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12

 ◇


 桜が咲き散る通路を、数多の生徒たちが闊歩していた。

 人々が花びらを踏みにじる。誰もそのことを気にしていない。


 卒業式が終わったのは、一時間前のことだった。

 僕はこの三月の三十一にまで、生き延びてしまった。生かされた、というべきか。

 彼女が死んだのは十一月の三十一日。ずいぶんと長い年月が経った。


 僕は人気が少ない廊下から、外の景色を見る。ああもう卒業なのだなあ、と感慨深い気持ちになるフリをしながら。


「あ、先輩。こんなところにいたんですか」


 声。それは鷹野瞬の妹のものだ。


「ああ、妹か」

「なんですかそれ。私が先輩の妹みたいじゃないですか」

「なんかすっかり定着したよね」

「後輩ちゃん、もしくは星奈ちゃんって呼んでくださいよ。私にはちゃんと名前があるんですから!」

「名前を呼んだら君の兄に睨まれるから嫌だ。ごめんね、妹ちゃん」

「先輩……わざと私のこと『妹ちゃん』って呼んでませんか!」


 僕は妹の怒るフリに、なんだか笑ってしまう。美貌が美貌だけに、妹は兄と同じくクールぶるのがよく似合う。こんなに簡単に怒ってしまうと、なんだか似合わなさがでてきてしまうのだ。こういうことをなんというんだったか。……ギャップ萌え?


「君は牛みたいにかわいい怒り方をするね」

「もーー! ……なんていうか、最近、先輩って私のこと舐めてませんか?」

「まさか。恐れ多くてそんなことできないよ。後輩様にそんなことができるわけがない」

「……ほら、やっぱり舐めてる」


 僕と妹は、人の少ない廊下で軽く雑談をする。


 ◇


 彼女が死んだあと、僕は鷹野瞬と行動を共にしていた。

 僕はしばらく塞ぎ込んでいた。そんな時、彼は黙って僕の隣にいてくれた。屋上に誘ったり、じゃがりこを渡してきたり。

 特に会話はなかった。でも、誰かが隣にいてくれているというだけで、ずいぶんと楽になったことをよく覚えている。


 しばらくは二人で屋上から空を眺めるだけの日常が続いた。その中で、僕は『綺麗』が戻ってきているのを感じた。屋上から見える夕日はとても綺麗だった。でもどうしても、彼女がいない世界なのにおめおめと『綺麗』なんかを感じている自分に対して自己嫌悪に陥ってしまう。


 時間が解決してくれるさ、とたびたび鷹野瞬は言っていた。僕は屋上でずっと苦しみ続けた。彼女の最期を想像して、何度も反芻して止まらなくなって、吐いたりもした。

 彼はそんなときに、僕の隣にいてくれた。なにか大きなことをしたわけじゃない。生きるべきだとおおっぴらからに宣言したわけでもない。

 彼は当たり前のことを当たり前に言い、一般論をいつものように馬鹿にし、僕の思考に関しては口を挟まなかった。

 そうやって年月が過ぎていった。


 ある程度、僕がまともになったのを見て、彼は僕を遊びに誘った。僕は受験生の瞬と一緒にスキーに行った。


 娯楽は一過性のもので、のど元を過ぎれば忘れてしまう。それに夢中になっていても、何度も何度も彼女のことが頭をよぎる。突然涙が流れてしまうことがある。鷹野瞬は決まってそれを見ないフリをする。


 生きていることの罪悪感と絶望感が僕を襲う。彼女が死んだのに、僕はなぜか生きている。彼女に望まれたなんて関係ない。僕は彼女と一緒に死ぬ約束をした。『約束』を守らなかったのだ。今からでも約束を履行すべく、死ぬべきだと何度も思った。


 そんな時、決まって彼は『お前は生きることを望まれている』と言ってくる。


 単なる事実をなんでもないことのように繰り返す。所詮、僕が死にたがっているのは僕の考えであって、僕が死ぬべきだという考えを、彼女は一切持っていなかったのだと伝えてくる。

