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犠牲の都市六

 犠牲の都市6


 満たすのは諦めと無気力感だ。なにがいけなかったのだろう、どこで失敗したんだろう。

 答えはわかっている。結局、僕自身がだめだったのだ。

 完璧な人になりたかった。どんなことでも叶えてしまえるような、そんな存在になりたかった。

 ……そこにある、すぐ近くの未来を覗く。特別な能力か何かがあるわけじゃない。ただ、どうなるのかは、ほぼ予想がついていた。誰もいないところで横たわる己の死体。なにも、できなかったという事実。それが、わかりきった結末だ。

 いままで何のために生きてきたのだろう? ただ彼女さえいればよかった。多くは望まなかった。なのに、どうしてこうなっている? 

 人に優しくあれることを望んだ。完璧な人になりたかった、という外付けの理由はあったかもしれない。だが、少なくとも悪いことではなかったはずなのに。

 苦しんだ。無意味な思考と、それでも正しいと、信じて疑わなかったこの思いから。

 だが結果はどうだ? どうせ彼女は死ぬ。僕もまた、死んでいく。

 楽観的になどなれない。コインの表が何十回も連続ででるなど、思えない。

 せめて卓也は止めなければ、と思う。だが無理だろう。自分の姿を見ているようだ。彼が何を考え、どんな葛藤を抱いたかと想像すると、感情移入してしまう。自分の親を死なせてしまう可能性が高い、そして自分も死ぬ可能性が高いと、自覚して彼は行動してるのだ。それを考えると……できない。

 何もない虚空を見上げていた。なにもかもが、どうでもよかった。

「……なにしてる」

 ぶっきらぼうな、男の声。

 振り返ればそこには鋭い眼光の大男がいた。羅門だ。

「地表のことを考えていたんです。ずっと、夢でしたから」

 よくもこんなにも心にもないことが言えるものだ、なんてことを思って……ばかばかしくなって思考を打ち切る。

 結局、ボスはあのあとも僕を引き留めことはしなかった。それは主に僕について考えすぎた同情心が、関係はしているのだろう。だが、ボスは感情だけで物事を決めるタイプの人間ではない。要するに、もう後継者のかわりがいるか……僕は後継者の資格はないと判断したのだ。それもそうだ。あの話を聞いた後では、僕を後継者にするなどリスクが高すぎる。恨みの気持ちから、本来決してやってはならない本物のクーデターを、政府に対して起こすかもしれない。組織ははりぼてで、ほとんどの人間は本物のゴロツキだとボスは言っていた。おそらく、頭が代われば組織はいくらでも変えることができてしまう。

「なあ、祐樹」と静かに羅門は言う。

 なにかを話そうと、踏み込もうとしている。

 ……けど、それもどうだっていいことだ。

「おまえ、本気でそれをいってるんだよな?」

「当然ですよ。子供のころからの夢です」

 なにかを言おうとして、飲み込む羅門。それを繰り返す。だが諦めて、彼はかぶりをふった。

「なあ、俺はあまり頭がよくない。だから単刀直入にいうが、気を悪くしないでくれ。……おまえ、死のうとしてるのか?」

 彼は……本気で僕のことを思っている。伝わってくる。思いやりや気遣いが。頭が悪いと自覚しつつ、それでもなにかをしようとする志が。

 羅門は最初からそういう男だった。一本堅気。粗暴でも筋を絶対に曲げない、愚かなまでな正直者。

 彼のような人物は嫌いではない。そういう人は、きっと多い。

「……そうかもしれませんね」

 ぽつりと呟く。実際、僕がしようとしていることは自殺だ。諦めがつかないから、自分の行動規範を裏切れないから、こういう形になっただけで。

 しかし、僕は続けてこうも言う。

「でも、夢だったんです。死ぬ時ぐらい、最後ぐらい夢をみても、かまわないでしょう?」

「……おまえ」

「大丈夫ですよ、羅門さん」

 精一杯、穏やかに笑って見せる。

 羅門には何も言う必要がない。意味がないことだからだ。だけど、僕は最後まで自分で決めた倫理規則には抗えない。僕は彼に何も話すつもりはないと同時に、傷つけたくはないのだ。むしろ、彼のような人を称賛したいとさえ思う。彼は善心から僕に語り掛けた。それが結果的に不愉快な言葉でも、彼に怒ってはならない、そうしたくない。……己はそういう人種なのだと、理解している。

「僕は生きて帰るつもりですよ。でも、やはり僕は死んでしまうかもしれない。……羅門さんはそのとき、自分を責めそうですね。けど、それはやめてください。あなたは正しいんです。人を思いやることが、そういうことを考えようという気持ちは、少なくとも悪いものであるはずがないんです。僕は、あなたのような人を好ましく思ってるんです」

 感謝しています、と僕は言った。

 何かを壊したい。誰かを傷つけたい。

 なにもかもに絶望した今、そういう気持ちがあるのを自覚している。しかし、できなかった。全部、一緒だ。『自分だけは自分を許すことはできない』と照がいったように。結局、僕は自分自身を裏切れない。こびりついた思想は強要まがいのルールを押し付ける。それは自分という核なのだから、抗うという手段が存在していない。

「違う」

 震える声で、羅門は言う。

「違う、違うんだよ。俺は……」

 尻すぼみに消えていく声。彼は、悩んでいる。

「だめだ。説明できない。もういい、悪いが一から聞いてもらえるか」

 羅門は語り始める。



 ◇



 ある物語の主人公は師匠の死によって使命から逃れられなくなる。いつだったか、そんな話を読んだことがある。

 彼は最初にそう言った。

「俺はスラム出身の孤児だった。名前はなかった。一人で生きていた」

 羅門は言う。俺は無価値な人間だったと。

「だがそんなものは長くは続かない。一人で生きていけるほど、世の中は甘くない。だから徒党を作った。子供だけの集団。結束団体。弱い奴らの集まりだ」

 楽しかったさ、と羅門は言った。自由であると信じた。他の誰かが困ろうと、かまいやしかった。

 しかし、そんなものは長く続かないのが世の道理。中途半端な、目の上のたんこぶの集団は、大人につぶされた。同じスラムの奴らだ。当たり前の結果だった。

「なあ、祐樹。その集団のやつらはみんな殺されたんだ。ゴミみたいなやつらがゴミのように殺されたんだ。だが一人だけゴミのように生き延びた奴がいたんだ。そいつはただ運がよかったのかなんなのか、同情心から孤児院に入れられた。そこもスラムという区域であったが……暮らしは良くなった」

「だからそいつ(、、、)は自分をゴミだと言うんですか?」

「そうだ。罪悪感があった、なんで自分がと思った。それでも生き延びたのはそいつだ」

 孤児院手の生活の中、少し自分に余裕がでるにつれてそいつは周囲を見れるようになった。このままではダメだと思った。自分が生き延びた理由はわからない。けれど、成り上がらなければ、強くならなければ、生き延びなければならないと思った。……周りの人間は環境甘んじていると気付いた。俺だけしか、向上心がない。

「俺はお前にスラムのやつらは蛆虫のようだと言ったな。誰かが助けようとしても無駄になると。……実際、無駄になったことがあるんだ。俺がまだ若いころだった。とんでもなく、虚しくなったんだ」

「それで、諦めたと?」

「そうだ。言い訳に聞こえるかもしれないが、当時の俺にはもっとやるべきことがあった。……俺は頭が悪い。多くは出来ない。だから見捨てたんだ。そういうのも含めて、なにもかもにも腹が立つんだ。だが正しいという根拠はあった」

 やがて孤児院に男がやってきた。そいつはその子供だけを連れ出してこう言った。

『お前の仲間たちは俺が殺した』

 それでナイフを子供に渡して。

『やりたきゃやれよ』

 そう不敵に笑った。

「俺にはボスがいた。ボスを支えなきゃならなかった。それが最優先だった」

 子供は理由を聞いた。なぜ殺したのか、それだけを泣きながら聞いた。……なにも現実を知らない、子供だった。それでその男の雰囲気が変わった。その子供の意識は次の瞬間には消えていて……目覚めたとき、レンガで作られた建物の中にいた。

「そこで俺はいろいろと学んだ。考えなければならないことを教わった。子供の集団が死んだ理由を聞いた。ボスは完璧な人間だと認識されていたが、違うということを知った。……俺は先代のレジスタンスのボスに会ってな。その人からボスが子供を殺したがらなかったことを聞いたんだ」

 一年後、子供は子供殺しの男にまた会った。そいつは驚いた顔をしていた。子供が跪いたからだ。あなたに仕えたいと。

「ボスは完璧なふりをしているだけの人間だ。子供は一人残らず殺すべきだった。……先代のボスと、今のボスの会話を盗み聞いたことがある。『私は死ぬ。あとはすべてお前に任せる』そういう厳しめの声。その次の日にテロで何人かの人間と、先代のボスが死んだ。――死ぬ間際の言葉は人を強く縛り付ける。だから死ぬことで、今のボスに重荷を背負わせたんだ。……その盗み聞いた会話の中で誰かが泣いていたのを今でも覚えている。後にも先にも、そいつが涙を流すことは、たぶんない」

 子供は全てを知っていた。それらすべては先代のボスの差し金だ。だからといって不正に得た情報が正しく働かないわけではない。子供は忠誠を誓った。一人の男を支えなければならないと。

「俺には名前がない。子供の頃から記号のようなものとして呼ばれるものはあった。けれどそれには意味がない。俺は名前を決める必要があった。自分の領分はわきまえていたから、極道のような、そういうものになれるような意味が欲しかった。結局、名前は何でもよかった。羅門、なんて名前も、極道の人物っぽいってだけでつけた。ばかばかしいかもしれない。だが俺がそれを名前として認識した。俺は羅門|《、、、》という人物になった」

「……」

「俺はお前が嫌いだと言っていたな。その理由は、『おそらくボスとしての座を引き継ぐ時、死ぬことでその座を引き渡すからだ』だから後継者になるであろうお前が憎かった。……死ぬ間際の言葉はもっとも人を縛り付ける。勝手なことだとわかっていたが、それでも『ボスを守らなければならない羅門』は、お前のことが嫌いだった」

「だから、ですか」

「そうだ。だからお前のことを見ていたんだ。たりない頭でお前のことを考えた結果はこうだ『それでも少なくとも、こいつは悪い人間ではない』」




 ◇




「だからなんだっていうんです?」

 他人の肯定と称賛。それがなにを及ぼす?

