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 体が動かない。意思は尽きて、倦怠の渦に僕はいる。

 それでも、僕は彼女に会いに行かなければならない。


 約束したから、約束したから。


 病院の屋上。『屋上』という場所に、否が応でも不吉感を感じてしまう。

 屋上は特別な場所。対決のための場。


 入り口と出口は表裏一体で、扉は一つしかない。

 逃げられない。そこにいってしまったら、引き下がることはできない。


 どうしても逃げ出したいのならば、その場から飛び降りるしかない。


 屋上は、そういう場所だ。


 ◇


 病院の階段を一段ずつゆっくりと昇っていく。行きたくなかった。もうやめてしまいたかった。

 逃げ出せばいい、と強く思う。僕ごときが彼女に立ち向かったところで、いったいなにになるっていうんだろう?

 彼女はどうせ死んでしまうだけなのに、なにもできやしないのに、僕は彼女の元に向かう。


 視界が暗い。色という色が病魔に剥奪されていて、ただ進むことでさえ困難を伴った。

 概念色欠乏症。僕の視界には、もう色は映らない。白と黒だけが僕の認識できるすべてで、世界の一切は色褪せて見える。

 色褪せる? いや、褪せて褪せて、白と黒しかもう残っていないのだ。厳密に表現するのならば、色褪せるという言葉は間違いなのかもしれない。色褪せたのはもう終わった。僕は色を失った。


 きっと、もうすぐすべてを失うことになる。それでも、僕は彼女に会わなければならなかった。


 たった一つの扉が目の前にある。屋上への扉。


 昇ってしまえばもう逃げられないんだぞ、と心の中で問答する。


 それでも、それでも僕は――。


 ――扉を開けて、屋上に出た。


 高いフェンスが立ち塞がるように構えている。人はただ一人しかいない。


 寒い。秋の夜風が、異常なまでの鋭さをもって襲い掛かってくる。それは単なる錯覚か、なんなのか。


 ――『もうすぐ死んじゃうちゃん』が、屋上の奥で背中を向けて立っていた。


「『死んじゃうクン』、ありがとう。来てくれたんだね」

「……うん」


 なんでなんだろう。彼女はいつもと変わらないはずなのに、形容しがたい影のようなものを感じる。

 錯覚だ、と強く念じる。僕の認識する概念などすべてあてにならない。例え彼女が悲しそうな顔をしていても、苦しそうな顔をしていても、死にそうな顔をしていても、それらはすべて僕が間違った概念を受け取ったが故の錯覚だ。僕の視覚情報はすべて信用ならない。なぜなら、僕の視界には既に色がなく、つまりは目に映るものは曲がった概念に支配しているということなのだから。


 彼女が振り向く。


 ――そこには顔がなかった。


 黒く、塗りつぶされたみたいに。


 思わず息が詰まる。来るところまで来てしまった、と思う。ついにここまで、僕の概念は狂ってしまった。


「大丈夫?」と彼女は言った。幸い、音声情報はまだ機能しているようだった。


 彼女の心配そうな声が、いたわるような声が、僕を呼んでいる。


 そんなことを思うと、泣きそうになってしまう。彼女は彼女のままだって、そんなことを思ってしまうのだ。


「大丈夫」と僕は返事をする。僕は彼女に向き合う。


 たぶん、今からするのが、生涯最後の対決だ。


「用はなんだった?」


 僕がそういうと、顔の見えない彼女はかすかに肩を持ち上げたように見えた。笑っている?


「うん、もうすぐ私は死ぬ」

「そっか。じゃあ、約束は果たさないとね」


 彼女は、笑っている?

