。

 でも、そんなのは、僕じゃない。


 ――いいや、今の姿こそが真実のお前の姿だろう?


 確かに、そうなのかもしれない。でも、それは嫌なんだ。

 それだけは嫌だ。僕は今の自分が嫌いだ。だから、昔の自分を模倣し、思考を受け継ぐ。


 今は、今は。


 きっと、この思いも、いつしか変質してしまうのだけども。

 そうなる前に、僕は死にたい。切実に、そう思うのだ。


 ◇


 一人で泣きたくなる日がある。

 誰も助けてくれない。

 誰も僕のことを理解しないだろう。


 ◇


 そうして、一か月が過ぎた。今は高三の五月。


 僕と彼女はたまに喋るという関係のまま、変化せずにいた。


 近況はぼちぼちといったところだろう。しかし、怪訝なこともある。最近、彼女の周りでは人が減り始めた。彼女が進んで一人になっているというより、あまり人が近づかなくなったという表現が正しい。


 はっきりとした原因は知らない。しかし、嫌でも聞こえてくる噂話を頼りにするに、彼女の病気のことが関係しているように思える。病気持ちだから、関わりたくない、ぐらいの軽い忌避。今はその程度のことで留まっている。


 僕の世界の外では、そんなことが起こってはいた。しかしそれは僕にはまるで関係のないことだった。

 今日は日曜日。学校がない、休日。

 普段はインドア派の僕だが、今日は雨が降っているのであえて外に出てみることにした。ひねくれていることこそが、僕にとっての美徳だ。


 といっても、特にやることもない。外に出たはいいが、目的地がなかったのでコンビニで戦略を練ることにした。


 一般的なコンビニ、という外観をしている建物の前に立ち、自動ドアが道を開けるのを待つ。同時に、コンビニの客が店の外にでようとした。


「……あ」

「……あ」


 そいつは僕の知り合いだった。僕はそいつを真っすぐに見つめる。


「……不良」


 あまりにも小さい呟きは、非難というより感想の一種で、真実そいつの今の姿を表していると言えるだろう。


 ――鷹野瞬がタバコの箱を片手に、ニヤリと笑った。


「よう。奇遇だな。俺のことはチクってもいいぞ」


 そんなことするわけがない。


「なにしてるの」

「ああ、今日雨だろう? 外に出ようと思ってな」

「僕と考えが一緒過ぎて怖いよ」

「おまえもか? やっぱり俺達、気が合うんだな」


 どうでもよさそうに言う彼は、タバコを一本取り出し、しかし興をそがれたようにまた戻した。


「ここだと話をするのもなんだな。移動するか。屋上行くぞ屋上」

「なんで屋上にこだわるの」

「いいんだよ。好きなんだよ、高いところ。こっから一番近い屋上は、お前が通ってる病院か?」

「まあ、出入りできるところと言えばそこだね」

「よし、ついてこい」


 そうも堂々と僕がついてくる前提だと、ひねくれた返事でもしたくなってくる。


「嫌だと言ったら?」

「俺が悲しむ」

「なにも問題ないね」

「何も問題ないな。まったくもって」


 ◇


 雨が止んだ。

 病院の屋上には、人の気配がない。今は昼だからか、さっきまで雨が降っていたからか、単に人が寄り付かなかったのか。

 僕が通う病院は大病院であり、重篤の患者も多く在籍する。だからだろうか? 病院の屋上は、広さを除けば学校のほとんど変わらなかったが、大きめのフェンスが存在していた。ガン末期患者が、変な気を起こして飛び降り自殺しないためとか、そんな理由だろう。といっても、本気でよじ登れば越えられない高さではない。


『人は壁があるだけで挫折するものだ』


 そんな言葉を思い出す。どこかの節の引用。まあ、そんなものなのかもしれない。

 珍しく、鷹野瞬はいつもの位置である給水塔の上まで昇っていかなかった。僕の隣で立っている。僕らは話しながら、仲良くじゃがりこを食べている。


「へえ、限界、ね」


 興味深げに、鷹野瞬はそう言った。

 話したのは、僕と彼女の関係性、起こった出来事。

 なに、暇つぶしだ。僕らは会話をする。人とコミュニケーションをとって、意思疎通をしている。


「案外正常な反応なのかもしれないぜ。清水継葉。最近周りから人が消えていってるだろう? みんな嫌気が指したのかもかもしれないな。死にゆくものが醸し出す、特有の暗さのせいで」