 所詮、意味がない。どうしたって、結果は変わらない。

「俺は羅門だ。その名は極道として、一本の筋道を通さなければならない。お前のことを見てきて、それで、お前は悪い奴じゃないと思った。なのにお前は救いようがない場所にいる。それに、腹が立つんだ」

 この世の中は理不尽すぎる、と羅門は言う。

 誰もかれもがわかっている事実だった。皆、不満に思っていた。けれど現実は依然として変わらずに存在する。誰もそれを変える力を持たない。みんなが諦めている。

「納得できないんだ。腹が立つんだ。なあ、なんでお前は死のうとするんだ? お前は悪い奴じゃないのに、なぜそんな場所にいるんだ? 少しでも力になりたいんだ。俺は、羅門は、そういうことを願うんだ」

 ――理不尽に耐えられない。

 それはきっと、多くの人間が持つ共通意思だ。たとえ自分とは関係のない不幸でも、一度目撃してしまえばいやな気持になる。夢見が悪くなる。小さく押し込めることはできる。しかし、小さなしこりは残る。

 羅門は僕と彼女のことを知らない。今までの発言からそういうことが読み取れる。けれど、助けになろうと思ったのだ。一人の人間が理不尽のただ中にいるのを見て、何とかしたいと思った。

 ……だけど。

 怒りや不満、やるせなさがこみ上げる。

 そんな感情が、一体何の役に立つっていうんだ? 結果は不変で、何をしようとも、僕の運命は変わらない。

 何度も何度も、そういうことをも考えたことがある。世界全体が救われてしまえばいいのに、と本気で思っていた。他人の不幸が許せなかった。完璧でない世界を恨み、無力な自分を呪った。

 だが結果はどうだ? この思想は少なくとも悪いものではないと思っていた。少なくとも、多少なりとは誰かを幸福にできると信じていた。……そうはならなかった。どんな高尚な理念も信念も、いつだって現実が示す結果によって否定される。羅門の思いに意味はない。

 吐き出したくなるのは罵倒と呪詛だ。お前がやっていることは無意味だ。僕を見ろ、僕はなにもできていない。

 ……それでも、ほかならぬ自分自身がそれを止める。

 もう嫌だった。これ以上の思考は無意味で、ただ、苦しい。この思考は誰も救わない、誰も救えない。

 なにもかもを、投げ出してしまいたかった。

「意味なんて、ないんですよ。僕が失敗したのにも、なにもかも。失敗したんです、僕は。結果が得られなかったんです。だから誰かが僕を助ける必要は、ないんですよ」

 本心から思った。失敗者に権利はない。他の人にはあるのかもしれない。だが、僕自身にはないのだ。自分自身が救済の許可を与えてやれない。無力な自分を許せない。それに……現実的に救済される手段もない。

 助けられたいと、願っていない。

「違う!」

 語気を荒くして羅門は言った。

「そんなのはお前が決めたことだ! お前は何かをしくじったのかもしれない、けど、失敗した奴を誰もが責めるから一体誰が救ってやれるんだ! 俺はそんなのはごめんだ! だから! 俺こそは!俺だけはせめて! 失敗したやつを認めるんだ!」

 ――それは。

 誰かと話した記憶がある。同じようなことを言っていた。誰かが、本来は世界全体が救われるべきだと説いた。同時にそれは現実的に不可能だと言った。

『現実は僕らの努力を認めてくれないこともある。でも、せめて身近な人の努力は、身近な人が認めてあげよう』

 ――その言葉は。

『できる限りのことはできるようにしよう。身近な人のことだけは、周囲が否定しても、自分だけは味方になってあげよう』

 その思いは。

 ――全部全部、自分の言葉だ。

 いつまでも跳ね返ってくる、そういう類の、呪いなのか祝福なのか、見分けのつかない言葉。

 子供から大人になって、世界のことがわかるようになって、ひっそりと絶望していった。どうせ無理なんだと、世界は理不尽で溢れすぎていると、そう思っていた。

 何かがわかりそうな気がする。

 何かがつかめそうな気がする。

 絶対に救われるべきで、されど絶対に救われない現実という世界。だから、せめてもの抵抗として……。

 ああ、と思った。だからなんだ、と理解した。

 人は、出来る限り周り他の人間を認めてやるべきなのだ。人は失敗する。そいつが悪くなくても運という要素が失敗を引き起こすことなんてざらにある。

 だから、なんだ。

 人が人を認めるということは。

 誰かが誰かを救おうと、その意志だけでも持つべきなんだ。

 大きなことじゃなくてもいい。

 でも、小さなこと善意で、十分人は救われる。

 羅門は必至な顔をしていた。俺だけはせめて認めてやりたいと、そう言っていた。それは小さいなんてものじゃない、大きな善意だ。

 僕は彼女を救えない限り、救われることはない。

 いままでしてきたことに納得できなかった。結果がでなかったと、絶望していた。優しさを目指す思想は欠落品だと、そう思った。

 ――そうじゃなかったんだ。

 結果は不動で、羅門の行動はなんら介入できていない。それでも、と僕は思う。

 人の善意が間違ったものであるはずがない。結果は伴わなくても、それは――

「俺はお前を認めるんだ!」

 ――絶対に正しいものなんだ。

 納得した。今現在の結果は運が悪かっただけで、この考えのせいではない。

 延々と渦巻く思考に苦しんでいた。意味がない、と何度も何度も思った。

「あり……がとう」

 少なくとも、僕は少しだけ救われたんだ。人間の善意から。人を想う、その想いに。

 否定を否定して、ずっと繰り返して。

「ずっと……苦しかったんです」

 自分で立ててた倫理の順番。積み上げていく作業には絶望が多かった。

 こみ上げてくるものがあった。それは暗い感情ではない。納得できたから。今までのことは無駄ではないと、そう思えたから。

 頬を何かが伝う。それを見て、羅門は目をそらした。

「ばかやろう、お前は悩みすぎだし、自分を押し込めすぎだ。そんなに機械みたいにならなくていいんだよ」

 そのぎこちない言葉とそっけなさをみて……思わす笑ってしまう。

 泣き笑い。

「解決したのか?」

「はい」

「これからどうするんだ?」

「地表に行きます」

「それでも、なにかあるってことか」

「そうです」

「なら、応援だけはしてやる」

 少し、愉快な気分になってくる。相も変わらず、彼はそっけなくて、でも彼の感情がうっすら伝わってきて。

「羅門さん、僕は死ぬかもしれません」

「ああ」

「でもなんとか生き延びようと思います、本気です」

「……ああ」

「今日羅門さんが僕に声をかけてくれたのは、最終的な結果をなにも変えられていないかもしれません。だけど、僕が次にいう言葉もまた結果です」

 それは、たった一言でよかった。

「ありがとう」



 ◇




「点呼だ」

「一」

「二」

「三」

「四」

「よし、全員いるな」

 短く髪を切りそろえた男――隊長は元気よくそう言った。

 ついに、地表に出る時が来た。

 あれから僕は少々の体力訓練と、地表に対する見解予想を学ばされた。僕に与えられた番号は四番だ。この探索では仲間を見捨てる可能性もあるので、無駄な感情は必要ない。よって互いに名前はしらず、僕らには番号が与えられている。

「俺たちは仕事をしに行く。だが……地表は我々の夢の場所だ! 少々ならハメを外して構わん!」

 ……しかし、隊長はあまり規則を気にしない人物のようだ。

 僕以外の番号を与えられた者はみな若者で、隊長だけはやや中年といったところか。みんな夢があってやってきた。未知なる場所への冒険心、好奇心。そういったものを抱えて。

 残していく者のことを考える。

 卓也のこと。父のこと。彼女の両親のこと。

 今からするのは奇跡を願うことだ。魔法がさらに発現して彼女を救えるようにしたり、その技術の痕跡を盗む。政府から逃げられる場所を用意する。

 最悪、ここにいるもの全員を裏切ってでも、なにかしらの特異ななにかを持ち帰らなければならない。とても、ばかばかしくても、やらなければ。

 彼女を助ける。不可能に近くても、死ぬかもしれなくても。

 誰かを傷つけないといけなくても。自分の信念を裏切ってでも。

 僕らは移動を開始する。地表にいくために秘密裏にあけられた洞窟の中へ。

 犠牲の装置メギナラムの効果はその装置の周囲数百キロメートルを、薄い膜の球で覆うことだ。その膜は人体に有害である粒子を防ぐ。魔素、という粒子だ。星が堕ちてきたあとに発生した謎の粒子。それはメギナラムの力以外では防げず、人類をほぼ滅亡に追いやった。さらにやっかいなことに、電波当を強烈に妨害し、探索機などが使い物にならなくする。

 だから、人間が直接調査するしかない。僕らはそのための防護服を着ているが、魔素を防げるのは三日が限界だ。それ以上地上を闊歩しようなら、命の保証はない。

 やがて、僕らは膜との境界線上までやってきた。

 隊長が立ち止まる。そして、他の者も。

「ここまで掘るのに何人かが正体不明の病で死んだ」と、隊長が言う。

 祈るように手を合わせ、それに他の者も習う。

 やがて顔を上げた。隊長は重々しく言う。

「原因はおそらく魔素だろう。防げないものである以上、死体は速やかに処理され、保管ができないから、対処するための研究もできなかった。――諸君、肝に銘じることだ。我々は他人の命の犠牲の上で成り立っている。我らが住まうは犠牲の都市だ」

 はい、というまばらだがしっかりした声。みな、思うところはあるのだろう。自分たちの命があるのは犠牲者のおかげであり、地表を探索するためにも誰かが死んでいる。自分も命を懸けるからといって、そういう者たちのことをないがしろにはできない。そういうことだ。

