黒2.5
魔人たちが行進するリンドヴィレム山において。
追手の気配はまるでなかった。
北の地へと向かう魔人たちの足跡が、雪道に続く。
それを氷魔法の使い手である配下が魔法で処理し、痕跡を丁寧に消していく。
最果ての北の地には、人間はいない。
そこに住み着けば、人間の軍隊はもうこちらを攻めることはできないだろう。
最果ての北の地までいくには補給線を確保するのが難しく、伸びた補給線では魔王の魔法で容易く粉砕されてしまう。
人間軍が拠点をあちこちに作っても、村一つを簡単に消すことができる魔王の魔法の前では無意味な消耗に終わる。
だから魔人たちが北の地に辿り着き、そこで農業を成功させ、食料を確保することができれば、魔人の国は成る。
陥落不可能。人口は増殖。そして魔人一人一人の能力も上がっていく。
何年も何年も歳月を重ねれば、魔人が人間に勝利するという未来が訪れる可能性がでてくるかもしれない。
今、千人の魔人と一人の魔王はリンドヴィレム山の麓に座している。山には薄氷がへばりつき、力を失ったような粉雪がぽつりぽつりと地に落ちている。
天幕を張り、各々が休息を取っている。
魔王の天幕だけは天幕と表現するにはあまりに巨大で、小規模な城ほどの大きさがあった。
魔法で作り上げた土と氷の城は刺々しい風貌で各所に配置された槍の数々はその城を作った手間を強調していた。やりすぎなほど作り込みだったが、参謀は体裁と君主の絶対性にこだわった。
そんな本人である参謀は、皮肉の籠った声音で黒の魔王に言い放った。
「恐れ多きよわが君よ、この氷はなんなのですか?」
「かき氷だ」
「正気ですか? この寒い環境で? 食料の余裕があるわけじゃない。なのに体温を奪うような物質を、この体に入れろと、そうおっしゃりたいので?」
「いいから食べろ。魔力で体の熱を上げてからやってみるがいい」
黒の魔王は参謀のかき氷の上に赤い液体をかけた。それからはどこか甘い匂いがする。
「血の色!」と参謀はうんざりしたような声で、大仰しく呻いて見せる。
「いいですか魔王殿? この鬱蒼とした地でやることは、こんなことではないんですよ。なんですかこの色は? せめてもっと明るくなる気持ちになるような色にするよう、配慮できないのですか?」
参謀はさらに言い重ねる。
「せめて青い色にするべきでしょう! ああそうだ。あなたの血の色と同じ色だ。そうだ、その方がジョークが聞いてて明るくなれる。『俺の血の色の液体をかけてやろう、うまいに決まってる』ってあなたが言い驕れば、多少は笑えたでしょうに!」
「黙って食え」
その命令口調に、しぶしぶ参謀は従った。甘いシロップのかかった氷を口元に運ぶ。
そして数秒黙りこくったあと、黙々と氷を食べ続けた。
ばん! と扉の開け放たれる音。参謀は無視して氷を食べ続ける。
仕方がないので黒の魔王が「何事だ」と応対した。
扉を荒々しく開けた獅子のような魔人は、跪いて叫んだ。
「はっ! 我が君よ! 魔人の侵入者二名を捕えたことをここに報告いたします! 生かすも殺すも、あなた様にお任せします!」
そうして颯爽と獅子のような男は去っていった。魔王に会えて高揚しているのか、バチバチと雷の魔力が尾を引いている。
黒の魔王は痛む自らの鼓膜を案じながら、眼前の魔人を見下ろした。
視線の先には縄に着いた二人の魔人がいる。翼の生えた魔人と、険しい顔をする魔人。二人は亡命してきた新たな魔人だった。スパイの可能性を考えれば、この程度の拘束は当然というものだった。
相対する黒の魔王は、仮面をつけて彼らに向き直る。恐怖にひきつる魔人の一人に、音もなく歩き、彷徨うかのような足取りで近づく。
「ひっ。あ、ああ、あっあっ、助け――」
翼の生えた魔人が魚のように空気と助けを求めた。息は乱れ、焦点は覚束ない。近づいてくる黒の魔王に、正気を失いそうなぐらいに恐怖している。
――近づくだけでこれだ。
黒の魔王は、白の魔王のことを考える。魔人は非傷されることが多く、強いものに視線が合っただけで心を屈服させることが多くある。これは非迫害者として生きる魔人達にとって、もはや習性に近いものだった。種族に根付いた根源意識に近い。
