ナギル1
人の進化の行きつく先はどこだろう?
例えば核戦争が起きて世界が滅びたら。
例えば発展しすぎた技術によって人類が自滅したら。
そして例えば――まったく新しい概念の何かによって世界が征服されるとしたら。
「もうすぐ世界は滅びちゃうらしいよ?」と彼女は茶々目っ気たっぷりに言った。
「そんなの陰謀論だろ」と俺は言う。
十七という年頃は時に根拠のない憶測やフェイクニュースに踊らされる。興味を持つ。それにしても、世界が滅びるなんてことを鵜呑みにするほど愚かな年齢じゃない。
彼女は俺の手を引いて、公園のさびれたベンチに座らせる。夕暮れの時の滲んだ緋色は、自分が今いる世界を夢の世界だと錯覚させるかのような雰囲気だった。今いる世界は幻想なんだって。
彼女は手のひらに一つの火球を浮かばせた。魔法。近年、超能力だか魔法使いだかよくわからない超常能力を発現させる人々が後を絶たない。新種のウイルスだとかアメリカがどうだとかの噂が巷では盛んだが、一部の者は宗教みたいに世界終末説を信じ切っている。ありえない現象が起きているせいで、現実離れした話題について頭を悩ませる人々が多くなったように感じる。
「ここ数か月で、私も君も、どんどん力が強くなった。……異常なくらいに。魔法を使える人たちはみんなそう。なんでみんなが突然成長期になったかって言われたら……まあ、魔法が元からそういう性質のものなのかもしれないけど、別の要因があると思わない?」
「それがネットで噂になってる、魔力を孕んだ巨大な隕石が原因だって?」
「そうそう。それが地球にぶつかって、人類全員が滅びてしまうのです」
どかーん、と彼女は言いながら俺に拳をゆっくりと放つ。俺はそれを払い落とした。
彼女の表情がむっとした八の字眉になり、すぼめた口先がより顔を小さくする。
「ちょっと! 受け止めてよ、私の隕石!」
「……別に俺は、それで人類が滅びるなんて思えないけどな。隕石の接近が人類の魔力を強くしてるなら、地球に着くころにはいいことが起きるんじゃないか?」
「ふーん。どうだろうね」
「そういうもんだよ」
「そういえば……妹さん……アイリちゃん、どうなった?」
「だいぶ、よくなったよ。もう部屋から出るようになったし、魔法に夢中だ。一歩ずつ前に進んでる。魔法なんて言う変なもののが地球に来たときは驚いたけど、結構感謝してるんだ」
妹はしばらく部屋から出てこれなくなったことがあった。勉強に追いつけないとか周りとか馴染めないとか、いろんな理由があったのだろう。一つ一つを聞く分には、そこまで致命的な問題にはなってないように感じた。けれどひとつひとつが雁字搦めにあって、妹を動けなくしてしまったのだろう。
でもそれはもうほとんど過去の話だ。アイリは一歩ずつ成長していってる。この進化し続ける魔法みたいに。
「そっか。よかった」
彼女が安心したように俺の肩に頭を乗せた。彼女のさらさらとした髪が首元をくすぐる。
「俺思うんだ。魔法って人を進化させてるのかもなって」
「私たちがこれ以上進化して、どうなるの? 私たちは十分裕福だよ。これ以上って言ったら、食糧エネルギー問題が解決して、人類皆平等! とか?」
「わかんねえよ。誰も想像できないすごいことが起きるかもしれないだろ?」
「××くんってロマンチストだよねー」
そうだろうか? どうだろうか?