 ひとり、ひとりと膜を通過していく。ある程度の説明は受けている。ここからは世界が変わる。通常とは異なる違和感が常に、付きまとうと。

 そうだ、ここが境界線だ。今なら戻れる――なんてことを思うのも今更過ぎることだ。

 僕の番になる。みなこちらを見ていた。背後からも視線がある。僕らが異常を抱えたまま帰還した時、処理をする者たちだ。役職を処理係という。

 緊張する。何かが変わることを願い、祈り、僕は一歩踏み出した。

 ――突如、襲うのは違和感だ。存在しているのに存在する。矛盾だけを感じる。なにも外見に変わったことはない。だが……。

「みんな、大丈夫か?」

 隊長がひとりひとりの顔を覗き込む。

 それに全員頷いて答えた。僕も同じように頷く。

 背後を振り返れば、処理係は消えていた。長居はしたくないのだろう。現にここを掘った人達が正体不明の病で死んでいることを考えても、この辺りは魔素の濃度が高いのだと想像がつく。

 隊長が上のマンホールに手をかける。そこが地上への入口だ。

 光が僅かに漏れる。都市では見られない、作り物ではない、本物の光。

「いくか」

 隊長が最初に潜り抜ける。そして一番が続く。

「どうした三番?」と二番が言った。

「ああ、いや」

「故郷がさみしくなったか?」

「いや、違うんだ。なにか後ろのほうで見えたような気がして……」

「ははは、幽霊でもみたか? むしろ幽霊なら地上にたくさんいそうだがな」

 確かに、と僕は思った。

 背後を見る。なにもいない。きっと哀愁がもたらした幻覚を、三番は見たのだろう。残していくものは、誰にだってある。

「俺たちは死ぬかもしれない。それでも……人生を特別なことに消費したいと思ったからここにいるんだ」

 二番がにやりと笑う。

 ここに集まったのは普通以外を求めた酔狂なものたちだ。

 なにかを成したいと思い、勇気を胸に、集った若者。

「さあいこう」

 その言葉に、三番は頷いた。

 もう一度僕は振り返る。やはりそこには、なにもなかった。



 ◇



 ◆



「雪様、こちらへ」

 感情を感じさせない表情をした女がそう言った。

「わかってますよ」

 ここではすべてが手に入る。望めば現実的に可能な限り、叶う。ここはそのための場所だった。

 叶わないものも多数ある。それは本当に大切なものだ。親しい人間とか、家族とか、愛する人とか。そして、自分の命とか。

 私は、長く生きることができない。この都市の犠牲に選ばれたのだ。逃げることはできない。だって、誰かが犠牲に、ならないと、何十万もの人が死ぬ。

 機械のようだ、といえば共感されそうな女が私に服を着せていく。女の子なら一度は来てみたいと思うような、綺麗な服だった。彼女はメイドとして淡々とその職務を全うしていた。

 私は、最初にここにつれてこられたとき、次のようなことを言われた。


「あなたは死にます」

「ここで手に入るものは何でも手に入ります」

「傷つけるという方法以外なら、人を使役することができます。風俗的な意味でも可能です。また、あなた自身の体なら傷つけても構いません。危険な薬物に酔うことだってできます」


 ここは、まるで現実ではない場所のようだった。自分の命を犠牲にする代わりに、可能な限りを実現できる最期のための場所。

「お困りでしたら今までの具体的な例をあげましょうか?」

 メイドの女は返事も待たずに言葉を続ける。

「最初に多いのは一般的な娯楽です。やはり、気が引けるのでしょうね。次に豪勢な食事、異性の肉体、薬物の使用。あと、可能な限りの都市の真実や、犠牲の装置について聞かれることも多かったですね。特殊なものですと死の一歩手前の経験を望んだ者もいました。予行演習だと」

 メイドの女はさまざまことを語った。恋の演習で肉体関係を望まないものもありました。あと女性の方ですと姫となることを望んだ方が多かったです。薬物に早々と染まるものもいましたが、絶対に嫌だという方もいました。ただ平凡な生活を過ごして終わる方もいました。

 そして、と彼女は言う。こうしてあなたは様々なサービスを受けることができます。また、実際に私たちが行ってきたものは完成度の高いサービスとして行うこともできます。新しいことをしてもいいのですが、それはあなたに任せます。

「ねえ……えっと、あなた?」

「メイドとお呼びください」

「……じゃあ、メイドさん。なんでこんな無駄なことをするの? どうせ死ぬ人のために過剰な資源を使う必要はないと思うのだけど……」

 こういうことを最初に考えてしまうのは、彼に影響されたせいだろうか。

「あなたの気分を害する情報の可能性があります。前もって言っておきますが、あなたは真理を求めるタイプに見えます。なので私はすべてを話しますが、止めたいときは言ってください。可能な限り、汲み取ります」

「わかりました」

「では……。私たちはサルではないということです。ここの方針は『我々は人間である』なので、一部を除いた人道的な支援を行います。また、これは言い訳でもあるのです。犠牲になる人に感謝していると、申し訳ないができるかぎりのことはするから許してほしい、と」

「……」

「無論、あなたが私たちを許す必要はありません。ただ、理解が得られなくてもやれることを最大限する。……私たちにはそれだけしかできませんから」

 メイドは頭を下げる。

「仕方ないってことなのね」

「そういうことになります。誰かが死ぬことを、望んでいるわけではありません。……なるべくなら、犠牲はないほうがいいのです」

 そう言ったメイドの表情には、僅かに感情の色が見えた。それすらもわざとなのかもしれない。けれど、そんなことはあまり重要ではなかった。きっと、人が死ぬことを積極的に願っている人はいない。それは普遍的なことで、納得できた。メイドの彼女も私に対して興味はないかもしれない。でも少なくとも、積極的に私に死んでほしいとは思っていないのだ。

 それから、メイドの女に進めるがままにサービスを受けた。強制はされなかった。どんなものでも私の意思を聞いた。『今日は何も食べたくない』というくだらないことにも真摯に対応した。

 都市のことを聞いた。ここがどういう仕組みなのか、とか、裏で何が動いているのか、とか。彼女はすべてを教えてくれた。きっとここまで知ったら絶対に逃げれないだろうな、と思いながらそれを聞いていた。抵抗組織は、実は政府が操っているとか、最近、法に対する民衆の意識が低いから、見せしめがほしい、だとか。逃げないように念を押された。また、実は私を誰かが助けに来たらその人を見せしめにしようと計画されていると聞いた。この場所は実は厳重すぎるほどの警戒態勢が施されているらしい。

 それを聞いて、いろいろ考えて……少しだけホッとした。彼が私を助けに来たりしたら、彼は見せしめに殺されるのだ。だけど、彼はきっとこない。彼は感情が現実を動かすことはできないと知っている。また、法は絶対に守るぺくものだと思っていて、彼はその職務を目指していた。助けに来れば私の家族が死んでしまうことも冷静に考えるはず、だからきっと、こない。

 ……でも、きっといろんなことを考えて、悲しんでくれるはずだ。思えば彼はあまり感情の起伏をあらわにしない性格だった。そんな彼をくすぐったり、からかったりして彼が感情を見せた時、鉄壁の守りを破ったみたいで嬉しかったものだ。

 ……彼はどうしてるんだろうか。

 心配だ。彼はきっと、なにもかもを自分せいにしてしまう。理性的に自分が悪くないとわかっていても、苦しんでしまう。でも彼はなにもすることができない。卓也が、私の父と母が死んでしまうことを考えると、きっとなにもできない。

 ごめんね、と思う。一度でいいから彼と話したかった。でも……それができないのが現実だ。

 彼の幸せを願う。

 夢を見る。彼が誰かにキスをする。そこに私はいない。彼は幸せそうな顔をしている。胸が締め付けられる。でも、それでも私は、彼が幸せになることを望んだ。

「この都市の秘密はそれだけ?」

「いえ……もう一つあります」

「なに?」

「この政治は幼少期から専門の教育を受けた議員によって動き、王が決定を下します。大まかな方向はすべて王によって決められ、実質の独裁です。ここまでは知っていますよね?」

「はい」

「王は飾りです」

「……え?」

 常識外のことをなんども話された。しかし、この話はその中でも特におかしかった。

「王は『誰か』から指示を仰いでいます。ここからは憶測ですが、王がそれに逆らったことがないのが不自然です。歴代の王は非常に人道的な方、あるいは逆の方もおられました。しかし、明らかにその『指示』に不満を覚えているように見えても、逆らおうとはしませんでした。昔は『誰か』が政治を支配していたのを議員は知っていました。しかし、長年の王の支配のせいで、その事実を知るものは少数ですし、選べと言えば王につく方が多いでしょう。ですが、愚直なほどに王は『指示』に従います」

 不確定な情報を話してしまい申し訳ありません、とメイドの女は詫びる。こんなことまで話す意味はなんだろうか? もはやこれはある種の不敬罪になりうるというのに。……まあ、そこらへんに対応する法が、なにかあるのだろう。

 ……卓也が、弟が政治体制が変だ、と言っていたのを思い出す。これ以上先はメイドもしらなそうだし、実際どうなっているのだろう?