 僕が死ぬのは甘えだった。それをわかり切ったうえで、僕は死んでしまいたかった。

 けれど彼女に対する思いが、彼女の思いという事実が、僕を現世に留まらせた。


 一歩間違えれば、確かに僕は自殺していた、と思う。でもそんな時、僕は彼女のことを必ず考えてしまうから、なんだかんだで死ねなかっただろうなとも思う。


 時間はゆっくりと確実に進んでいった。傷には冬の落ち葉が舞い落ちて、ぱっと見は僕の傷を隠してくれるようにはなった。いつしか僕は正常な人間として振る舞うことができるようになっていた。


 それでもいつだって、考えてしまえば彼女のことを鮮明に思いだせる。彼女の墜落死体。

 病気の後遺症のせいか、僕は異様に記憶力が発達した状態にあった。まあ、おかげで勉強がずいぶんと楽になったのだけど。


 僕は鷹野瞬とたびたびどこかに出掛けて遊んだ。カラオケをした。アイスホッケーをやった。お気に入りのアーティストの音楽を聴いた。映画を見た。花火をした。冬の海に泳ぎに行った。馬鹿なことをした。


 冬の海でナンパをしてこい、という無茶なことも言われた。僕は海でおぼれて難破をするという渾身のギャグで事なきことを得た。いや、普通にダメだと言われたのでほんとに女の子にかけに言った。惨敗だった。

 でも最期の組は成功してしまって、正直とても困惑した。冬の海でピーチバレーというわけのわからないことをした。あとから、ナンパに成功した女の子は鷹野瞬の妹の友達だったことが判明した。


 しょうこりもなく、鷹野瞬が車を回して、妹を含め三人で旅行した時、昼ご飯を食べた店で『ちょうどあなたが五千人目のお客様です』と言われてサービスをしてもらった。なんだか変な気持ちだった。まるで奇跡だな? と鷹野瞬は笑っていた。


 こういう偶然のほとんどは、仕組まれたような形跡があった。すべての尻尾は掴めていないが、きっと鷹野瞬が工作をしたのだろう。楽しくなるように、仕組んだ。彼はまるで裏から手を回して客を楽しませる演出家アーティスト。なんだかなあ、と思ったが、面白いことが多かったので特には触れなかった。


 そうして僕は三月三十一日まで生き延びた。たぶん、もう自殺することはない。


 ◇


「先輩、もう大丈夫なんですか?」


 廊下を歩いている最中、突然妹がそんなことを言った。「大丈夫」と僕は答える。


「でも先輩、今でもたまに辛そうな顔をしてますよね」

「……」

「思い出しちゃいますか? そうですよね。忘れられないと思います」


 なんだか重い空気になる。気まずくなって会話が途切れた。

 そんな状況を変えたくて「あの」と声を出す。ちょうど妹と声が被った。お互いに照れ笑い。


「先輩、きっと辛かったですよね」

「うん。弱音を吐くのは好きじゃないんだけど、まあさすがに辛かったかな」

「……先輩は頑張りましたよ。誰かが悪いわけじゃない。先輩は、先輩は……好きな人が死んで、そこまで苦しむことができる、優しい人ですよ」

「ありがと」


 最初に妹と出会ったことを思い出す。僕は妹の気持ちを見抜いて利用して嘲笑った。お前はなにもわかっていないと非難した。人の気持ちがわかるから、そいつの弱点に付け込んだ。「――最低」と妹は言った。あなたは優しい人間なんかじゃないって。人の気持ちを巧みに見抜けることを利用する、悪魔みたいな奴だって。


 ずいぶん評価が変わったものだ、と感慨深い気持ちになる。


「どーん!」と妹がふざけて体をぶつけてくる。自分でやったくせに、そのあと照れたように妹は笑った。


 僕は鷹野瞬や、妹とはよく遊んだ。今ではこの二人が生涯の友と呼べるぐらいに仲がいい。二人のことがとても大切だった。本当に本当に、手放したくない思うぐらいに、二人のことが好きだった。