人類の進化の果てなんて、きっと誰も真面目に考えていないだろう。考えたとして、核戦争で人類滅亡か、AIの反乱やらの技術の発展による自滅か、くらいまでを妄想して終わりだ。
でも……今は魔法という悩みの種が増えた。魔法は信じられないくらい奇跡の力だ。まず、この力によって将来的にはエネルギー問題はほぼ解決するとみていいだろう。それにこの力の本質は……なんにでも応用が利くということだ。この力が煮詰まれば、核なんかよりはるかに簡単に世界が滅亡する原因になるはずだと言われている。
「俺は魔法が人を神様にすると思うな。きっと皆の理想が綺麗に叶って、皆が幸せになれるんだと思う」
「……そんなの無理じゃない?」
「わかんないだろ、魔法っていうくらいだからできるかもしれないじゃん」
さすがに本当にすべてがハッピーエンドになるなんて、信じちゃいないのだけど。
「ま、私はどうでもいいよ! 人間がテレパシーで会話できるようになったり、食べなくても生きていけるようになったり、空を飛べるようになったりするとしてもさ! 私は××くんと一緒にいられればそれでいいよ。大層な奇跡なんていらないや」
彼女はかっこよくそう宣言したあと、恥ずかしがって頭を抱えて丸くなった。
いったいなにがしたいんだよ。
多少の自分の体温の上昇を感じながらも、俺は彼女の言葉拾ってやる。
「もしも――世界が終わるとしても。何度生まれ変わるとしても、俺は知由の傍にいるよ」
「……ほんと?」
「……うん、ほんと」
――ふと彼女の横顔を見る。
少しだけ見惚れた。恥ずかしそうに俯く彼女の表情。漂う甘い香り。安心感と、自分の心臓の鼓動。
きっと――なんてことを思う。
この子とは切っても切れない縁があるのだろうと思う。幼いころ、引っ越しで離ればなれになった。高校生になって再会した。たまたま同じクラスだった。昔話に花を咲かせた。勇気を出して連絡先を聞いて、デートをして付き合った。
月並みな交際かもしれない。大人が見たら一過性の恋に溺れる俺たちの様を笑うかもしれない。ただの気の迷いじゃないって証明したくて、俺は彼女の手の甲に自身の手を添えた。大切な彼女を捕まえて置きたくて、離ればなれになりたくなくて。
誰にも言うつもりのない、俺なりの決意表明だった。
でもこれ以上は進めない。好きだよ、ということすらもできやしない。たかが数フレーズの音ごときが、俺にとってはあまりにも重たい。
◇
人類は滅亡した。天に現れた、緑に晄々と輝く星一つが、世界のすべてを破壊した。
特異点的な魔力を持つ少年が、魔力を孕んだ隕石を呼び起こしたためだった。
『新しい人類』と呼ばれる一部の魔法使い達だけが生き延び、地下にシェルターを作り、汚染された地上から逃れ、生き延びた。
地上の汚染が収まると、人類は今再びと地上に進出し、中世に近い生活が始まった。国々が栄え、宗教が世界を包み込み、人類史は旧人類史と似たような歴史をなぞる様にして進んだ。
ただ旧人類史と違った点がいくつかある。
まずは『魔法』があったこと。人間はすべて前世を持ち、前世の数だけ魔力が強い人間として生まれる転生者であったこと。単身で世界征服を目論むような人間が複数出現したこと。特異点的な力を持つ個人が引き起こす災害を引き起こすこと。それを収める宗教がより強い権威を得るに至った事。
アースティア教団の教祖、『人生二週目の聖女』シルフィーユという人物がいる。彼女は一度しか転生したことのない身で、組織を使い、世界を恒久的に平和に収めた。
世界の危機が起こるたびに、永い眠りから目を覚まし、組織を率いて戦った。
――しかし、世界は力の増大による限界を迎えていた。
強くなり続ける人間たち。病による人類の総人口の減少。政治と宗教の腐敗。
人類は新しい形の進化か、もしくは退化をしなければ、今一度滅亡の危機に陥る。それだけは確実だった。
『人生二週目の聖女』シルフィーユは長いこと起きてはいられない体になってきていた。魔法で伸ばした寿命も限界を迎えていた。
彼女は昨今、自分の名前を頼りに訪ねてきた人物がいないか、自らの部下に聞くことが多くなった。彼女はずっと誰かを待ち続けていた。
◇
人類が滅びて三千年の月日が経った。
◇
アースティア教団の地下牢で、囚われていた妹を救い出した。