「変な話ですね」

「たしかに、この都市はなにかしらが特殊です」

 メイドとはいろいろなことを話した。……犠牲についても、話した。

「あなたは非常にまれな魔力の質を持っています。あなたはいままでの犠牲者五人分の魔力を犠牲の装置に供給できるでしょう」

「……私が自殺したら?」

 メイドが私の目を覗き込む。ほんとうのことをいっていいんですか、という表情。

 私は頷いてそれに答えた。

「現在、犠牲になるものの候補が不足しています。あなたがいなくなれば次に犠牲になるのは十にもならない少年です。しかし、彼では五年ほどしか持たないでしょう。その次も子供です。少年の犠牲を考えると年は十一を過ぎた状態で犠牲になるでしょう。彼は四年しか持ちません。あなたは二百年持ちます」

 それを聞いて、震えた。「ここまで候補がいないのも異常な事態なのです」とメイドは付け足す。

 私一人が犠牲になれば、数十単位で人が犠牲にならなくて済む。どちらにせよ、私は逃げられる状態ではなかった。メイドの言葉はせめてもの抵抗に私が自殺しないための嘘かもしれない……とは思わない。彼女はいままですべて本当のことをいっている。そう感じた。確かに根拠はない。でも……。

 嫌になって考えるのをやめる。どうせ意味がないのだ。余計なことを考えて苦しみたくない。

 せめて、と考え、この場所の娯楽を堪能した。見たこともないもの、普通に暮らせていたら経験できなかったであろうことをたくさん経験した。……だけど。

 私は普通に暮らしたかった。彼と一緒に笑って、手を繋いで。彼の困ったような顔をみて、満足そうな顔をみて。それらすべては、もはや絶対に叶わないものだ。……考えてはだめだ。胸が、苦しくなるだけだ。

 私はひとり、綺麗な景色を見つめていた。でも、ここに彼はいない。

 メイドには近づかないように言っておいた。といっても、自殺しないように見張りぐらいはついているし、それが可能な道具に私が近づけば、きっと彼女はここに来る。

 目頭が熱くなる。私は、死ぬのだ。なんでこんなことになっているんだろう? 彼さえいてくれればよかった。多くは望まなかった。

 きっと、運が悪かったのだ。だがそんなことで納得できるわけではない。

 告白しておけばよかったなあ、なんてことを思う。彼はどんな反応をするだろうか。きっと、最初は動揺するに違いない。そのあと困ったような顔をする。でもきっと、嬉しそうに私を受け入れてくれるはずだ。まあ、私のうぬぼれかもしれないけど……。

 でも、と思う。告白しなくてよかったかもしれない。そんなことをすればきっと、彼は余計に苦しむ。きっと、だから、私は……。

 なにをしても、後悔だけが残る。泣きそうだった。彼との思い出を想う。そこには弟もいて、毎日が楽しかった。

 どんなに辛くても、涙だけは流さなかった。それは無意味だが抵抗的で、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせているかのようだった。

 私は部屋の中に戻る。「大丈夫ですか」というメイドの言葉に微笑んで頷く。

「大丈夫」

 一体何が大丈夫なんだろう? 自分を誤魔化していないとメイドに当たり散らしてしまいそうで怖かった。誰かを傷つけることだけは、したくなかった。

「なにかにおぼれることはできますよ」とメイドは言う。風俗、薬物、各種のリストを私に手渡す。男の人の裸が乗っていた。たくさんのリストからはどんな人でも好みに当てはまりそうなものもあった。薬物からは幻覚作用のパターンや、詳しい説明が乗っていた。量によって効果をずいぶん調節できるようだ。

「いいえ」と私は言う。

「なぜですか? あなたは死ぬんです。なにかに溺れたって誰も文句をいいません。もしそんな人がいたら私が排除しますよ。あなたはすべてを許されているんです」

「そうかもしれませんね。でも、私が私を見ているんです。だから、やめておきます」

「それでも」とメイドは言う。少しだけ荒い語気、込められた感情。それに気づいて彼女は恥じ入ったように俯いた。

「どうせ死ぬんです。たとえ自分が自分を許せなかったとしても、もう時間はないんですよ……? プライドなんか重要じゃありません。辛いことばかり考えて死ぬつもりなんですか? 最後ぐらい、楽をしてもいいのに」

 ああ、と思う。初めてメイドのことが分かった気がした。人の苦しむ姿が、彼女は好きではない。他人の不幸が許せない、そういうタイプ。

「すみませんでした、こんな強制させる言い方をしてしまって……」

「いいんですよ」

 メイドは不思議そうな顔で私を見つめる。私の声に悪意や、苛立ちを感じなかったからだろう。

 ……人が、誰かを思いやるということ。それが結果に結びつかなかったとしても、そういうのを感じるだけで救われたような気分になる。

 メイドはなにかを言おうと、してやめた。食事をとってくるといってこの場を去った。

「……きっとキミなら、こうしたと思う」

 ひとり、そんなことを呟く。彼とはいろんなことを話した。難しい話だったが、彼の思いや優しさが垣間見えるあの時間は、嫌いではなかった。

「……祐樹くん」

 彼の名を呼ぶ。

 ここに、彼はいない。

 なにかに溺れてしまいたかった。もう何も考えたくなかったるひたすら辛いだけの時間は、もう嫌だった。それでも、私は溺れることを拒否する。

 彼のことを思い出して、浸って、それで……満足して死んでいく。いや、きっと満足なんて一ミリもできない。でも、私はこういうふうに、死んでいきたかった。



 ◆



 ◇



 僕はゆっくりと周囲を見渡す。彼女を救うために、何かしらの特異を探さなくてはならない。ばかばかしい、と自分でも思ってしまうほど希望がないけれど。それでも、やらなくてはならない。

 ついに来た地表には、砂嵐が吹いていた。

「きつい天気だ。といってもほとんど年中こんな有様らしいがな」と隊長は言う。

 望遠鏡を用いた地表の探索は何度も繰り返されている。しかし、基本的には砂嵐や霧が立ち込め、周囲が見えない状態だ。そもそも、砂嵐と霧の共存というのがあり得ない。出た結論は地上はおかしい、とのことだった。地表は現実とは思えない、異常が続くミステリアスとも言ってもいい謎だらけの場所だ。

「おい見てみろよ、サラサラした土だぞ」

 一番がはしゃぐ。

「それは都市にもあるだろうが……」と二番。

「はめをはずしていいとは言ったが早すぎるだろう……」と隊長。

 たがみんな、抑えているだけで似たような状態だった。押し寄せるのは未知への期待感と、興奮だ。現に僕も、そういったものを感じていた。ここは、明らかにおかしいが、だからこそ何かを期待してしまう。

 肉声は防護服と砂嵐の影響でほぼ聞こえない。用いているのは特殊なトランシーバーだ。だがこれも近距離でないと魔素の影響で届かないのではぐれたら使えなくなる。

「知っての通り、今回の我々は仕事は地表の探索だ。期限は三日。よってマージンもとって一日かけて真っすぐ移動し、また一日かけて戻る。元の位置に戻れるよう、特別性のワイヤーを出発地点にくくりつけ、それを装備して、帰るときはたどっていく。食料は活動に適した少量のものだ。……まあ、都市を作った『賢者の塔』なるものでも運よくみたいものだ」

 賢者の塔。そこに住まう科学者が、星が堕ちたときに都市を作ったとされている伝説だ。もっと昔の資料はある程度あるにも関わらず、星が堕ちたその瞬間についての資料は、不自然なほど都市には残っていない。。だが考えてもみれば、星が堕ち、人が死んでいく中でどうやって都市を作ったのだろう。魔素は急速に人体に影響を与え、拡散スピードもはやい。で、あれば前もって星が堕ちてきた対策を用意し、そうして都市はつくられているわけで、それをしたのは誰かのか、ということになる。それが賢者の塔の伝説というわけだ。

『先を見越した賢者様は未来のわれらを救いたもうた』

「出発」

 周囲を見渡しながら僕らは歩み始める。地表には生き物がいると聞いていたが、あるのは砂ばかりで、緑すらみえない。辺りは砂と霧が混じり、空は暗く、濁っていた。

 ワイヤーが僕らの歩みを証明するみたいに、跡に伸びている。

「死んだ土地」と誰かが呟く。

 まったくその通りだと思った。何かが生きている様子が、まるでない。

「おい!」

 歓喜に似た叫び声。

「興奮しちゃだめぞ一番」と二番が冷静に諭す。それをろくに聞かず一番はある方向に指さした。

「生き物だ!」

 途端に皆の目の色が変わる。

 トカゲがいた。しっぽの短い、普通にいそうでいない、地上でみた初めての生物。

「捕まえよう」と三番が言う。

「慎重にいけ、まんがいち防護服が破れたら死ぬぞ」と隊長。

「僕が回り込みますよ隊長」

「任せた四番」

「では俺たちは横に……」

 囲い込む形になった。

 三番がにじり寄っていく。

「なんか、興奮するな」

「生き物なら都市でも見れるだろう」

「だが見ろよ二番、こいつ、みたこともない種だ。そもそもここで生き延びてるってだけで奇跡の生物みたいなものだぞ」

「たしかに」

 トカゲは目を閉じていて、眠っているように見えた。こんな無防備に、と思ったがどこを見渡しても砂しかないこの場所では、どこも同じようなものなのかもしれない。

 ゆっくり、ゆっくりと近づいていく。みんな興奮に酔っている。単純だな、と我ながら思う。しかし、そういったものに身をゆだねるのも悪くない。

 実行するのは三番だ。身振り手振りで今から捕まえると合図。自然と周囲の気が締まる。

 ――瞬間、トカゲが動いた。

 三番の手を潜り抜け、駆け抜けた。

 みな意表を突かれた。しかし、それだけではない。

「……嘘だろ」

 三番が驚いた声を上げた。

 トカゲは速かった。明らかに普通以上に。

 もう終わりか? とでもいいたげなトカゲを見送る。予想外だった。

「すごいな……」

「隊長?」

「これが地上種なんだよ……! 明らかに普通じゃない。この五百数年で、急激な進化を遂げたに違いない……!」

 みな色めき立った。そうか、と納得が降りる。自分たちは大発見をした、そういった興奮が周囲を囲った。

「しかし、注意しなければいけないかもしれませね」

 そういったのは二番だ。

 なぜなら、と彼は言う。

「生物が進化したというのは我々人間にとって不利なことかもしれません。過去にあった戦闘機、核など、兵器全般が衰退している我々は、地上では捕食される側にもなりえます。そういった危険生物がいるとしたら……我々は武力を強化せざるをえないでしょう。今は平和な都市ですが、武力の統制がおいつかなくなるかもしれません」

 隊長が困ったような顔をする。水をさされた、とでもいいたげな表情だ。

「たしかに、そうかもしれん」

「地上への進出はまだしばらく後になるかもしれませんね」

「……まあ、まだそうときまったわけでもない。先に進もう」

 それを止める者がいる。

「待ってください隊長」

「どうした一番」

「危険生物が存在する可能性がでたんですから、決め事を作っておくべきです。襲われたらどうするか、とか」

 そうだ、と僕は思う。想定されていない可能性ではなかった。しかし、主な予想は地表では生物が死滅しているという前提で動いていたのだ。実際、プランもそれにそったものが多い。だからここで簡易的に決まり事を作る必要があるだろう。

