4
俺は永遠の夢を見る。
氷に閉ざされて、その中で幸せな夢を見る。
永遠の螺旋が回る。ここでは何も起こらない。
苦しいことなんてない。
ただただ、幸せだけを享受している。
◇
俺にとって、兄ナギルは憧れの人物だった。
風にそよぐ緑の髪と翡翠のような奥深い緑の目。優しげな風貌をして、体の線は細く、しかしその目に湛えられた意志の強さが、彼が長年生き延びて来た冒険者なのだと知らしめる。
穏やかで優しく、快活に笑ってくれる自慢の兄さん。
ある日、兄さんが俺たちの家に帰ってきた。
それは俺の七歳の誕生日を祝うためだという。
兄さんは冒険者をしていて忙しく、本当にたまにしか姿を見せない。けれど俺の誕生日のためにわざわざ帰ってきた、という事実はとても嬉しく、より一層兄への好意が募るばかりだった。
「いろいろプレゼントを持ってきたんだ。どれか一つを選ぶといい」
ナギル兄さんは世界を巡り、様々なものをお土産として持ってきてくれた。
当てた魔力の属性で色が変わる布。機械仕掛けのミニチュア。振るとくすぐったくなる静電気を起こす石。
他にもたくさんの珍しいものがある。
これがいい! と言って俺はあるものを指さす。
兄さんは苦笑した。
「そんなものでいいのかい?」
俺が指さしたのは絵本だった。綺麗な背表紙にはかっこいい騎士が剣を掲げている姿が描かれている。
『英雄騎士ソルの物語』というのがその絵本の題名だった。
「うん、これがいい」
「もっといいのがあると思うけど」
「いいのいいのー」
無邪気に俺は喜ぶ。ただ単純に兄さんからプレゼントをもらえたのが嬉しかった。
そしてその日のうちに絵本を読み、俺はなぜだかひどく感動してしまった。
なんでこんなにも英雄騎士の物語が俺の心に響いたんだろうか?
その本に特別すごいところはなかった気がする。ただただ、かっこいい騎士が人々を救う。悪を打ち勝利する。人々に感謝される。
たぶん、元々俺は英雄とか、剣とか魔法とか、そういうものに憧れを抱きやすい人間だったのだろう。
純粋な子供はすぐに影響を受け、自分もこうなりたいと思った。
かっこいい剣を振るって人々に感謝される英雄になりたい。そんなことを思った。
「兄さん! 剣術教えて!」
思ったら行動は早かった。
兄さんは穏やかに笑いながら「いいよ」と言う。
そんな俺と兄さんの様子を、シーナが嬉しそうに見て、「私も一緒にいくー」と言ってついてきた。
風がよく通る草原。
暖かな日光が降り注ぐ。草木が穏やかに揺れている。ぽつぽつと小さな花が咲き、大地は平和を表現しているみたいだった。
ナギル兄さんは風の魔法で木の枝をちょうどいい形にして俺に渡した。
「ほら、思う存分に振ってみて。僕が受け止めてやるから」
「わかった!」
俺は兄さんに切りかかっていく。
といっても、それは本質的には暴力だ。大好きな兄さんにそんな真似ができるわけなくて、俺の素振りは弱々しいものとなる。
兄さんは笑いながら付き合ってくれた。形式的なチャンバラみたいだが、そう悪いものでもなかった。
そしてしばらくして、兄さんは言った。
「そろそろ体も温まってきただろう。思い切り打ち込んでおいで」
挑発的にくいくいっと木の棒を向けてくる兄さん。
そう言われたので、少しだけ強めに打つ。防がれる。もっと強く打つ。防がれる。
「ふふふ、アイザード。君の全力はその程度かい?」
思えば、兄さんは俺が強く切りかかれない理由がわかっていて、それで俺が強く切りかかれるようにわざと挑発してくれたんだろう。
「なにを!」と俺は叫ぶ。
本気を見せてやろうと、がむしゃらに木の棒を振るった。
そのすべてを兄さんは捌き、受け止め、満足そうに笑っていた。
「がんばれー! アイー!」とシーナの声援が聞こえてくる。
俺は必死になって木の棒を振るう。息切れするぐらい、必死に。
そうしていると俺の一撃が兄さんに当たった。
驚く。絶対に無理だと思っていたのに。
「ははは、強いなーアイザードは」と兄さんは快活に笑う。
そんな兄さんを見て、俺は心配した。
「あ……兄さん、大丈夫? 痛くなかった?」
「あはは。そりゃもう平気だよ。僕は強いんだ。なにも心配することなんてないんだよ?」
シーナがこちらまで駆けてきて、兄さんに治癒術を使った。淡い白い光が兄さんを包む。
そんな兄さんは幸せそうだった。たぶん、心配しなくていい、というのは本当だったのだろう。なにしろ兄さんは強くてかっこいいのだ。七歳児の一撃ごとき、かすり傷にもなっていなかったに違いない。