牢獄の壁は石造りで冷たく、妹を繋いでいた鎖は血で汚れ、とても人が過ごしていい空間ではない。妹の光の束を集めたような金髪は埃で汚れ、輝きは鈍い。天真爛漫と輝いていた碧眼は、路傍の石ころのようにじっと動きがない。
「アイリ」と俺は妹の名を呼ぶ。
――僅かにその瞳に光が射す。
「お兄……ちゃん……?」
力なく伸びる細腕が、俺の服の裾を力なく掴んだ。
「お兄……ちゃん、お兄ちゃん……!」
どこか上ずったような声音は、今見ている光景を夢だと信じたくはないような、これが現実だと思いたいのに「どうせ違う」と決めつけているような、切実さと期待を抑えきれないような、そんな印象を俺に与えた。
「大丈夫だよ。もう、大丈夫だから」
「お兄ちゃん……もうどこにも行かないよね」
「当たり前だろ。俺たち、三千年前に兄妹だったらしいじゃないか。もう離れることなんてないよ」
俺のマントは戦いの痕でボロボロで、破れかけた手袋も血と灰の痕跡で衛生的とは言えない。それでも俺は察していた。妹が求めるのはここが現実だという力強い安心感で、俺の後ろめたさや傷つけた人たちのことはおいておいて、俺は妹を抱きしめなくてはならない。
弱々しく俯く妹を俺は優しく抱きしめる。大丈夫大丈夫と繰り返す。そうすることで、妹は落ち着きを取り戻していった。まだ14という年齢の妹をこんなんになるまで痛めつけた教団が許せない。
「お兄ちゃん、靴紐ほどけてるよ」
「あ、ほんとだ」
「髪もぼさぼさ。動かないで」
なにを思ったのか、妹は俺の身だしなみを整え始める。なんだかくすぐったくなって、俺は身を捩った。
「ちょ! くすぐったいって!」
「ブラッシングされるわんちゃんみたいなこと言わないの」
「犬は喋りません」
「うう、ううう……」
「……! わん! わん!」
何やってんだおれは。
しばらくそのままにさせておくと、満足したのか、妹はぱあっ、と花の咲くような笑顔を浮かべた。
「できた!」
「……なんでこんな時にこんなことを?」
「だって、かっこいいお兄ちゃんでいてほしいから」
妹の瞳に映る自分の姿を見る。困ったような表情。灰色の髪は煤を被っており、灰色の瞳はどこか優しげだ。疲れ切ってんだなこいつ、と自分の姿をどこか他人事のように感じながら、俺は妹に笑いかける。
「帰ろう」
「……うん」
妹の手を取って、出口の扉へと向かう。しかし、その扉は何者かによって開け放たれた。
扉を蹴破る様にして入ってきたのは三人の祭服を着た、物騒な気配を漂わせている男たちだ。
リーダーと思わしき男が静かに口を開く。残りの二人もそれに続く。
「「輪廻破りて我ら在り」」
リーダーと思わしき男がそのまま俺に語り掛ける。
「『氷剣ナギル』よ。その羊を我らに渡せ。輪廻支える天秤のために、その羊は犠牲とならねばならぬ。世界のために羊は犠牲とならなくてはならない。世界のために羊は犠牲とならなくてはならない。世界のために羊は犠牲とならなくてはならない」
繰り言めいた狂言は、身を押し潰すような圧迫感がある。
彼らは教団の中でも最高峰と呼ばれる戦力『暁の執行者』達だ。この世界の人間は死ねば死ぬほど、生き返れば生き返るほど魔力が強くなって転生するという法則がある。転生しても記憶や人格は別人だし、生まれたばかりでは前の前世ほどの魔力はない。ただ、人を殺せば殺すほど、前世への記憶が蘇り、また前世よりも増大した総魔力量へと近づいていく。
『暁の執行者』は転生回数と殺人数がトップの、教会の最大戦力だ。殺人者特有の、歪んだ精神の持ち主達。
「断る。狂信者どもめ」
「『氷剣ナギル』よ。お前の体はもう限界だろう? 大人しく天秤を支える土になれ。お前の存在も行動も、なにもなにもなにもかも! ……摂理に反している。大人しく死ね」
三人の男たちがその手に武器を顕現させる。魔法武器。剣、大鎌、槍を手にもって、俺と相対した。
俺は彼らの『数値』を魔法によって分析する。転生した回数と殺した回数を合わせた数値だ。左から、377、1722、978。やはりというか、今大鎌を持っているリーダーと思われる男の数値が一番高い。魔法人類が続いて3000年ということを考えると、1000という数値を超えている者は死んだ回数が異常だ。
俺は『破滅剣』をその手に顕現させ、その柄に手をかける。
「退けッ! 『暁の執行者』達よ! 何の罪もない子供を手にかけるなど間違っている! 人の心が残っているのならば、懺悔と共に武器を捨て、清浄に生きろ!」
