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昔、ナギル兄さんに絵本を読んでもらったことがある。だいたい、七つぐらいの頃だっただろうか。
英雄騎士ソルの物語。
かっこいい騎士が、英雄としてなにもかもを救う、ただそれだけの物語。
それは子供向けの絵本だったからか、物語として伝えられる黒いところがまったくもって存在しなかった。ただ煌びやかで、理想論が叶えられ、みんながみんな幸せになって終わる。
「はい、おしまい」と絵本を閉じる兄さんに、もう一回読んで! と何度もせがんだのを覚えている。ナギル兄さんは照れくさそうにもう一度絵本を読んでくれる。
そんな時間が幸せだった。
「君はこれを読んでなにを思う?」とナギル兄さんはしばしば尋ねて来た。
ナギル兄さんは言う。
人は絶対の信念を持たなければならない。絶対に守り通す大事なものを持たなければならない。
――さあ、君はどうしたい?
「英雄になりたい!」
そんな単純で子供っぽい答えが、俺の絶対の信念だった。
絵本の中の物語に憧れた。物語の騎士はかっこよくて、非の打ち所がなくて、強くて、みんなを救ってくれる。
悪を打ち、正義を体現する。
男の子が憧れるであろう「かっこいい人物」としての特徴をしっかりと掴んでいる。
「すごくいいと思う」とナギル兄さんは穏やかに笑った。
その夢を、理想を忘れてはならないと彼は言った。
子供の頃の夢はきっとこの先大事なものになるから、しっかり胸に刻み付けなさいと、そんなことを言った。
子供が言うことだ。きっとそんな身の丈に合わない「将来の夢」なんて叶うはずがない。どうせどこかで現実を知って妥協するか、自分はなれないと理解する時が来る。
ナギル兄さんはそれを知りつつも、「理想と夢を大事にしなさい」と言ったのだろう。なぜなら子供が小さい頃に願う「将来の夢」は、きっと子供が大人になっても心の核として残り続けるものになるだろうから。
ナギル兄さんは英雄になるための条件を説いた。
一つは、誰かを救おうと思える人物であること。だから優しい人間になりなさい。
二つは、卓越した強さや能力を持つこと。だから頑張って自分を鍛えなさい。
三つめは――。
そこでいつも話は途切れる。誤魔化すように、ナギル兄さんは話を続ける。
きっと君はこれから、父から辛い修行を受けることになるだろう。そんな時、心が折れてしまわないように支えが必要だ。
きっとシーナが助けてくれる。僕だってアイザードを助ける。だけどそれだけじゃ足りないかもしれない。
だから絶対の信念を持つ必要があるんだよ。君は英雄になることを強く望んだ。そんな理想の自分になるために、君は頑張る必要があるんだ。
――人が用いるは知恵と手段。
たった一つの要素だけでは、努力することから逃げてしまうかもしれない。なら頭を使った、自分が逃げないように工夫すればいい。
一つで足りないなら二つ。二つで足りないなら三つ。逃げないための措置を用意すればいい。
だから絶対の信念を持つ必要があるんだ、とナギル兄さんは言った。
――だから今の俺があるんだろう。
俺はこれだけシーナやナギル兄さんに助けてもらいながらも、結局は修行が辛くて逃げてしまうようなクズだ。
だが逃げてもまた戻ってこられたのは――この絶対の信念があったからだと思う。
自分なんかが英雄なんかになれっこない、なんてことは早いうちから気づいていた。
それでも過去の夢があったから。
理想の自分というものを持っていたから。
だから、真の意味で自分に失望しないために、俺は厳しい父の元に戻ってきた。
こんなどうしようもなくダメな自分を変えたい。英雄になれなくてもいい。でも少しでも近づきたい。少しでもましな自分になりたい。
幼いころの願いを持って、俺は修行に励んだ。
英雄に憧れて、身の丈に合わない理想を抱いた。
優しい人間になりたい。強い人間になりたい。そして――。
きっとこんな風に、幼心に秘めた思いが。
強い羨望と純粋に憧れてしまったどうしようもないこの葛藤が。
それがきっと、俺の原点。
◇
俺とシーナは旅の支度を整える。
「そんなものを持っていくの?」とシーナに聞かれた。
彼女が言っているのは、今俺が抱えている絵本のことだ。『英雄騎士ソルの物語』。子供が読むような、文字の量が少なくて古風な挿絵がいくつか描かれている絵本。
「うん、大事なものなんだ」
「どうせなら小説とかを持っていけばいいのに」
