創世三
家に戻ると、「おかえり」と母さんが出迎えてくれた。
「おかえりー」とシーナも一緒だ。
どこまでも似た二人。息を飲むような美しい白銀の髪と、暖かな優しい金色の瞳。
血がつながった親子。
父さんとフレイムは俺のことを特に言及せずに、家に戻った。適当に濁して、ちょっと訓練した、みたいなことを言って、それで終わった。
今、皆は穏やかに過ごしている。何の悩みもないかのように。
母さんが編み物をしていた。家のリビングルーム。雑務をする場所。
よく母さんが家事をしている、そういう場所。
今、ここには母さんと俺しかいない。他のみんなは他の部屋にいる。くつろいでいる。
「母さん、編み物手伝うよ」
「いいの? ありがとね」
することもないので、そう申し出た。
母さんは集中して編み物をしている。俺はいまいち集中できないまま、ゆっくりと作業をしていった。
俺はどうすればいいんだろう、と考える。
こんなところで足踏みしている場合ではないのに、何もできないでいる。
吐き気がするほどの焦燥感が込み上げてくる。家族を死なすわけには、いかないのだ。
無力でちっぽけで、なにもできない自分。
指をくわえたまま、どうすることもできやしない。
だが――思いついていることはあるのだ。
結界は、使用者が死亡すれば消えることが多い。意識が消えれば消滅するものもあるが、あの結界が今までずっと張られていただから、母さんが不眠の超人でない限り、その可能性はないものことになる。十中八九、あの結界は術者が死亡しない限りは消えないタイプだろうものなのだろう。
そうなのだ。おそらく、母さんが死んでしまえば外に出られる。
根拠はある。そしてこれが試練の要なのだろうという確信がある。
――だって、皆を救うために一人を殺すなんて、試練としてもっともらしいではないか。
この試練は仕向けられたものだ。舞台が用意されていたのだ。
じゃあ、正解は一つしかない。
母を殺す。他の皆を救うために。
でも本当にそれしかないのか? 他にもなにか手段があるんじゃないか?
そう思うも、それは希望論なのだろうとわかっていた。
剣は俺が誰かを殺すことを望んでいるようだった。そう、人殺しを望む試練だ。そんな極悪非道なことをさせたいのなら絶対に――剣は俺に残酷なことをさせたいはずだ。
悩んだって無駄だ。決心が鈍るだけだ。
答えはほとんど確定的だ。ならやれるうちにそれを行うしかない。そうでないと、なにもできなくなってしまう。
剣を呼ぼうと、意識を集中させる。
今、母さんは集中している。油断しきっている。
今ならやれないはずがない。
音もなく殺せれば、父さんやフレイムに追われても逃げ切れる。そこで街について、試練を達成できれば、終わらせることができる。
きっと恨まれる。理由なんて信じてくれない。憎まれ罵詈雑言を投げつけられ、殺してやるとのたまうに違いない。
……それでもやらないわけにはいかなかった。
家族を、俺が守らなくてはならない。恨まれようが、憎まれようが、俺が、俺がやらなくては――。
でも、俺の体は動かない。剣もこの手に現出しない。
願いの剣が、俺の心の深層を読み取ったのだ。『殺したくなんかない』という願いを読み取ったから、この手に現れることはない。それがお前の意思だと、言わんばかりに。
でも、そういうわけにはいかないのだ。
必死に殺意を昇らせ、俺は殺しがっている、と言い聞かせようとする。
だが自分でも、そんなものは一欠片ほども思っていないのがよくわかった。それどころかどんどん決意が鈍っていく気がする。こんなことはしたくないと、自分自身が泣き叫んでいる。
「どうしたの?」と母が言った。
俺はびくりと身を震わせる。俺が考えていることを知られたくなかった。だって、俺は母さんを殺そうとしていたのだ。途端に罪悪感が身を寄せる。いくつも波がやってきて、目が回りそうになる。
祝賀会のことを思い出す。
パンとミルクの香り。
母さんが夕飯の支度をしている。そんな時、俺は母さんの手伝いをした。
それで明日には別れてしまうから、もうしばらく会えないからって、勇気を出してこんなことを言った。
『母さん、俺、母さんのこと、好きだよ』
『……そう?』
よーく、よーく覚えている。ある日のことが遠い過去のように思える。まるで幻想のような思い出。
「母さん」と俺は言う。
「なあに」と母は答えた。
「母さん、俺、母さんのこと、好きだよ」
「……そう?」
唐突な俺の告白に、母さんは照れくさそうに笑った。
きっと「いきなりどうしたのだろう」と、困惑している。でも息子からこんなことを言われたのが嬉しくて、思わずにやけてしまっている、そんな母の表情。
「もうすぐ旅に出るから、寂しくなったの?」
「……そうなのかも」
「別に一生帰ってきちゃいけないわけじゃないのよ? うーん、一年ぐらいしたら帰ってきてもいいかも」
「三日ぐらいで帰ってきちゃうかもしれない」
「それは駄目よ、甘えん坊の馬鹿息子。でも一年たって帰ってきたら、歓迎するから、ちゃんと帰省してね? 一年もたったあとだと、この家も静かになっちゃうと思うから」
そんな言葉から、母さんの愛情を感じた。俺なんかを愛してくれてるんだって、そう思った。
やっぱり、と思う。
俺は母さんを殺せない。そんな度胸がない。
俺は家族が大好きなのだ。どうしようもないぐらいに。
――しかし、と思う。
これは俺の優しさだとか、そういうわけではない。
俺は弱いのだ。皆を救うために誰かを犠牲にできない小心者。
算数ができない馬鹿でなければ、一人を殺して他の家族が助かるなら、そうしたほうがいいとわかるだろう。
でも俺はそうすることはできない。
それは俺が愚かで小心者で。
なにも選択できない虫けらだからだ。
偽善者みたいに、俺は「誰も殺さない!」と叫ぶのだ。