 顔が、見えない。


 でももう、そんなことはどうでもよかった。完結は決まっている。僕らは終わる。それだけが真実で、今更なにかを知ろうが、想うが、受け取ろうが、それらすべてに意味はない。


「ねえ、瞬君に会った?」


 たぶんね、君は彼のことを誤解してるだろうから。


 彼女はそんなことを言う。僕は嫌な気持ちになりながら答えた。


「ああ、あいつか。……あまりにも酷い奴だよ。僕にはそんなことをいう権利はないんだろけど」


 それでも、と強く思う。

 なんでなんだろう。どうでもいいって思っているのに、溢れるような感情を押しとめることができない。その感情は、言いたいことは、あまりにも主張が強すぎて、僕には制御できない。


「……『死んじゃうちゃん』は、よく生きたよ。君はなにも悪くないんだよ。君の居場所が奪われたのは君のせいじゃなくて、他人のせいなんだよ」

「慰めようとしてくれてるの?」

「事実を言ってるだけだ。君は何一つ悪くない」

「『死んじゃうクン』って、私のことを誤解してるよね」


 誤解。


 ――『お前は何一つわかっちゃいない』


「たぶんだけど、私は君が思うよりずっと低俗で、下劣で、品性がねじ曲がってた人間だよ」

「そんなことはない。君はどうみても、まともで立派だと分類される人間だ」


 彼女は、笑っている?


「ううん。違う、違うんだよ。君はなにもわかっていない。でも瞬君がそうやって立ち回ったせいもあるんだろうけどね」

「……なにを言って」


 僕は彼女と向き合っている。彼女の言葉を待っている。彼女は口を開くような動作をした。


「――最初に噂を流したのは、私だよ?」

「…………え?」


 僕の声は、あまりにも小さすぎて、風に攫われてしまった。

 ついに幻聴が聞こえ始めたと思った。もうすべての五感が信用できないと、そう思ってしまいそうになるほどだった。


 物語の演出法。ミステリー的な演出。

 容疑者としてもっとも疑われない者を真の犯人として設定する、やり方。

『すべての謎の鍵は謎の隣にある』という法則。

 でも彼女には、動機がない。だから犯人足りえない。……はずだった。


「私にとっては必要だったんだよね、死ぬために意思を固めることが。私を愛してくれる人なんていらなかった。私の周りに人間は必要なかった。私の手持ちは何もない方がよかった」

「意味がわからない」

「わからない? 私は君とは違う手段を取ったんだよ。君は心を閉ざして世界から意味を奪っていつでも死ねるようにした。でも、私にはそれができなかった」


 ――私は幸せを感じられる人で、人の善意が好きなんだよ。今まで生きてこられたのは、誰かのおかげ。だから、私は誰かに恩返ししないといけない。その誰かって言うのは、私の周りに住んでいる人すべてだよ。


 いつかの彼女の言葉。善意の輪、と彼女はその概念のことを呼んだ。

 善意は廻り続ける。誰かの親切がバトンとして次の人に受け渡される。そして次の人も新設をして、親切が世の中を廻っていく。


 そういう、綺麗事。


「私ね、人間が好きなの」


 だからこそ失うのが苦しくて怖くてたまらないんだよ、と彼女は苦しそうに言った。


「だからね、自分で大切なものを斬り捨てる必要があったの。でも、私の信念は人を傷つけることを良しとしない。だから、一方的に私が失う手段を取る必要があったの。私は友達を捨てることにした」


 綺麗に死にたい、と彼女はよく言っていた。


 後悔のないようにって。

『後悔』。それをしないためならば、きっと彼女はなんだってやると僕は評した。でも、それは想像以上のものだった。

 彼女は自分の大切なものを斬り捨てた。それは『友達』だ。家族と縁を切ることは、家族をあまりにも傷つけてしまうことになる。だから被害の少ない『友達』を彼女は失うことにした。


 平気で失えるんだって、そう信じた。そうやって自分を死ねるように追い込んだ。


「私は『友達』を斬り捨てることができた。これで証明はできたんだよ。私は大切なものを失うことができる。その能力がある。だからすべての大切なものを斬り捨てることだってできる。きっと私は、死ぬときに後悔しない。ようやくその自信が持てたの」


 それが、今まで彼女がしてきたこと。死ぬための準備。綺麗に死ぬために『なにを失っても平気』と信じ込んだ。

 だから彼女は宣告をする。


「私は絶対に、死ぬ瞬間に後悔しない」


 それはあまりにも――。


 ……いったいなんで、こんなにも胸が苦しいんだろう?

