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サイ

目を瞑ったとき、思い描くのはどんなことか。


例えば、楽しかった時の思い出とか。

こんなこともあったなあ、と思い、巡らして。


目を閉じれば、桜の散る景色が浮かぶ。

さわやかに浮遊する花びらと、肌にあたる風の感触。

それを想うと、桜のように美しく散ってしまいたい、という気分になる。


光を咲かす、綺麗な花火。

遅れて聞こえてくる爆音と、網膜を焼き付くすような光の残滓。

胸の奥深いところに、そういうものが刻み込まれている。


自分が何のために生きているのか。

何がしたいのか、ふと迷ったとき、少しだけ足を止めてみる。


追憶のなかで、なにかを見つめる。


きっと、最終的に自分がなにになるにしても、この思いは消えはしない。

最後に自分が思うこと。

そして、最後に目をつぶるとき。


力を振り絞って、なにかを思い返す。

老後の臨終にある時、きっと、きっと。


――きっと、僕たちは、私たちは、俺たちは。


きっと、最後の夢を見る。




今は七月の六日。

俺は鷹野彰(たかのあきら)と共になにがしたいかを話し合っていた。


百億円欲しいとか、美人に囲まれて死にたいとか。

かわいい幼馴染が欲しいとか、妹が欲しいとか、姉が欲しいとか。

世界一周旅行したいとか、世界征服したいとか。


荒唐無稽なものから現実的なものまで、俺たちは話し合った。

今は高一の夏。そんな俺たちが目下のところ達成すべきであり、手が届く現実的な欲望とは次のようなことに限られるだろう。


「青春してえ……」


鷹野彰が切実そうに呟いた。

俺はそれに返事をする。


「頑張りたいよな」

「女の子と仲良くしたい」

「無理だから俺と仲良くすることだ」

「やめろよ。悲しくなってくるだろ」

「妥協しろよ。俺はお前のこと好きだぞ、たぶん」

「気持ち悪いこと言うなよ……。俺もお前のこと好きだぞ、たぶん」


男同士で好きあいたいわけではないが、他に行動する相手がいないとこういうことになってしまう。

絶望的な青春を送る男子高校生によくある悲劇だ。


そんなことは置いておいて、と鷹野彰は言う。


「俺たちは手の届く、今すぐにでも実行可能な青春をするべきだと思うんだ」

「えー、なに」

「低レベルな争いがしたい」


鷹野彰は深くため息をついた。

俺もなんだかため息をつきたい気分だった。

陰鬱な雰囲気のまま、鷹野彰は語り始める。


「おっぱい好き?」

「大好き」

「巨乳が好き」

「貧乳が好き」

「なんだとこのやろう」

「……もうやめとこうぜ」


正真正銘の低レベルな争いはひどく悲しいものでしかなかった。

争いはなにも生まないのだと、改めて自覚させられた。だから日本人という人種は憲法九条を作ったのだ。


うあー、と鷹野彰がうめく。


「あーもうだめだ。学校めんどくさいし勉強辛いし、空から女の子振ってこないし宝くじ当たらないし」

「現実ってこんなもんだろ。しょーがないしょーがない」


俺たちの願い事。

やりたいこと、欲しかったもの、夢想するもの。

俺たちは何のために生きてるんだっけ? と思ってしまうのは若者特有のものなのだろう。

何のために生きている? 死ぬまでに何がしたい? 何を残したい? 

――何の意味を持たせるのか。

俺たちが死んで最後の夢を見るとき、その光景はどんなものになっているんだろうか。

考えても仕方がないので今を生きるしかない、というのが俺と鷹野彰の結論である。


「そろそろ帰ろうぜ」


俺はカバンを持ち上げ、立ち上がる。

鷹野彰も頷いて立ち上がった。


この学校の窓からは夕焼けがとてもよく見える。ある意味ドラマチックな光景。

夕日に走っていけば俺たちの青春は完成するかもしれない。けれどやろうとは思わなかった。野郎と二人きりのダッシュなんて虚しいから。


「そういえば(まこと)。おまえ、願いを叶えてくれる梟の噂、知ってるか? 願いの梟ってやつ」


鷹野彰が突然暇つぶしとでもいうかのように話題を投げてくる。


「いや、知らないな」

「なんでも一億円を捧げればなんでも願いを叶えてくれるんだそうだ」

「むしろ一億円をください、という願い事をしたいぐらいなんだけど。そんな法外な金額を払うなら願うも願わないも一緒じゃないか?」

「そうか? まあ、大富豪ご用達の梟なのかもしれないけど……。普通のサラリーマンの生涯賃金が二億だろ? その半分が願いの代償って考えると、妥当な気はするんだけどなー」

「一億より重い願い事とか、百億円ください、とかしか思いつかないんだけど」

「当然金を増やす願い事はなしだろう。あと願い事の回数を増やしてください、とかも」

「じゃあなにも願うことなんてなくないか?」

「死んだ恋人の蘇生とか、いろいろあるだろ」


俺たちはあくまで普通の高校生だ。劇的ななにかに出会うことはない。

テロに巻き込まれることもないし、病気で死ぬ運命にある女の子と恋人になることもない。

欲しいものはたくさんあるけど、ゲームとか漫画とか、音楽のCDとか現実的なものだ。俺たちの日常はあまりにも普遍的で、なにかを強く望んだり、願ったりすることはあり得ない。


俺たちは親に恵まれ、服を着て、飢えることはなく、普通に学校に通う、普通の高校生。

欠けているものはなく、余分になにかを持っているということもない。

たぶん、俺たちは世間一般的に見ればとても恵まれていて、幸福な人間なのだろう。

そんなことは当たり前の事実でしかない。



人生とは、どこまでも逆走しなければならないエスカレーターである、と俺は思う。

足を止めるとどんどん下の方に落ちて行ってしまう。だがそこそこの努力を続ければ、上に上がれないこともない。

勉強をしたり、会社で頑張ったり、お金を貯めたり、

人生という名前がついたエスカレーターはコツコツとした努力で上に昇ることができる。それをずっと続ければ、エスカレーターを昇った距離は他の人と比べて大きな差がつくだろう。

自分が高いところに昇って、他の人たちが自分より低いところに位置している様は、きっと愉快なものに違いない。大金持ちなんかはこんな思いをするのだろう。


一方で昇れないやつも存在する。勉強するのが嫌で努力を怠って、足を止めてしまう。エスカレーターは無情だ。足を止めたやつはどんどん下に落ちていく。一定の努力をしなければ、その位置を維持することもままならない。


俺たちは下がっていくエスカレーターを逆走し続ける。どこまで昇れるのかもわからず、どこまで落ちていけるのかもわからず。

でも、どっちが幸福かということぐらいはわかっているのだ。頑張って勉強して努力して、大金持ちになって世の中の勝ち組になる。頑張って頑張って頑張って、一日に十時間ぐらい勉強していい成績をとっていい大学に入って。

大金持ちになってから楽をすればいい。なにしろ学生として過ごす時間よりも、大人として過ごす時間の方が膨大だ。きっとこうやって生きることこそが、『人生』を考えるなら最も最適な手段ということになる。

だがそれを知りつつも、ほとんどの人は過剰な努力ができないのも事実だ。ほとんどの人達はきっと怠惰な生き方をする。


勝ち組になりたい、大金持ちになりたい、すべてを手に入れたい。


こうした欲望は、少なからずほとんどの人たちが持っているというのに。


……だが俺は思うのだ。そんなことにいったい何の意味があるっていうんだ?


大金持ちは途方もなく高い位置まで昇っている。多くの人たちを上から見下ろして、人生を楽しんでいる。

一般人は上の方を見ながら大した行動を起こさない。憧れだけを口にしている。

下層の人たちは上の方を見て、すべてを諦めてしまっている。憧れだけを胸にしまいこんでいる。


大金持ち、一般人、下層の人達。

大きなアドバンテージが開いているが、しょせんは皆人間だ。全員に等しく降りかかる事象が存在している。

それは死だ。どんな人間だって、いつかは死んでしまう。


生きている間はいろいろなことを想うだろう。しかし、死んでしまえば想いを胸にしていた時間なんて意味がなくなる。

大金持ちは死んでしまえばそれ以上エスカレーターを昇ることができなくなる。死体になったら、無情にもエスカレーターは死体を下へと運びつつけるだろう。

結局、人間である以上は死体にならざるを得なくて、皆同じ下層に辿り着く。


まあだが「死体によって価値が違う」と思う人もいるだろう。

確かにそれも事実だ。他人から見たら、浮浪者の死体と総理大臣の死体では価値が違う。

……だが、その死体自身にとって、価値は違ったものなのだろうか?

他人から見た自分の死体。自分から見た自分の死体。

自分の死体には他の人間と同じく価値がない。死体は動かないし、自分という存在を押し上げてくれないから。

死体は目を開かないし、喋ることはない。なにかを感じることもない。死んでしまったら、自分にとっての世界はそこで終わる。死ねば何もかもおしまいだ。

人生という名のエスカレーターは『死』という終点を持っている。どこまで高みに昇ろうと意味のないことだ。


じゃあ、生きる意味ってなんだろう?

結局すべての人間が同じ結末を迎えてしまうのなら、意味なんてないも同然ではないか?


それじゃあ悲しいから、人は生に意味を持たせようとする。終点は考えない。生き続けることこそが、楽しく人生を費やすことこそが至高なのだと宣い続ける。


たぶん、それは正しいことなのだろう。

『意味がない』なんてただをこねるのは子供っぽくて幼稚だ。きっと俺が間違っている。

けれど――少なくとも俺は、生きるという意味を見いだせないのだ。

楽しいことより辛いことの方が、生かすより殺す方が、作るより壊すことの方がずっと容易い。

世界は不幸に溢れている。マイナスの事柄のほうが目立つし、だいたいの場合は強い。

生きていることに意味なんてない。


胡蝶の夢、という思想がある。

我々が見るこの世のすべては夢で、現実ではない。本当の自分というものはもしかしたら、脳みそが水槽にぷかぷかと浮いているだけの状態なのかもしれない。そうでないという証拠はどこにもない。

虚無主義的な考え。

けれどされど、俺たちはこの世で傷を負えば痛みを訴えるし、苦しいものは苦しい。それが夢で感じているものだとしても、痛いのも苦しいのも嫌だ。

だからこの世が胡蝶の夢だろうと、俺たちは必死に生きるしかない。


……そうは思わなかった。


この世には意味がない。

到達する場所は同じ。

……それなら、どう生きたってなにをしたって同じことではないか?


