3
踏み入れたとたん、そこから広がる世界は。
どこまでも広く、どこまでも灰色で。
なにもなかった。意味を携えていない世界。そんな感じがした。
俺はゆっくりと扉を閉じる。
ギギ―と音を立てながら扉はしまった。他にはなにも音はしなかった。
「……」
ひどく頭が痛い。
死の予感が鳴り続けている。誘うように、俺の前方から頭を刺激する感覚がある。
背後には扉がある。だがどこを見渡しても、物質が存在しない。
景色は灰色で、なにもかもが塗りつぶされたみたいに均衡だ。遠近感がつかめないのだ。
足を踏み出せば地面の感触がある。手で触れても、ここには平坦な灰色の地面があるのはわかる。
しかし、視覚的にはそれがわからなかった。灰色に塗りつぶされた世界は空恐ろしく、自分が自分でなくなってしまうかのような錯覚を与えた。
このまま適当に進めば迷子になってしまうかもしれない。そう思い、俺は右手に魔力を込める。
使うのは氷の魔法。俺が最も得意とする属性。
右手を上から下に振れば、そこから氷の道筋ができた。それは俺が死の予感を感じ取る場所へと続いている。
俺は願いを持って、その氷の道筋を辿る。
歩く、歩く。吐き気がしそうなほどに頭が痛む。どんどん強くなっていく死の予感が俺を苛む。
俺は進まなければならなかった。
この先にはきっとなにかがある。扉が現れたのは偶然ではなく必然。なにかが起こるから、俺はここにいる。
きっと、きっと――父さんとシーナを生き返らせることができる。
そう信じた。
周囲にはなにも変化はなかった。
どこまでも灰色が続く景色。影すらこの世界には存在しない。
太陽がない。光源なんてないはずなのに、この灰色はよく見える。
いつしか足取りは重くなり、絶望が背後に迫る。
なにをしても無駄だとという思いが頭を埋め尽くす。どうせ無理だと決めつける。
それでも、それでも俺は進まなければならなかった。シーナも父さんもいない世界で、俺は生きていたくなんてなかったから。
拳を握りしめて。
前方を睨めつけて。
シーナと父さんの死体を思い出して。
父さんは何度も何度も剣で貫かれていた。もう死んでいるのに。
シーナは痛い痛いと呻いていた。死ぬほど彼女は苦しめられた。
彼女とキスをしたことを思い出す。
泣きたくなる。なんでこんなことになってしまったんだろう。
よろよろと足を進めてようやく、前に意味があるものが見えて来た。
それは剣だった。不自然にそこは盛り上がり、伝説の剣、とでもいうかのように地に突き刺さっている。
俺はそこに辿り着く。
その剣はくすんだ灰色で、柄に埋まった宝石が七色に光り輝いていた。
まるで伝説を詠う物語にでてきそうな剣だった。
気は異様。放つは殺気。強大な力を持っていることがよくわかる。
ここがゴールだと思った。
願いが叶うと信じた。
――剣が振動を始める。
ウウンウウンと鼓膜を裂くような音が鳴り響いている。
死の予感が与える痛みも合わさって、耐えがたい痛みを俺に与えた。
俺はよたよたと歩き、その柄を握りしめる。
「止まれ」と俺は言った。
剣の振動が止まる。
《我は破滅の剣。
永遠の剣。
願いの剣。
お前の望みを叶えよう》
歯を食いしばる。
ついに来たと思った。願いは叶えられる。
《お前は「止まれ」と願った。よって叶えられる願いはあと二つだけだ》
それを聞いて、頭の中が真っ白になった。
理不尽からくる怒りのようなものだった。
「止まれ」が願い。確かにあの痛みは耐えがたく、願ってしまうほどのものだった。だがこれはないだろう。明らかにずるい。
だがそんなことを言ってもどうしようもならないのはわかっていた。
そして俺は願いを三つも持っちゃいなかった。
だからこの理不尽からくる怒りなんて放っておけばいい。
叶えたい願いは一つだけ。
これだけ間違えなければそれでいい。
俺は大きく息を吸い込んで言う。
「俺の父とシーナを蘇らせてくれ」
希望を持って。
これで肩の荷が下りると思ってそう言った。
切望していた。
《できない》
「……は?」
《我は破滅の剣。願いは破壊と滅亡のみが叶えられる。再生の権利は別にある》
意味が分からなかった。
俺は蘇るとき、聖なる七色の光を見た。
この剣の柄に埋まった宝石はそれと同じ光を放っていた。だからこいつはシーナと父さんを蘇らせてくれると、そう思った。
《死んで蘇ったものよ。お前が出会ったのは創世のクリスタルだ。我は破滅の剣。破滅に創世の真似事はできない》
――絶望した。
これはないんじゃないかと、そう思った。
俺の希望はなんだったのか、なんのために来たのか。
「……なんとかしろよ」
《できない》
「なんとかしてくれよ!」
だめだ、と思った。
終わってしまうと思った。
これでは意味がない。なにもかも意味がない。
シーナと父さんがいない世界で生きていたって――なんの意味もない。