 彼女の悲壮な決意は、あまりにも救いようがないもので、非生産的だ。失っても痛くないと言える死に方をすることだけが、彼女の願いだった。『死ぬ瞬間の後悔』を彼女は死ぬほど恐れていた。


 どうしてこんなことになるんだろう? あまりにも、あまりにも彼女は救われない。

 でも結局、なにをしても彼女は救われることがない。


「――ねえ、一緒に死のうよ」


 彼女の発する声はまるで歌声の様。台本通りの台詞を流れるように発していて、不思議な魅惑を持つ。そういう錯覚。


 彼女の指先はフェンスの外へ。屋上という場から消えることを指し示している。

 僕は――。


「うん、一緒に死のう」


 僕は――もうどうでもよかった。


 本当に? どうなるのだろう。どうでもよくはないと、己の奥底から叫ぶ声が聞こえる。僕はそれを無視する。どうせどうにもならないって、信仰みたいに掲げる。


 それでも、


「心中、だね」


 弾むような彼女の声を聞いて、


 その表情がまったく見えなくて、


 それで彼女がどんな顔をしているのか知りたくなって、


 ――彼女の顔に手を触れた。


 ――彼女は、なんで。


「……なんで泣いてるの?」

「あはは、さっきからずっと泣いてるよ」

「……なんで!」


 もう耐えきれなかった。彼女が何を思っているのか、想像すらつかなかった。


「なんで君が死なななくちゃならないんだよ。間違ってるじゃないか!」


 耐えられなかった、どうしても。


「死なないでくれよ、死なないでほしいんだ」


 理屈の伴わない感情論。僕がそんなことを言ったって、いったいなにになるっていうんだろう? いったい誰が救われる? 何の意味もない、自己満足にすらならない行為だ。僕は感情を浪費している。


 僕は彼女の手を握る。暖かい。

 彼女が可笑しそうに笑う?


「『死んじゃうクン』なにしてるの?」

「……」

「手なんて握っちゃって、人肌恋しいの?」





「じゃあ、私が君に『死なないで欲しい』って言ったら、言うことを聞いてくれるの?」

「なんでもするよ。なんでもするから」

「ふうん。言質は取ったよ?」


 イタズラっぽい弾んだ声が、耳に衝く。

 彼女が言葉を続ける。


「じゃあまず、君は『生きる意志』を持つこと。できる?」

「……うん」


 そんなことはできないけれど、言われるがままに頷いた。そして、


「じゃあ、君は今日から『死なないクン』に改名だ」

「……うん」


 彼女に操られて、


「『死なないクン』、覚えてる? 圧倒的なもの、だよ」

「……」

「それがあれば君は生きることができるんだよ」


 いったいなにを……?


 顔と顔が近くなる。彼女の吐息が鼻にかかる。甘ったるい。


「圧倒的なもの、だよ?」


 ゆっくりと確実に近づいてきて、お互いの目を見つめあって。


 キスをした。


 されるがままに、キスをした。


 彼女の舌先が僕の唇をなめる。長い間、そういうことをした。


 頭がぼうっとして、変になりそうだった。ひとりでに涙が流れた。

 僕は多福感を感じてる。それはどうしようもなく否定できないことで、たぶん僕は幸せだった。


『好意』は『嫌悪』へと置き換わる、僕の概念。彼女を目の前にして、ずっと、誰を目の前にしたときよりも、苦しかった。たぶん、僕は彼女に惚れていた。


 本来ならこの『好意』だって『嫌悪』に置き換わるはずだった。でもこのキスからはそういうものを感じなかった。それほどまでに、圧倒的だったのだ。


 景色が、白と黒の景色が少しだけ晴れた。ほんの少しだけ、色が戻ってきている。

 世界は白と黒と、ほんのりとした赤と青と緑がある。肌色。


 ――でも、それで終わりだ。僕の死は確定していることで、このぐらいで僕の病気が治ることはない。


 それでも嬉しくて泣きそうになって、僕は彼女を抱きしめる。


 彼女の唇が離れていく。潤んだ瞳で、彼女は言う。


「ねえ、気づいてた?」

「なにが?」

「ずっと、好きだったんだよ」


 私を慰めてくれようとしたこと、あったよね?