俺はこの世に意味を感じ取ることができない。

しかし、笑顔を貼り付け、挨拶をし、普通の高校生として生きている。

愛する父と母がいて、服を着て、飢えることはなく、なに不自由のない暮らしをしている。

俺がなにを考えようと意味がない。

俺はまともに生きるしかない。どんな生き方をしても同じ事なら、普通に生きるのが一番楽なのだ。俺はそうやって生きている。



俺は当たり前のように服を着て、飢えることはなく、なに不自由もなく暮らしている高校生だ。

物語の主人公のように特別な能力を持っていたりしないし、両親の片方が死んでいるという悲劇的な設定を背負っているわけでもない。

一般的で普通に恵まれていて、非日常を体験しない、そういう人間。

だから家に帰って来て、知らない人間が玄関で俺を出迎えるという出来事には本当に驚いた。


「お兄ちゃんお帰り!」

「……だれ?」


謎の少女が俺の目の前で仁王立ちしていた。中学二年生ぐらいのちんまい容姿にぱっちりとした目。いかにもという風に着こなされたセーラー服。

……何者? よくわからないが、混乱した。


「お兄ちゃんが愛してやまない妹様だよ」

「俺、一人っ子なんだけど」

「えー、ひどいこというなー」


妹を名乗る人物はルンルンとリビングに入っていく。

……警察を呼んだ方がいいんだろうか。


俺は妹(自称)を追い、リビングへ。

いい匂いが鼻をつく。おいしそうな料理の匂い。


「あーなあ、君なんかの用事で俺の家にいるのか?」

「ん? そうだねー。今日はお兄ちゃんが好きなチンジャオロースを作るために家にいるかな! 部活サボってきちゃったんだ~」


話にならない。

けれどこの少女が害ある人物には見えなかったし、愛想よく振る舞われると厳しく問い詰めることも心境的に難しい。


俺は母に電話することを決意する。

三コールもしないうちに、母に電話は繋がった。


「あの、母さん」

「どうしたの真」

「えーと……うちに妹を名乗る謎の人物がいるんだけど」

「なーに? あんたはよく変な冗談をたまにいう子だと思ってたけど、今日はとびきりおかしいわねー」

「うーん。まあ、おかしいわなあ」

「うんうん」

「まあ、息子が二次元にはまりすぎて幻覚を見たってことにしといてくれ」

「心配なのだけど……」


予想通り、とでもいうのだろうか。

俺の言葉はまるで信用されていない。妹が突然家に発生した! なんて言っても、普通は頭の悪い冗談にしか聞こえないだろう。

だがまあ、はっきりしたこともある。母は妹を名乗る謎の少女のことを、少なくとも知らないということだ。


「あ、そうそう。私とお父さん、愛の旅行に一週間は行ってくるから」

「……今なんとおっしゃいましたか?」

「一週間は家に戻らないわよ」

「……へえ」


なんだこれは、と思う。

いくらなんでも、展開がおかしいというか、仕組まれているというか。

電話越しに聞こえてくる声はとても嬉しそうで、父と旅行に行くのは本当のことのようだ。


「じゃっ、真。愛奈と仲良く過ごしなさいねー」

「ん? 今なんて?」


俺が疑問を返すころには電話は切れていた。

慌てて掛けなおすも、繋がらない。……いったいなんなんだ。


俺は妹を名乗る謎の少女のことを考える。

台所に向かって「おーい愛奈ー」と呼び掛けてみると、「なーにー?」と返事が返ってくる。

ますますわけがわからない状態だ。

母はこの少女のことを知っていた? ならなんであんな反応をしたんだろう?


「なあ、君の目的をそろそろ教えてくれないかな」

「チンジャオロース」

「あーもう」


未知とのコミュニケーションがこれほど難しいことだとは。

だんだんイラついてくる。進まない話にとぼけてとぼけてのらりくらりと質問をかわす少女。

そもそも我が家とは住人にとってのパーソナルスペースだ。最も安心できる場所であり、くつろげる場所。そこに知らない人間がいるというのは、どうにも心地よくない。


「いい加減にしてくれよ」

「……お兄ちゃん、怒ってるの?」


愛奈? 妹? は料理の手を止めた。

その姿は弱々しく、小動物めいた仕草は庇護欲を感じさせる。

絵面だけで言えば、完全に俺が悪者だった。


……ずるくないか? これ。


俺はそれで怒れなくなる。本当ならこの不法滞在者に対して物申す権利を持っているこの家の住人なのに、出鼻をくじかれてなにもできなくなる。


「もういいや」


別に目の前の人物は筋肉で武装したゴリマッチョというわけでもない。恐ろしい人物がこの家にいたのなら、俺は敢然と立ちあがり、ホウキで撃退するなり悲鳴をまき散らしてご近所様に助けを求めたり、警察に泣きつきにいくかもしれない。

だがここにいるのは無害そうな少女一人。大事になることはないだろうし、放っておこう。


俺は二回にある自分の部屋に戻ろうとする。


「――まって!」


妹が、立ち去ろうとする俺の背中に抱き着きに来る。泣きそうな声。

唐突に流れるシリアスムード。さながら映画のワンシーン。

俺は自分が当事者ではないかのようにそう考える。


「ごめんなさい。お兄ちゃん、私が……私が悪かったから……」

「……」


重苦しい雰囲気。

だがそんな空気が流れる中、俺は普通にドギマギしていた。

だって、年頃の女の子が俺に抱き着いているのだ。もう少し年齢が上がってくれればより嬉しいが、この女の子はかわいいし、いい匂いもする。

……ちょっと興奮する。

別にこの妹? がどんな存在であれ、別にいいじゃないか、と思ってしまう。かわいいし、愛想いいし、かわいいし。

そこまで考えて俺は愕然とした。思考が完全にハニートラップに引っかかるダメ人間のそれだった。俺は自分に深く絶望した。


「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」


そんな馬鹿なことを考えて固まっていたら、背中から本物の泣き声が聞こえたきた。

さすがに慌てる。いやいやまて、と考える。

女は嘘の涙を流すことができる。心を鬼にして、しっかりとした対応を取らないければならない。


俺は背後から回される腕を振りほどいて、妹? と向き合う。

潤んだ瞳。長い綺麗な黒髪。愛らしい容姿。

……惑わされるな。


「見捨て……見捨て、ないで……」


泣いている少女の声。

それはあまりにも真に迫っていて、動揺する。

だから余計に混乱した。


もう一度言うが、俺に妹なんていないし、ましてやこんなかわいくて、俺に依存している、という都合のいい設定を持つ女の子なんていない。


だが彼女から伝わってくる感情が偽物なら、名演技もいいところだ。間違いなく女優になれる。

ひとまず、彼女の話を聞こうと思った。


「どうしたの?」

「私を……嫌わない?」

「嫌わないよ」

「でも私のこと、妹じゃないって言った」


そりゃそうだ、と答えようとしたが涙ぐむ姿を見て「愛奈は俺の妹だよ」と答えてしまった。男って弱いよな……。


「じゃ、じゃあなんで……」

「……?」

「なんで、私のことを知らない人みたいに扱うの……?」

「……えっと」

「私が生まれてきたせいでお母さんの足が悪くなったから? 私が生まれてきたことが、間違っていたから?」

「その……」


いったいどこの世界線の話なんだ、と思う。

うちはそんな業の深い設定なんて背負ってないぞ。やっぱりこの子はどこか頭のおかしい子なんじゃないか?


だがそんなことは口が裂けても言えなかった。目の前の女の子は間違いなく傷ついていたし、俺の母は「愛奈と仲良くしなさいねー」と言っていた。


「愛奈が生まれてきたことは間違ってないよ」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」


俺の口をついて出る言葉はなんだか嘘くさく、薄っぺらかった。だって目の前にいる子は俺の知らない子で、本質的にはなんの関係もない子だったから。


けれど彼女は救われたかのような笑顔を見せ、にっこりと俺に笑いかけた。


「お兄ちゃん大好き」


そういって彼女は袖で涙を拭いながら、台所に戻っていった。

なにもかも、わけがわからなかった。



妹と俺の二人で食卓を囲む。行儀よく「いただきます」と言い、晩御飯をつつく。

妹から聞かされる学校のことや部活、友達のことは当然ながら始めて聞かされることばかりで、なんだか変な気持ちだった。浮いている、そんな感覚。

けれど会話自体は楽しく、正しい兄妹のように俺たちはお茶の間を過ごした。

チンジャオロースは少し焦げた味がした。

けれどそう、悪くはなかった。



「世界が間違っているのか、俺が間違っているのか」

「中二病か?」


学校の昼休み、鷹野彰から不名誉な称号を俺は授かることに成功した。


「いや違う。なんていうか、ことは複雑なんだ」

「へー」


彼は血も涙もないやつだから興味なさげに頷くばかりだった。こんなにも深く突っ込んでほしい素振りを俺は見せているのに。


……それにしても、俺の置かれている状況はどうなっているんだろうか?

平和で平凡、日常の中に非日常が付け込む隙のない俺の家庭に異質が入り込んだ。

妹と晩御飯を食べて、結局俺はなにも調べられなかった。

妹とは何者なのか。なぜ俺の家にいついているのか。なぜ母はこんな子を預かったのか。


いくつかは推測することができる。きっと妹は母となにかしら繋がりがある者だ。それに精神障害か記憶がおかしいかのなにかしらを患っている。それを暖かな俺の心で溶かすことを母は望んでおり、未来ある可憐な女の子を俺のカウンセリング技術で救う使命を託した…………ないな。


それならもう少しなにか一言あっていいはずだ。妹が来たのはあまりにも突然すぎるし、電話で連絡だってとれているのだから、なにか言ってくれてもいいはずだ。

実は母は謎の資本家に命を握られていて、心が傷ついた少女を俺の家に送り込むことでなにか実験をしているんじゃないか?

……いやいや、妄想にしてもあまりにも寒い。


「妹って……なんなんだろうな」


なにげなく呟かれた俺の一言に、鷹野彰は反応する。


「そりゃー男の夢だろう」

「お前何言ってるんだ?」

「そう冷たくするなよ。かわいくてお兄ちゃん大好き! な妹を持つのは健全な男子高校生の夢だ。そうだろう?」

「たまに俺はお前という存在がわからなくて怖くなるよ」


まあ、わからなくはないのだが……。


「俺に優しいお姉ちゃんが欲しい」と鷹野彰が呟く。

「めっちゃわかる」と俺は答えた。


「ところで彰」

「なんだ?」

「俺に妹ができたみたいなんだけど」

「は? 今までの長い前振りだったのか?」

「前振りだったんだ」

「お前ってめんどくさいよな」


そんなこと言われても普通に傷つくんだけど……。


だがどうやっても妹の存在は信じてもらえそうにない。

それもそうだ。ある日突然、友人が「妹ができたんだ」なんて告白してきたらどうする? そりゃもちろん「あーはいはい、そうだねー」と適当な返事をするに決まってる。


だが次に鷹野彰から発せられる言葉は、想定外のものだった。


「お前愛奈ちゃん好きすぎるだろ。シスコンもここまでいくと病気だな」

「……は?」

「なんだ、怒ったのか? 事実だろうが」


いや、そういう意味の「は?」ではない。こいつが妹のことを知っている?


