全部夢だったら1
夜に入る学校の屋上には不思議な魅力がある。規則を破ってしまった禁忌感、平穏な日常を打ち破ってまで見る燦然と輝く星々達。
「まるで世界から断絶されてるみたいだよね」と鷹野夜空は言った。
高校二年生。俺と同学年である彼女はいつも夜遅くに屋上に昇っていた。黒く透き通った黒髪をなびかせて、いつものように落下防止の柵に腰かけて高いところから地上を見下ろしながら、足をぶらつかせている。自分の心臓を刃の上に乗せて遊んでいるような真似をする彼女に、俺はいつも不思議な畏怖と憧れを感じていた。
「そうだな」と俺は答える。
鷹野夜空。彼女は一言でいえば天才だ。圧倒的な学校の成績優秀者。彼女は高校二年生で最も勉強ができる。俺なんかでは到底かなわないぐらいに、できてしまう。
でもまともじゃなかった。
ロマンチックで特別な夜景を俺たちは眺める。確かにここはまるで別世界かのように思えた。現実じゃないみたいだった。非現実が起こり得て今にも劇的な出来事が起こりそうにも思えた。いつだってそうだった。
この屋上で聞かされた、彼女のすべてだった母親が最近死んでしまったって。それを聞いてからというものの、強迫観念的なある予感がますます強まっていくようにも思えた。
――逝かないでくれって。
屋上の柵の上で足をぶらつかせて楽しむ彼女を見て強く思った。
「なあ、最近おまえはどうだ?」
「とても世の中は楽しいよ」
嘘だ、と思った――。
俺にとって彼女は特別だった。別に恋愛感情があったわけじゃない。でも彼女は母親から期待されていて、母親のために生き、親孝行をするために頭がよくなった人物だった。家が貧乏だったからだ。
尊敬していた。俺にはできない努力を重ねる彼女のことを。
でも、彼女はもう努力をする理由を失ってしまった。母は彼女にとって生きる理由のすべてだった。
俺はヒーローみたいに彼女に向かって手を伸ばす。すると、彼女はその手を取って柵から降りてこちらの世界にやってくる。
柵から先は死者の世界。柵からこちらは生者の世界。
でも掴んだ腕は幽霊みたいで実体がなかった。彼女の心がここにはなかった。
俺はきっと、彼女を救えない。
「なあ」と俺は言う。
「お前がいないと寂しいよ」
「……」
「俺、お前がいないとダメなんだよ」
「……ごめんね」
いつからだったんだろう。彼女の表情が透けていて生きていないみたいに見え始めたのは。……幽霊みたいで、実体の籠っていない抜け殻になってしまったのは。
彼女は翌日一人で屋上から飛び降りて死んだ。
なにもできなかったのを、俺は今でも悔やんでる。
◇
朝早くから学校に来て、始業の鐘が鳴るまで眠る。その習慣のために職員室に鍵を取りに行ったのだが、先客に取られていた。教室の扉を開けてみると、一足早く机に突っ伏した青野が居た。
珍しい習慣を持つ俺たちは自然と仲の良い関係になっている。お互いのことはよくわかっているので、起こしたりはしない。人の眠りを妨げてはこちらの寝覚めも悪いというものだ。
しかし、数十分程度時間が経った頃に、俺は何者かに起こされる。悲鳴に似た唸り声を漏らしながら、俺はその人物に目を向けた。
「翼君翼君、まずいよ。今日荷物検査があるって話だよ。まずいよ」
整った眉を顰めながら言うのは、よく見知った顔の幼馴染だ。家が近いというだけの理由で仲良くなった彼女は、俺のことをよく気にかけてくれる。
人見知りで内気な彼女は、その実、一度距離が縮まれば人懐っこい。外見のせいか、男子の話題で登場する彼女だが、俺以外の男子生徒とは疎遠だ。若干の優越感。
妙に自分は恵まれていると感じる。両親は健在だし、食べ物に困ったことがない。俺は普通に学校に通い、普通に友人に恵まれ、勉強も運動もそこそこにできる。