 ――でも、僕らは決別をする。


 今日をを最後にもう会わないって、約束をした。


「なあ、言っておきたいことがあるんだ」

「なんですか? 急に改まって」


 妹が上目遣いに僕を見つめる。なんだか少し、言いづらい。


「まあ……僕が君に感謝してるってことだよ。君たちのおかげで僕は死なずにすんだ」

「死なせてもらえなかった、の間違いじゃないですか?」


 そうかもね、と僕は苦笑する。


「でも、これだけは覚えていて欲しいんだ。僕はね、君に救われたんだ。生きることができた」

「……」

「君は確かに、一人の命を救ったんだ。僕は感謝してるんだ。だから、さ。このことを忘れないで欲しい。例え君のこれから人生がどんなものでも、確かに君は人を救ったんだよ。そのことを誇りに思っていて欲しいんだ」

「……そうですね」

「だめかな?」

「ダメ、じゃないですよ。でも……」


 でも、と妹は言う。涙ぐんでいる。妹が僕の服の裾を掴む。


「ねえ、先輩。どうしても、私たちと決別しなきゃダメですか? 別に、今まで通り三人でいればいいじゃないですか。私、先輩にもう会えなくなるなんて、嫌です」


 それはもう、決められてしまったことで、変えられないことだった。

 妹はこうは言っているが、『決別』は免れないだろう。

 僕たちで話し合って決めたことだ。僕は鷹野瞬に依存しすぎた。それは彼も同じこと。共依存を切り離す時が来た。お互いを頼っていては、新しく人生を歩めない。だから僕らは、別れることを選んだ。もう僕ら三人が集まることは二度とない。


「ねえ、先輩。私、先輩のことを本当に尊敬してるんです。好きな人のためにこれだけ苦しんで、今でも心のどこかで泣いている。それだけ一途で、人の痛みに敏感な先輩は、すごいと思うんです。本当に、これだけは本当にのことですから」


 僕らの足は止まっていた。この先は屋上。ここから先に、妹はついてこれない。

 ここで、お別れだ。


「先輩、私、私……」


 妹は何度も言い淀む。大切なことを言おうとしているように見える。でも、妹はきっぱりと首を振って、満面の笑みを僕に向けた。


「さよならです、先輩」


 彼女が何を思っているのか、僕には想像することができる。彼女は言ってはならないことを、結局言わずに飲み込んだ。もう僕らは二度と会わないだろうから。

僕と瞬、二人で話し合って決めたことだった。


「じゃあね、星奈」


 僕は妹と『決別』を行った。


 ――本当に、ありがとう。


 ◇


 屋上には、やはりというか、当然というか、先客がいた。ただ一人で、男が立っている。せっかく大学に受かったというのに、それが危ぶまれるような行動を、彼は平気でしている。


「またタバコ?」

「ん? ああ、最後の一服だ。たぶんもう吸わねえよ」


 俺は意思弱いから無理かもなー、と彼は冗談めかして言う。僕は彼の意思が誰よりも脆く、されど強いことをよく知っている。


「まっ、よく来たな。ここが俺たちの最後のステージだ。敵対して、対決して、決着――じゃなくて決別、だな。シナリオ変更ってやつだ」


 敵対して、対決して、決着する。『決着』という言葉を塗りつぶして、『決別』にすると彼は言う。

 敵対対決決別。連なる三つの合わせ言葉。


「俺達、行きつくところまで来ちまったな?」と笑いながら彼は言う。


 行きつくところ。


「そうだね。今までありがとう。本当に、本当に助かったよ」


 僕らは決別をする。それはなぜか。どうしてそこまでする必要があるのか。


「ああ、礼には及ばないよ。俺だってお前に助けられたんだ」

「……」

「俺はお前を助けた。それが意味になると思ったんだ。俺は『物語』を欲しがった。圧倒的な物語を、だ。主人公が死ぬはずの物語を、そうでないものにする。そういうことを、したかったんだよ、俺は」


 馬鹿らしいって笑うか? と彼は言った。


「君の気持ちはわかるよ。君は死にたがりだった。でもそれを変えたかった。だから自分が圧倒的な物語を作ることによって、虚しい人生に意味を持たせたかった」

「ああ、だから俺はお前を助けたっていうより、利用したんだよな。生きたがっていない人間を無理やり生かして、それを『圧倒的』だなんて言って誇る。凄いことをしたんだって自分に言えるようにする。……すまなかった」