「いいや、噂のせいだ。お前だって知ってるだろう? 僕が知ってるぐらいだ。彼女は悪くない」

「そうか?」


 じゃあ、お前が彼女に向き合って抱く辛さ、限界さはなんて説明するんだ?


「どうしてそこまでして関係を続ける? 『死んじゃうちゃん』との関係なんか、切ってしまえばそれでおしまいだ」


 それを聞いて、「確かに」と思った。僕は恐らく、彼女のことを人間として好ましく思っていた。けれど湧き上がるのは嫌悪感で、一緒にいるだけで苦しい思いをする。


 なんなのだろう。僕はおそらく、彼女と一緒にいて、自分が苦しむことに、試練のようなもの感じ取っているのかもしれない。僕はもう死んでしまう人間だから、無意味な世の中への抵抗を、しているのかもしれない。


 ――僕の感性は間違っている。


 好ましいと思う人間に嫌悪感を抱くなんて、絶対におかしい。


 だから、間違っていることに立ち向かう。それが、面白いのだと開き直るような考えをしている。


 でも、そんなことは鷹野瞬には言わなかった。

 なにもかもどうでもいい、世界のすべては無意味だと唱える僕が、たった一つ恐れることが存在する。


 それは今の僕の状態が知られることだ。概念が刻々と置き換わっていき、別人のようになっていく僕のこと。僕はその時――同情、されたくないのだ。


 僕は無意味で空虚な誇りをもって死ぬ。そう信じる。その際に、誰かから「かわいそうに」と言われることに耐えきれない。誰かの「かわいそうに」なんて無視するつもりでいるけれど、僕はそれを無視できるだろうか?


 わからない、と思う。狂いそうなほど変化を恐れる僕が、そのことを他人に指摘された時……否定できる自信がない。


 病院の屋上からは、晴れた景色がよく見える。

 雨上がりの独特の匂い。暗さが明るさに転じた差異が起こす、より明るく感じられる太陽の光。


 屋上。病院の廊下の臭いから解放された、開けた場所。

 鷹野瞬がタバコを吸い始める。病院の屋上はもちろん禁煙だが、彼にそんな注意を飛ばすのも今更のことだし、病院が汚れようが僕の知ったことではなかった。


 はあー、と煙を吐く、鷹野瞬。


「なあ、知ってるか? 人間は間柄的存在らしいぜ」


 いきなり、そんなことを宣い始める。


「『人間』という言葉が指すように、人は人の間で存在する、生活する。俺達は群れの中で生きるんだ。社会のルールを正しく守って、清く正しく生きる。おまえはどうだ?」


 僕は、輪から外れている。周りに、高い壁を築き上げた。

 鷹野瞬はわざとらしい、言うにふさわしい技巧的な笑みを作る。


「人はありとあらゆる意味で中間的な存在だ。善にも悪にもなれる。いつも思ってたんだけどな、お前って天秤みたいだよな。善にも悪にも興味がない、ニュートラルな存在。世の中の出来事がおまえを襲うが、努めてニュートラルであろうとする。どちらにも属さないように」


 動物にはないものを、人間は持っている。感情を制御する能力。考えること。高度なコミュニケーション能力。善と悪。


「お前、善とか悪とか興味がない以前に、よっぽど変化するのが怖いんだな」


 鷹野瞬は知ったような口を叩いた。


「……変化が怖くない人間がいるものか」


 僕は乱暴な口調で言う。変化。自分が自分でなくなってしまうこと。

 それを肯定的に受け入れられる奴は、よっぽど自分が未熟だと思っているか、よほどの楽観主義者だ。


「独りよがりに変化をせず、このままで死ぬ。それでいいんだ。誰かが僕を理解する必要はない。僕はできる限り揺れたくない。彼女は僕に影響を与える。そうだ、僕は無関心を貫きたいと思っているだけで、実際は貫けていないんだ。そんなこと、わかってる」