「そうだな、我々が来たのはやはり仕事のためだ。予算もかけた、人も死んだ。てぶらで帰ることだけは許されん。……脅威に対しては逃走を選択する。誰かが死にかけても撤退が優先だ」

 厳しい言葉だった。だが、妥当だ。結果は絶対に必要だ。なにしろ、この調査のために人が死んでる。

「我々がそこまで親密でないのもそういった理由ですしね。異論があるものはいるか?」

 二番の言葉にみな首を振る。反対する理由はなかった。

 再び僕らは進行を始める。

「なあ」と二番が僕が話しかけてきた。

「どうしました?」

「ここにどんな生物がいると思う?」

「さあ……毒を持った生物とか、いるかもしれません。あとあながち巨大生物がいる可能性も捨てきれないかも。生き延びるために大型化するなんて話をよく聞きますし、さっきのトカゲのことを考えると異常な進化があってもおかしくないかもしれません」

「たしかに。『星堕ち』が起きて人間はほぼ全滅した。そう考えると他の種が多数全滅していると予想するのが妥当だ。いま生きているものは大なり小なり魔素を克服したやつらだと思うしな。……けど」

 言おうか言うまいか、迷っている表情。

「話してみてください」と助け船を出す。

「なんかあれなんだがな」

「はい」

「人間はどうなってるんだろうな?」

「……はい?」

「『人間となってから種としての環境適応は遅くなった、だから他の生物が生き残れても星堕ちで人間は死滅するだろう』というのが今も昔も変わらない、科学者の見解だった。けど……本当に、地上に人間はいないのか?」

「というと?」

「ほぼ役に立たない力だとしても、俺たちは魔法という力を獲得している。これは進化の一つとして考えられないか? いや、機械で増幅しているとはいえ、この力が都市を守っていることを考えると間違いなく進化だ。なら単体で生き延びた人間がいないとほんとうにいえるのか? そもそも俺たちが人類最後の生き残りだと信じ込みすぎだ。星堕ち当時の情報がほとんどないし、都市の外を俺たちはあまりにも知らない。俺たちはあまりに多くの情報を抜き落としてしまっている」

 それは多くの都市の人たちに当てはまることだ。僕も無意識の影響か何か、人類は都市でしか生き残れていない、という情報を確定した情報(、、、、、、)として扱っていた。

「そもそも俺たちの都市に矛盾を多く感じるんだ。長い年月をかけたのはわかるけど……統制が完璧すぎる」

 ……卓也も同じようなことを言っていた。

 レジスタンスの真実を知る僕は、統制のシステムに、政府が並々ならぬ労力をかけていることを知っている。例えば……批判の統制をするために、その批判者は実は政府の回し者だったりする。一般的集団心理を利用した誘導法。誰かが不満の声を先頭に立ってあげているなら、自分が先頭に立つ意味はない。ついていくだけでいいのだ、といった誘導。

「もしかしたら都市は末端なんじゃないか? 実はもっと大きな人間の集合地があって都市に指令をだしているのかもしれない」

「……」

「俺が思っている矛盾はこうだ。『人間が魔法なんていう力を扱えるのはおかしい、進化が早すぎる』。もしかしたら魔素は生命に進化を促すためのものだったのかもしれない。その種の数が減るのはむしろ予定調和で――」

 二番は他にも様々な考えを展開した。もともとこういうことを考えるのが好きな性分なのかもしれない。突拍子がすぎるものも多かったが引っ掛かりを覚えるのも多くあった。

「僕の知り合いが言っていたんです。『政治体制が腐敗しないのは不自然だ』なにかあるかもしれない、と」

「おお、なるほど。それでそれで?」

「『不死者たる英雄』がいるのかもしれないと。星堕ち前の科学者たちならできたかもしれない、そしてなにより、統制が完璧すぎるのは一貫した思想が用いられ続けているからだと」

「面白いな、その人も矛盾をどうにかして説明しようとしたわけだ」

 実際、どうなのだろう、と僕は思う。感覚が麻痺しているのかもしれない。たしかに地表は非現実的だが、だからといってありえないことというのはそうそうおきないはずで。

 歩いている長い間、二番と会話しながら過ごした。無論、周囲を警戒しながらではあるが。

「死んでも満足だな」なんてことを彼は朗らかに言う。

 微妙な気分になった。



 ◇



 進行は順調だった。危惧されていた危険生物との接触もなく、半日。生物はほとんど見かけなかった。見たのは最初に見たトカゲと、ムカデのような虫。きっとこれら以外にも生物の種類は生存しているはずだが、絶対数が少ないのか、遭遇できていない。

 見つけた生物にもあまり近寄らなかった。トカゲはどうせ逃げられるとわかっているし、あのトカゲの進化のことを考えると、防護服があるとはいえ、虫の毒やらも怖い。当然、地表の虫の解毒剤などないので接触は危険だった。

 足場は悪かった。延々と続く砂漠に凹凸のある地面。なかなか体力を消耗させられた。僕らは一時間ごとに二十分の休憩をとりながら進んだ。

 ……やはり、地表はどこかおかしい。真っすぐ進んでいるはずなのに、それができていなかったりする。ワイヤーが帰り道を指してくれてはいるが、不安になる状況だ。

 そして、見えてはいけないものが、見える気がする。

 怨念めいたものを感じる。ただの錯覚だろうか? プラシーボ効果? とにかく、ここは現実的ではない。

 当然ながら僕が期待したような技術の発見もない。砂と霧が続くだけだ。

 手持ちには隊員たちが持っているサバイバルナイフがあった。レジスタンスのメンバーなら殺す覚悟がなくても、経験がなくても、手段は教わっている。

 だがそういったことにならなくてほっとしている自分がいた。覚悟がないわけではない。必要とあれば……やれる……とは思う。だがそういうことをしなくてよさそうだと安堵してしまう。

 こんなことにすら罪悪感を覚える。これではまるで彼女の救出を諦めたようではないか。

 頭ではわかっている。これは人間として抱える普遍的な感情で、制御できるものではない。

 ため息をつきたくなる。なにかしらがほしかった。だがなにごともなく、順調だった。

「待ってください」

 会話もつき、隊員たちに疲労が見え始めたころ、一番が言った。

 隊長が振り返る。

「どうした?」

「なにか……いえ、少し待ってください」

 僕らは止まった。一番は不安そうな、怯えているような、そんな表情をしている。

「どうしたんだ?」

「あの……その……」

「焦らすな。可能性だけの話でもいい。話してみてくれ」

「……」

 すう、と息を吸い込む一番。

「たぶん、ワイヤーが切れてます」

「……なに」

 今回用いているワイヤーはピンと常に張っているものではない。進むごとに背中から出てくる仕組みになっている。だからワイヤーが切れたとして、違和感はほんの少ししか感じない。地表では金属性のものはすぐに劣化し、自壊してしまうため、ワイヤーは特別製だった。耐久性は決して低くはないが、金属には劣る。

「全員、確かめろ」

 言われるまでもなく、皆が始めていた。

 軽く引っ張ってみる、が確信が持てない。本当についているか? ついていないのか?

 ここに来るまでに、少し不安になりワイヤーを引っ張ったことがある。そしてその時の感触と比べると……。

「……切れてる」

 ばかな、と思う。どうやって? 一体なにが、こんなことをできたんだ?

 予感がある。偶然ではないと。そしてこれは……。

「二番、切れてます」

「三番、繋がってません」

「……こちらもだ」

 ――押し寄せる恐怖、焦燥感。

「急げ!」

 一番が走ろうとする。それを二番が腕を掴んで止めた。

「おまえ!」

「無駄だ、どこで切れたのかもわからない。立ち止まって考えるべきだ」

 一番が無理やり振りほどく。

 もう一度走ろうとして……やめた。

 二番の表情。泣き出しそうな顔。

「……すまない」と一番が言った。

 誰もが、同じだった。皆が混乱している。恐怖に怯えている。ワイヤーは生命線だ。……死ぬかもしれない。

 やれやれ、と平静をよそった隊長が首を振る。

「魔素で死ぬかと思ったが、帰れずに死にそうだなあ」

「隊長、食料は十分すぎるほどあるのでちゃんとさまよって魔素で死ぬかもしれませんよ」

 ははは、と三番は笑った。

 皆が平静ではなかった。しかし、やるべきことをやるということだけはわかっていた。

 次第に落ち着きを取り戻していく。

 ……それでも、恐怖は残る。

 隊長が案をまとめ始めた。

「風でワイヤーの向きが変わってしまっている。が、ひとまず我々は真っすぐ進んできたはずだ。だからそこを逆に行こう。それでもやはり、距離が距離だ。目的地からはずれる可能性が高い。……我々はトランシーバーが届くぎりぎりの距離を保ちながら広がって進んでいく。ワイヤーの捕捉を続けるんだ。砂が積もってワイヤーは見にくいが……目を凝らせとしか言えんな」

 方針は固まった。確実性はない。完全な運頼みだ。おまけに勝ち目が高くない。

 僕らが出発した地点には旗が立っている。高めのものではあるが、砂と霧という最悪の組み合わせでは見つけることは難しい。

 足跡はほとんど消えていた。激しすぎる砂嵐のせいだ。頼りはワイヤーのみとなる。引っ張りすぎるとワイヤーが切れた場所からこちら側が離れるので注意をしなくてはならない。

 歩き始める。最初はあまり広がらない。ワイヤーは同じような道筋を描いているからだ。

 僕らは各々の考えを語る。

「五人全員のワイヤーが切れるなんて変だ。そもそも簡単に切れるものじゃないのに」

「人為的? なわけはないはずだよな? あまりにも得する奴がいないし、レジスタンスのメンバーぐらいしかできないとなるとますます損しかしなくなる」

「とれあえず人為的なものと仮定すると、俺たちに致命的なダメージを与えるなら出発してすぐの場所ではなく、中間あたりで切らなくてはならないな。出てすぐで切ったなら帰れてる目算が高くなるから。しかもそいつが帰還して、俺たちが戻らなかったら犯人だと思われるにきまってる。人為的、ってのはなさそうだ」