「アイザードはきっと強い剣士になるね」
「……ほんとうに?」
「本当だよ。僕に一撃入れれたんだから」
「……やった」
「うん、その意気だ」
そう言われて、なんだか膝の力が抜けてしまった。疲れていたのか、賞賛されて嬉しかったのか、なんなのやら。
こけてしまいそうになって、兄さんに抱き留められる。
「大丈夫かい?」
「うん」
こういう小さな行動に。
俺を受け止めてくれたり、優しく接してくれることに。
どうしようもない幸福感を覚えた。
俺は、俺は彼のようになりたいと思った。かっこいいい兄さんみたいな、そういう人に。
兄さんがくしゃくしゃと頭を撫でてくれる。
俺は対抗として兄さんに思い切り抱き着きに行った。「うわー」と間の抜けた声と共に、兄さんと俺は倒れる。そしてお互い笑いあった。
「ずるい! 私もまぜて!」
シーナも加わった。
俺とシーナを脇に抱えて、ナギル兄さんは空を見上げる。
俺たちは昼の天体観測を行う。雲一つない青空。青々とした空はどこまでも深く、底がない。それはなんだか、とても嬉しいことのように思えた。どれだけ見ていても飽きない、ただの青空。こんなにも楽しいのはきっと隣に兄さんとシーナがいてくれるからだと、そんなことを思った。
「アイザード、英雄が好きかい?」
「うん。すごくかっこいい。あんな風になりたい」
「男の子だね。僕も昔は憧れたものだよ」
「ナギル兄さんも?」
「ああ。かっこいい人間になりたかったんだ。かっこいい、かっこいい男。うむ、なんでかわからないけど、小さい頃はそんな感じだった」
「兄さんはすごくかっこいいよ」
「……そうかな?」
照れくさそうに兄さんは笑う。
俺にとって、兄さんこそが最も身近でかっこいい人物だった。
非の打ち所がない立ち振る舞いと、誰かをおもいやれる心。
――ところどころ、英雄騎士ソルと似てるな、なんてことを思う。
かっこいい兄さん。英雄騎士ソル。
二つの憧れが重なって見える。
胸の底からくる、不思議な感情。渇望。幸福感。追いつきたいという思い。
勝手に口元がにやけるのを感じた。
子供心に秘めた興奮は、なかなか収まらない。
「兄さん」とシーナが言う。
「私の誕生日の時も帰って来てね?」
「もちろんだよ。約束する」
「やったー! 今のうちになにが欲しいか決めておかないと……」
「ははは」
そんな風に穏やかに日常を過ごす。
幸せ、だった。
◇
ナギル兄さんはシーナの誕生日の時、帰ってこなかった。
それでシーナは泣いていた。ほんとうに楽しみにしていたのだ。
俺が彼女を慰めたのを覚えている。
◇
次に兄さんが帰ってきたのは、三年もたった後だった。
これほど期間が空いたのは初めてのことだった。
父さんはひどくナギル兄さんのことを心配した。いったいどうしたんだと、なにがあったんだと問い詰めた。
俺はナギル兄さんの顔を見る。やつれて、幽霊みたいな表情。
悩み抜いて、苦しみ抜いた人間の顔。
ナギル兄さんと父さんは、俺とシーナをおいて別室に向かっていった。
そこからは怒号が聞こえて来た。お互いが怒鳴って感情をぶつけて、言い争っている。
まだ十歳だった俺とシーナは、それがとても怖かった。
兄さんと父さんが喧嘩するなんてことは初めてのことで、なにか悪いことが起きるんじゃないかって、そう思ったのだ。
怒鳴り声、怒鳴り声、怒鳴り声。
それが何度も響き渡り、ようやくナギル兄さんが部屋から出て来た。
目元は暗く、表情を窺い知ることができない……。
シーナ、と俺は呼びかける。
「……俺、ナギル兄さんと話してくるよ。シーナは父さんのほうをお願い」
「うん、わかった」
なにかが起きている。ナギル兄さんが辛い思いをしている。俺が助けになりたい。
そんなことを思って切り出した。しかし、自信はなかった。
人を思いやって慰めるという能力なら、おそらくシーナの方が上だった。けれど、俺が、俺こそがナギル兄さんの助けになりたいと思ったのだ。
強くてかっこいい、俺の憧れの兄さん。優しくしてくれた兄さん。一緒に遊んでくれた兄さん。
そしてナギル兄さんの後を追う。
兄さんは一人、部屋のベットに腰かけていた。
「兄さん、大丈夫……?」
怖かった。怒号を上げていた兄の姿が。
恐ろしかった。もしかしたら兄さんは変わってしまっていて、もう俺の憧れた兄さんじゃないかもしれなくて。
ゆっくりと兄さんは顔を上げる。死んだような表情。
だが俺を見ると、にっこりと笑った。それで俺は安心する。