なのになにかが欠けているような気分になるのは、おこがましいのだろう。
「む……まじか。なんで知ってるんだ?」
「なんたって私、賢いから」
「なるほど」
彼女がそういうのならそうなのだろう。
「陽君陽君! 今度ボーリングしに行こうよ!」
自分の名前を呼ばれて目が覚める。目が覚めた瞬間は、たいてい自分がどこにいるのか、どの時間にいるのかわからなくなるものだ。今、俺は学校にいて、時間は放課後というものに当たる。教室には数名の生徒がだべっている。俺は学校の机から重い頭をどけ、女の子の顔を眺めた。
彼女は俗にいう幼馴染というやつだった。家が隣だとか、そういう奇跡な展開があるわけじゃない。ただ、小学校が一緒でよく同じクラスになることが多くて、中学は別々で、高校生になった再会した、そのぐらいの幼馴染だ。あるいは、ただの古くからの友人と言うべきか。
「なに、デート?」
俺はすっとぼけたことを言う。彼女は平然とそれを無視して俺に詰め寄った。
「最近陽君顔暗いし、なにか楽しそうなことしよっかなーって私は思ったわけなんですよ!」
「名前はこんなに光り輝いているのにな」
「そうそう。名前に恥じぬ顔面になってくださいな」
名前に恥じぬ顔面ってなんだよ。俺は普通に傷ついた。
だが高校生という生物は遊ぶことに貪欲なので、すぐに気分は盛り上がっていってしまった。
「じゃあ、俺の妹と青野を誘うか!」
「いいね! 四人で遊びに行こうよ!」
俺という人間は単純かつ行動が明瞭なので、すぐに仲の良い友人であるブルースのもとに足が動いてしまった。ブルースというのはアダナだ。『平和のブルース』という曲が大好きなだけで適当な名前をつけられてしまった、そんな些細な悲劇がいまだに尾を引きずってこうなっている。
彼はさっきの俺と同じく、机に顔を突っ伏して眠っていた。
犬みたいだなあと思ってその頭を撫でてみる。
「殺すぞ」
気さくな行動に対して返ってくる返事の殺意が高すぎる。
だが依然として彼が目覚めくれないので、俺は彼の頭を撫で続けた。
がしっ、と腕を掴まれてしまい、俺は言った。
「やめろ、俺に触るんじゃねえ」
「じゃあ頭撫でんなよ。俺の頭はお前と違って繊細なんだ」
力強い目つきと乱暴な口調は、不良というに相応しく近づきがたい印象がある。だが外見と比べ、内面は意外とそうでもない。
「おい、週末ボーリングいくぞ」
「仕方ねえ。お前が俺を求めるのならば行ってやらんこともない」
「そっか、乗り気なんだな」
「うん」
彼はわりかし素直だ。
約束を取り付けられたので、俺は幼馴染の元に帰還する。
「ブルース、来るってさ」
「やったね! 週末が楽しみー」
「俺の力を見せてやるぜ」
「……陽君、今帰宅部でしょ?」
「それは差別的な発言だぞ。帰宅部は強い」
「弱そうだけど」
「誰よりも家に早く帰りたいという気持ちが一番強い」
「ダメじゃん」
ダメだった。
「まあ、私にはよくわからないけど、帰宅部には帰宅部の誇りがあるのかもね~」
「いや、特にないけど」
「だよね」
「でも妹のことは好きだぞ」
「いや、私の方が妹ちゃんのこと好きだけどね」
「なんで張り合ったの?」
「……さあ?」
高校生という生物は意味のない対抗心を持ちがちだ。それは男子女子に関わらず起こってしまう現象なのだろう、たぶん。
「じゃあ、帰るわ」
そういうわけで俺は家に帰ることにする。なんだか妙な違和感を抱えたまま。
◇
……よくわからなかった。幼馴染に「陽君、なんだか最近暗い顔してるからさ」と言われた時、俺は密かにうろたえた。俺はそんなに元気がなさそうに見えたのだろうか? 傷ついているように見えたのだろうか?