「どうせ外の世界に行ったらそういものもたくさんあるはずだ。だから思い出のあるものを持っていこうかなって」
「ふーん。アイって英雄が好きだもんねー」
七つの頃に誓った思い。それは結局、十年経った今の自分にそのまま持ち込めたわけではない。
俺は自分が英雄になれないと知っているし、それを目指すのも諦めている。
持ち込めたのは憧れだけだ。だがこれでよかったんだろう。俺は英雄に憧れて、だからここまで生きてこられたんだ。そんなことを思う。
他に持っていくのは金貨や銀貨といった通貨。剣やハードレザーなどの防具。街につくまでに口にする携帯用食料と水。
ぶっちゃけ絵本だけ浮いている。絵本は明らかに旅に必要がないものだ。
だがこれは俺にとっては必要だ。絵本は子供用のもので、年長者が読む小説と比べて黒い部分がない。
絵本の中の英雄騎士は悪を行わないし、救うために誰かを殺すようなことはしない。どす黒く悩ましい部分はなにもなくて、絵本には理想と綺麗事が並べ立てられている。
だがこれはこれでいいのだ。綺麗な物事こそが、俺の原点。
実際の世の中にはどす黒いことが多く存在しているだろう。小説なんかを見れば、そういうことは必ずと言っていいほどでてくるから、頭でちゃんと理解している。
だが俺が憧れたことは、バカみたいな理想論や綺麗事。
正義は勝つ。良いことをしたら自分に返ってくる。誰かの笑顔は自分にとっての幸福である。
だからこれでいいのだ。
理想は理想。現実は現実。その違いが俺にははっきりとわかっている。
絵本は理想の象徴。俺が願ったことは、ここにしかないと自分を戒めるものでしかない。
英雄の条件。
卓越した能力を持つこと、誰かを救おうと思えること、そしてあとひとつ――。
「よーし、行くか!」
立ち上がるとシーナもちょこちょこと付いてくる。
彼女は外の世界に憧れているようだった。冒険者ギルド、不思議な魔法、龍、迷宮、魔道具の数々。エルフやドワーフ、ホビットといった異種族たち。
俺もまた、外の世界に憧れる若者の一人だった。前述したものはもちろん、俺は英雄について知りたい。
盟約を結びし龍友者ドランとか。
七つの宝具を操る武神グリムとか。
英雄・偉人たちのことをもっと詳しく知りたい。
俺たちは外の世界に行ったら、まずは冒険者としての職につくだろう。
冒険中は俺が前衛で魔法と剣を操り、シーナが戦って傷ついた俺を癒してくれる。
二人では手が足らないだろうから、仲間が必要だろう。ナギル兄さんとなんとか合流できないだろうか? ここ三年、顔を見ていないのでそろそろ会いたい。
まだ内の世界にいるうちから、未来のことに思い馳せる。そんなにやけ顔はシーナから見てもわかりやすかったようだ。
「楽しみだね」と彼女はにっこりと笑う。
「ああ」と俺は答えた。
俺たちは家の外に出る。外では父が待っていた。
今は夕方。夕日が森に囲まれた家を照らしている。鳥たちの控えめな鳴き声が俺たちを祝福するように響いている。風で紅葉が揺れ、ひらひらと舞い落ちる。
突如、突風が吹き上げる。
舞い落ちる紅葉が風に捕まって、俺に向かって飛んできた。
なんだか嬉しくなって「うおー、秋のつぶてだー」と俺はぼやいた。
父とシーナは笑っている。シーナが灰色の髪に引っ付いた紅葉を取ってくれる。
「出発だな」と父が言った。
俺とシーナは頷く。
父に連れられて、森の中を歩く。
いつも踏みしめて来た道だ。
今歩いているこの道が、いつか懐かしくなるのかな。
――なんて、感傷に浸る。
俺たちがここにもう一度戻ってくる頃には、今歩いているこの道も違ったものとして映るのかもしれない。その時の未来が楽しみだ。
父はシーナと話している。耳にタコができるほど聞いた旅の心得。悪い奴に騙されるなよ、とか。信頼できるやつの見分け方とか。
今まであまりシーナに話しかけなかった父はずいぶん饒舌に話せているようだ。自分の失敗談をうまく交えて、話を面白おかしくしている。俺もそれに聞き入る。
途中、母の墓で話した内容にも触れた。三年後にはまたここに戻ってくるように、とそれだけけのことを言った。
だがそれでいいんだろうか? シーナが狙われているとか、そういう話はきちんとした方がいい気がするし、隠すことはあまり得策ではない気がする。
だが父が言わないのなら俺も言うべきではない気もするし、どうすればいいのかわからない。
シーナのせいでここを離れないといけない、と言わなければならないのが言いにくいんだろうか?