「一緒にいるっていってくれたから」


 あの日、電車の駅で私を待ってくれていたよね?


「『死なないクン』、冷たく見えて意外とそうじゃないんだもん。私が苦しんでることに苦しんでた。でもそんなことないって、いつも自分に言い聞かせてたでしょ? ほとんど完璧に見える君が、感情がコントロールできなくなるぐらい、私のことを思ってくれた。君はね、自分で思ってるよりも優しいんだよ」


 切実な表情で、彼女はそんなことを言う。どうしても信じてもらいたいみたいに。僕が彼女の言葉を信用できないことを見抜いているみたいに。


 彼女が僕を抱きしめる。彼女は語る。


「最初に私が声をかけた時、私が傷つかないようにって気を使ってくれた。一緒に行ったカフェ、楽しかったよね? あの君の死んだ表情が今でもお気に入りなんだよ。私が遊園地言った時、げろ袋を紳士的に渡してくれたよね? あ、そうだ! 君、お化け屋敷に入った時、私が怖がってるの見て楽しんでたでしょ!」


 彼女の暖かな体温が伝わってくる。生きている人間。


「夏合宿、楽しかったよね。君は瞬君に水鉄砲でぼこぼこにやられてた。なに悔しがってるの? って感じだったけど、おもしろかったよ。バーベキュー、美味しかったよね。それに花火、すごく綺麗だった。花火を見ていた時、君は私と手を繋いだ。ロマンチックだったね?」


 彼女の声はとても元気で、でも途中から少しずつ小さくなっていって。

 ついには萎んで消えていった。


 すすり泣く声が聞こえる。僕らが思い出を語り合ったところで、結局僕らは死ぬ。


「私にとっては、それが圧倒的だった」


 彼女が僕を強く抱きしめる。


「好きだよ」と彼女は言った。


 心臓があり得ないぐらい早鐘を打ち始めた。それでも僕はなんとか落ち着いて、「僕も好きだよ」と言った。


 彼女が照れたように笑う。


「私、幸せだよ」

「僕も幸せだよ」

「このぬくもりは、言葉は、全部偽りなんかじゃない」

「全部消えてしまうものでも、確かにあったものだ」

「そうだね。最後の大切な思い出だ」


 ――圧倒的なもの。


 ありがと、ね? と彼女は笑った。


 彼女が僕から身を離す。僕の腕は彼女を求めるためにいまだに開いている。


 けれど――彼女は戻ってくる気配はなかった。

 彼女の表情は、依然としてよく見えない。笑っている。そう見える。しかし、それは歪んでいるようにも見える。


「圧倒的なもの、だよ?」


 キスは確かに圧倒的だった。色はほんのりと戻ってきた。幸せ、なんて概念、おそらくここ最近ずっと忘れていたものだった。


「ありがとう。これで僕は、少しは安らかに死ねるんだと思う」

「そっか、やっぱりまだ生きられるほど圧倒的なものを手に入れれなかったのか―。これで君を救う予定だったんだけどな」

「そうだね。もう末期だったから、そこまでは至れなかったよ。ごめんね」

「ううん、いいんだよ。さすがにこれで君が生きられるようにはなるとは思ってなかったしね」


 ……彼女は、笑っている?


