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そ四

 人は誰しも、何かに対して憧れる。


 例えば俺にとってそれは、兄さんだったり、父さんだったり。

 外の世界に対してだったり、人々を守る英雄だったり。

 そういう漠然とした憧れを抱かされるものだ。


 その内の一つ、兄さんについて話をしようと思う。

 名はナギル。俺よりも五歳年が上の、誰とも血がつながっていない、しかしこの家族の中で、「長男」という立場でいた人物だ。たぶん、父さんと母さんの昔から仲間なのだろう。


 ナギル兄さんは、俺にとって最も身近で、尊敬できる人だった。

 彼は優しく、快活で、かっこよくて、非の打ち所がない。

 奥深い緑の瞳。なびく緑の髪が特徴的で、そよ風のような優男だった。


 そんな身近な兄の姿は、幼年の頃の俺からはとてもかっこよく見えた。

 兄はとても強く、その強さは父さんを超えるほどだった。いつも穏やかで、人間が持って当たり前の怒りや、不快感を示したことが一切なかった。まさに完璧な人間。

 なにごとにも動じず、いつも快活で優しく接してくれる兄さんは、俺にとっての憧れで。

 ――英雄。ナギル兄さんをみると、よく、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。


「兄さん兄さん」と人懐っこい犬のように、よく兄さんの後を引っ付いて回っていた。

 俺は幼年期から、フレイムとシーナと比べて、自分だけが血のつながりないのに気づいていた。孤独感を感じていた。だから、同じく父さんや母さんと血のつながりがないナギル兄さんに親近感を感じていたのかもしれない。


 いつもいつも、俺が駆け寄ると兄さんは相手をしてくれた。

 正しく血のつながった兄弟みたいに、俺を肩に乗せ、遊びまわって。

 じゃれあって草に寝転んで、馬鹿笑いしたりした。


 そんなことをしている間でも、オーラみたいな大物のような雰囲気は、何事にも影響されない完璧な人間としての雰囲気は、一切崩れることがなかった。


 そんな完璧な兄さんだったけど、今思えばたまに遠くを見つめていたことがある気がする。

 そこにもしかしたら――苦悩みたいなのもあったかもしれない。


「アイザード。なんで世の中は完璧じゃないんだろう」

「……そう? 僕たちの世界はすごい幸せだと思うけど」

「違うんだ。ここは優しい世界で、欠点がない。でも外の世界では、いつだって苦しんでいる人たちがいるんだ。食べ物が食べれなくて死んでしまう人だっている」

「……かわいそうだね」

「そうだ。この世界を作った神様は、なんでそんな人を世の中に産んだんだろう?」

「生まれてきたことに意味がある、のかなあ?」

「ないよ。赤ん坊のうちに生まれて、何も食えずにただ苦しんで死ぬだけの命だってあるんだ。――世の中は間違ってる」


 思い返すのは理想主義者としての兄の姿。


「もしも――もしも新しく世界を創造できるなら、もっと優しくて完璧な世界であればいいのに」

「……かわいそうなひとなんて、いらないよね」


 子供だった俺の考えなしの一言は、珍しく兄さんをイラつかせたようだった。


「そんなことはわからない。かわいそうな人だって生きている」

「楽しくないのに生きている人は、なんのために生きるの?」


 兄は完璧な人で、とても優しくて、常に胸の中の理想に苦しんでいて。

 兄さんは諭すように続ける。


「じゃあもしも、かわいそうなひとがいらないなら、新しく世界を作って幸福な人だけの世界を作るとしたら、それは正しいことなのかな」

「かわいそうなひとはどうなるの?」

「いなかったことになる。新しい世界では生きられる人数を少なくするんだ。百億あった世界を一万に縮める。その一万の世界では誰しも平和に、楽しく暮らせる。人が少ないから、完璧な世界が作れる」

「いなくなったら、死んじゃったらかわいそうじゃない?」

「しかたないんだ。苦しいだけの命なんて、意味がない。犠牲にしなくては、ならないんだ」


 それは兄さんの考え。

 たぶん、現実的にはそうせざるを得ないという、兄さんなりの結末論。


「誰かを救うために犠牲がいる。でもそれは正しいことなんだ。いつだって世の中では選択が迫られる。誰かを救うために誰かを殺す。どちらも選べないのは、意志の弱い、言い訳ばかりの偽善者みたいな存在だ」

「でも、かわいそうでも生きてる人たちが死んじゃうのはかわいそうだよ」

「……そうかもしれない」


 兄の言葉は、俺の心中によく残っている。

 世の中に犠牲は必要だ。なにも選べないのは偽善的だ。


「この一万に圧縮した世界は、間違ってるのかな、アイザード」

「うん、おかしいよ。生きてる人たちを殺すなんてかわいそうだよ」

「でも、この一万の世界を作るのをやめるなら、何人かを殺さないといけないんだ。だって、一万の世界を作るために動いている人たちがいるから」

「……その人たちを、止めないといけないの?」

「うん、止めないといけない」

「やるしか、ないのかも?」


 兄の空想論は独特だった。

 一万の世界。それを作ろうとする組織。その組織を止めたいなら、殺すしかない。


「でもさらに関係ない人たちも殺さないといけないんだ」とナギル兄さんは言う。


「でも、その一万の世界ができたら、いっぱい人が死んじゃうんでしょ?」

「そうだ。数えきれないほどの人が死ぬ」

「じゃあ、関係ない人たちはかわいそうだけど……」


 犠牲になるべきだ。

 幼いころの俺は、そう言おうとした。

 けど、それを引き継ぐように「犠牲になるべきだ」と言ったのは兄さんだった。

 俺にその言葉を言わせないために、たぶん代わりに兄さんが言葉を引き継いだ。


「誰かを救うために、誰かを犠牲にすること」


 兄さんは独り言を呟く。誰にも聞き取られない言葉が風に消えていく。


 兄さんは快活で優しくて、どこをとっても非の打ち所がないない人だった。

 とてもかっこよくて、俺にとっての英雄だった。


 けど、今思えば俺が惹かれたのはそういう部分ではない気がする。

 時々どこか昏い目をして、遠くを見つめて悩む。

 世の中が不完全で、今も苦しんでいる人たちがいるのは間違っていると思っている。


 そういう兄さんに、俺は憧れたのかもしれない。


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