 そう言ってみれば、鷹野瞬は「じゃあやめれば?」と嘲るように笑うだけだ。


「高い壁を作って、そこから見下ろして見くびって。自分がいる位置に誰もいないから寂しいんだろ? 誰もお前を理解しない。なら、そこから降りればいい。お前には降りる力があるはずだろ」

「……」

「そうだ。俺なんかよりよっぽど、お前の方が他人の機敏に敏感で、いいやつだと思ってもらいやすくて、純粋で、優しい。なのになんでそうも拒否する? 人と関わりにいけばいい。そのほうが、今のお前の苦しみは弱まるのは明らかじゃないか」


 だってそうだろ、と問いかけるように彼は言う。

 違う、と僕は答えた。


「それはずいぶん……ずいぶん楽観的でしかない意見だ」


 僕の否定を消極的と見なしたのか、彼はせせら笑うように続ける。


「どうだか。ともかく、今お前がやってるのはいかにも人間的な技法だ。善と悪を調律して、中間地点に自分を置く。関係ないと意思を使う。無理があるんだ。そんな方法、絶対ガタがくるし、お前だって感じてるはずだ」


 人間をやめること。機械みたいに感情を閉じて、無関心を貫くこと。興味がないと、すべてを斬り捨てて生きること。


 僕は『人間のように生きること』を拒絶した。人間として大切な感情など、なくなってしまえと強く願った。


「……いいんだよ、僕はそうやって終わっていきたい。全部、忘れてしまいたいんだ。人間なんかでいられなくていい」


 それはまた、と彼は言う。


「ずいぶん人間みたいだな?」

「……」

「お前がとる手段は、どれもこれも人間しかできないことだ。感情の制御なんて特に。反射から起こる感情を理性で抑えること。お前は嫌になるほど人間を否定する癖に、厭になるほど人間ってわけだ」