「愛奈のこと、知ってるのか?」

「あ―知ってる知ってる。耳にタコができるほどきいた。十四歳のバトミントン部。活発でかわいい。すごくかわいい。お兄ちゃん、という言葉を発する思春期の妹としては絶滅危惧種に指定されるファンタジーみたいな妹様。自慢ばっかすんなほんとにぶっ殺してやりたくなる。俺への当てつけか?」

「いや、たしかにかわいいけど……」

「あーーーでたでたー。もうほんとヤレヤレって感じだ」


鷹野彰は聞く耳を持たない。

俺は混乱する。俺は愛奈という名を持つ妹のことを昨日初めて知ったのに、なんでこいつは知ってるんだ?

さては俺に対するドッキリかなにかなのか? バラエティー番組的な感じの。


言いようのない不信感。世界が敵に回って信用できなくなる感覚。

どこまで仕組まれたものなんだろう? それにしてもやりすぎている。


鷹野彰は怒ってしまっているので、仕方なく放置して他の人物を当たることにする。

仕組まれてことなら、なるべく俺に関係ないやつに聞いた方がいい。この出来事を裏で操っている人物の裏をかくのだ。


俺は教室の端にいる、本の虫、杉野に話しかけに行く。

ちなみにあまり仲良くはない。


「俺に妹がいるらしいんだけど」

「……真、さ。関わりのない俺がこんなこと言うとのもアレだけど、あんまり自慢しすぎると気持ち悪がられるよ、女子に」


……あれ?


「それもそうだな。ところで杉野、今日は気持ちのいい天気だな」

「そうだね」


会話は終わった。


おかしい。裏をかいたつもりだが、この行動も読まれている。

ふとあるアイディアを思いつき、俺は携帯を取り出す。

ラインを開いて、愛奈、という名前を探す。

そこのトーク履歴。そこには仲睦まじく、正しい兄妹みたいに連絡を取り合っている妹と俺の会話が残っていた。


『今日は肉料理を作るのだ妹よ』

『かしこまりましたお兄様! あ、スーパー行ってきてね』

『了解だボス』


……こんな感じの会話がちらほらと散見できる。


俺はさすがに焦り始めた。

会話履歴は三か月前のものまで残っており、こんなものまで工作するなんて、普通は不可能なはずだ。いや、ひょっとしたらできるのかもしれないが、あまりにも手が込みすぎている……。


俺は怖くなった。ひょっとしたら、俺の方が間違ってるんじゃないかって思ったのだ。

妹は元々存在していて、俺が忘れてしまっている。そんなこと絶対ないはずなのに。

じゃあ俺が持っている家族の記憶は、偽物?

だがそれがどこまで作られた記憶なのかわからない。妹が抜け落ちた記憶を俺は持っていて、それをベースに今の俺は存在している?

あまりにも、SF的だ。こんなおかしなことが起きるなんてありえない。


今の俺が間違った存在なら、いったいどうすればいいんだ?


……いや、落ち着け。俺が間違っているはずがない。俺は正気だし、昨日のことも一昨日のことも思い出せる。妹なんて存在はいなかったし、妹が言うように「母の足が悪い」となんてこともなかった。

なにも矛盾なく、今までの過去を思い出せる。やはり俺は間違っていないはずだ。


だがこの世界の反応は、俺の周囲の反応はどうだろう。

あまりにも完璧なこの対応は恐ろしく、状況証拠だけで言えば圧倒的に俺が間違えている。

……俺は間違っていないはずだ。


機嫌の直った鷹野彰が話しかけてくる。それに俺はいつも通りの反応をして、表情を張り付けて、滞りなく答える。

胸の葛藤も、不安も、なにもかも置き去りにして、俺は今まで同じに見える日常を過ごす。



俺はたぶん、余計な考え事をして余計な苦しみを背負うような人種だった。

人一人を殺せば自分は助かる。そんな状況に、もし自分がいたなら迷わず自分は人殺しをするべきなのだろう。

漫画なんかで見るデスゲームを見ると、よくそんなことを思う。


今の状況の異常を考える。

俺には妹がいる? ……まさか、そんなことはありえない。

そう思っていた、けれど現実として残る証拠はそうではなく、俺の記憶が間違っている主張する。


もし、もし今の俺が本物でないのなら。


――今の俺は何者なんだ?



異質の混じった我が家に帰ると、妹がカーペットに寝転んでいた。

今は七月の七日。そのことを考えると、妹がなにをしているのかは予想がつく。


「なにしてるんだ?」

「えへへー秘密~」


はにかむ姿は、とても愛らしく、妹を血の繋がりのあるものとして見れない俺はその姿にドキリとさせられる。

彼女は俺の中では他人。家族できない異質な存在。俺の家に住み着き、居心地を悪くする、そういう邪魔な存在。


関わらないようにしようと決め、自分の部屋に上がろうとすると「えーもっと気にしてよー」という声が聞こえてくる。


俺はいかにもめんどくさそうに妹の方を振り返った。


「へー、妹様のやることなすことに、俺は興味があるなー」

「えっへん。素直にそういえばいいのだ」


別にそうでもないのに、俺の心の内を見破った気になっている妹様はどや顔をした。

そして手元にある紙を広げて見せてくる。

ピンクの七夕の短柵には、次のようなことが書かれていた。


『お兄ちゃんとずっと一緒にいられますように』


「……俺を一生独身にするつもりかよ」

「まあ、そういうこともあるよ」

「ない。俺はモテる」

「うっそだ~」

「嘘じゃない」

「うそでしょ?」


嘘だった。


明るい妹はどこまでもかわいらしく、俺に素直な好意を伝えてくる。

お兄ちゃんお兄ちゃん、とかわいらしく俺を呼び、全面的な信頼を俺に預けている。

それに俺はどうにかなりそうになってしまう。

妹という存在を妹と思えない俺にとって、彼女の存在は異性として魅力的だった。おまけに都合のいいことに、今は両親が不在であと六日も帰ってこない。

……妹は中学二年生で俺は高校二年生だが、別にロリコンってわけではない。それほどにまで彼女は魅力的なのだ。

愛らしい容姿、仕草、慕ってくれるということ。

女性経験の少ない童貞にとって、これほど条件がそろってしまうと、コロっと恋に落ちてしまいそうになる。

まあ、だがそんなことにはならないだろう。

なぜなら。


――俺は恐れているから。


自分という存在がわからない。俺は何者だ?


アイデンティティの確立は、いつか青少年が立ちふさがる壁だとエリクソンだかなんだかとかいう学者が言っていたが、まさかこんな形でやってくるとは思わなかった。

笑えてくる。

妹に関しての記憶を持っている俺が本物だというのなら、今ここにある俺はなんなのだろうか。

学校でも、帰宅中でも、俺は妹について徹底的に考え、何者であるかを調べた。

携帯会社に電話して妹の携帯について探る。正常。

勇気を振り絞って妹の学校に電話を掛ける。恥をかいたが妹の存在についての否定にはならなかった。

妹の出身地を調べる。細工された様子はなく、一般人としての結果がただただ帰ってきた。


どれも妹が現実に存在すると確定づける証拠ばかり。どう考えても、俺が間違っている。今の俺がおかしい。

じゃあ今の俺は偽物なのだろうか?

妹の記憶を持っている俺が本物で、今の俺が持っている家族の記憶、父や母、友人など大切な人々に関する記憶、これらすべてが偽物なのだろうか?

どうやら『妹』が存在する俺の家庭は平穏なものではないらしかった。父は母に障害を負わせた妹を嫌い、憎んでいる。妹はそれで俺に頼りきりになっている。

母はたまにおかしな言動をする障害までついており、父も何度か病みかけた。


じゃあ、平穏で普通の家庭を持っている、という俺の認識こそが、まがい物だったのだろうか? 辛い現実から逃げてくて、紛い物の記憶を持ってしまった?

それなら、それなら、家族と一緒に遊園地に行った記憶はどうなるのだろう? 母は普通に歩いていた。父は明るく、楽しそうだった。俺は高校生になってまで家族と遊園地なんてばからしい、みたいな態度を取りつつも、ほんとはすごく楽しかった。

これはすべて、嘘? 紛い物で偽物で、思い出は作り物なのか?


それは、とても怖い。

俺という存在が否定されている。

そして今の俺がおかしいというのなら――正しいのは妹に関する記憶を持っている俺の方だ。

この二人はあまりにも持っている記憶が違う。なら、正常になったら消えるのは俺の方だ。

都合よく、二つの記憶が溶け合いました――なんてことにはならないだろう。今の俺が消える。死ぬのと、同じだ。


妹は短柵をいくつも用意している。一人一つまでの願いを無視して、多くの願いを書き連ねている。


『お父さんが元気になりますように』

『お母さんが歩けるようになりますように』

『幸せで平凡な家庭を持てますように』


……見たく、なかった。


妹の表情に痛みはない。むしろ、とても楽しそうだ。

――だが書かれた願い事は、あまりにも切実で、痛々しくて。

『妹』の記憶を持っていない俺が偽物だというのなら、こういった苦難から今俺は逃げているということになるのだ。妹一人に背負わせて。


俺は妹を異性として意識してしまうことがある。だが、なにかに発展することはないだろう。

そんな余裕はないのだ。

俺は何者? どうすればいい?

俺が、今の俺こそが本物なのだ! 妹は偽物で、間違っているのは俺じゃない。

……本当に?