 僕はいまだに、彼女の顔を認識することができない。


 とてつもなく不吉な予感。


「君は『死なないクン』だ」

「いや、君と一緒に死ぬよ。満足したから」

「違うよ? 死ぬのは私一人」


 彼女が高いフェンスをよじ登っていく。そしてその頂上で座る。


「ねえ……なにしてるの?」

「なにって、投身自殺だよ。私は今から死ぬ」

「僕は?」

「君は死なない」


 困惑した。なにか恐ろしいことが起きていると思った。


「待って」と僕は言う。


「待たないよ。君はこれから、圧倒的なものを手にするんだよ。――圧倒的なもの、だよ?」


 予感がある。


「なあ、冗談はよしてくれよ。いったいなにをしようとしてるんだ?」

「君は私に恋をした。私は君に恋をした。相思相愛。ロマンチックだよね。今から壊れちゃうんだけど」

「待てよ!」


 恐ろしい予感がした。彼女がしていることは確かに圧倒的だという気がした。たぶん、限りなく圧倒的だ。


 感情の高低さ。カタルシス的な手腕。幸せの絶頂から、絶望に突き落とす『圧倒的』。


「『死なないクン』は今から私が飛び降りるところを目撃する。そして落ちてひしゃげて潰れた私の死体を目にする。そう言うことだよ」


 わからない、わからない。彼女が何を考えているのか、皆目見当がつかない。

 理解できるはずなのに、頭がそれを拒絶する。


 彼女は頭を持ち上げて空を眺める。瞠目している。

 今にも落ちてしまうと、そう思った。でもなかなか彼女は動かない。


 ずっとそうやって彼女は固まっていた。僕も一歩も動けなかった。

 彼女を刺激したら落ちてしまいそうで、何もできなかった。


「戻ってきなよ。無理なんだよ、自殺なんて。勇気がいることだ。なあ、そんなことするなよ」

「……するよ。しなくちゃいけないの」


 震えながら彼女は言う。そんな彼女を見て、死ぬにはどれほどの勇気を出さなければならないのかを理解した。それはとても難しく、だからこそうまく誘導すれば、彼女をこちらの世界に引き戻せると、そう思った。


「なあ、人間はそう簡単に死ねないよ。自殺の意思なんて持てないようになってるんだ。君はこっちに戻ってきていいんだ」

「……」

「なあ――一緒に死のうよ」


 なんだろう。重ねた言葉が、すべて裏目に出ている気がする。

 吹き荒ぶ風がやけに気になる。彼女の黒髪が揺れている。


 彼女はいつだって、とても綺麗に死にたがる。


 それを変えるだなんて、僕にはできるのか?


 彼女は黙ったままだった。なにも喋らない。次に口を開いたときには、震えは止まっていた。断固とした意志があった。彼女が恐ろしいほどの執念を込めた目で、僕を見つめている。


「結局人はいずれ死ぬ」

「……だからって」

「だから今死ぬ。それでいいんだよ。私は最後の死を演出する。綺麗に死んで見せるの」


 強がるように言う彼女に向かって、僕はたぶん、言ってはならない一言を言い放ってしまった。


「――それが……本当に君の本心なの?」


 彼女が大きく目を見開いた。息を呑んだ。身動きが強制的に止められたみたいだった。

 現実迫観念症。心にダメージを受けた場合、それが身に直結する、病気。

 言い当てられたくないことを言われてしまったのか、なんなのか。彼女の表情から血の気が引いていった。


「……わたしは」

「……」

「……わたし……は……」


 どんどんどんどん、悪くなっていく。


「……死にたく、ない」


 顔は白く、幽霊のようで。つー、と零れる涙が、彼女の感情を象徴していて。


「死にたく……ないよ……」


 とても綺麗に死にたがる彼女。そう思っていた。



 ――でも、彼女は本当は死にたがっていなかった。


 そんなこと、知らなかった。当たり前のことだった。死にたがる人間は『異常者』だ。でも、あまりにも彼女は『綺麗に死にたい』という言葉を繰り返していて、それをその字面通りに、僕は受け取ってしまっていた。


 いつも笑顔で明るい奴が、どこかの暗がりで泣いている。

 仕事を頑張ってみんなを元気づけていた奴が、鬱になって仕事を辞めていく。


 笑わないと思っていたやつが実は家では笑っている。

 普段は大人しいやつが、大声を上げることだってある。


 それは物語的ではなく、現実的と呼ばれるもの。

 二律背反。ないまぜになっているのが現実である。善だって悪だって、世の中には存在している。


 混在していて、すべてが一定ではないのが現実。

 いつも笑顔ということは、それは作られているということだ。そいつが自分を物語的に組み立てているから、そういう演出をしただけなのだ。


 なんで僕は気づけなかったんだろう? 彼女の『綺麗に死にたい』は偽りの混じる物語だったのだ。

 彼女はいつだって心の中では、「死にたくない」と叫んでいて、それを必死に押し殺していただけだったのだ。


 僕はなんでそんなことさえ気づいてやれなかったんだ?