「大丈夫だよ、アイザード。心配をかけてしまってすまなかったね」
けれども無理をしているような、そんな気がした。
兄として弟に無理に快活な姿を見せている。憧れの兄であり続けるために。
もう兄さんが兄さんとでなくなってしまうかもしれないとか、怒号を上げていた兄さんは恐ろしかったとか、どうでもよかった。
ただ単に兄さんのことが心配だった。助けられるのなら、俺が力になってやりたかった。
「ほんとうに?」と俺は言う。
ナギル兄さんは薄く笑った。
そして右手を俺の頭に乗せ、優しく撫でてくれる。
彼は俺の体を持ち上げ、膝に乗せた。抱きかかえられるような形になる。
「兄さん……?」
ぎゅっと俺がここにいるのを確認するかのようにナギル兄さんは俺を抱きしめてくる。俺は兄さんの腕を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だから……」
ナギル兄さんは、俺が怯えていると思ったのだろう。
あやしつかせるように、ゆっくり、できる限り優しい声で、俺にそう言った。
「怖い姿を見せちゃって、ごめんね」
だが問題はそこではなかった。
俺のことなんてどうでもよかった。ナギル兄さんの助けになることこそが、俺の目的だった。
「兄さん、辛いの?」
「……」
「辛いなら言ってよ。俺はもう十歳なんだ。頼ってくれよ。俺、頑張るから。頑張って考えて、ナギル兄さんに協力するから」
「…………」
ナギル兄さんは何も言わなかった。
沈黙が下りる。空気は重く、息をするのが苦しい。
どうすればいいのか、わからなくなる。
「アイザードは」と兄さんが言う。
「百人を生かすために、一人を殺すのは正しいことだと思う?」
抽象的な言葉。
だがこれこそが、きっと兄さんの悩みに関係しているのだと、そう思った。
だから俺は正しいことを言おうと思った。それが助けになると思ったから。
「仕方がないよ。より多くを生かすのが、選択としては正しいに決まってるんだから」
「でも、その一人の気持ちは誰が考えてあげればいいんだろう。罪もないのに勝手な都合で殺されて、かわいそうだ。わかってるんだ、一人を殺してしまった方がいいんだって。でもその一人だけに背負わせるのは……惨いんだ」
俺は何も言えなかった。
兄さんはとっくに答えを出していて、悩んでいるのはその先。
犠牲になってしまった一人の気持ちを考えること、罪悪感。
勝手な憶測だが、兄さんの冒険の途中でそれに似たようなことが起きたのかもしれない。
だとしたら、俺は兄さんにかける言葉を持たない。
死んだ者に抱く感情は当事者のみのもので、分かち合うことはできない。本人が自分自身で決着をつけるしかないのだ。
ここまでのことを十歳の俺が考えたわけじゃない。しかし、似たようなことを思った。
「僕は嘆けばいいんだろうか? ちくしょう! と地面に拳を叩きつけ、悔しがればいいんだろうか? 涙を流して、諦めればいいんだろうか?」
こんなもの自己満足だ、と彼は言った。
諦めたくない。死んだということを認めたくない。
親しい者が死んだとき、人は涙を流す。
それは死んだものを見送るためという意味がある。もう会えないという悲しみで涙を流すという意味もある。
そしてどうすることもできないという悔しさから涙を流すこともある。
どうしようもない。もう諦めるしかないのだと。決別しなければならない、と。
でも僕は――。
「諦めたく、ないんだ。悔しがって涙を流すのは、決別の涙を流すのは、そいつが死んでしまったことを認めてしまうことになるんだ」
諦めるための涙。
それが嫌で嫌で仕方がない。
「兄さん……」
きっと兄さんは泣きそうな顔をしているに違いなかった。
けれど絶対に、涙一滴をもこぼしたりはしなかっただろう。
解を持たない俺は、兄さんに寄り添うことしかできなかった。
◇
ナギル兄さんの助けになれなかった。
その事実が重くのしかかる。
結局、俺はなにもできずに自分の部屋に戻った。
そして夜。
もう一度兄さんの部屋に足を運んだ。
誰かがすすり泣く声が聞こえる。
「救え……ない……また僕は……救えない……ごめん……」
押し殺すような声を聞いて、俺は兄さんの部屋の扉を開けることができなかった。
◇
それからナギル兄さんが俺たちの家に戻ってくる期間が長くなっていった。
六か月、一年、二年……。
ナギル兄さんに最後にあったのは俺が十五の頃だ。
その頃の兄さんは、昔よりも寡黙になっていた。