短柵に夢中になっている妹がこちらを向く。そして心配そうな顔で「お兄ちゃん?」と呟いた。

俺は、いったいどんな顔をしているんだろうか。


「だいじょう、ぶ?」


俺の視線に気づいて、妹は短柵をさっと隠す。原因はこれのせいだと気づいて。


俺は動けなかった。

なにもかも恐ろしかった。にっちもさっちもいかない心情。

目の前に広がる光景を否定することは、とてつもない罪悪感があって。

それでも俺が俺でいるためには、目の前に広がる光景が狂っているのだと思うしかなくて。


妹が俺の顔に恐る恐る触れてくる。


「私がいるから、ね?」


真心を持って、妹は俺を慰めようとしてくる。

ああ――。


それは毒だった。致死を孕む毒。

俺にはプライドがあった。目の前に困難があったら、できることなら自分で乗り越えたいという願い。

誰かに助けられたくない。自分が強い奴だと思い込みたい。

けれど妹の愛を払いのけるのは難しく、真心が籠っているからこそ、否定するのが心苦しい。

彼女の思いは本物としか思えない。だから――。


――けど俺は嫌だった。俺は消えたくない。こんなものが現実だと、悲劇的な家庭が本物だと認めたくない。


「――触るな」


とても恐ろしい、声がでた。


妹の喉の奥から、漏れるような小さな悲鳴が聞こえた。


それを無視して、俺は自分の部屋へ。

おかしいのは俺じゃない。世界の方だ。

俺は狂ってなんかいない。正しいのは俺の方だ。


自分のベットに転がって震える。

世界が恐ろしいと感じるなんて、あまりにも新鮮だ。

絶対に俺の持つ記憶は正しいはずなのに、世界はそれを否定する。

怖い、怖い。いったいどうなってるんだ。


今の俺は消えてしまうのだろうか?


そうしたらどうなるのだろう?


俺は正しい俺に乗っ取られるのだろうか?


いろんな感情が渦巻いては消えていく。

『妹』の記憶を持つ『俺』に対して申し訳ないという気持ち。

あれだけ妹に『俺』は好かれていたのだ。さぞいい兄だったに違いない。しかし、今の俺は妹を傷つけてしまった。たぶん、泣かせた。


ここは現実なんかじゃない、と強く思い込む。

これは夢。俺は胡蝶が見る夢に迷い込んでいて、目を覚ましたらあの平凡な家庭に戻れる。

――ここは現実なんかじゃない。


頼むから覚めてくれと思った。

こんな恐ろしい思いをしたくはなかった。

消えてしまうという恐怖と、妹に対しての罪悪感と、あるべきだった『俺』に対する罪悪感。

苦しくて苦しくて、気が狂ってしまいそうで。


――扉が開く。


俺の部屋に、誰かが入ってくる。


女の人。妹ではない。


それを見て、俺の口が勝手に動いた。


「……ねえ、ちゃん」

「真! 妹を泣かせたわね!」


その容姿には母さんの面影ある。しかし――。


――俺に姉なんていたか?


まさかまさか、そんなはずはない。じゃあなんで昨日いなかった?

俺は妹について探るために自分のラインをかなり念入りに調べた。そこに姉は登録されていなかった。


もしかして、と思う。


俺は携帯を取り出す。ラインを見る。探す探す。そして。


――見つけた。


「ねえ、聞いてるの!」


姉の怒鳴り声。


そんなものは気にも留めず、俺は自分の携帯を見つめていた。

そこには『ねえちゃん』と表示されているアイコンがあった。トーク履歴を見れば、俺は『ねえちゃん』と会話をしていた。楽しそうに、まるで正しい姉弟のように。


――それを見て、思わず笑ってしまいそうになった。


俺は記憶に欠陥がある?

……そう思っていた。

だがこうも見せつけられると、さすがにそれは違うのだなあ、とわかる。

さっきまで、俺に姉はいなかったのだ。これは自信を持って言える。


「お姉ちゃん!」と妹の声。


泣き腫らした目で、妹は姉に縋りつく。


「昨日からお兄ちゃんがおかしいの! 私のことを知らないっていうし、絶対におかしい! たぶん、記憶を失ってるの。はやく、はやくお兄ちゃんを助けなきゃ」


ふつふつと沸き立つ感情がある。


「で、でも私、どうすれば……」

「病院に連れて行くんだよ! そうすればきっとお兄ちゃんは治る。きっと、きっと治るから……!」


なにが起きているのやら、なにが黒幕なのやら。

俺はあまりにも普通の人間で、巻き込まれているであろう事柄に対して予想がつかない。

だが、俺は間違っていないのだと思った。ようやく、確信が持てた。


「はやく捕まえて!」


金切り声となった妹の声は、とても耳障りで。


「ふざけるな」と俺は言う。


女二人が怯む。

家族なんかじゃない、赤の他人が。


「ふざけるな!」


思い切り怒鳴りつける。


「ふざけるなふざけるなふざけるな!!!」


怯える二人に喚き散らした。

だが俺は間違っていないのだ。

俺は正しい。


くそったれなこの世界。

ふざけているこの世界。


「――ふざけるな!!!!!」


ぷつりと、視界が途切れた。



願わくばを願ってみれば

いつも失敗が転がるばかり


一たび二たび三たびの願いの数々は

廻転止まらぬ歯車の慟哭


良いことをしたいのならば

その身を還元しなきゃあなりません


砕けて消えてお星さま

きらきら残滓は儚くて


一つ一つを消化して

きっとなにも残らない


――なにを願ってどう死ぬの?




「今日は七夕だな」と鷹野彰は言った。


俺は適当な生返事をする。


俺と鷹野彰はいつものようにくだらない願い事を話し合う。

七夕という日こそ、俺たちのくだらない欲望を発揮する日はないだろう。馬鹿げた願い事の数なら、俺たちは全国の高校生の中でもトップを誇る自信がある。


まず、俺から勝負を仕掛けた。

鷹野彰は応戦する。


「お兄ちゃんって言ってくる妹が欲しい」

「俺の罪をすべてを許してくれる姉が欲しい」

「宝くじ当てたい」

「ハーレムを築きたい」

「日本を俺のものにしたい」

「女の子になりたい」

「俺の負けだわ」


鷹野彰という男は強かった。


妹が欲しい派である俺と姉が欲しい派である鷹野彰とは、大きな溝があるようでない。

謎の仲良し。貧乳と巨乳で争うそうし、趣味嗜好が合わないはずなのに、俺たちはいつもこうして放課後を過ごしている。


「俺たちって……馬鹿じゃね?」


鷹野彰という男は稀にだが真理を付く発言をする。

俺は力強く頷いた。俺たちは馬鹿だ。


俺は憂鬱に空を見上げる。どこまでも赤く染まった夕日。

放課後の教室から見える景色は美しかったが、隣には野郎しかいないことを考えるとひどく虚しかった。


「かわいい妹がいたら、俺ももう少し生きる意欲がわくんだけどなー」

「俺もかわいい姉がいたら東大に受かったのに」

「無理だろ」

「……世の中に不可能なことなんてないんだよ、たぶん」


妹とか姉とかを論じる男子高校生の背負う闇は深い。


けだるそうな鷹野彰が突然、がばっと顔を上げる。


「閃いた」

「どうせくだらないことだろ」

「もうすぐ俺たちの学校でスポーツ大会があるだろ? そこの部対抗リレーに出馬しようぜ」

「俺たち帰宅部なんですけど」

「そこが盲点なんだよ!」


鷹野彰は楽しそうに言う。


「俺たちは帰宅部! いいか? 帰宅()だ。帰宅することに関して全身全霊を傾ける俺たちは部対抗リレーでその象徴を背負わなければならない!」


俺の「バカじゃねえの?」という突っ込みは速やかに棄却された。


「帰宅部の象徴と言えばこれに限る。ランドセルだ!」

「お前の発想についていけないんだけど」

「ランドセルをバトン代わりにしてリレーを走る! 帰宅に執念を燃やす俺たちの足の速さを、他の部にみせつけてやろうじゃねえか!」

「なかなか俺たちの足は貧弱だと思うぞ」

「じゃあ、お前ファーストランナーな。俺アンカーやるから」

「おっけー」


なんだかんだ文句を言っておいてノるのが俺という生物だった。


いやー楽しみだなあ、と鷹野彰はうきうきしている。

実際、いけるのだろうか? 先生に向かって「帰宅部として部対抗リレーに出たいです!」と言う。……案外ウケていけるかもしれない。


「そうと決まればこの短柵も早く書き上げないとな」

「……彰、お前何枚短柵書いたんだ?」

「夢多き男なんだ」


『一億円欲しい』

『お姉ちゃんが欲しい』

『空からお姉ちゃんが降って来てほしい』


そんな感じの願い事が書かれている。

高校一年生が書くものとしては頭が悪すぎて、鷹野彰が書いたものなのになんだかこちらが悲しくなってきた。


もっと『お母さんが健康にいられますよに』とか、そういういい感じの願い事を書けないのだろうか?

中学二年生ぐらいの女の子がそういうのを書いていたというのに、高一のこいつときたら……。


「じゃあお前は何かいてるんだよ」


鷹野彰はそういうが早いか、俺の短柵を奪った。


「あ、ちょっ」

「んー、どれどれ。『死にたくない』と。ひゃー凄いなお前。死にたくない、死にたくないー!」

「まじでぶっ殺すぞ!」


鷹野彰はゲラゲラと笑う。

テンションのおかしい時のこいつは本気で頭がおかしいのだ。存在は天災に近い。


まあ、こういうやりとりもなんだかんだで楽しいの俺もノっている。

俺たちは教室で鬼ごっこを始める。

鷹野彰が逃げる。俺が追いかける。

机を使って奴はうまく逃走する。俺は椅子を使って奴が使うであろう逃走ルートを塞いでおく。


それをしばらくやってから、鷹野彰は唐突にこういった。


「なあ、虚しくね?」

「……お前いきなり賢者モードになるのほんとやめろ」

「男二人でキャッキャッうふふしてるんだぞ?」

「現状を適切な言葉で表さないでくれ、死にたくなる」

「泣けてくるな」


俺たちは憂鬱になった。


鷹野彰は机に突っ伏して、自分の短柵を見つめる。つまらなさそうな表情。


「この一億円欲しいって願い事。幼稚園の子供が掛ける短柵のところに括りつけてこようかな」

「めっちゃ異彩を放ちそうだな」

「純真な子供の願い事が飾られる中、この一枚で綺麗な短柵を汚染してやりたい……」

「おまえ最低だな」


まあ、やらないけどな、と鷹野彰は言った。当然だ。


「でもなんで一億円なんだ? どうせなら十億とか、百億円を願えばいいのに」

「ああ、まああんまり深い意味はないんだけどな。真、おまえ願いの梟の噂、知ってるか?」

「知らないな」

「なんでも一億円を捧げればなんでも願いを叶えてくれるって噂だ」

「じゃあ十億もらえるように願うわ」

「いや……そういうのは常識的に考えてなしなんじゃねーの? 願い事の回数を増やすとかも」


それならあまり意味がなさそうだ、と思う。

一億以上に価値がある願いなんて、そうそうあるものだろうか?

