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魔人たちが行進するリンドヴィレム山において。
追手の気配はまるでなかった。
北の地へと向かう魔人たちの足跡が、雪道に続く。
それを氷魔法の使い手である配下が魔法で処理し、痕跡を丁寧に消していく。
最果ての北の地には、人間はいない。
そこに住み着けば、人間の軍隊はもうこちらを攻めることはできない。
最果ての北の地までいくには補給線を確保するのが難しく、伸びた補給線は魔王の魔法で容易く粉砕されるだろう。
人間軍が拠点をあちこちに作っても、村一つを簡単に消すことができる魔王の魔法の前では無意味な消耗に終わる。
だから魔人たちが北の地に辿り着き、そこで農業を成功させ、食料を確保することができれば、魔人の国は成る。
陥落不可能。人口は増殖。そして魔人一人一人の能力も上がっていく。
何年も何年も歳月を重ねれば、魔人が人間に勝利するという未来が訪れる可能性はある。
ただ、魔王という存在あっての絶対要塞なので、必ずというわけではない。
今、千人の魔人と一人の魔王はリンドヴィレム山の麓に座している。山には薄氷がへばりつき、力を失ったような粉雪がぽつりぽつりと地に落ちている。
天幕を張り、各々が休息を取っている。
魔王の天幕だけは天幕と表現するにはあまりに巨大で、小規模な城ほどの大きさがある。
魔法で作り上げた土と氷の城は刺々しい風貌で各所に配置された槍の数々はその城を作った手間を強調していた。やりすぎなほど作りこみだったが、参謀は体裁と君主の絶対性にこだわった。仕方がないので黒の魔王は彼の好きなようにさせている。
「恐れ多き我が君よ。新たな魔人が我らの元に馳せ参じました」
芝居がかった声音で、参謀がそう言った。
黒の魔王は禍々しい椅子の上で足を組み、偉そうに新規の魔人を見下ろした。
跪く二人の魔人たち。その表情には恐怖がくっきりと刻まれており、かよわく小さく震えていた。
――相変わらず慣れないな、と黒の魔王は思う。
悪を具現化した絶対の魔王。逆らうものは皆殺し。
独裁、無敵、悪逆、傲慢。
――僕は、と思う。
僕、僕、僕。
人間だった頃の自分。
それを時々忘れてしまいそうになる。気弱で臆病者。
か弱い言葉を、もう使うことはできない。
魔王は気弱であってはならない。傲慢で恐ろしく、暴力を実体化した化身でなくてはならない。
「ま、魔王よ」
そう震える魔人の一人が言った。
その途端、参謀が魔人の頭を強く踏みつけた。
彼は「敬意が足りない」と呟いた。
「ま……魔王、様……。わ、私は……」
震える魔人は巨大な翼を持っていた。
その足は奇妙に捻じれ、まともに歩くことは不可能だ。
左手もところどころ変形していて、食事に不便をするだろうことが見て取れた。
人間として残った右手で懸命にバランスを取り、魔王に膝ざまついている。
「私は、あなた様に……お仕えさせていただきたく……」
明らかにそうは思っていない様子だった。今すぐにも逃げたそうな様子だった。
「仕えたい? それは嘘だな」と黒の魔王は言う。
有翼の魔人の顔から血の気が失なわれた。
黒の魔王は椅子から降り、つかつかと有翼の魔人まで歩む。
その胸倉を掴み、体を持ち上げる。
「あ、あ、ああ……ああああ……たすけ――」
泣きそうな声を上げて、有翼の魔人は懇願する。
黒の魔王は魔力の言霊を唱えた。魔力は黒い形となって、魔王の意思に従う。
瞬間、有翼の魔人の両足が切断された。
痛みに叫ばれるのは煩わしいので、魔法で有翼の魔人の口を縫い付けた。
黒の魔王はゆっくりと口を開く。
「もう喋っていいぞ」
「――ああ、いた、いた、痛く……ない?」
黒の魔王は有翼の魔人を開放した。
空中で投げ出されるはずの彼は、しかしそうならず、空中で漂っている。
「お前に魔力による覚醒を行った。足は邪魔だな。地に執着することを排除することがお前の覚醒の条件だったようだ。見ての通り、お前は自由に飛べる」
有翼の魔人は驚きで声も出ないようだった。
参謀が睨めつけ、ようやく「も、もったいなき幸せ!」と焦った言葉を口にした。
「お前には才能がある。空の支配者になれるだろう。偵察能力、小型の物質の運搬ではお前が一位だろう。期待している」
「……! は、はい! 我が君よ!」
参謀の指示で、有翼の魔人は退出した。
その焦がれるような瞳には絶対の忠誠心が宿っていた。
きっとあの有翼の魔人は魔王のためなら命すらもをかけるだろう。逃げ場がないはずの彼に、自由と空を与えたのは黒の魔王だから。
残りの魔人が呆然と黒の魔王を見つめる。
それは憎しみの籠った目。
憎しみの目を持つ魔人に「君の目的は?」と尋ねる。