そうこう悩んでいるうちに森の果てまで来た。
父が手をかざすと、薄い膜が視認できるようになった。
「ここが結界の境界線だな。思想結界だから、頻繁に操作できない。あまり応用が利かないんだ。ちょうど三年後にまたここに集まってくれ。私はこの結界を操作できるから、またここで会おう」
「……なあ父さん、いいのか?」
父が顔をしかめる。
ここで言わなければもう言う機会はない。父が言わなくても、外にでたら俺がシーナにすべてを話すことになるだろう。
父は命を張ることになる。ならばここで……いろいろ胸の内を吐露した方がいい気がする。
父は見たこともない穏やかな笑顔を見せた。
「いいんだよ。きっとまた会える」
「……そっか」
父がそういうなら、俺から言うことは特にない。何も言わないことは返って生きる意志が強くなるかもしれないから、これはこれでいいのかもしれない。
「――待ってよ」
そう言ったのはシーナだ。不安そうな表情。
「今まで知らないふりをしてたけど、私だってどんな事情があるのか知りたいよ」
「いや、なんでもないんだ。お前が気にすることではない」
「なんで教えてくれないの?」
「……あまり気にするな。全部、なにもかも心配はないんだから」
「じゃあ、じゃあなんで――」
――なんでそんなに辛そうな顔しているの?
俺の目から見た父の顔は、どこからどうみても穏やかで幸せそうに見えた。
だから俺は「おいおい、父さんはこんなにも穏やかな顔をしてるじゃないか」とシーナに言おうとした。
しかし、
「う、あ――」
父が涙を流した。
それを見て、俺は動揺する。
だが一番動揺しているのは父の方だった。
目を見開き、あんなにもしっかりした父がおどおどともたつき、かすかに手が震えている。
真剣なシーナの目に貫かれてどうしたらいいかわからない、という表情をしている。
隠し事がまだある顔をしている。
「それで、も――」
ドーン! と大きな音がする。
大きな魔力が家のある方向から渦巻く。
とんでもない規模。
予想よりもはるかに強い、力の波動。
◇
父の右手が光った。
正確に言えば父のつけている指輪だ。俺はそれを今日という日まで一度も見たことがなかった。きっとなにか、特別な品だ。
結界の薄い膜がかすかに開く。
父が俺とシーナを押し出し、結界の外まで追いやった。
爆発への驚きも相まって、突然の父の行動にまともな反応ができなかった。俺とシーナは結界の外へ。そして結界の穴はすぐに閉じていく。
「父さん!」
なにかがおかしいと感じた。
超人のような父が見せた、弱々しい姿。初めてのことだった。こんな穏やかな父も、おどおどした姿も。
俺は結界の壁を叩く。思想結界なだけあってびくともしない。
「――すまない」
聞こえてくるのは父の贖罪。なにに謝っているのか、誰に謝っているのか。
嫌な予感が止まらない。
結界の向こうから感じる魔力はあまりにも規模が大きいものだった。父の強さは世界でも一、二を争う元英雄。しかし、それを踏まえても向こうから感じる魔力は底が知れない。まるで化け物だ。きっと父を簡単に圧倒できるほどの――。
「お父さん!」
シーナの叫び声。可憐な彼女が、精一杯大声をあげている。
「――お父さん! ここを開けて!」
だが当然、結界が開くことはなかった。
結界を通して父の姿が見える。頬から涙が零れる父の姿。
「言い出せなくて、すまなかった。……怖かったんだ。笑ってくれ。こんな弱い私を。――元が付くとはいえ英雄失格だな」
手を結界に当て、もたれかかる父。
そして彼は言葉を続ける。