「人の心だと?」
『暁の執行者』達の動きがぴたりと止まる。じわり、と男たちの口元が歪み始めた。笑い声。ゲラゲラゲラゲラゲラゲラ。
不協和音の大コーラスが、暗い牢獄に響き締める。その笑い声は小さく甲高い音になっていき、鼓膜を引き裂くような音が、頭を締め付けるような感覚に襲わせる。
リーダー格と思われる男が言った。
「この非殺人者ごときが。貴様になにがわかる。その羊が身を捧ぐば世界は救われる。罪がない? だからどうしたァ? 全体の幸福のために少数が犠牲になる。当然の摂理であろう?」
「なんの確信もないくせに、よくもぬけぬけと! お前たちはただの人殺しだ!」
「若造が口だけはよく回る。そんな綺麗ごとでは、世界を救えない。想いやっていない。心に響かぬ。感心できない。発情も興奮もない」
「それでも! 別の道を探すべきだ!」
「なんだと? もう一度言ってみろ」
「……別の道も探すべきだと言ったんだ」
「ああ……それだ。その綺麗言だよ。はい、勃起不可」
「……意味が分からない」
「わからない? わかりやすく教えてやろう。ちんこに興奮を感じない。そう言っているのだ」
「……なんだって?」
彼はイライラしたように首を振る。
「だから……たたぬのだよ」
「……なに?」
聞き取れなくて、俺は聞き返す。返ってきたのは、今の小声が何だったのかというほどの怒鳴り声だった。
「たたぬのだよ! 我のちんこが! たたぬと言っておるのだああああああああああああ!」
剣、槍を持った二人が、怒鳴り声に続く。
「なぜ……なぜわからぬのだ! 世界のために仕方なく我らは剣を取るのだ!」
「勃起できねえんだよ! しねえええええええええ!」
あまりの迫力に思わず後ずさりそうになりながらも、何とか堪える。怯える妹を庇うように立ち、剣の柄を握る手に力を籠め、魔法を繰り出す準備をした。
「退かぬというのならば傷を負うだけだ。後悔するなよ!」
――切り裂く冷気。
剣を三度振るう。破滅剣より放たれる冷気が、三人の首元を通り過た。その冷気は時間差で凍り付き、俺の手元から三人の首元まで、凍った一筋の刃が現れる。つーっと三人の首元から一筋の血が流れる。いつでも殺せるという脅しを含めた氷の斬撃。全く反応できなかった三人は狼狽えた。
畳みかける様に俺は言う。
「退けッ! 死にたくなければ!」
リーダー格と思われる男が大鎌を振りかざして喚く。
「こけおどしだ! 奴の魔力は限界に近い! 大規模な魔法を使わねのがその証拠よ! 殺せえええええ!」
「輪廻破りて、我ら在り!」「輪廻破りて、我ら在り!」
剣、槍を持った男二人が躍りかかる。俺は一息で二人の両腕を斬り裂き、魔力を貯めるリーダー格と思われる男に奥儀の一つを放った。
――限界と停滞の狭間から、繰り出される万物を両断せし切っ先。
「臨界剣―斬―」
リーダー格と思われる男は防御に自信があったのだろう。自身の魔力防壁が紙のように引き裂かれるの驚愕した目で見つつ、両足が切断された。
「馬鹿な……貴様はもう、限界のはず」
「なんの秤で測ったのやら。俺の死んだ回数はお前たちにも読み取れていないだろうに」
「この……化け物が」
俺の『数値』はバグっていて正確に値は誰にも読み取れない。ただ俺自身は、その数値が五桁……万以上いうことだけがわかっている。
「輪廻破りて我ら在り」と静かに彼は呟く。
「この偽善者が我らは何度死のうが、何度忘れようが貴様を追い続ける! 呪ってやる! 今後すべての人生を! くたばれきえろ潰えろ殺されろ」
「……そうか。だがそれは無理だ」
「なに?」
「お前たちはもう氷の中からはでられないよ」
俺は溶けない氷の魔法を唱える。人を殺す魔法ではない。だがこの氷を溶かせるものは世界に存在しない。俺がこの世を去らない限り、この三人は氷の中で眠り続ける。
彼は罵詈雑言を喚きたてながら、四肢が凍り付いていった。両腕を斬られた二人も同じく、その傷口も凍り付き、跪いたまま動かぬ氷の彫像になった。
「……お兄ちゃん」
寒さに歯をカチカチと鳴らしながら、妹が俺に聞く。
「……死んじゃったの?」
「死んでないよ。俺が死ねば、氷は解ける。……近くに手当をしてくれる人がいれば生き延びるよ」
「……死んじゃえばよかったのに」
恨みの籠った陰鬱な一言が、妹の口から飛び出す。一か月。その長すぎた時間が、彼女の天真爛漫とした性格を歪めたんだろうか?