 彼は頭を下げて謝罪した。プライドの高い彼がこんなことをするのを見るのは、何気に初めてかもしれない。


「君の妹にも言ったんだけど、僕は『君らに助けられた』と認識しているよ」

「……」

「利用された。確かにそうかもしれない。でも世の中は結果がすべてだ。僕は確かに救われた。君ら兄妹に、救われたんだ。思う存分誇ればいい。それが君から見た被害者の意見だよ」


 彼は「お人よしかよ」とため息をつくように笑った。

 どうなのだろう? と思う。僕は確かに、兄妹に救われた。この目の前の死にたがりに、生かされたのだ。彼はとても頑張った。裏から手を回し、面白くもないのに塞ぎ込んでいた僕の隣にいてくれて、耐えて、言葉を重ねて、僕を励ました。

 平気でできることじゃない。行動に信念があることが、僕にはよくわかる。


 彼がぐきり、と首を鳴らした。


「でも、俺らはお互いに依存しすぎたな。なあ、笑っちまうんだけど俺はお前がいないともうダメだって思う時があるんだ」

「うん、僕も同じだよ」

「……なあ、お前は大丈夫か? 俺だって平気とは言えないが、お前はまた一人になる。死にたくなったりしないか?」

「なあ瞬、君って僕のことを誤解してるよね」


 彼は怪訝そうな顔をする。僕は続けた。


「今も昔も、僕は死にたがりだよ。でもね、僕にはプライドがあるんだ。偏屈な誇りをもって、それを掲げて生きるんだ。ずっとそうしてきた。僕には、君と妹と彼女に借りがある。だからその借りを返すまでは、死ねないんだよ」