「じゃあ、なにが?」

「トカゲの進化を見る限り、ワイヤーも噛み千切る生物がいてもおかしくないんじゃないんだしょうか?」

「おかしくはない、が、五本分もか?」

「それは……」

「珍しかったから口に入れちゃったんじゃね?」

「くそが」

 苛立ちが継続している。みんな自分の中にある恐怖を自覚しているのだろう。だから、それを誤魔化すために、見ないために、怒る。雰囲気は非常に悪い。

 考えに思いを張り巡らせる。だがいくら考えても、答えは出なかった。

 ……だが。

 思えばここは、変だ。常に違和感が付きまとう。ここにある。ここにない。境界線があいまいになることが、しばしばある。存在しているのに存在していないという矛盾の塊。しかし、稀に強い存在感のようなものを感じるのだ。そこに実体はない。だが、おかしい。奇妙だ。一連の結果をすぺて偶然で片づけるのは無理があるような気がする。

「広がれ」

 トランシーバーからの隊長の一声で散開を始める。ワイヤーは追えている。今のところは順調だ。

「……なんだ?」

 人影が見える。人為的、人為的でないかの話をしていた僕らは、自然と警戒心が上がった。

 《……い。お……………い》

 トランシーバーは同じ機種のものなら音を拾う。遠目から見ても、防護服が僕らと同じことから、レジスタンスの誰かだろうと予想できる。

 《な……る?み……な、どうして……止まって……だ?》

 声が聞こえる。それはどこか、聞き覚えのある声だ。

 《おーい! おーい!》

 完全に声が拾えるようになる。まさか、と思う。

 たく……や?

 一番がつかつかと、隊長の静止も聞かずに歩いていく。手に持つのはサバイバルナイフだ。慌てて僕は走り始める。一番からは僕からが最も近い。だが、この距離では間に合わないのは明らかだった。

 卓也と思われる人影は、何も知らない。今、僕らが彷徨っていることを。そして、まともな精神状態ではないことを。

 一番が前に立つ。そして、こう言った。

「お前がやったのか?」

 どすの聞いた声で、そう言った。


 ◇


「え……?」

 卓也は呆然としていた。何が起きているのかわからない、といった感じで。

 一番の顔から血の気が引く。人は本当に怒ると顔は紅潮よりも白くなる。本格的に暴力を働く時は、血管を収縮させ、致命的な傷をうけても出血が減るようにと体が準備をするからだ。

 つまり、一番は本気で怒っている。そして、彼はナイフを持っている。

 しかし、彼はすぐには動かなかった。それは理性による制御か、ただ怒りで動けなかったのかはわからない。だがともかく、彼は動かなかった。

「待ってください!」

 叫ぶ。

 卓也が死んでしまうかもしれない。すれ違いで、何の意味もなくそうなるなど、絶対に嫌だ。

 ぴくりと一番が動く。

 だが動き出す前に僕がその腕を掴んだ。僕の身体能力はそこまで高くない。地表の探索のために鍛えた体ではあるが、それをいうならずっと前からそれに取り組んでいた一番のほうがはるかに強い。

 僕は急いで言う。

「彼は敵ではありません」

「……なぜ?」

「僕の知り合いです」

「……そうか」

 瞬間、一番の体から力が抜けた。それは理解したから力を抜いた……というだけではない。彼の表情から窺えるのは安心感と……恐怖だ。

「俺は……本気で……」

 殺そうとしたんだ。

 彼が実際に言ったわけではなかった。だが安易に想像はついた。

 困惑した顔で卓也は僕を見る。

「祐樹さん……いったいどうなってるんだ?」

「あとで話すよ、今は……」

 膝をつく一番を見る。震えていた。それが何よりも彼の言葉が真実だったと証明している。

 だがなぜだ、と思う。

 切羽詰まった状況ではあった。皆、恐怖を内に抱えていた。だがこうも判断能力が低下するものなのか? ありえないことではない。だが彼は自分を止めたのだ。中途半端なのだ。恐怖による思考の暴走ならば最後に歯止めがかかるのだろうか。

 ……ありえない可能性ではないかもしれない。

 雰囲気に呑まれているのだろうか? 地表は異常だ。常に違和感が付きまとう。それで僕の思考ですらも、まともではないかもしれない。

 やがて皆が集まってきた。

 おおよその説明を僕はした。卓也は僕の知り合いで、信用できる人物だということ。おそらく、一番は不安と恐怖感から、突然現れた卓也に殺意を向けたこと。それは衝動的なもので、彼が望んでいたわけではないだろうということ。

「大丈夫か?」と隊長が言う。

 震えながら一番は頷いた。

 隊長が周囲を見渡す。

「すこし休もう。思えば休憩なしに進みすぎた。それと……状況の整理だ。おまえ、名前は?」

「卓也……です」

「わかった。では卓也。おまえはどうやってここに来た? 何のために? 質問は急かさん。だが慎重に答えてくれ」

 緊張が走る。卓也は信用できる、と僕は訴えたがそれが信用されたわけではない。僕は彼がそんなことをする人物ではないと知っているし、彼には理由もないとわかっている。だがそれは、皆が思うことではない。

「……俺は、祐樹さん……今あなたの隣にいる彼を追ってここに来ました。来た方法は……処理係の目をくぐってきました。あまり処理係の人たちは長居したくなかったのか、そこまで難しくなかったです」

 隊長が天を仰ぐ。

「あいつらふざけやがって……! そこはわかった。たぶん本当のことを言っているな。だが動機について詳しく聞きたい。死ぬ可能性が高いんだぞ? そもそも許可を取らずに強引にくるメリットもない。さらに言えばあと三年もたてばもっと死亡率の低い状態で地表の探索もできただろうに」

「俺は…………」

 卓也はためらった。僕の顔を見ている。だが言うしかない。選択肢はそれしか存在しない。卓也は諦めたようなため息をつく。

「祐樹さんが……死のうとしていると思ったんです。祐樹さんが地表の探索に行くと知ったのは出発の前日でした。それで、こんな強引なことをしました」

 どきり、とさせられる。

 僕が、死のうとしているように見えた。羅門にも言われた言葉だ。たしかに……卓也に最後に会った時はそういう精神状態に近かったかもしれない。

 卓也はおそらく嘘を言っていない。地表に行くのを知ったのは出発の前日だというのもそうだ。地表の探索が行われるのはレジスタンスのメンバーなら知っていた。だがメンバーについては公表されていない。

 隊長が僕のほうを見る。

 死のうとしていた、など言われると僕に疑いの候補がかかる。卓也はまだワイヤーの件を知らないからすべて真実を話した。結果としてだが、卓也の言葉は僕を不利な立場にさせた。

 なにかを、言わなければならない。

「……幼馴染が犠牲者に選ばれていたんです」

 卓也が驚いた顔でこちらを見る。それを言うのか、と。しかし、これしか言い分は思いつかない。下手に嘘をつくと疑われる。そして、この非常時の懐疑は致命となりうる。

「彼女に地表の様子を伝えなくてはいけませんでした」と僕は言う。

 ……賭けになっている。このセリフでは彼女がまだ連れていかれていないという状況だと、隊長が思ってくれなければならないのだ。一応、犠牲者の公表は公には行われない。それにボスがいざこざを避けるために隊長などに伝えていないはずだ。伝えるならそもそも僕は地表の探索ができていないだろう。

 だからたぶん、大丈夫だ。

「そんなために命をかけたのか?」

「はい」

「最後まで一緒にいようと思わなかったのか?」

「そういう気持ちもありましたが、僕はやるべきだと思ったんです」

「……」

 だましきれそうだ。

 真実の中に混ぜる嘘は悟られづらい。なんせ本当の感情が一部とはいえ籠るのだ。苦すぎるコーヒーに甘すぎる砂糖をいれると絶妙になる。似たようなものだ。

 嘘は本来好きな手段ではなかった。だが今はそんなことをいってはいられない。

 二番が隊長に声をかける。

「隊長、いいですか?」

「なんだ?」

「俺は彼とずっと話してましたし、五人全員のワイヤーを切るのは難しいと思います。あまり疑わなくてもいいかと」

 隊長は頷く。納得したようだ。

「なるほど。では次の質問に移ろう。卓也、ここに来る途中ワイヤーが切れている場所を見なかったか?」

「……え」

 一拍をおいて、卓也が絶句する。彼は知らなそうだ。

「俺は今あるワイヤーのあとを辿ってきました……見てません……すみません」

「……そうか」

 全て振り出しだ。結局、なにもわからなかった。

 こわごわと卓也が聞く。

「ワイヤーが切れてるっことは……どうやって帰るんですか?」

「どうしようもない。我々は死にかけだ」

 皮肉っぽくそう言った。隊長もあまり機嫌は良くないようだ。

 他の皆も遅れて頷く。卓也の顔が青白くなっていく。

「……了解です」



 ◇



 結局、卓也も加えて六人で行動することになった。だからといって状況が好転したとはいえない。

 通常、こういったサバイバルのような状況で気になるのは食料だが、僕たちが心配するのは魔素による人体の影響だ。防護服である程度は防げるものの、その日にちはあまり長いとはいえない。

 あれから、半日たった。僕らは切れたワイヤーを眺め、呆然としていた。道しるべが、切れていた。

「……終わったな」と隊長は言う。もう片方の切れたワイヤーを探すため、周囲の捜索をすでに開始していた。だが成果はない。この激しい風のせいだ。あまり重量のない特別製のワイヤーははるか遠くに飛ばされたのだろう。どこに行ったのか見当がつかない。皆疲れ切った顔をしていた。このままでは生きては帰れない、そんな状況のせいで。