「死ぬのが怖かった。お前たちを助けないといけないからっていう理由だけでここまでこれたんだ。直前まで自分を追い詰めてここまで来た。何度も逃げようかと思ってしまったんだ。アイザード、昨日の話をわざわざお前にしたのも、自分を追い詰めるためだった」
――死ぬのが怖いんだ。
そう、父は独白した。
死ぬのが怖かった。大切な子供たちをも見捨てようと考えるほどだった。
けれど義務があるから、愛する子供たちだから。
そうやって必死に逃げないようにしてきた。
心は常に限界で、お前たちと森を歩いている時も限界だった――。
「すまない、すまない」
英雄に求められるもの。
それは一つは卓越した能力。
二つは誰かを救おうと思える思想。
そして最後は――。
「自分を犠牲にして、お前たちを助けるのを、直前まで私は拒否していたんだ――」
――自己犠牲。
英雄は民衆のために身を粉にしなければならない。他人のために身を張らなければならない。
例え自分が死んでも、他人を守らなければならない。
元英雄の父は、最後だけがどうしてもできなかった。英雄失格。
能力はある。誰かを救おうという意志もある。だが自分が死ぬことを、どうしても拒否していた。
俺たちが結界の外にいて、父が結界の内にいるのも結果論に過ぎなかった。
父の意思は自分が死にたくない心でいっぱいだった。
「……なんでだよ」
――どうしても納得がいかない。
「父さんは……父さんは昨日、死にに行くわけじゃないって言ってたじゃないか!」
なにもかも、嘘ばっかりだった。
強すぎて俺を理解してくれなかった父。ようやく昨日、俺のことを認めてくれた父。
ようやく、ようやく理解しあえたのだ。なのに父は嘘ばかりを言っていたってことなのだろうか?
父に「シーナを任せた」と言われたとき、俺は密かに使命感に燃えた。絶対に果たそうと思った。だがそれは、父が死ぬ前提の使命感ではない。
再会を前提とした、短い期間の約束。望んだのは、家族全員の幸福。
すまない、と父は言った。昨日から謝ってばかりだった。そんな父は似合わなかった。
俺の尊敬する父はとても強くて、頑固で、強すぎて弱者を理解できないほどで。
自分にも他人にも厳しく、しっかりとした人物。自分をしっかりと持っていて、謝るよりも命じる方がよく似合う、とても強い人物。
納得がいかなかった。今あるものが夢だって言われたら、信じられるほどに。
生きてほしい、一緒に来てほしい。
俺とシーナは、そんなことを何度も告げた。父は首を縦に振らなかった。死にたくないというくせに、逃げたがっているといっているくせに、絶対に頷かなかった。
「いいか。継承者が仲間であるシーナを探しているはずだ。現世にいるのは朱と蒼。戦士と魔法使いのはずだ。見つけたら迷わずついていけ」
「父さん! そんなことはいいからこっちに来てくれよ」
「あと最後に言うことがあったな。信じられないかもしれないが、私は本気でお前たちを愛していた。アイザード、お前もだ」
父は弱々しく笑った。
俺たちは必死に結界を叩く。だが無駄だった。
結界の層が厚くなる。向こう側の父の姿がぼやける。
「なに、私は別に一人で死ぬわけじゃない。この指輪は妻の魂が籠っていてな。だから寂しくないんだよ」
「戻って来てくれよ! 俺は……俺は父さんのことがずっと嫌いだったんだ。だけどようやく! 好きになれたんだ! こんなにも早くいなくなるのは、耐えきれないよ……」
俺は隣のシーナを見る。彼女はもう黙っていた。ポロポロと涙をこぼしていた。
「アイ、もうやめよう」
「何を言って……」
「お父さんの決意、英雄としての矜持。アイならわかるはずだよ」
「……そんなのわかってたまるか!」
俺は、子供なんだろうか?