結局、俺の頭で考えられるのは一億円以上の物品をもらって売り飛ばして得するとか、そんなことぐらいで、大したものは思いつかなかった。


「かーっ。真、お前は本当につまらない奴だよ」

「うるせえ。じゃあそっちはなにを願うんだよ」

「今まで過ごした俺たちの時間はなんだったんだ? 願い事にはプライドを持てよ」

「どうせ叶わない妄想にプライドを持ってどうするんだよ」

「まあいいや。俺だったらハーレムを作るね。他には……英雄願望、とか?」


疑問形で鷹野彰そう言った。

ハーレムがうんぬんというのはこいつらしい意見だ。だが英雄願望とは、少し意外だ。


「クラスメイトがテロリストに襲われて、それを俺がかっこよく武術でバーンって蹴散らす」

「それって一億の価値あるか?」

「うーん、微妙?」


まあでも、分からなくもないとは思う。

男という生き物は強いことに憧れる。俺も高一という結構な年増だが、いまだに黒い剣とかはカッコいいし、努力しなくていいなら剣道で最強になったりしてみたい。

悪者をバッタバッタとなぎ倒し、人々に感謝されて悦に浸りたい。うおおお、俺は最強だ! ……みたいな?


くだらない夢希望を語るということは、本当に楽しい。

俺たちは想像の中では自由だ。なんだってできる。なんにだってなれる。


もし自分が世の覇者だったら。

誰かに崇められる存在だったら。

なんて。


そういう夢が叶うなら、たしかに一億円を失ってもいいと思った。

この世の中に意味なんてない。死んでしまえば生は意味をなくす。俺たちは人生という名のエレベーターから逃れることができない。


「なあ彰、おまえって俺に願いの梟の話、したことあったっけ?」

「いや? 今初めてしたけど?」


俺たちは帰りの準備を始める。

なんだかやけに、頭が痛む。



このクラスは相変わらず完璧なバランスを保っているよな、なんてことを思う。

朝目覚めて機嫌が悪い人間の思考はたいてい頭が悪い。その例に漏れず、俺は一限の始まりから人間観察なんてことを始めていた。高いところに昇ってすべてを知ったような気分になりたかったのだ。


教室にいるクラスメイト達を眺めてみる。

当然ではあるが、このクラスにもスクールカーストが存在している。


例えば、前の席の安藤はスポーツのできるイケメンだ。明るくて陽気なやつ。女子にモテるし、スポーツ系の部活のやつらを引き連れて女子とカラオケに行ったりしている。


一方でその左の席に座る杉野は暗い奴だ。休み時間は本を読んでばかりいるし、かけている眼鏡と賢そうな雰囲気もあって喋りがたい。

かといってクラスで孤立しているわけではなく、気の合う友人を持っている。杉野にとって「気の合う」といえる範囲の友人は少ないが、友達が多ければ人生の勝者というわけでもない。


そして最後に、明るくも暗くもなく、『普通』に属する人々。例えばそれは、鷹野彰とか俺がそれにあたる。

明るい奴らとつるむこともできるし、暗い奴らと雑談に花を咲かすこともある。

このクラスは平和だ。良くつるむ友人関係というのは多少なりとも決まってくるものだが、一応クラスの誰かが誰に話しかけても、邪険にされることはない。


まあそんな感じなのだが、やはり友達具合、親密度というのはどうしても気になってしまうものだ。

……困ったことに、俺と鷹野彰はお互い以外の友人を持たない。別にそれが飛び切りの不幸につながるわけじゃない。ほとんどのやつと雑談ぐらいはできる。クラスのやつとカラオケとかいったことないけど。


いやいや、でも体育祭とかがあって、その打ち上げでカラオケに行くことになったら間違いなく俺たちは誘われるはずだ。だから気にしなくていい……はずだ。


クラスのパワーバランスは絶妙だった。

いじめの前兆なんてないし、完璧な孤立を描く人間もいない。まあ、俺と鷹野彰のような若干の孤立はそこそこにあるが……。


授業の金がなって休み時間が終わって授業が始まる。

それを三度ほど繰り返した後の昼休み、隣に座っている鷹野彰が深々とため息をついた。


「生きるってなんだろう……」


俺はすかさず教科書のニーチェが乗っている場所を指さした。

ニヒリズム、虚無主義。この世に意味なんてないんだよと謳う哲学者。

鷹野彰はけだるそうに手を伸ばし、俺の教科書ににこちゃんマークを書いた。他人の教科書に落書きするんじゃねえ。


今日も疲れたような様子を見せる友人を励ますため、俺は彼に声をかける。


「なんかやるか」

「だな」

「なにやる?」

「……だらだらゲームしてお菓子食べたい」


鷹野彰という人間はとても駄目な人間だった。


「あ、閃いた」

「お前の閃きはロクなことにならないような……」


にやりと鷹野彰は笑う。


「俺たちが作るんだ。自分の居場所を、自分自身で」

「かっこいい倒置法だな」

「まず俺はだらだらしてゲームしておかしを食べたい」

「はい」

「なんか文化部を作ろう!」


鷹野彰のよくわからない発言は今に始まったことではない。

「へー」と俺は答えた。


「まーまー、そう邪険にするなよ。真はずるいと思わないのか? 天文学部のやつら、部室でおかし食ってゲームしてるんだ」

「初耳だ。羨ましいな」

「じゃあ俺達も同じことをしよう」

「……それが文化部の設立?」


鷹野彰は力強く頷く。


「部室を手に入れ、部費でおかしを買って過ごす」

「最低じゃねえか」

「じゃあお前はこの話に乗らないのか?」

「乗るけど……」


すぐ人に流されてしまうのは俺の悪い癖だと思う。


「天文学部、生物学部、将棋部、などなど……。ざっとこんな感じに文化部があるわけだ」

「詳しいな」

「そして、普通の学校にはあってこの学校にはない、うってつけの文化部があるわけだ!」


演説は熱を帯びヒートアップ。決意は目に籠り、野望の強さは人間の行動力に直結する。

たぶん、鷹野彰は本気でこのバカみたいなことを実行するだろう。


「俺は! 文芸部を作る!」

「へー」

「もっと盛り上がってくれ?」

「いやあ、文芸部ってなにやるんだよ。小説書くとか、お前できるの?」

「できない」


できなかった。


「無謀だろ……」

「いや、なんとかしよう。何とかして見せる」

「お前は物語の主人公じゃないんだ。不可能なことを背負い込もうとするのはやめた方がいい。目を覚ませ」

「できるし!」


俺の否定は彼の心に油を注いでしまったようだった。


「やるしやるし、ぜっったいやるし。まずはメンバー集めだな」

「……まじ?」

「まじまじのまじ」


鷹野彰は教室の右隅を指さした。その相手はいつも教室の片隅で本を読んでいる、俺や鷹野彰とよく似た若干の孤立型の女子。


「孤高のロンリーウルフ。深窓の読書姫。葉山寧々さんだ。文芸部にうってつけだから勧誘してこい」

「えっ、やだよ……」

「てめえ!」


鷹野彰が俺の肩を掴む。

しかし、そのオーバーアクションに対して声は小さい。


「……真ってさ、寧音さんのこと気になってるんじゃないのか?」

「え?」

「え?」


誤解が溶けた音がした。


ようするに……鷹野彰は俺に葉山寧々と喋るきっかけを作ろうとしてくれたということ?

いや、確かに彼女はかわいい。読書好きというおとなしさやおとしやかさ、ついでにいうならスポーツ少年たちとつるんでいないのは好感が持てる。

目に彼女の存在が入れば多少は気にするだろうが……別に彼女に対して淡い恋心を抱いていたとか、そういうことは絶対にない。


鷹野彰は悲しそうな顔をした。自分の気遣いが空回りで意味のないことだと理解して。

俺はそれになんだか胸に響くものがあった。

この空回りな友人は俺のためを思って行動してくれたのだ。

ならば俺は行動しなければならない。友人の笑顔を守るために……!


使命感は俺を突き動かし、足は葉山寧々のところへと向かった。

昼休み、いつものように読書をしている彼女。


そして目の前に立ち、彼女に声をかけようとする。

しかし、突然頭の中が真っ白になってしまった。大切な試験の時に、暗記した記憶が漏れていってしまって頭が真っ白になる、そんな感じに。


そもそも女子にどうやって話しかけるんだっけ? ここでほぼ面識のない俺が話しかけるのはすなわちナンパだ(後になって思えば全然そんなことはない)。俺にそんな度胸はない。


俺は女子に話しかけるという大きな航海に難破して後悔した。


もう一刻の猶予もなかった。彼女は目の前に立った俺の気配に気づき、本から目を離す。

このままでは意味もなく女子の前にたって無言だったキモイやつみたいになってしまう。それは俺の精神的にもプライド的にも世間的にも非常に悪い。


ふとそこで、彼女が読んでいる本のタイトルが目に入る。

『最期の夢を見る』。一度読んだことがある本。

自然と俺は「その本面白いよね」と言ってしまっていた。

それに対して意外にも、葉山寧々は嬉しそうな反応を見せる。


「真くんも知ってるの?」


弾んだ声はなぜだか想定外に好印象を纏ったもので、怯みかける。

しかし同時に、これなら喋りやすいな、と思った。


「ああ、三回ぐらい読み直したことがあってさ。ちょっと思い入れが深いんだよな」

「奇遇だね! 私も複数回呼んだことがあるの! 私は五回ぐらいだから私の勝ちかなー」

「いや、思いの強さなら俺だって負けないから」

「お、なかなかいうね~」


葉山寧々とはこんな人物だったのか、と驚かされる。

暗くて大人しい女子だと思っていた。あんまり喋らない娘なのだと。

だが、よくよく考えてみれば、クラスのおとなしそうなやつでも仲の良い友人相手ならよく話し、明るく振る舞うこともある。彼女はそういう類なのかもしれない。


「なあなあ、俺と鷹野彰で文芸部を作ろうとしてるんだけどさ、部員を集めたいから葉山を誘おうかなって思って」

「お、いいねー。私入りたいかも」


とんとん拍子に話が進んでいく。

「あ、私のことは寧々って呼んでくれればいいからねー」と彼女は言った。

……うまく行き過ぎて怖いぐらいだ。


「じゃっ、また進展あったら連絡するから。……ラインの交換、お願いできる?」

「いいよ~」


調子に乗った俺はさりげなく女子の連絡先を手に入れた。


俺はどや顔で鷹野彰の元に帰還する。

俺の強者が放つ特有のふてぶてしさを見た鷹野彰はこう言った。


「うざっ」


俺は普通に傷ついた。



デジャヴという言葉がこの世には存在する。

それは思春期の男子を紛らわす困った要素だ。

まるで前世の記憶のように浮かびたつデジャヴは、俺みたいな黒い剣が大好きな男子に「俺は昔の記憶を引き継いだことに成功した特殊な存在なのかもしれない」という錯覚を与える。ワンちゃんこの世の主人公である可能性があるんじゃないか? そういう中二病に近い、自己特別性をどうしようもなく感じてしまう。