「やっぱり凶暴な生物がいたんだな」と二番が言う。

 ワイヤーにはなにかに噛み千切られたと思われる跡がついていた。それも、五本すべてのワイヤーに。

 珍しい物質だから、興味を持った何かがかみついたのだろうか? しかし、そんなことを考えたところでどうにもならない。

 一番がうめき声をあげる。

「どうしますか、隊長」

「……取れる手段は二つある」

 隊長は重々しく言った。皆が隊長の言うことに耳を傾ける。

「一つは、完全に散開してみんなばらばらのところに行くという方法だ。この手段なら誰か一人が帰れる可能性が高くなる。二つ目は……今まで通り広がって一方方向に進む。帰れる可能性は落ちるが、ある程度の方向は予想がついているからそこまで下策ともいえない。それにワイヤーを見逃す確率はさがる。ただ、その方向は完全に間違っている可能性もおおいにある、ということを考えるとわからなくなってくるが」

 隊長が皆を見渡す。

「選べ、誰もどっちを選んだかで文句は言わん」

 二番がゆっくり手を挙げる。

「隊長、ここで我々がとるぺきは一つ目の方法です。俺たちの命より、誰かが帰ることに意味がある。隊長も最初にそう言っていたはずです。……客観的に考えて、僅かだろうと誰か一人でも帰れる目算が高い手段をとるべきだと、俺は考えます」

 三番が手を挙げる。

「いいえ違います。それはあくまで僅かな可能性の上昇のためにそこまでするのは合理的ではありません。実際、適当に考えて十パーセントほどの成功確率の上昇が見込めるならそうするぺきでしょう。しかし、そうではないのなら、生き延びる人数の期待値が目に見えて高い後者の方法をとるべきです」

 まったく反対の、しかし状況をうまく分析した意見がでた。どちらを選ぶべきか、その答えは明確だ。組織のために、ここにいる人たちは地表の探索に来た。命を捨てる覚悟はできている。

 しかし……。

「おまえたち、本気か?」

 隊長と卓也はは静観し、残りの隊員たちが選択をする。二番を除いて、みな後者の選択を選んだ。

「俺たちは私情のためにきたんじゃないんだぞ……? 俺たちのために人が死んでいる。なのに、お前たちはそうするのか?」

 二番の言葉を隊長が制止する。

「二番、決まったことだ。一度決めた約束事は覆せない。こんなところで決められた約束事は法と一緒だ。一度破れば取り返しがつかない。諦めろ」

「……! わかってますよ、それぐらい……」

 誰しも、命を積極的に捨てたくはない。確かに、みんな覚悟はしていたのだろう。

 だが、選択肢としてそれが吊るされたなら……? 

 彼らは自殺願望者ではない。あくまで地表という未知のために狂った冒険家だ。可能ならば死にたくないに決まっている。

 きっと……彼女のことがなければ僕は前者の選択肢を選んでいただろう。重んじなければいけないものがある以上、二番の言う通り、私情の一切を捨てなければならない。それが僕の生き方だからだ。まあ、彼女のことがなければここにはいないだろうが。

「進もう」と隊長が宣言する」


 そして何時間もの時間がたった。ワイヤーも、出発地点も、見つからなかった。真っすぐ帰れているのならもうとっくについているはずだった。

 何度か方向を変えたり、そういうことをし始めるようになる。

 こんな道、来るときは通っただろうか、と思う。

 足場が悪い。進みずらい。でこぼこしていて、足を取られる。

 最初に来るときは終始違和感を感じていて、それどころではなかったのかもしれない。だが今思えば、ところどころにこのような歩きにくい場所があったのなら、僕たちは最初から真っすぐ進めていなかったのかもしれない。

 さらに時間は過ぎていく。トカゲを見る頻度が多くなった。蛇のような生物もなんどか確認している。

 皆、それに大した反応はしなかった。一応警戒するだけだ。

 気力などとうにない。だが生き延びなければならない。その一心で足を動かした。

 きっとみんな気付いている。どうせ今していることは無意味だ。どうせこのまま死ぬ。もう未来も希望もない。

 そして僕らが地上に上がって二日半、体調の不調を訴えるものが出始めた。

「この防護服は三日持つ、との話だったが」

 ぽつりと、隊長が呟く。

 もともと不確定要素が多い探索だった。起きても仕方がないハプニングともいえる。一番と三番は見るからに顔色が悪い。

「歩け、でないとおいていく」と厳しく隊長は言う。

 誰もそれを咎めなかった。そうするほか、ないのだから。

 不調の者も体を引きずって、追いかける。最初に脱落したのは三番だった。

「……おいていかないでください」

 誰も返事をしない。卓也が僕を見た。なんとかしてやりたいと、きっと思っている。しかしその後、彼は首を振る。諦めなければならないと自分で理解したのだろう。卓也は現実が見えていないわけではない。

 三番が一番を見る。一番は顔をそらした。

「進もう」と隊長が言う。

 五人の集団が砂漠を渡っていく――。



 ◇



 また一人、脱落者が現れた。一番だ。彼はなにも言わなかった。まるで三番をおいていったのを悔いているかのように。

「行ってください」と一番は言う。彼は一番がいたであろうところを見つめていた。

「早くしてくださいよ。泣き叫びたくなりますから」

「……すまない」

 隊長がなにかをこらえるかのようにそう言った。

 誰もうしろを振り返らなかった。



 ◇


 次に膝をついたのは隊長だった。

 肩で担ごうとする二番を隊長自身が止める。

「ばかが!」

 血を吐くような怒鳴り声。それでも二番はおろそうとしなかった。

 強引に隊長が二番から離れる。どさり、と人間が砂の上に倒れる。

「……これ以上近づいてみろ」

 隊長がナイフを取り出す。それを二番に向けた。

「殺してやる」

 はったりだとわかっていた。これ以上自分にかまうなと、そのためにこんなことをしていると、みんなわかっていた。きっと二番が近づいても隊長はこけおどしにナイフを振るだけだろう。それでも……。

「……わかりました」

 二番が引き下がる。何かをこらえるような表情。

 隊長がここまでして遠ざけた。へたな悪役になってまで、そんなばかみたいなことまでして。

 その意志を踏みにじるわけにはいかなかった。決してそれは、許されないことだった。

「それでいい」

 満足気にそう言う声が聞こえる。

 僕らはまた前に進む。

 人が死んでいる。

 なにもできずに、死んでいく。

「斉藤さんは俺に俺が泣いているときグミをくれたんだ、大丈夫か?って」

 二番は誰にしゃべりかけているわけでもない。卓也のほうも、僕のほうも、向いていない。

「嬉しかったんだ。些細なことだけども。でもきっと……隊長は俺のことを覚えていないんだろうな……」

 彼の言葉は誰かのためのものではなかった。何の意味もない、誰かが救われるわけではない、そういう類のものだった。

 彼がしているのは独白だ。



 ◇



「仮説を立ててみた」

 二番が突然そう言った。卓也と僕は顔を見合わせる。

「どうしたんです?」

「なにかわかったんですか?」

「いや」と二番は言った。

 ただこうも言った。「死ぬ順番がわかった」と。

「魔力が低い奴から死んでるんだ。ただの予想だし、裏付けはない。俺の魔力が平均よりだいぶ高いからそう思っただけで、ほかのやつらの魔力の程度は知らないけど」

 ずっと考えていたんだ。どうして俺はまだ生きてるのかって。

「考えていたんだ。人が魔法を使えて、そしてなぜその力で都市を守れるのかって。きっと魔力が高くなって、魔素への親和度が高くなったとき、人は地上に戻れるんだ。完全な別種として生まれ変わってようやく、人類は元いた場所に帰る。……すまない、馬鹿なこと言った。忘れてくれ」

 二番は口をつぐむ。

「祐樹さん……」

 卓也が不安げな声をあげる。二番の予想が事実なら、卓也よりも僕が先に死ぬ。

「どうしようもないよ」

「でも……」

「僕らはやれることをやるだけだ」

「……」

 実際、その程度しかできないし、それ以外にやることもない。

 ごほ、とせき込む音がする。その主は二番で、彼は口から血を流していた。

「……ここで終わりみたいだな」

 ははは、と彼は笑う。それが虚空へ消えていく。

「いけよ。誰かはたどり着いてくれ」

「……必ず」

 誰かを見捨てること。それに慣れてしまったのかもしれない。悲しみは感じなかった。できもしないことを約束し、それでも進まなくてはならないという状況が、今の現実だった。

 前に進もうと一歩、踏み出す。少し迷って振り返る。

「あなたの魔力の数値を教えてください」

 死ぬ順番。

「五百二だ」

 その数値は、僕のものよりも、卓也のものよりも低かった。

 ……どうやら二番の予想は的中してそうだ。

 僕はきっと、卓也よりも早く死ぬ。僕は彼に何を残せるだろうか、何をすればいいのだろうか。

「祐樹さん……」と泣きそうな声で卓也は言う。

 僕らは前に進むしかない。




 ◇




 二番の予想は外れた。先に体調に影響が出たのは卓也のほうだった。

 彼は青い顔をして歩み続ける。できれば休憩しよう、と言ってやりたかった。だかそれが彼の命を伸ばせるものではない以上、なにも言えなかった。

 恐怖感が押し寄せる。僕にはなんの変化もなかった。だが問題はそこじゃない。

 ついに、彼女を助けるために人が死にそうなのだ。それは僕にとって、大切な人で、長い間一緒にいた人物で。

 お姉さんを助けるんだろう? と言おうとするのを飲み込む。辛そうな彼をさらに追い詰めるようなことを言いたくない。それにきっと、僕が言わなくても卓也はわかっている。

 ……どうすればいい?