……「目的を言え」と言った方が魔王らしかっただろうか? 気を抜くと、魔王の演技に粗がでてしまいそうだった。
しかし、特に誰もおかしな反応は見せず、憎しみの目を持つ魔人が口を開いた。
「アンタが俺の村を滅ぼした」
その一言で、参謀が一歩、歩み出た。
その片腕は刃へと変貌し、つまりは始末の準備を整えたということだった。魔人の中でも二番目に強い参謀の実力から踏まえればすぐにでも結末は確定するだろう。
しかし、黒の魔王は参謀が飛び出す前に魔法の言霊でその身を縛った。
『手を出すな』というテレパシーを送る。
魔法は奇跡の力だ。魔王である黒の魔王の能力は多岐にわたり、他の魔人に伝承することは不可能とはいえ、このような力も発動することができた。
「それで?」
と、続きを促す。
憎しみの魔人の表情が真っ赤になる。怒りの籠った表情。
「それで? だって? そうだ。それでアンタは何を思ったんだ? 悪かったとか、なにか、なにも言うことは、ないのか?」
「ない」
呼吸するのが困難だとでもいうかのように、憎しみの魔人はパクパクと口を動かした。
感慨深いものでも見るかのように、黒の魔王はその光景を眺めた。
「じゃあ、なんで俺の村を滅ぼしたんだよ、魔王。たくさん、たくさん死んだんだ。なんで、なんで……」
「村を攻撃すれば死人が出る。追手は人間で、人間は人間を助けようとするかもしれない。それに村を攻撃すれば、そちらが我らの進行方向だと追手が誤解するかもしれない。それから――」
「――黙れよ」
参謀が強く、黒の魔王の拘束から逃れようともがいた。始末を望んで、全力で抗っている。
もちろん、参謀は開放されない。
「アンタらは、人が人を想う性質を、そんな身勝手な理由で利用したっていうのか? 大勢の人を殺して!」
「なにを言っている」
彼はまるで魔王のように、残酷に宣言する。
「嬉しかっただろう? 自分を迫害する人間が死んでいく様を眺めるのは」
「お前と一緒にするな――」
「――違うのか?」
威圧的な言い方に、憎しみの魔人は僅かにひるんだ。
そして肩を震わして笑い始める。
「ああ、ああ! 嬉しかったさ! そうともありがとうよ魔王! でもな、お前は俺の友人を殺したんだよ! 孤独だった俺を救ってくれた、大切な友人を!」
感情的な叫びが木霊する。
「ありがとよ! ありがとよ! おかげさまで俺は村から脱出できました! 憎んでいたやつは全員死にました! 唯一愛した人間すらも死にました!」
つー、とその瞳から涙が溢れる。
その心中を満たすのは、その友人との思い出なのか、なんなのか。
「――アンタを殺すよ」
憎しみの魔人は黒の魔王に手のひらを向ける。
赤黒く巨大な棘が黒の魔王に飛来する。
しかしそれはひらりとかわされ、突進してくる憎しみの魔人の拳もまた容易く受け止められた。絶対的な力を持つ黒の魔王によって。
「あああああぁぁぁあ!」
血を吐くような叫びと共に、もう片方の腕で殴り掛かってくる。
その腕には怨念が籠ったオーラが纏わりついており、黒の魔王の心臓を貫こうと迫ってくる。
黒の魔王はそれを手刀で切り裂いた。
圧倒的な速度で振り下ろされた手刀は目で追うことができるものではなかった。目の前で起きた出来事に脳の処理が追い付かず、呆然と立ち尽くす憎しみの魔人。
「……悪かった」
呟き。
慰めるつもりもなく、謝るつもりもなく。
ただ咄嗟に口をついてでた発言だった。相手の感情が伝わってきて、どれだけその友人のことが大切だったのかを黒の魔王は理解できた。
たぶん、この魔人に同情していた。けれど殺すという結果を与えることが、魔王としての役割だった。
「――あ」
憎しみの魔人は見えない力によって宙づりになっていた。
見えない力は四肢をあり得ない方向へと捻じ曲げ、痛みを与えている。
「あ、ああああ」
恐怖と絶望と、悔しさが伝わってくる。
そして結局、最後には恐怖だけが残った。
精一杯誓った信念も、復讐も、殺してやるという願いも。
なにもかもが残らず、魔王という存在にただただ怯えていた。
「や、やめ」
骨がバキバキと砕ける音。
体中の血が逆流していく身体を狂わせる。
捻じれた四肢が千切れ、鮮血が零れる。
マリオネットと化した憎しみの魔人は自由に動くこともできず、その身が捻じれ、刻まれ、砕かれていく。
骨が、バキバキと、砕ける音。
「な、なんで」
もはや戦意をそがれた憎しみの魔人が、虚ろな瞳を向けて、呟く。
「……なんでわざわざ、殺したりしたんだよ」
「……」
憎しみの魔人の頭がトマトのようにはじけた。
見えない力が死体を離し、ぐちゃぐちゃの死体が足元に転がっている。
「参謀、片付けろ」
「御意」
魔力から解放された参謀はにんまりとほくそ笑む。
そして死体に手のひらを向けて凍り付かせ、外へと運び出していった。