 こんな言い争い、不毛だ。


 僕は強くそう思う。


「……ほっといてくれよ。僕は勝手に苦しんで、勝手に悩んで、勝手に死ぬ。誰かが関わるなんて許さない。例え、君が相手でもだ」


 もう踏み込むな。そう強い威圧をかけると、彼はあっさり引き下がった。


 とてもつまらなそうに、彼はタバコを踏みにじる。


「お前と話すのはとても楽しいよ。人間ってなんだっけ? そういうくだらない定義に頭を悩ませると、現実をないがしろにできる」

「よくないことだね」

「お前が言うかよ」


 彼は多分、僕のことがあんまり好きではないんだろうな、と思った。

 僕の生き方がどうしても許容できなくて、憤りを覚えてしまって。

 あまりにも受け入れられないやつだから、否定したくなってしまう。相手がどうなってもいいと思うぐらいに。


 僕はそれぐらいおかしなやつだ。僕は間違っている。自覚が免罪に至るわけではないのも知っている。それでも僕は、独りよがりでいいと思っている。


 ……ほら、決定的に僕らは相いれないのだ。


 曇天見下ろす元で、僕ら屋上でたむろっている。雨露に混じった湿りのあるタバコの臭いが鼻をつく。


「……今日、用事があってな。妹の見舞いに行かないといけないんだ」

「へえ。それでわざわざ理由を付けて病院の屋上に来たのか」

「まあそうだが、俺は普通に屋上が好きだぞ。馬鹿と煙のワンセットが高いところに昇るんだし」


 彼はおちゃらけながらそう言う。


「前から思ってたけど、なんでそこまで屋上にこだわるわけ?」

「ああ、そうだな。しいていうなら……屋上ってちょっと特別な感じがする場所だろ?」

「まあ、うん」

「それともう一つ、屋上は対決の場所なんだ。屋上には入り口も出口も一つしかない。扉はたった一つだ。対決をやめたければ……」


 彼はフェンスの外を指さす。


「飛び降りるしかない。それはすなわち敗北だけどな。ここでは対決から逃げられないんだ。と、勝手に思ってる」

「じゃあ出入り口が複数ある屋上はなんなの?」

「それは俺に言わせば屋上じゃねえな」


 それはまた、ずいぶん独特な感性だ。

 彼は少し、機嫌よさそうに笑う。


「お前が死ぬときは、屋上から飛び降りるのかなって思うよ。いや、ぜひそうしてくれ。人生との対決から逃げて、敗北する絵としてはなかなか完璧なものになる」

「うん。考えとくよ。もし自殺するなら、投身自殺が一番確実だっていうしね」


 死ぬのが怖くないふりをするのは、とても楽しい。


「じゃあ、俺はそろそろいくから。人間と関わるのやめても、ゲームとかスポーツとか、そういうものならお前もまだ楽しめるかもしれないぜ?」


 そういって立ち去る彼の口調に、もはや皮肉的な響きはなかった。


 ◇


 僕は鷹野瞬が言ったことをぼんやりと考えている。

 屋上から景色を見下ろして、考え事をしている。散り損ねた桜の花と、止んだ雨が増幅させる重い沈黙。


 屋上は対決の場所。出入口はたった一つ。対決をやめたければ飛び降りるしかない。それすなわち、敗北である。


 僕は鷹野瞬のことを知っている。ああ見えて、彼はこの世の誰よりも世の中というものに対して絶望している。死にたがっている節さえある。以前、彼は今の僕の状態のことをステータス、と呼んだ。僻み根性でそういってんだよ、と言っていた。


 たぶん、彼は僕の状況を羨ましがっていた。彼はどこか死にたがっていて、しかしそこに特別な理由はない。うってつけが存在しないのだ。だから僕みたいに、死ぬことに値する理由を彼は探している。


 ステータスを欲しがっているのだ。まるで英雄のように誰かを救って死ぬ。家族が全員殺されて、世の中に絶望したから死ぬ。

 自己犠牲か、身に余る絶望を受ければ、それは当人にとって死ぬ理由になりうる。病気で絶望するのだって、理由になる。


 でも、鷹野瞬はごく普通の高校生だった。彼は飢えることもなく、服を着て、学校に通い、家族全員が健全で、そこそこに愛されてすらいる。

 世の中に不満を持つこと自体が間違いと言えるほどに、彼は普通に、もしかしたら普通以上に恵まれている。彼はそのことを深く自覚している。


 彼は……屋上にいるとき、そういうことばかりを考えていたのかもしれない。彼は屋上にいるとき、己の苦悩と対決している。


 彼は負けた時、その身を地へと投げるだろう。彼はそのことを『敗北』と呼んだ。

 こつん、こつんと、背後から階段を昇る金属音。屋上に誰かが来る。

 僕は一人でいたかった。そのための屋上だった。

 だが、誰かが来るのなら、ここにいる意味を失ってしまう。

 僕は立ち上がり、立ち去る準備をする。


 ――なんだか、嫌な予感がする。


 屋上は、対決(・・)の場である。


 そして、入り口であり出口でもある扉が開いた。扉が立てる、重い金属を引きずる音。


 彼女(・・)がそこに立っていた。


 僕はあまり余裕がなかった。誰かに構いたいと思えなかった。たった一人で、どこかに消えてしまいたかった。


 けれど人と向き合ったからには、なにかしらの対応をしないわけにはいかない。


「やあ」と僕は言う。

「やほ」と彼女は笑って見せた。その表情は、歪められた形跡があった。


 ◇


「大丈夫だよお母さん。私、死ぬのはそんなに怖くないから」

「私にとって、普通に接してくれることが一番幸せなの」

「いいの、私に気を使ったりしないで!」

「なんでわかんないの! 私は……普通じゃない反応をされるのが一番苦しいんだよ! ほら、腕が腫れてきた」

「……ごめん、なさい。お願い、ひとりにして……。あとで、謝るから。ごめんなさい。ごめんなさい、あとでいい子にするから、今だけは一人にして……」


 ◇

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