 いい加減にしてくれ、と思う。なんど自分の無力感を感じればいいのだろう。もっと僕の能力が高かったら、完璧だったら。そしたら誰も死ななかったかもしれないのに。

 そして気付く。もはや、僕は卓也の死を確定させてしまっているということ。諦めてしまっていると、わかってしまう。

「俺は大丈夫だよ祐樹さん」

 卓也は努めて明るく言った。

 僕が彼を励まさなきゃいけないのに、年長者なのに、彼は彼女の弟なのに。

「喋らなくていい、今は前に進もう」

 自分が憎くなる。また、僕はなにもできない。

 遠い、遠くへと、歩く。気が滅入る。果てが見えない。

 見えるのは、どこまでも似た風景だ。いつまでも同じところにいるのではないかと、錯覚しそうになる。

 ごほごほ、と咳の音が聞こえる。卓也の体調が悪くなっている。

 怖い、と思った。卓也が死ぬ。僕は責任を持てない。彼女もその両親も、きっと僕を責めない。だが僕は自分を許せない。絶対に、無理だ。

 ずっと考えている。なにか解決策がないかどうかを。だがそんなものはなかった。そんなことはわかっていた。だがそれでも、考え続ける。無意味で苦しい、救いようがない思考。それでもやめるわけにはいかなかった。

 ――人が一人死んでいったい何人助けられれば納得できる。

 彼女を救うために、命を犠牲にしている。それは確実性のない賭けのチップとしての使用だ。勝率は恐ろしく低い。それでも僕はかけた。それは僕が必要だと思ったからだ。卓也の意思を尊重していないわけではない。だがやはり、彼に自身の命をチップにして欲しくなかった。

 思い出がある。親愛の情がある。

 ……しかし、彼は死ぬ。それが、現実。

 ――僕だけが、賭けをするべきだと思っていた。

 どさり、と音がする。

「卓也!」

 駆け寄る。理解したくない現実があった。だが今までの経験、思想が、嫌でも答えを頭に刻む。

 うつろな目をしていた。卓也はとっくに限界を超えていた。

「……少し、視界がぼやけるかな」と卓也が呟く。

「たくや」

「うん、先に行ってくれ」

 有無を言わせない、言い方。

 彼を持ち上げる。脱力した人の体は、ひどく重い。

「おろしてくれ」

「嫌だ」

「死ぬつもりなの? まだ姉さんを救えてないのに?」

「……」

 全て、わかっている。このまま卓也を連れ帰れたところて十中八九、謎の病とやらで倒れて死ぬだろう。この行動は理性的じゃない。だが、卓也は……。

「おろしてくれ!」

「……無理だよ」

 卓也は、本当に大切な人なんだ。

 血はつながっていなくても、本当の兄弟みたい過ごしていた。なんどか『姉さんとどうせ結婚するんだから今のうちに祐樹兄さんって呼んどこうか」などと言い、慕ってきた。彼の尊敬の念を感じていた。彼は、法の番人になるということを諦めた。そして、法の番人になろうとする僕を、すごいや、とほめた。

 理屈なんかじゃない、感情的な行動だ。もはや卓也の死は確定しているのだから、僕が生き延びる可能性を高めるべきだ。少しでも無駄なことはするぺきじゃない。

 卓也は暴れる気力もないようだった。今まで死んでいった者と違う、急激な衰弱。

「死にたくない」という声が聞こえる。

「死なないさ」と僕は答えた。

 誰も信じていない言葉だった。

 空を仰ぐ。驚いたことに、霧が晴れていた。砂嵐も止んでいた。

 だが……出発地点は見えない。

 右足を前へ、左足を前へ。一歩一歩、進んでいく。

 卓也をおろして休憩を挟む。彼は口から血を流していた。

 もう一度背負う。卓也がせき込む。

「……もう、無理だ」

「違う!」

 やけくそだった。現実を見たくない、子供みたいな言い方。

「俺の最期の言葉だ、聞いてくれ」

「僕は……」

 嫌だ、と言おうとした。だが、このまま何も言わさずに彼を死なすことは許されなかった。僕の感情なんかより、卓也の思いの方が重要だった。

「俺は……ここで死ぬ」

 なにも言えない。気休めの否定すらも。

「俺が言いたいことはわかってるよな。――姉さんを、救ってくれ」

 そうだ、わかっている。僕らの共通認識、共通目標。ずっとそのために行動してきた。すべてをかけた。だが、なにもできなかった。きっと、僕も都市には帰れない。ここで僕は死ぬ。帰れたとしても救えない。手段が、存在していない。

「もちろんだ。命をかけて、彼女を救う」

 それでも言わなければいけないことは一つだけだった。必ず救って見せる。きっと卓也も無理だと、気付いている。気付いていても、願わずにはいられないのだ。姉のことを大切に思っているから、家族だから。

「最初は俺、泣き虫だったんだよなあ」と卓也が言う。

 それでよく姉さんが慰めてくれたんだよ。よしよしって。男なのにみっともなかったなあ。

「最初は姉さんといる祐樹さんが嫌いだったんだ、最初に俺と会った時、覚えてる?」

「石を投げられたね。その時に『姉さんから離れろ!』って君は言ってた」

「ドラマの決め台詞みたいだな」

「君は泣いてたけどね」

「ははは、まだ泣き虫だったしね。すっごい姉さんが祐樹さんに懐いてて……めちゃめちゃ嫉妬した」

 マジ泣きだったな、と彼は笑う。

「でも、姉さんは幸せそうだったんだ。それは俺に向けるものとは少し違ってて……悔しかったけど、祐樹さんもいいひとだったからさ。……どうして迷子の俺をみつけれたんだっけ?」

「泣き声が聞こえたんだ」

「ああ、まだ泣き虫のころか」

「うん、元気な奴だと思ったよ」

「はー? 俺を見つけた時、祐樹さんも泣いてただろう? 覚えてるぞ」

「ははは」

 僕も覚えている。あの頃は必至で、不安で、たまらなかった。その頃の卓也はほとんど他人だったが、見知った顔が消えてしまうのではないかと不安だった。彼を見つけたとき、本当に嬉しかった。年長者として彼を導かなくては、なんてことを思ったっけ? 少しだけカッコつけて、泣いている彼に『ここまでの道は完璧に覚えている。記憶力だけはいいから任せろ』なんてことを言った。まあ、泣きながら、なんだけど。

「……でも、その時に思ったんだ。なんでこの人は泣いてるんだろうって。勘違いかもしれないけど、この人は人の気持ちを考えるから泣いてるのかなって、そう思ったんだ」

「……」

「だから姉さんを任せてもいいかなって思ったんだ」

「……」

「俺は見てたよ。卓也さんが人のためになにかしようとしてるところをいっぱい見てた」

 はあ、と卓也はため息をつく。

 不安そうな顔。僕は彼の手を握る。

「なあ、祐樹さん。昔、姉さんにひどいことを言ったんだ。泣き虫だった自分が嫌でたまらなくて、泣いてた俺を慰めてくれた姉さんに『触るな!』って言ったんだ。……姉さんは、傷ついてた」

「本心からでた言葉じゃないって、彼女もわかっていたはずだよ」

「でも、姉さんはその時傷ついたんだ。まだ謝れてない。泣き虫だった自分が嫌で、そのことには触れなかったんだ。……俺は、あまりいい子じゃなかったんだ。食器を片づけなかった。それを当然のように姉さんが片づけてた。姉さんは、お姉ちゃんだからって理由でなんどか我慢をしてたのを知ってる。知ってて俺は甘えたんだ。当然だとすら思っていた。『お姉ちゃんだから』って」

「……」

「後悔してるんだ。なんでもっとありがとうって言わなかったんだって。なんでもっと素直になれなかったんだって。ほんの少しでよかったのに、俺はできなかった」

「……それは」

「ごめんさいは言いたくないんだ。ただありがとうって言いたい。姉さんが小さいころに慰めてくれたのを覚えてるって。些細な優しさに毎回感謝してたって。俺はその時もなにもいわなかったんだ。でもずっと姉さんのことか大好きだったんだ」

「……彼女も、わかっているよ」

 卓也は泣いていた。

「言葉にしたかったんだ。プレゼントでもよかったかもしれない。俺は姉さんに何かしたかったんだ。何かを――」

 目から溢れる涙。愛情が伝わってくる。それゆえの後悔も。なにもかも。

「――卓也」

 静かに僕を見上げる、顔。

「心配しないで」

 ――ばかなことをしようとしている。

「――僕が全部伝えるから」

 できないことを、約束する。

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

 なぜ、彼は期待しているのだろう。僕の何を見て、本当にできると信じているのだろう。

 卓也は僕の言葉を本気で信じていた。

 ははは、と彼は笑う。

「祐樹さんは昔からなんでもできたからなあ。きっとうまくいく」

「まかせろ」

「うん、信じてる」

 卓也が目を閉じる。それは安らかな表情で。

「……卓也?」

「大丈夫、まだ死んでない」

「そっか」

 もうずっと休憩している。そろそろ、僕は先に進むべきだ。だが、そういう気分ではない。気分では、ないのだ。

 卓也はゆっくり衰弱していった。思い出話をした。なにもかもが懐かしかった。

 ぽつりぽつりと会話は途切れた。彼の限界が近づいているのを感じていた。

「祐樹さん」と信じられないぐらい力強い声で僕を呼ぶ。

「死なないでくれよ? 祐樹さんは姉さんと結婚して、両方とも幸せにするんだから」

「わかってるよ」

「姉さんだけじゃ、だめだからな。約束だ」

「うん、約束だ」

 穏やかな声。

「なあ、もう目がが見えないんだ。耳も聞こえない。まともな言葉を話せてるかな?」

 感覚の欠乏が始まっている。だから、僕はいまだに残ってる感覚で彼に訴えかける。できているぞ、と。わかっているぞ、大丈夫だぞ。

 ――僕は彼の手を握りしめる。、

「こんな話を読んだことがあるんだ。人の限りなく純粋な願いは、祈りは、絶対に届くんだって。この世の中にエネルギーが溢れてるなら、人の意思は、その意思をもったエネルギーは、なにかを変えるんだって」

 信じたい気分なんだ、と彼は言う。

「だから信じるよ。きっとなにもかも叶うって」

 きっとなによりも純粋なこの思いは。人のことを願うこの祈りなら。

「――祈りは届くと信じてる」



 ◇



 卓也の体から力が抜けたのがわかった。

 泣き出したかった。

 もうだめだと叫びたかった。

 だが許されなかった。

 膝をつくことはできない。

 進むしかない。

 約束したから。約束したから。




 ◇



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