悲しい気持ちになりつつも、俺は妹に正しいことを言ってはやれない。「そんなこというな」だなんて言うのは……彼女の痛みを受けてないくせに、無責任だ。
「アイリ、体に異常はない? なにかされたりはしなかった?」
「うん、大丈夫。ちょっと拷問されたくらいだよ。食事と謎のお経がうるさかったけど……他に捕らえられていた人よりも遥かにまし」
妹が横目に監獄を見やる。長い廊下だった。ざっと見た感じ、牢獄の部屋は100はある。でもなんの生気も感じない。
妹が怒りに身を震わせながら俺に言う。
「私は……本当に遥かにましだった。殺しちゃいけないからって。暴力もほんの一日だけで終わった。でも周りから苦しそうな声が聞こえるのをずっと聞いてた。……ずっと。ねえお兄ちゃん」
「……なんだい?」
「ここで囚われてた人たち、苦しいのも悲しいのも全部忘れて、来世は幸せに生きられたらいいね」
「……ああ、そうだな」
妹は……根本的な優しさは、なにも変わっていないのかもしれない。闇の中にも光が見えるような光景が、辛い時にも誰かを思いやれるその心情が、俺には尊いもののように映った。
彼女の手を引いて、今度こそ俺は扉を開ける。地上に出ると、眩しい陽光が目元を照らした。
監獄施設の外では百数名にもなる信者達が跪いて祈っていた。俺たちの姿を見ると驚きと嘆きの波が広がり、感染するように信者達に移ろっていった。畏れと恐怖。精鋭が負けた嘆き。殺される殺されると呟く奴らもいる。……うるさい。
「……黙れ」
あまりにも耳障りで、俺は思わず呟く。すると、一瞬で辺りは静まり返った。
こうして静寂が訪れると、自分が本当に怪物みたいで、俺の心のどこかが揺らぐ。
「いこう、お兄ちゃん」
今度は妹がそう言った。
……ありがとう。
俺たちはこうして脱出した。ここまで来るのに俺はほとんどの魔力を消耗していた。回復の目途は……ない。俺はそういう体なのだ。
単身。味方はいない。それでもここまで来れたのは奇跡だった。ここからどうすればいいのだろう? 妹を連れて、俺たちは教団から逃げ切れるのだろうか?
妹を背負って歩く。しばらくすると、彼女は疲れ果てたように眠ってしまった。彼女の寝息を聞きながら、俺はできる限り遠くへと行く。
歩いて歩いて歩いて、森を超え、山を越え、もう大丈夫だと確信できるころには夜になっていた。妹は眠ったままだ。
俺は野営の準備を終えると、ため息をついて立ちすくんだ。あまりにも疲れた。体中が痛い。
手袋を脱ぐ。左手は壊死を起こしており、無理して魔法を発動させたせいでぼろぼろと崩れかけている。人差し指でなぞると、役目を終えたように手首から上が崩れ落ち、粉々に散った。俺は自嘲的に笑う。
「なくなれば作ればいいさ」
手首から先を氷で作成する。氷でできた左手は、固まったまま動かない。
「なくしたものより、得たものの方が大きい」
本当に? 俺は体の一部を失ったのに?
全身に痛みが走る。体が崩れ去るような感覚に襲われ、恐慌状態に陥った。いやだ、いやだ。これ以上なにが無くなるっていうんだよ。
全身を抱きすくみ、震えながら俺は待った。なにも起こりませんようにってひたすらに祈った。痛みと崩壊の予感が引いていくと、思わず安堵の念が胸を衝く。
灰色の髪の毛が辺りに散らばっていた。取り返しのつかない状態になってしまったような思いになって、打ちひしがれるように俺は膝をついた。
「ぐ、うっ、ううううう」
言い聞かせる。妹よりも大事なものはない。自分がいくら失われてもいい。妹さえ守れれば、それでいい。
妹は眠っている。安らかな顔で、きっと幸せな夢を見ている。俺のうめき声で夢から醒ますわけにはいかない。
それでも嗚咽は収まらなくて、俺は妹の傍を離れた。
星を見る。夜空を照らす、燦々と輝く月と星。夜空の中に自分が溶け込んだような気分になりながら、俺は思った。
俺はもはや幽霊みたいなものなのかもしれない。浮かび上がって、地に足がついていない。自分があとどのくらいこの世にいられるかがわからない。
自分が生きていていいのかの確信が持てない。
何もかもに確信が持てなくなって、氷の左手を見やる。
「俺は」と吐き捨てるようにただ呟いた。
――ただ、生きていたいだけなのにな。
俺は妹を遺して先に逝くだろう。その変えられない運命が、どうしようもなく、悲しい。