もちろん、そんなことは天地がひっくりかえってもあり得ないし、俺は自分が魔法を使えるとか、実は剣の達人ですごい強いとか、そういうのは妄想の範囲で留めている。

本気で自分のことを特別だとは思っていない。思いたいな、特別になりたいな、という願望を抱いているだけだ。突然大通りで魔術の詠唱をしたりはしない。


そうやってここまで自覚しているのに、デジャヴというものはたまに、あまりにも真に迫った未来視を見せることがある。

脳科学上で言えば、デジャヴは情報を流す神経が通り道を間違えて人間に錯覚を与えているだけの、いわば脳の処理に失敗しただけの産物だ。意味なんてない。

例え何度も同じ事柄を既視感で感じたとしても、それはただの錯覚。『何度も感じた』という認識自体が勘違いなのだ。


俺はよくデジャヴを感じる人間だ。といっても、デジャヴを感じた正確な人数の統計はでていないし(デジャヴを感じたことそのものを忘れている人間も多く、図ることは実質不可能だ)、俺のデジャヴを感じる頻度は普通ぐらいのものなのかもしれない。


だがともかく、いや錯覚なのはわかっているのだが――俺には妹がいたような気がしてならない。

笑ってくれよ。たぶんこれは男子高校生特有の「かわいい妹が欲しい」という願望が漏れているだけだ。いや、これは錯覚だから別にいいのだ。


だがデジャヴに証拠があるとき……俺はどうすればいいんだろう。


自宅の自室、その机の中。小さな紙切れにこう書いてある。

『葉山寧々を忘れるな。選択は自分で決めること』

……鷹野彰は、俺が寧々を何度も見ていると言っていた。

もしも、もしもだがその光景は正しいもので、単純に自覚がなかったとしたら。

そして、俺に寧々に関するデジャヴのようなものをなんども感じているとしたら。

デジャヴではないと指し示すようにメモが机の中に入ってたとしたら。


――俺は寧々に関してなにかを想っていた。

――寧々と話したことは初めてじゃない。

――俺は彼女の何かに対して、涙を流していた。



時々思う。俺には死にたがりの素質があるような気がしてならない。

この世に意味なんてないと深く思い込む。けれど現実ではそんな様子、微塵も見せない。

無理がたたってしまったんだろうか? ずれた歯車の具合は大きく、軽い動作仕草で疲れがたまるようになってしまっていた。

死にたくない、と強く思っているくせに、死んでしまうことに興味がある。

死ぬ一歩手前に至れば、この世のなにかが見えてくるかもしれない。

命の尊さを知って、『この世に意味なんてない』と言わなくなるかもしれない。

俺はそういう人間になることを望んでいた。

辛いことは考えたくない。絶望なんてしたくない。

――死ぬ一歩手前を経験すれば、俺という人間は変わるだろうか?

それは愚問だ。そんな都合のいいことにはならない。

逃げ道を探しているから異常な行動が自分を変えると期待しているだけの、しょうもない選択の一つ。



鷹野彰について評するならば、俺は彼のことを天才だと言わざるを得ない。

彼はどうやったのか、文芸部創設の話を夢物語ではないところまで持ってきていた。

担当をしてくれる教師もいるようで順調。正式な部ではなく、愛好会という形になりそうで、部費は与えられず、されど教室が愛好会のものとして使用許可が与えられている。

そんなところまであと一歩というところまで来ているのだ。加えて言うならばこれはほとんど確定事項で、あとは職員審査を待つだけだ。


鷹野彰の三日の奮闘は結果を出していた。

俺は彼にコーラを三本奢った。


「よーし、皆で集まってだらだらできるーー。冷房付きの教室、手にいられるっぽい!」


成果はそんな感じだ。


こんな風に順調に進み、今は七月の十一日。学校のお昼休み。

七夕が終わったのがつい昨日のことのように思える。

現在、鷹野彰は職員室にいって交渉中だ。


俺たちの教室では、いわゆるぼっち飯を行っているものがちらほらといる。別に孤立してるわけではなく、移動がめんどくさいという理由で一人になっているものが大抵だ。

自慢ではないが、俺は鷹野彰がいなければ弁当を一緒に食う友達がいない。いや、杉野のところに押しかけるとか、その他の軽い友人のところにいっても雑談できるし、大丈夫なのだが……席を移動するのがめんどくさい。自分の席から机や椅子をわざわざ動かすのはとても面倒だ。じゃあ近くにある適当な席を奪えばいいじゃないか、と思うかもしれないが、俺は繊細で優しい心の持ち主なのでそんなことはできない。……なんか勝手に人の椅子を使うのって、よくないことだなって……。


せっかくだし、一人で屋上に行ってみるか、と思う。


弁当を持って教室を出る途中、明るい生徒たちが騒いでいるのを見る。

彼らは絶対にいつものやつらと一緒に弁当を食べなければならないという業界ルールを持っている。このクラスの生徒は、絶対に特定の友人と共に昼を過ごすということは少なく、週に一、二回程度は『普通の友達』とご飯を食べることもある。俺もその一人だ。

そんな俺からしてみると、明るい生徒たちは関係に縛られすぎている、なんてことを思ってしまう。あそこの集団には行きたくないなあ、と。

まあ、ある意味負け犬的な発想とも考えられるかもしれない。事実、女子とカラオケにいくのは羨ましいいそれだけ俺も混ぜてほしい。だが……関係に縛られすぎて、必ず同じ友人たちとつるまないといけないというのは――とても生きにくそうだとも思った。

まあ、この世に意味なんてないのだ。彼らにとっても俺にとっても、どうでもいいことだ。


俺は階段を昇る。目指すは屋上。行こう、景観のいいぼっち飯。


屋上はその単語が表すわくわく感に反して、意外と人の集まりが悪い。春や秋ならまだましだが、夏や冬に来るのはなかなか厳しい。

景観の良さから、春は人気スポットだったのだが……時間が経てば飽きがくるし、今は御覧の通りだ。


ひとりっこいない屋上の景観。これはこれで風流があるが、今は夏だ。死ぬほど暑い。早くも帰りたくなってくる。


屋上は構造的に、まず昇降口から前方にスペースが広がっており、左側がやや死角となる。

だから気づかなかった。

足を一歩踏み出して、一人だけ屋上に来客が来ているのを知る。


――靴を履いておらず、フェンスに立っている少女の姿。


心臓が大きく跳ねる。


嘘だろ? と思った。


「危ない!」


咄嗟に大声で叫ぶ。


――自殺なんて。


少女が振り向く、驚いた表情。

俺は必死に手を伸ばしながら走る。

そして――。


少女はこちら側に戻ってきた。絶対的な生者のライン。


「よかっ――た――」


俺はそれで一安心をする。

恐ろしい思いをした。

なによりも嫌だったのは、俺が彼女の少女を見届けてしまいかけたことだ。

突如訪れた非日常に怯んでしまった。


靴を履いていない彼女は、つかつかと歩いてくる。

お礼でもいわれるのかな、と思って尾は彼女の顔を見た。


「――私を殺す気?」

「へ?」

「あなたの叫び声でこっちは心臓止まるかと思ったわ。足を滑らせて死ぬところだったじゃないの」

「えと、ごめん」


……あれ?


「えーと、死のうとしてたんじゃないの?」

「もしそうだとしてもあなたには関係のないことだし、死のうとしてたなら私があなたにこんなことをいうわけがないでしょ」


やれやれよかっためでたしめでたし、俺の勘違い。


そう思っていいんだろうか?


――それを俺は、笑い飛ばしてやりたくなった。


それは自己嫌悪。

どす黒い感情のようなものが沸いてくる。

この後に及んで、俺は平和的な思考をした。

死のうとしていない? たしかにそうなのかもしれない。

しかし、少なくても彼女は生にこだわりを持っているわけではなかった。

屋上のフェンスに立つような人間は命知らずが過ぎる。たぶん彼女は――生きようと死のうと、どちらでも構わないと思っていた。


俺はたぶん、全部わかっている。

きっと俺はこの娘にかかわるべきじゃない。ひっそりと一人で死んでくれる結果を待つべきで、変な正義心をもって彼女の助けになろうとするべきでない。


それでも俺が口を開いたのは、たぶん自分のためだ。


「……そうは言うけどさ、別に生きようと思ってるわけじゃないんだろ?」

「……」


殺意に近い視線を注がれる。わかったような口をきくな、という雰囲気。

しかし、彼女に俺の言葉は届いているようだった。『自殺なんて悪いことだ』なんていう月並みな言葉よりは、よほどましな選択だったと言える。


俺は想像した。彼女の気持ちを。

死んでも構わないと思っている奴の気持ちを。

俺は所詮平凡で、大きな苦難を知らない普通の高校生。

きっと彼女のことを理解するのに至らない。

でも、俺も苦痛を感じたことがあるから、考えたことがあるから。

欠片だけでも彼女に共感できればな、と思った。


「なんかごめんな。ちょっとびっくりしちゃってさ。逆に自殺しようと見える子をみて、なんのリアクションもしないほうが変だろ? 叫んだりもするって」

「……まあ、確かにそうね」

「人生の退屈さはわからないでもないからな。死ぬ一歩手前のスリルみたいなの、やってみたいと思わなくもない」


俺は彼女の一部に共感できている気がした。

『わからなくもない』。

だって、この世には意味なんてないのだ。意味を見つけるために異常な行動をとってみる。そういうことをしてみたいという願望が、かすかにある。


彼女は目を細めた。だが意外にも、疑いの色は薄い。

同族かどうかを、見極めようとしているような、そんなような。


「じゃあやってみたら?」

「……まじ?」

「別にあんたは死にたいってわけでもないと思うし、私は離れてるからやってみたらどう? 一歩足を踏み出せば死ぬっていう感覚、最高に楽しいわよ」


そういって彼女は笑顔を見せる。

見る者が見れば、狂気的とさえ映る笑顔だ。

だが俺はそうは思わなかった。彼女はまともな理性を持っており、自殺の一歩手前の行動だって、彼女にとっては意味がある。他の誰にも理解されなくても、彼女はこの行動をすることによってなにかを乗り越えている。


暗い思考が溜まっていく。

彼女に対する共感。



この世に意味なんてないのだ。

生きて生きて死ぬだけが人生であり、意味なんてない。

誰かに優しさを見せる、それで自分が満足する。

社会貢献で少しだけ世の中をよくする。


……一体それになんの意味があるっていうんだ?