「……」

「彼女は死んだ。僕は僕の命を使って借りを返す。それでもきっと、足りやしない。でも、僕にできることはこれだけだから、これだけのことはしようと思うんだ」

「……それがお前の今の信念なんだな」


 そうだよ、と僕は答えた。


 屋上から、僕らは偉そうに下界を見下ろしている。世の中から断絶されたような、錯覚。屋上は特別な場所で、いつもは言えないことでも、言えることがしてくる。


「決別だ」と彼は繰り返す。


 でも、と彼は言い重ねた。


「長い年月が経って、俺らがまともになって、そうしたらまた……また、遊んでもいいかもな」

「僕らがまともになんてなれるかな?」

「なれるかなれないかじゃない。なるんだよ」


 彼はタバコとライターを僕に差し出す。タバコは一本しかない。


「餞別だよ。お前がもう大丈夫だって本心から思えたら、また会いに来いよ」

「連絡先、全部切った状態だし、もう二度と会えないかもしれないね」

「それぐらい探し出してみろよ。ここからはお前の人生だ。お前が決めることだ。お前は『もう大丈夫だ』を目指す。たった一人で。そしたらまた、再会だ」


 彼はそれをとても望んでいるように見えた。だから僕は、彼に借りがある僕は、『もう大丈夫だ』にならなければならないと思った。それが今後の、僕の目標。


 今でも心の傷が深い。それでも生きてこれたのは、彼のおかげ。誰かに愛されたおかげ。構ってもらえたおかげ。誰かさんが隣にいてくれたから、そのおかげだから。


「なあ、お前って今でも清水継葉のこと、好きなのか?」


 僕はその質問に笑って答える。


「当たり前だろ?」

「そっか。まあ、そうだよな。それはとても……とても苦しそうだ」


 鷹野瞬は拳を僕に向ける。僕は彼と拳を合わせた。映画なんかでありそうな、男と男の友情のワンシーン。


 ありがとな、と彼は言う。


「ところで」と僕は言った。


 彼の足元には、多くのタバコが落ちている。僕の手にあるのは、彼から渡されたライターと、最後に一本残ったタバコ。


「このタバコ、最後の一本になるまで頑張って吸ってたの?」

「……ああ、演出のためだよ。なかなか健気だろ?」


 僕は彼と決別をする。

 いつかまた、彼と出会うことがあるんだろうか? それはとても難しい気がする。

 今生の別れになるかもしれない。


 僕は確かに、彼に救われた。その感謝を、胸に刻む。


 ◇


 鷹野瞬と決別した後、僕は最後に、彼女が死んだ病院の屋上に来ていた。

 僕はたびたび、彼女が死んでからここに来ることがあった。たった一人で、彼女の喪に服した。

 でもそれも、今日で終わりだ。


 僕は彼女から離れられずにいる。このままでは新しい人生を歩めない。

 彼女のことを忘れることは一生できないだろう。僕のために死んでいった、彼女のこと。


 でも、けじめはつけなきゃならない。僕は彼女が死んだ地で、決意を誓わなくてはならない。

 儀式的、演出的、自分への約束事。

 そのために、僕は病院の屋上に立っている。


「なあ継葉、最後に僕はここに来たよ」


 ここには誰もいない。僕一人が存在していて、答える声はなにもない。僕は独白をする。


「君がいなくて寂しかった。辛かった。死にたかった。何で君がこの世にいないんだろうって、何度も何度もそう思った。間違ってるって、強く思ったんだよ」


 君は死んだ。僕を残して。

 君はどうあがいても死ぬしかなかった。だからその命を僕に使った。


 ……恨んだよ。どうしてそんなことをするんだって。僕は生きたくなかったのに、なんで無理やり生かすようなことをするんだって。


 死にたかった。生きていたくなんてなかった。


 でも僕が生きることこそが、君の願い。

 卑怯なんだよ。勝手に死んで、僕には義務を押し付けて、君は綺麗に死んでいった。

 ずるい、ずるいんだよ。僕は……君と死ねれば、それでよかった。


 ――僕は大きく息を吸い込む。


 それでも、と僕は思った。


「君には感謝してる」


 世の中が虚しかった。僕は鷹野瞬に似ていた。

 生きる意味なんて見いだせなかった。でも、君と過ごしていた瞬間は、そんなことを考えずに済んだ。君と一緒にいれるなら、世の中に意味があるんだって思えるほどだった。


「僕、君のことが好きだよ」


 一生、忘れることはないだろう。


 なぜだろう、僕は今でも病気なんだろうか? 泣きたくもないのに、自然と涙が零れる。

 流したくないのに、僕は涙を零す。必死で目を擦って、気丈に僕は笑って見せる。


「僕は生きる」


 宣言をした。誰にも聞かれていない、なんの意味もない行為だった。

 でも少なくとも、自分にとっては意味があることだった。


 ここに彼女がいるんだって信じ込む。間違っているかもしれない。勝手な物語を組み立てて、自己暗示をかけているだけかもしれない。

 いや、まさしくそうなのだろう。でも、この作られた物語こそが、僕にとってはなによりもかけがいのない、大切なものなのだ。


 僕は胸を大きく上下させ、膝をつく。言い切った。宣言してやった。

 僕はもう自殺できない。生きることしかできない。後戻りは許されない。


 目的は果たした。もう、いかなければ。


 でもどうしても、体が動かない。悲しみの渦に、僕は囚われている。

 いつかの病気の再現みたいに、体が動かない。


 ――それでも僕は、なんとか憤然と立ち上がった。


 概念なんて(、、、、、)思い込みに過ぎない(、、、、、、、、、)


 フェンスに向かって歩いていく。それを強く握りしめる。

 もう、ここから立ち去らなければならないのに。


「ねえ、なんで生き返ってくれないんだ?」


 僕は馬鹿なことを言う。どうしようもないことを、不満を、ただただ口にしている。


「生きていて、欲しかったよ」


 僕はいまだに、色褪せた世界の中にいる。

 僕はほとんどまともな人間になった。でも、軽度な色覚異常が残ってしまった。


 君がいないこの世界は、ほんのすこし色褪せて見える。

 君が欠けたこの世界は、何かが足りないように思える。


 耐えきれなくて、僕は流したくもない涙を流す。

 もう無理なんじゃないかって、今でも強く思うのだ。生きることができる、なんて強がりだ。僕にはとても、できることじゃない。でも、やらなくちゃならない。


 苦しい、苦しい。それでもやらなくちゃならない。


――僕が生きるという物語を構築されてしまったのだから。


「ねえ、またいつか、『もう大丈夫』になったら、僕はここに来ていいかな……?」


 答える者のない屋上で、僕は誰かに尋ねてる。


「ねえ」


 僕は生きることが苦しい、この世界で、


「好きだよ」


 この色褪せた世界で、


「継葉」


 君の名を呼ぶ。


 いつかここに戻ってこれますようにって、そう願った。

 彼女の名と共に。



おしまい

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