だから、彼女は孤独だった。
誰からも恐れられ、理解者は誰一人として存在しなかった。
喚く翼の魔人の悲鳴に意を介さず、黒の魔王は彼の頭に手を乗せた。
びくん、と翼の魔人は体をばたつかせ、動かなくなる。その後、彼の体は薄く発光し、その場で浮かび上がった。
ポロポロとその両足が崩れ、翼の魔人は白目をむいた。
「目覚めろ」と黒の魔王が宣告する。
言葉一つで強制的に目覚めさせられた翼の魔人は涙目で薄っすらと目を開いた。
そこで異変に気付く。
「あれ、い、痛みが消えてる……?」
「お前に魔力による覚醒を行った。地面に執着するな。常に空に漂え。足はいらない。これでお前は、心の痛みからも世の中に対する閉塞感からも物理的な行動範囲も……自由になった」
「な、なんとお礼をも、も、もっ……申し上げていいか……」
どもりながらいう翼の魔人。そこにもはや恐怖の感情はない。それは塗り替えられ、代わりにはあるのは尊敬と憧憬と、圧倒的なまでの忠義だ。
「服従しろ」と黒の魔王は宣告する。
「お前には才能がある。これほどの飛行能力、既存の魔人ではそういない。偵察や小物質の運送ではお前は一位になるだろう。期待している」
「……! 勿体なきお言葉!」
宙に浮いたまま、翼の魔人は上手に敬礼した。
こんな話がある。ある男が、貧しき者、病める者に奇跡の治癒を施した。そして教えを説き、その心を救った。改心させたともいう。その男は宗教を作り、死んで蘇って神と称えられた。
そんなことを知っている黒の魔王は、どこか苦々しい思いをしながら、翼の魔人に下がるよう指示を出した。
――次に対面しなければならないのは険しい表情をした憎しみ溢れる魔人だった。
彼からは確かな恐れを感じる。しかしそれでもと言わんばかりの感情が、荒れ狂う程の憎しみが、身を焦がすような激情が、彼から発せられている。
「僕が憎いのか?」
「……」
「なぜ?」
「…………わからない、のか?」
身に覚えがないといえば嘘になる。支配体制は恐怖による圧迫。殺してきた数は数え切れず、誰かに復讐されても仕方ない。
自分の罪など、数えようとするのは馬鹿らしい。今更道を変えることなどできないのだから。
ぷるぷると憎しみの魔人の身が震えだす。自分の恨みがまるで理解されていない、共感されていない、相手にされていない。そういったものを感じ取って彼は叫ぶ。
「アンタが!」
――アンタが俺の村を滅ぼした!
室内で響く声は、聴衆を震わすほど圧巻の感情が込められている。
「殺しやがった! 何の罪もない奴を! なあ、なんでだ? 俺たちは普通に暮らしてた。目障りだったか? 俺たちが何をしたんだ? 本気でわからなかったんだ。だから教えてくれよ、魔王サマ」
いよいよ、参謀が動き出す。彼の術は、とっくに憎しみの魔人を捉えている。いつでも殺せる。けれどそれをすれば参謀はまた消耗するだろう。
だから黒の魔王は参謀を眼で黙らせた。動くな、自分がやる、と。
黒の魔王が憎しみの魔人に向き直る。縄に縛られ、歯をむき出しにする、猛獣のような男。確かに危険だ。少なくとも彼は黒の魔王と心中する覚悟がある。
「僕がお前の村に魔法を放ったのは、人間どもを撹乱するためだ。ケガ人がでれば、それを人間が助けて、追手が緩くなる。それに進行方向を誤解してくれる。だからだよ」
でも本当の理由は、もっと八つ当たりじみた理由だ。
人間が苦しみますようにって魔人達は願った。それを代行したのが黒の魔王。でもあまりに気が引けて、そこまでを伝えることが、黒の魔王にはできなかった。
憎しみの魔人が呆然とした目を向ける。
「意味が分からない」
「……」
「意味が分からないぞ。だって、じゃあ俺たちは……? なんだよ、人間が人間を助けるだろうから、それで追手が緩くなるって?」
「……」
「ここに来る途中、いっぱい考えたんだ。もしかしたら誰も悪くないのかもしれないって。あそこは魔人の迫害が一際強かったから、仕方のないことだったのかもって」
「……」
憎しみの魔人は言葉を言い連ねる。それは誰に届くのだろう?