死体は社会貢献のことを知れないし、誰かに優しくしたところでそれは単なる自己満足でしかない。

意味がある、と世が教えるのはその方が良い世の中になるからだ。優しさはあなたの人生を豊かにします、という教えが蔓延すれば、その教えを説いた人物にとっても楽な世界が構築されるからだ。

世の中に意味を求める多くの人々は、理由を欲しがって生きている。答えかどうか確定していない他人の考えでも、それが答えなんだって信じ込む。


――死ねばすべての意味が剝奪されるこんな世界に、なにを期待しろっていうんだ?


俺は優しさや社会貢献が世の中をよくするために誤魔化しだと知っているのだ。それらすべては本質的に何の意味もない。

俺は破滅願望者なのかもしれない。死にたがらない死にたがり。

奇跡が起こることを願ってた。けれどそれは現実的ではないと思った。

この世でなにが起ころうと、大した意味はない。例え俺が死んでしまったとしても。


だから俺は靴を脱いだ。


いい機会だと思った。俺は理由を欲しがっていたのかもしれない。死にかけてみるような、異常な行動をとれるような、理由を。

今までやったことのない行動をとってみれば、人生観がかわるかもしれない。

この世は苦しくて辛かった。灰色の景色が続くばかりの世の中から逃避したかった。


俺は俺のために死にかけてみたい。

生きていれば、愉快な世界がみれるかもしれない。


だから屋上のフェンスに向かった。手を掛けて、躊躇なく昇った。

それでいいと思っていた。



「――やめて!」


制止の声が上がった。


それは自殺未遂少女が上げた声だった。

俺は驚きながらも、命を懸ける行動をやめた。


「あなた、馬鹿なの? 人に死ねって言われたら死ぬタイプなの?」


きっと、彼女は俺がやるはずないとタカをくくっていた。できないことをやってみろと、喧嘩を売ったのだ。

でも、そんなことはどうでもいい。


「……まさか。死にたくなくていつも夜に震えてるよ。見てくれ見てくれ、俺の足が産まれたての小鹿」

「本当に怖かったのに、なのに本気でフェンスに足をかけようとしたの? ――どうして?」


彼女の瞳には憂いがあった。まるで信じられないものを見つけたかのような。

まるで、自分のために命を懸ける人間を見ているような。


その瞳に浮かぶ波紋は。

希望、喜び――同情?

自己犠牲を尊ぶ英雄を見ているかのような。


それを見て俺はひどく腹が立った。


「バカにするんじゃねえよ」


俺が見ずしらず誰かのために命をかける? 親がそういう状態になったとしても、俺は自分の命を誰かを救うためなんかにかけたりしない。


「お前のために俺がこんなことをやったと思ってるのかよ」


なぜだか無性に腹が立った。

人を試すような真似をしたことも、俺の印象を勝手に決めつけられることも。


誰かのために命を捨てる、なんていう自己犠牲ほど吐き気がするものはない。

別に物語のものなら見てられるし、美しいとも思える。

けれど自分がそういうことをするのはあり得ない。気持ちが悪い。


「俺は自分のためにやったんだよ。お前がどこで死のうが俺の知ったことじゃない。俺がお優しい聖人だと勘違いするな」


刺々しい俺の言葉に彼女は目を瞑り――。


「……ごめんなさい。私、あなたを誤解しかけた」

「……」

「もう大丈夫よ。そういう気持ち、私もわかるから。でもね、考えてもみて? いきなり自殺未遂をしかけた人物に『自殺未遂して』なんて言われて実行して見せるひとがいたら、私のためにそういう行動をしてくれたって思わない? 私があなたのことを空から降ってきた王子様だと思っても仕方がないことよ」

「……実は言うと、俺は平凡で何不自由なく暮らすただの高校生なんだ」


バカみたいなやりとりだった。

胸の内の黒いものが流れていく。


今更になって自分がやっていた行動に恐ろしさを感じた。

俺は死にたくない。生は素晴らしいし、生きているだけでも得だ。

少なくとも俺はかわいい女の子と結婚するという人生の目標があるので、こんなところで死ぬわけにはいかない。

まだ終わらせていないゲームがあるし、命は惜しすぎるしむしろ無限の時間が欲しいぐらいだ。


うあー、と俺はその場に座り込む。

そういえば、まだ昼ご飯を食べてない。


「なあ、俺ここでご飯食べていいかな? あとついでに言っとくと精神上よくないことを見せられると機嫌が悪くなりそうだ。例えば自殺未遂とか」

「もうしないわよ。見せつけたいわけじゃないし」

「そっかそれならよかった」


弁当を開き始めると、呆れたように彼女は見つめてきた。


「……ほんとに食べるのね」

「うん。ところでそっちは食べないのか?」

「弁当、持って来てないもの」

「俺のを少し食べるか?」

「タダなら食べるわ」

「がめついな。五百円くれ」

「どっちががめついのよ……」


あと少しで新作のゲームが買える。そのために必要な金額が五百円だった。



放課後、机から突っ伏した顔をあげるともう誰も教室にはいなかった。


最近眠くてしょうがない。夜更かしのせいだろうか? 体の所々が不調を訴えているような気がする。

俺はなににこんなに疲れてしまっているのだろう。確かに自殺未遂少女の件は大事件だった。けれどこの体の不調はもっと前から起こっていたものな気がする。


世の中は悲劇的なことで溢れているわけじゃない。平凡で、さもすれば当たり前の苦痛や苦難が転がっているのが常態だ。

当たり前のように感じる可能性がある、世の中からの圧迫感。

誰かからの期待。将来への不安。いつか死んでしまうという恐怖。


コツコツと積み重ねてきた苦痛は、時に人を壊してしまうことがある。ただただ周りの環境に合わせていただけなのに、毎日勉強していただけなのに、仕事をしていただけなのに。これらは所詮、「普通の人」が一般的にしていることにすぎないというのに。


勉強なんて毎日していたくなんてない。しかし、しなければ人生が終わってしまう。

仕事なんて上司に怒られながらこなしたくなんてない。しかし、しなければ給料が貰えない。

生きるためには最低限の努力が必要だ。


こつこつ、こつこつ、こつこつ。


もう限界なんじゃないかってぐらい苦痛を積み上げる。もう頑張りたくないと思っても人生という名のエレベーターから降りることは許されない。足を止めれば堕ちる。戻ってくるのは至難となる。


俺もそういう、小さな日常の嫌なことを積み重ねすぎたのだろうか?

けれどこんな小さな苦痛ごときで壊れてしまうなど、プライドが許さない。……だから理由が欲しい。エレベーターから降りられるような理由が。

でもそれは、ようするにただの逃避だった。


俺は普通の人間のはずだった。受ける苦しみはむしろ少なめであり、俺という人間の能力だって悪くはない。

できそこないなんかじゃない。なのになんで、こんな普通の苦しみごときに苦しめられなければならないのだろう。

こういうことを考えるとき、たまに自分がよほど不出来な人間なのではないかと思う時がある。きっと第三者が客観的な意見を言ってくれるなら、すぐさま「お前は普通だよ」と言ってくれるだろう。けど、決定的な自信が持てない。だからきっと、こんなにも疲れる。



約束の時間は十七時だ。

今は十六時三十分。まだ時間はある。


机に突っ伏したまま、そんな思考を続ける。おそらく、本当はもう動き始めた方がいいのだろう。

顔を上げ、背伸びしてみる。その時、成人した男性と目が合う。


短く切った髪、清潔な恰好。痩躯に長身、目は細い。

彼の身分は数学の教師というものだが、野暮ったさはなく爽やかなものだ。若手の熱血教師、とでもいうのが一番当てはまるかもしれない。


「……山田先生」

「やあ」


……なんでこんなところにいるんだろう。


「教室でなにやってるんですか」

「やや、真くん。君、文芸同好会にはいるんだろう? 教室で寝てる君を見たから、顧問になるかもしれない身として、挨拶しようと思って」


なんだかひっかかる物言いだ。

どうも、と俺は頭を下げる。


「こんな遅い時間までなにしてたんだい?」

「寝てただけですよ。なんにもしてません」

「へえ、じゃあ今暇かい? 話し相手に飢えた老人とおしゃべりしてくれないかい?」

「……いやいや、まだ先生は若いでしょ」


教師は相変わらずニコニコしている。敵対心を感じさせない、柔らかな表情。

笑うとえくぼができ、細められた目が真っすぐにこちらを向いている。


「真くんってさ、文芸部入ろうとしてるだけあって、学識が深そうだよね」

「いや、アホですよ。まだ本気だしてないって言い訳してるし、百年後も同じ言い訳をするつもりです」

「君は長生きしそうだね」


教師は笑う。


「ねえ、こんなこと話を知っているかい? 『人は悪か、人は善か』。それを実際に試してみるっていうお話」

「どうでしょう。多分知らないと思います。面白そうですね」

「あんまりおもしろい話でもないよ、君は好きそう、といったら失礼かな。知ろうとする人には見えるけど」


彼はゆっくりと話し始める。


「歴史で覆い隠された実験なんてごまんとある。人体実験は今現代では廃れ、禁忌とされてきたが、あれほど効率が良くて結果が出るものはない。昔は、そういうことがたくさんやられていたんだ」


たぶん、君はこの話が嫌いだろうね。

彼の笑顔が、かすかに冷気を帯びる。


「人の善意を試す実験。これが行ったのはナチスだ。しかし、ほとんどのまともな頭を持った研究者達はユダヤ人を差別しせず、まともな人間だと考えていた。しかし、時代はユダヤを迫害した。研究者にとって、喉から手がでるほど欲しい実験体が入る、いい時代だった」


いつの間にか、彼の声の調子は変わっていた。

優しく、柔らかに聞こえるのにどこかよそよそしい。まるで同じ人間の話をしていない、みたいに。

俺は彼の話の先を予想し、背筋が凍る。


「赤ん坊を断頭台に設置する。他人であるユダヤにそれを見せつけ、『助けてもいいが、そうすれば君の兄妹を殺してやろう』と囁く。カウントダウンが開始される。三、二、一……」


赤ん坊の泣き叫ぶ声、断頭台が立てる音。

連れてこられた被検体のユダヤ人は動けない。

――助けてもいい、けれどそうすれば君の家族を殺してやろう。

そう言われれば、赤ん坊を助けるわけにはいかない。赤ん坊はあくまで他人。大事なのは周りの人々。


血飛沫が顔にかかる。赤ん坊の声は途絶える。痛いぐらいの沈黙が場を支配する。

研究者はため息をつく。実験は失敗だ。反射的に人が人を救ってしまう、そういう光景は見られなかった。なにが悪かった?


研究者は次に断頭台に少年を乗せた。少年に囁く。『助けて、助けてと言い続けろ。運が良ければ、目の前の人が君を救ってくれるはずだ』


赤ん坊を見捨てたユダヤ人を連れてきて、実験を行う。


――助けて、助けて。


――死にたくない、死にたくない。


――怖い、怖い。


ああああああああ!