英雄に憧れたあの日からちっとも進歩していなくて、理想論ばかりを好んで。
誰かが犠牲になって誰かが助かる小説が嫌いだった。誰もかもが救われる、絵本のようなハッピーエンドが好きだった。
父さんが俺たちを救うために死んでしまうはごめんだった。みんながみんな助からないと、とても受け入れられなかった。
……こんな考えは、子供なんだろう。
父の指輪が光っている。
母の魂が籠った指輪。母の思想を用いて思想結界を操っている指輪。
その象徴的な光が遠ざかっていく。
父が死地に向かおうとしている。
「父さん! いかないでくれ!」
決して答える者のない叫びが、虚しく闇へ木霊する。
夕日がとても綺麗だった。
この世の悪意なんてまったく感じさせない風がさらさらと吹いている。
葉と葉がこすれてざわめく音。たくさんの高い木々が、俺を見下ろしている。
頑固な父。弱いものを軽蔑していた父。俺が大嫌いだった父。
それはたぶん、最初は本物だった。俺は「父はわざと厳しい人物像を気取った」と一度評した。でもきっと、そうではない。
たぶん、途中で父は気づいたのだ。俺の努力に。弱いものだって必死だってことに。
父は成長したのだと思う。
きっと、俺が大嫌いな父は、大好きになれる父親へと変化したのだ。
――せっかく父が俺のことを認めてくれたのに。
けれどもう、生きて会うことはないのだろう。
森の奥からは散発的な戦闘の音が聞こえた。剣劇音、バチバチと鳴る魔力の音。
魔力が膨れ上がり、萎む。突風が勢いよく吹く。
俺とシーナは頭を押さえてその突風に耐えた。木々が悲鳴のような軋む音を立てている。
前方が大きく燃え上がった。魔力の波動が飛散し、木に火が付いたのだろう。
火は広がり、前方の森は炎のカーテンと化した。
動物たちが鳴き声を上げながら逃げていく。
生き物が住めない地獄が、眼前に広がっていた。
「……父さん」
呆然と呟く。まだ生きているんだろうか?
それとももう、死んでしまったか?
その疑問の答えはすぐにわかった。
地鳴りがし、黒く巨大な棘が遠方より姿を現した。それはどこまでも太く、そして天高く伸びていく。
その先端には人間が突き刺さっていた。ぎりぎり顔が視認できるかできないかの距離。
それが誰なのか、俺はよくわかっていた。
その人物には人間としての痕跡がわずかしかなかった。
腕と足が一本ずつ千切れ、黒いものが体中を覆っている。残酷の限りを尽くされたようで、両眼がくり貫かれていた。片腕には指輪の光がかすかに光っている。
むぞむぞと口を動かしている。おそらく、下にいるなにかに向かって。
――そして。
「がああああああああああああああああああ」
その人物の体中を炎が覆った。電撃のようなものが纏わりついていて、苦しみを与えているのがわかった。
まるで十字架に括りつけられ、火あぶりにされる魔女のようだった。
異端を拷問し裁く、胸糞の悪い行為。
――ずるいじゃないか。
こんなことは間違ってる。俺たちを救おうとした父が、立派な行動をした父がこんな責め苦を受けていいはずがない。むしろ賞賛されて、幸せになるべきだ。
なのにこれはなんだ?