存在すべき聴衆はここにおらず、共感する者も感動する者もいやしないのだ。
――彼がしているのは独白だ。
「ああ、ああ! 嬉しかったさ! そうともありがとうよ魔王! でもな、お前は俺の友人を殺したんだよ! 孤独だった俺を救ってくれた、大切な友人を!」
感情的な叫びが木霊する。
「ありがとよ! ありがとよ! おかげさまで俺は村から脱出できました! 憎んでいたやつは全員死にました! 唯一愛した人間すらも死にました!」
あまりのその感情の濃さに、黒の魔王は圧倒されそうだった。きっとその感情こそが、黒の魔王に逆らおうとする意志の原動力なのだろう。
かける言葉なんて一つもないはずなのに、謝罪の一言が出てしまいうなほどだった。
自分が間違ってたって、ずっと懺悔したくなる思いに駆られた。
――こんなことして、よかったのかな。
いつか感じた確かな思い。
初めからわかっていた。こんなことは間違ってるって。
――それでも罪を重ねて、血塗られた道を黒の魔王は進むだろう。
彼女のために。
誓いのために。
「あああああ!」
憎しみの魔人が強引に縄をほどく。それは魔人最高峰の強さの者が魔力を注いで作った縄だった。憎しみの魔人は、それと同等かそれを超えるほどの力を持っているのだろう。
……あるいは、今、そういった力を手にしたのかもしれない。
物語でよくある覚醒みたいに。
「絶対に殺す!」
憎しみの魔人の手のひらから、鋭い血色の刃がいくつも飛散する。
黒の魔王は己の魔力を練った黒い壁を張り、その全てを防いだ。
それは参謀へ向かう攻撃をも防ぐ巨大な壁。つまり、一瞬視界がほぼ奪われたことになる。
それが憎しみの魔人の狙いだった。それは果たして意趣返しなのだろうか? 誰かを守るといった行動を利用して、優位に立つこと。
やり返しを再現し、罰を与えてやろうと赤く光る手のひらが迫りくる。
黒の魔王はもう一度、今度は自分の目の前だけに黒い壁を生成する。その壁ごと砕かんと、赤く光る手のひらがめり込んでいった。
強い抵抗を感じながら、憎しみの魔人はさらなる力を引き出す。
「うおおおおおおお!」
脳裏にあるのはいつかの思い出。
友が自分と笑っていたこと。牛の世話を一緒にして、乳しぼりの際の牛乳の出方にやけに驚いたこと。以外と重労働だったこと。その終わりに、共に乾杯して飲んだ牛乳は、それはそれは美味かった。
だから力が湧いてくる。それを思うだけで、体に力がみなぎる。
赤い手のひらが、黒い壁にめり込んでいき、少しずつ侵入を始める。
「まけ……るか……!」
最初はみんなに蔑まれた。けれども友が、自分を守ってくれた。自分に守れるのはたった一人、君だけだって言っていた。
他の魔人を守ることはできなくて、ごめんねって。
そんな高潔な友のことが……。
――過去の想いが、憎しみの魔人に力を与える。
彼は元々そこまでの戦闘力を誇っていたわけではなかった。
しかし、降り積もった重い想いが、胸に秘められた誓いが、彼を確かに強くした。
「あああああああ! いっけえええええええ!」
手のひらは魔王の目と鼻の先で止まった。
「……え?」
いつの間にか、一歩たりとも動けない。黒い壁は粘土が乾いた後のように固まり、それは憎しみの魔人の右手、右足、左足を縛っている。
そしてようやく理解する。最初から勝ち目なんてなかったのだと。
「僕たちは他人を踏みにじってでも生きる。そのために無意味に死んでくれ」
黒の魔王の宣告。
黒い壁の一部は流動性を得て、触手となって憎しみの魔人に絡みついた。夥しいほどの黒い触手は、いくつもいくつもが連なり合って、やがて繭のような形を取った。
まるでミイラみたいだった。そうして繭はゆっくりと持ち上がり、黒の魔王の目の前で浮かぶ。
――いやだ。
憎しみの魔人の思念が黒の魔王に伝わってくる。
――死にたくない、死にたくない。
――やっぱり、怖い。
黒の魔王は深くため息をついた。
黒い繭からいくつもの棘が飛び出す。血に塗れた棺となった繭が、ゆっくりとほどけ始める。
憎しみの魔人はとっくに絶命していた。その表情にあるのは欠片ほど残った憎しみと、強い死への恐怖。
穴だらけになった死体を、黒の魔王は抱きしめる。
その様子を、参謀は凝視し続けた。