今度はそのユダヤ人は少年を助けた。そしてそのユダヤ人の兄弟は処刑された。


研究者は喜びつつも満足しない。すぐさま次の実験に取り掛かる。


――人の善意を試す実験。


目の前で危機に陥った人間がいた場合、人は反射的な良心を巻き起こすことができるのか。おまえの血族が死ぬ、という枷を付けても動けるのか。

老人よりも子供の方を助ける場合が多かった。声を出す者が必死なほど、断頭者は生存することが多かった。容姿が、哀れっぽさが、言葉が、断頭者の生存率を変えた。

一瞬で助けに行ける者は少なかった。ぎりぎりで動き、自らの腕を断たれた者もいた。

結果は十分に出た。


人は善意を持っている。誰かを助けてしまう性質がある。

自分が損しても、大切な人が死んでしまうとしても、善意が『反射』で起こる。人間は感情で動く生き物だ。理性を越えることもある。

素晴らしい! 人間は性善説に間違いなく属す!


「この実験は残酷だけどね、人は善意を持っていることを証明したんだ」

「……そんなことをしてまで、善意を証明する必要なんて、あったんでしょうか」

「どうだろう」


声音、手ぶり、俺の意識レベルに合わせて変えてくる演出口調。

彼は、そういうことが恐ろしくうまかった。数学の教師じゃなくて、国語の教師の方がいいだろう、と思わされるぐらいに。


「そんな実験、いらなかったでしょう。その研究者は、人の善意を信じたくて、それでまともな人間を『使った』。ユダヤ人を人間だって痛いぐらいにわかっていたのにそんな実験をしたのなら、そんなの……」


矛盾してる。

間違っている、そんな方法で人の善意を証明していいはずがない。

そんな結果は無効だ。盗みで得た証拠は裁判で通用しないように、正当でない手段で得た結果が事実でいいはずがない。


「事実は事実でしかないんだよ」


と教師は言う。


この実験に嘘偽りはなかった。

これは果たして負の遺産? 残酷な手段で得た、間違った方法で得た手段は結果として認められない?


それはエゴだ、と教師は言う。


「結果は結果でしかない。嫌がるのはいい、これからは同じことをしてはならないというのもいい。でも、結果はでたんだ。我々は遺産を受け取らなければならない」


言い分がわからないわけでもなかった。

そうだ、結局は俺の意見は感情論。嫌悪感からくるものであって、理屈にそぐわない。

でもこれは、あまりにも……。


「だから、ね。なにが起ころうと気持ちというものは遵守されるべきなんだよ。君の思った想いは事実でしかない」

「……」

「頑張ってね」


――頑張ってね?


いったい、何を言っているんだろう?


……彼は。


――人は善意を持っている。

――君のしようとしてる行動は間違いじゃない。

――事実は事実でしかないんだ。


俺の善心が正しいと言っている彼は。

それがもし俺の近況を指しているなら、それならば。


「屋上」

「……」

「知ってるんですね」

「そうだね、知っている」


のぼせ上るような、胸を突くようなこの感情。


「知ってるんですね。知ってたんだ。屋上で何が起こってるかを! ……なんで止めなかったんですか」

「義理がない」

「……義務があるでしょう」

「善意が必ずとも報われるわけじゃない。知ってるだろう?」


じゃあこの人は、それでこの人は。


「一応、教師でしょう。――自殺未遂を繰り返す生徒のことぐらい、なんとかしようとしてみたらどうなんですか?」


必死で怒りを抑える。


俺がこんなことをいう権利なんて、ないのだろう。

この教師の人生は教師のもので、自殺未遂するやつに関われば落ち目になる可能性だってある。教師の人生に影響を与える権利を持つのはこの教師自身しかいない。

学校の教師をやっているからと言って、俺が勝手に夢を見て、素晴らしい人間であるべきと定義づけて、人を救って見せろという資格なんてない。

そんなことはわかっている。わかってるんだ。


「そんなことはどうでもいいんだ。僕はね、事実は事実でしかないと思ってるんだよ。だから君に声をかけた」

「……」

「極悪な人体実験、収容施設で人の善意を試す、その結果。人は善意を持つ生き物だという証明がなされた。非道な実験だとしても結果は結果。事実は決して変わらない」

「……なにが言いたいんです?」

「人には善意があるし、君が思った感情は本物だということだ。信じる道を進むがいい少年」


芝居がかかったように、数学教師は言う。

それがなんだか、とても気持ち悪く見える。これだけ爽やかな外見をした彼のことが、そこそこに生徒に慕われている彼のことが。


「帰ります」

「頑張ってね」


きっと俺が彼に対して言うべき言葉なんてない。

自殺未遂をする少女を助けてやろう、なんて思考をするやつはきっと独善的で自己保身がへたな子供だ。


けど誰もやらないのなら。

誰も彼女を救わないのなら。

誰かがやるしかない。


……誰もやらないのなら俺がやる。



「おまたせ、待った?」


俺はわざと陽気な声で言う。目指すは明るい好青年。


「似合わないからやめたら?」


対する彼女は辛辣だった。一応半分ぐらい俺の地だ……と言っても信じてくれなそう。


「そういえば、なんで約束の時間を五時にしたんだ? 学校が終わってすぐでもよかったのに」

「五時までは図書館に籠る。それが私の日課なのよ」

「へー、じゃあ俺も図書館に行けばよかったなあ」

「迷惑」

「ははは」


どこか空回りしているような気がする。たぶん、俺にこういう役割は合っていないのだ。

無理をしている、無茶をしている。それでもやるしかない。……やるしかないのだ。


「でも嬉しかったよ。俺、女の子をデートに誘ったことなかったからさ。……ぶっちゃけなんで来る気になったんだ? 絶対無理だと思ってたんだけど」

「勘違いしないでほしいのだけど、私にそういう気はない。わかった? 誘いを断らなかった理由は……そうね」


彼女は品定めするかのように俺を見つめる。自殺未遂してみろ、と言ったあの時のように。


「負け犬みたいになりたくないから」

「負け犬?」

「そう、負け犬。男の子とデートしたことがない女は負け犬と世間一般的には呼ばれる。私はそうは思わないけど、世間がそういう常識を持っているのを知っていて、私がそういう経験をしたことがないのは事実。世間に対して私がなにを言っても、このままでは負け犬の遠吠えとかわらない」

「自分の価値観はあるけど、たまに世間の価値観を気にしちゃう自分が嫌だ、みたいな話か」


そう返すと、彼女はわずかに眉を顰めた。感心してしまったみたいに。

けれどそれを覆い隠すように、不機嫌そうに彼女は言う。


「……そうね。つまるところ、そういうことよ」

「プライドの塊みたいなやつだな」

「そういう風にしか生きれなかっただけ。馬鹿にしないで」

「わ、悪い」


そんなことを言う彼女は、言葉の苛烈さに比べて若干態度を軟化させたように見えた。

考えろ、と俺は思う。

彼女が何を考えているのか、なぜこんな生き方をしているのか。なぜ死ぬ気もないのに自殺未遂なんてことをするのか。


俺は少し、陽気なキャラを演じつつ、彼女と会話を交え、なにを考えているかを理解しているよ、という態度を示した。

それは案外うまくいった。もしかしたら、俺たちは元々どこか似たようなところがあるのかもしれない。世の中を空虚に感じる、世を斜めに構えてしまう高二病的なところが。

だから意外と、俺たちはうまくやれるのかもしれない。

彼女が自殺未遂をするのには理由がある。ならその原因を突き止めれば、なくしてしまえば、彼女は正しく生きるようになるかもしれない。

俺がやろうとしていることはあまりにも独善的で、身の丈に合わない救済だ。俺の手に負えることじゃない。

でもきっと社会は彼女を救わない。役割を持つ者がいない。

だから例え身の丈に合っていなくても、不可能と思われるぐらい難しくても。

性に合わない役割でも、俺がやってやろうと思った。

偽善かもしれなくても、やっぱり誰かが苦しんでいるという事実は夢見が悪いものだから。



バカだな、と思う気持ちがあった。

お前のすることに何の意味がある? 得がある?


誰かを救ったところで、誰もお前を見ていない。

成果などない。得るものなどなにもない。

得るものは自己満足だ。

それを得るのだって勝算の低い賭けを繰り返して、勝って勝って勝って、それでようやく得られるのだ。傷だらけになって失敗する可能性の方が高い。


第一、誰かを幸せにしてなんになるというのだ?


――世の中には肌触りのいい言葉が回ります。



正義は勝つ。隣人に親切をしなさい。優しいことは自分に返ってきますよ。



だがそれが世の中で輝く言葉となっているのは、その言葉が世の中で回っていた方が世の中にとって都合がいいからだ。別に真理を指しているわけじゃない。


――おまえが一番嫌うことじゃないか?


善。良いこと。意味もないことに意味を見出して物語を作ること。

ややこしくして筋道があるフリをすること。

天国も地獄もない世界で、善行を積めば天国に行けますよと嘯くこと。


この世に意味なんてない。

人に優しくして得られる自己満足に、その程度のものに縋って、それを行えば救われると信じているなんて……頭がおかしいんじゃないのか?



「亜衣って名前はね、呪いなの」


光遮る曇天の元を歩く中、彼女は後ろめたそうにそういった。

もはや険はすっかりとれていた。自殺未遂をするような彼女がここまで俺に心を許すということは奇跡が起きたから……ではなく、小さなことの積み重ねたおかげだろう。

理解を示し、遊び、同じ時間を過ごした。

わずか二時間程度の時間だから、この短時間のわりにはおそろしいほどの成果なのかもしれない。

しかし、俺にとってこの時間は神経を削る苦痛そのもので、耐えがたくも放り出すわけにはいかない使命感のせいもあって、精神には強い圧迫感があった。


「なんで呪いなの?」と俺は聞き返す。


相手の喋りたいことを喋らせるために。今まで吐き出せなかった嘆きをここで吐かせるために。


「『亜』って言葉はね、あんまりいい意味じゃないのよ。次の・二番目の、っていう意味の他に『下等の』っていう意味も入ってるから。亜人って聞くでしょ? あれ、人間を第二的に差別した蔑称なのよ」


彼女――亜衣は憂鬱気にそう言った。


「私はね、『愛』って名前をつけてほしかったの。でも私は愛されなかったから、そんな名前はもらえなかった」

「……両親はそこまで知らずに名前を決めただけじゃ?」


名前の意味を考える親は多いが、無頓着な親だっている。


「ううん。確信があるのよ。いえ、この耳ではっきり聞いた。私の名前に込めた意味」


亜衣はそれ以上語らなかった。


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