「死なないでくれ」と震える声で僕は言った。


「あの、ね」


彼女が泣きそうな顔をする。


「君は私のこと、これからも大好きでいてくれますか?」

「――あたりまえだろ」


手を伸ばして、彼女を見つめて。


「世界の誰より、今もこれからも君のことを愛してる」


そっか、と彼女はゆっくり目を閉じる。


「よかったぁ」


――瞬間、すべての音が消え去った。


余分なものは拭い去られ、僕は彼女にくぎ付けになった。



「――さよなら」



 彼女が精一杯微笑む。作られた笑顔。

 裏には圧倒的な恐怖がある。死にたくない、死にたくないと叫んでいる。最後に僕に苦悩の表情を見せまいと、自分を物語の中に置いている。演出をしている。


 ――彼女の体が、後ろに傾く。


「――待ってくれ!」


 言葉は現実を変えるに至らない。動作を変化させるには動作が必要であって、そこに意志は介在しない。

 どれだけ僕が願おうが、叫ぼうが、死んでほしくないと想おうが、待ってくれと口に出そうが。


 ――彼女は死ぬ。


 あっけなかった。時が止まるなんてことは起こらなかった。

 ただ彼女はフェンスの上から落ちていって、少しすればそこに人間が座っていたことすら疑わしく思えるほどだった。


 彼女は屋上にいない。屋上には僕だけが存在している。


 なにもかもが信じられなくて、僕は一歩一歩、フェンスに向かって進んでいく。

 彼女は突然消えた。それだけだ。僕が屋上の外を覗こうが、きっとなにもない。

 彼女がいたのは幻覚で、僕の病気が起こした錯覚だ。全部、全部嘘だ。そうに決まってる。……そう信じて。


 そうやって屋上から下を見下ろしてみれば――。


 そこには、濃い、濃い赤色が広がっていた。十階建てであるこの病院からは、それは小さな染みに見えた。


 でも、よく目を凝らせば、人型から赤が漏れていることがわかる。表情は髪に覆われて見えない――。


「あああ」


 よくわからなかった。ここは夢か現実か。目の前に広がっている光景は、なんなのか。


「ああ、ああああ」


 夢の中にいるみたいだった。

 僕の世界はほんの少しの色があった。それがどんどん濃くなっていって、世界が正常に戻っていく。


 ――圧倒的な光景が、僕の概念に変化を与える。


「……嘘に……決まってる」


 真実だった。この変えようのない現実こそが。

 世界は病気になる前の姿よりも、少しだけ色褪せた状態に移行した。僕は病気がほとんど完治し、軽度の色覚異常が残ったのみだということを直感的に理解した。限りなく正常な人間に戻ったのだと自覚した。圧倒的なものが、僕の病気を完治させた。僕はもう、病で死ぬことはない。


 もう僕は、目の前の光景を真実だと認めていた。


「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」


 彼女は屋上から落ちて死んだ。嘘みたいな現実だった。

 彼女は自分の死を、僕に見せつけた。


 僕は彼女が好きだった。

 彼女は僕が好きだった。


 それこそが、これがあったことが。


 本当に僕らは愛し合っていた。お互いを認めていた。キスをした。

 一瞬でそれは失われた。


「あああああああああああああああああああああああ!」


 喉の奥から、引き裂くような音が溢れ出す。一瞬で喉がボロボロになった、血の味がした。

 涙が止まらなかった。自分の顔を引っ掻いた。

 痛い痛いが止まらない。それは僕の心が発しているのか、体が発しているのか。

 ……よくわからない。


 わからない、わからない!


 なにが起きてるんだ? 死んだ? 嘘だろう?

 そんなこと、現実で起こっていいはずがない! 彼女は……僕のために死んだ?


 僕の病気を、治すために……?