今だって苦しみに喉が裂けそうなほど、父は叫んでいる。この世のものとは思えない絶叫が鳴り響いている。
ずるい、ずるい――父がこんなにも苦しんでいいはずがないのに。なぜ運命はこんな残酷な結果を与えたんだろうか。
思わず涙が零れた。
怯えていたくせに立ち向かった、俺たちにとっての英雄。
ようやく理解しあえたのに、もう言葉を交わすことができない人物。
彼は自分のことを英雄失格だと言っていた。自己犠牲を拒否した臆病者だと。
英雄なんてクソくらえだと思った。俺は彼に英雄であることを求めたわけじゃない。
『父』でいてくれればよかった。高尚じゃなくていい、強い人物じゃなくていい。
自分を犠牲になんてしてほしくなかった。例えそれしか俺たちが生き延びる道がなかったとしても。
シーナもまた泣いていた。
棘の先端から、長い長い悲鳴が轟いている。途切れることのない苦しみの声が、耳の中にこびりつく。
思い切り地面に拳を叩きつけた。どうすることもできない葛藤を八つ当たり気味に発散させようとした。
血がでて痛いほどなのに、大して痛みを感じない。怒りだけが募っていく。
なにもできない自分に。こんなことになってしまった運命に。
悲鳴が途切れる。
ピクリとも動かない。すっかり全身から力が抜け、生気が感じられない。
しかし、突然――ふっ、と笑った。
口元が微かに動く。なにかの呪文。
突如、その体が爆裂した。たぶん、自爆の魔法で。
微かな光を放つ指輪がこちらに向かって飛んでくる。指輪は思想結界に阻まれることなく宙を舞い、狙ったようにシーナの目の前に落ちた。指輪は最後の輝きが尽きたように、徐々に力を失っていく。
母の魂が込められた指輪。父が死ぬときに持っていた母の化身。
シーナが指輪を両手で包み、抱きしめるように胸に当てた。
縋るように、祈るように涙を流した。
俺たちはここから逃げなければならなかった。思想結界がまだ俺たちを守ってくれるだろうけど、ここを立ち去らなければならない。
俺はゆっくりと立ち上がる。
頭がガンガンと痛む。ひどくなにかに対して失望していて、腹の虫が収まらない。
結局、俺が嫌なのは自分自身だ。
俺は綺麗事を信じる人物だった。不幸を知っているが、最後には報われると強く信じるような人間だった。
そんな考えはとても幼くて幼稚だ。
俺の絶対の信念。英雄に対する思い。綺麗な思考。
英雄の条件は三つある。
卓越した能力を持つ人間であることと、誰かを救いたいと思える人間であることと、もうひとつ――自己犠牲を選べる人間であること。
吐き気がするほどに馬鹿馬鹿しいと思った。
英雄という存在は、あまりにも役回りが損だ。なんで高尚なやつから先に死んでいかないといけないんだ?
何もかもが嫌になる。結局のところ、世界は綺麗事だけでは回らない。
「いこう」とシーナに言う。
彼女は黙って頷いた。
火が足元まで届こうとしていた。思想結界も火の粉のすべてを防げるというわけではないのだろう。
俺はその炎に手元の絵本をくべる。
英雄騎士の物語が綴られた紙束が黒ずんで燃えていく。その黒ずみ方はまるで俺の心のようだった。
俺が過去に持っていた心も。
目の前の英雄の物語も。
それはきっと灰になる。何にもなれないゴミのような。
俺はひとり呟く。
「あなたを、一生尊敬するよ」
俺は父を尊敬しているし、大好きだ。
……だがそれとは別に、自己犠牲という事柄に強く嫌悪を抱いた。
英雄は己の身を削る義務がある。他人のためなら死ななくてはならない。
それはあまりにも役が損すぎる。善良なものほど苦しむなんて間違っている。
だからこそ、
「俺はあなたのようにはならない」
悔しくて悔しくて。
世の中は正義が勝つとは限らないという事実に心底腹が立って。
俺は涙を拭う。過去の自分から決別しようと誓いを立てる。
――今日という日を、俺は一生忘れない。
俺はこの日から、自分をますます信じられなくなり、綺麗事に拒否感を覚えるようになった。
そして……。
そして俺は英雄が大嫌いになった。
◇
世の中のすべてに対して、見方が変わった。
とても無邪気で、綺麗事や理想を信じ切っていた少年。それがかつての俺だった。
だが今は、世の中が優しいわけではないとわかっている。
いい奴が救われるとは限らない。正義が勝つとは限らない。誰もかれもが救われるわけではない。
手に入れるのは強い奴だ。理不尽だろうと、相手を苦しめようとかまわない。
ただ強ければ欲しいものが手に入る。理不尽な目に合わなくて済む。
――目の前にポツンと剣が浮かぶ。
『一度死んだ者』が手に取れる剣。
ナギル兄さんが俺に掴ませた氷と灰色の剣。
それが俺を誘惑していた。
お前の願いはなんだと、そう尋ね続けていた。
◇