もう一度父の優しい笑顔を見たかった。
シーナの暖かな金色の瞳が見たかった。
この腕に抱きしめて、「生き返らせてくれてありがとう」と嬉しそうに言ってくれる彼女の姿を夢想した。それは夢幻。
叶わないできごと。不可能なこと。
切なる願いは、聞きとげられることはない。
さらに破滅の剣は告げる。
《どちらにせよ、創世のクリスタルでもその二人を蘇らせることなどできない》
「俺は、蘇った」
《お前が特別なだけだ。お前は例外だ》
知っているだろう? と破滅の剣は言う。
この世に死者は蘇らない。
時空を超越することできない。
この世には絶対に破れないルールが存在する。
そう、お前の言ってることこそが。
お前が願っていることが叶えられないことこそが。
《それが世の理》
絶句した。
俺が例外。蘇りは通常不可能。
死んだ人間は蘇らない。そんなことは、ものごとをよく知らない子供でも言っていることだ。
それが普通だった。
親しい者が死んだとき、人は涙を流す。
それは死んだものを見送るためという意味がある。もう会えないという悲しみで涙を流すという意味もある。
そしてどうすることもできないという悔しさから涙を流すこともある。
どうしようもない。もう諦めるしかないのだと。決別しなければならない、と。
「嘘だ」
認められなかった。
「本当のことを言ってくれよ。なんでそんなことを言うんだよ。頼む、蘇らせてくれ。俺はどうなってもいい。なんだってできる。いうことを聞く。だから……」
惨めにも縋って、懇願して。
《できない》と破滅の剣は言った。それはただの事実だった。
――なにも考えられなかった。
俺は嘆けばいいんだろうか?
ちくしょう! と地面に拳を叩きつけ、悔しがればいいんだろうか?
涙を流して、諦めればいいんだろうか?
どれも意味のないことだった。
願いは叶わない。死んだ者は蘇らない。
「う……あ…………やめて、くれよ」
つまらない冗談はやめてほしかった。
理解することを頭が拒否していた。
俺は剣の柄を離してうずくまる。なにも考えたくなかった。
《願いを言え》
と破滅の剣は俺に迫る。
《願いを言え》
《願いを言え》
《願いを言え》
人の気を狂わせる魔性の剣。
「止まれ」を願いとして受け取ったのは、そういうことなのかもしれない。
剣は人に願いを強制させる。三つの願いは瞬時に回答しなければならない。
剣は人を救うためのものではない。少なくとも、善からくる道具ではない。
《願いを言え》
もう、どうでもよかった。
頭の痛みは再開し、俺を苛む。
願いを言えと責め立てる。
どうしようもなかった。
楽になりたかった。
だから――。
俺は剣の柄を握る。
俺は死にたくなかった。死ぬのは怖かった。
今ある辛さから逃げたかった。それには死ぬしかないような気がした。
でもそれは怖かった。だから俺は、逃げることを願った。
「凍らせてくれ、全部、全部を」
その願いは。
どうしようもなさからくる絶望と、ただ逃げてしまいたいと思う願望は。
多分間違っているのだろう。だがどうでもよかった。
凍れ凍れ。
永遠にじっとしていてくれ。
これ以上時が流れないでくれ。
きっと俺がこのまま生き続ければ――家族への思いが薄くなってしまうだろうから。
かくして願いは聞き届けられる。
《お前の願いを叶えよう》
俺が願ったのは凍結。
なにもかもを凍らせる。それは死ではない。
氷の中に閉じ込められて、永遠の夢をみること。
それが死ぬこととどう違うのかは、俺自身もよくわからなかった。でも少なくとも、『死んでいない』のだ。
――ふっ、と景色が色づく。
ここは俺たちの家があるところだった。
シーナと父さんが転がっていた。
燃え盛る家が、ごうごうと音を立てていた。
――しんしんと雪が降る。
まるで世界の終わりみたいな光景。
鳥は歌わない。
風は吹かない。
この世には光が指さない。
ぴきり、と剣を持っているところが凍り付く。
そして俺の足元に、氷の華が咲いた。それは増殖し、俺の視界を埋め尽くした。
木々は凍てつき、炎はそのまま固形化され、雪の上に流れた血の色は真っ白なものにかわった。シーナと父さんが氷に覆われていく。
まるで世界の終わりみたいな光景。
氷の華から冷気が漏れる。周囲を凍てつかせ、氷の壁が生成されていく。
辺り一面が凍る。ここは氷の世界。
気が付けば俺の体にも氷が張っていた。
これでいい、と思う。
こんな世界に用はない。
ここは地獄だ。
終わらない悪夢が続く。
ぴきぴきと凍り付いていく音がする。
それがこの世のすべてを埋め尽くす。
俺は視界に入る家族の亡骸を見て、家を見て、景色を見て――。
全部凍ってしまえばいいと、強く願った。
泣きたくなるような、胸を掻くむしりたくなるような感覚に襲われて――。
視界が途切れた。
……。
ちくしょう。