普段と同じように、俺は振る舞っているつもりでいる。でも、心の中にある歯車がずれたような違和感は耐えがたくて、えづくほどに苦しかった。
だがこの苦しみはある意味妥当ではないものだ。
――俺がおかしい、と強く思う。
人一人が死んだ。誰もそのことを気にしない。「彼は頭が良すぎたんだろう」と誰かが言ったのを思い出す。
やれやれ、悲しいことだ。彼はこの学校始まって以来の天才だった。模試とは言え、ずっと全国一位の成績を収めるなんてまともじゃない。しかし、天は二物を与えない。彼は頭が良すぎるぐらいだったが、心があまりに弱すぎた。だから、大きな悩みなんてないのに、簡単に自殺をしてしまった――。
……これを聞いて、腹を立てる俺の方がおかしいのだろうか? 決めつけたような言い方をして、『天才』という大きな言葉を操って、鷹野夜空をそれらしい記号に当てはめようとしている人々が憎い。
彼が死んだ理由を誰も知らない。いじめがあったわけじゃない。家族は父親しかいなかったが、それは彼が七歳からのことだ。今更死ぬ原因とはなりえない。
――なんで鷹野夜空は死んだんだろう?
この頃、そんなことばかりを考える。誰も知ろうとはしないこと。きっと、多くの人にとってはどうでもいいことなのだ。例え俺が彼の友人だろうが、今更原因を知ったところでなににもならない。きっと無駄な行為だ。『知ろうとすること』は何の意味もない傲慢だ。
それでも俺は納得いかなかった。
俺は今、学校にいる。家に帰らず、文芸部の部室の扉の前に立っている。ここはかつて鷹野夜空が在籍していた部活だ。彼を知るための、なにかしらヒントになるかもしれない。
そんなことを思って、俺は部室の扉を叩こうとして、誰かの声が聞こえた。
「部室で二人っきり。まるで世界で二人だけになったみたいだね?」
やべえ、これなんかの告白だ。と思って逃げようとしたのだが、俺の足は動いてくれなかった。どうやら俺の足君は覗き行為がしたいらしい。
仕方がないので扉に耳をあてることをする。声の続きは聞こえてこない。失敗でもしたんだろうか? それとも今まさに、二人は抱き合っている?
「はぁー、あんまりうまくいかないなあ」と扉の向こうから声。「この台本じゃだめかなあ」と。
なるほど、と思い俺は文芸部の部室の扉を開けた。
中は思ったよりも小綺麗だった。誰かが毎日片づけているかのような印象を受ける。棚には本が並べられていて、窓辺からは仄かな日が射している。
部屋の主と思われる、背の小さな女の子と目が合う。
さっそく「世界で二人きりみたいだね」と言ってみた。
彼女の顔が赤く染まる。
「こ、これはですね、小説の台詞を肉声にしてみただけです。ほら、実感が伴わないと意味がないことも多いでしょう?」
「ほほう」
彼女は慌てたように言葉を続ける。
「別に私に好きな人がいるわけじゃないです。そうですね、しいて言うならば小説に恋しているわけですよ。小説に愛を囁いたわけです。いや、何言ってるんでしょうね私は。忘れてください」
「素敵ですね」
なんだか自分の返事がすごく適当な気がする。
その時、目の前の彼女はなにかに気づいたような素振りを見せた。
「……ていうかですね。あなた、何年生ですか?」
「俺? 俺は――」
「いや! 待ってください! 二人同時に言いましょう」
背の小さな女の子だ。先ほどの台詞劇のこともあって、貫禄もろくにない。
きっと年下だろうな、なんてことを俺は思う。
「いきますよ……。せーのっ」
「三年です」「二年」
「……」
「……」
「よくも舐めたことしてくれましたね」
「……ごめんなさい」
一瞬にして立場が逆転した。