 たぶん、僕はこの時、納得した。優しい彼女が、僕のことを好きだと言ってくれた彼女が、ここに確かにいた。彼女を確かに抱きしめた。それは紛い物ではなく、真実。

 だからこそ、彼女が僕のために死んだということは、恐ろしいほどの説得力があった。


 フェンスを掴んで、歯ぎしりをする。思い切り掴んで、壊れてしまえと願う。

 声はとっくに枯れていて、激情だけが僕の体を支配している。

 体は感情についてこない。感情だけが、僕の体で荒れている。


 なんで、なんでなんだよと言いたかった。言葉が足りなかった。彼女と一緒にいれた時間は短すぎた。いくらでも付き合って、平凡に喜んでいたかった。また遊園地にでも行きたかった。きっと僕は彼女をお化け屋敷に連れ込むだろう。そして彼女が怖がる姿を見て楽しむのだ。彼女が僕に飛びついて、僕は困ったように笑うのだ。きっと、彼女はその時拗ねるだろう。


 ――なんて虚しい空想なんだろう。


 決して叶わないのに、考えてしまう。彼女としたかったことが、いくらでも思いついてしまう。


 僕は一人で泣いている。

 屋上での対決は終わった。人生というゲームを、彼女はひっくり返した。死ぬはずだった僕を、禁じ手を使うことによって救った。

 対決して、決着、だった。


 僕は地上に落ちた彼女の死体を眺めている。もう見たくないのに、目が離せない。

 僕の世界は決定的に欠けている。再生が中途半端で、気持ち悪く思える。


 ――色褪せた世界に、僕はいる。


 なにもかもが認められなくて、認めたくて、僕は抵抗をする。縋るように、願うように動作を実行する。なにかをすれば現実が変わってくれるんだって、根拠もなく信じた。

 彼女は生きていると信じたかった。返事が欲しかったから、僕は――。


「ねえ」


 こんな絶望的な世界で、


「ねえ……」


 この色褪せた世界で――


「ねえ……継葉?」


 ――君の名を呼ぶ。


 今まで彼女の名を口にしたことがなかった。『死んじゃうちゃん』というものを象徴的に使いまわして、彼女と向き合ってこなかった。

 象徴的な名前を使った日常を気に入っていた。


 返事は返ってこなかった。声は虚無へと還っていった。

 何の意味もなかった。なにもできやしなかった。彼女の名を呼んだところで、彼女は戻ってこない……。


 それはあまりにも当たり前で、妥当で、現実的だった。魔法なんてない。王子様が姫の名を呼んで目が覚めるのは物語だからだ。僕が生きる現実ではそんなことは起こりえない。


 継葉、継葉、と何度も何度も彼女の名を口にする。しかし、彼女は死んでいた。


 ◇


 色褪せた世界にある空のコントラストは汚らしくて吐き気がした。雨が降ってくる。

 僕は一歩も動けない。彼女の死体に釘付けで、見たくもないのにそれだけを凝視している。


 雨が僕の体に降り注ぐ。取り繕う余裕がなかった。だから僕はひそかに雨に感謝した。

 涙は雨と交じり、どれが本物なのかわからなくなっている。


 ――背後で扉が開く音がした。


 屋上の扉。


 ――そこに立っていたのは、鷹野瞬だった。


「よお、大丈夫か」

「……」

「……ごめんな」


 彼が一歩踏み出せば、雨降り注ぐないまぜの世界へ。

 みるみるうちに彼はずぶ濡れになっていく。僕を嘲笑いに来たのか、なんなのか。彼の目的がわからない。


 彼は僕の背後に立った。フェンスの間から彼女の死体を覗き続ける僕の肩に手を置いた。


「全部俺が仕組んだことなんだ。恨んでくれ」

「……」

「夏合宿の少し前から、清水継葉と俺は結託してた。お前の病気が治る可能性があるとわかった時からだった。その時から、こうなるように脚本を組んだ。俺がこうなるように演出した」


 彼は語り始める。

 彼の言っていることは要領を得なかったが、聞くに彼女の死は鷹野瞬が仕組んだことであり、噂の流布はその布石であり、彼女が僕の目の前で死ぬことを考案したのはすべて彼の考えだというのだ。

 僕の病気が治る可能性があることを、清水継葉は鷹野瞬に伝えた。彼は彼女と連携を取り、夏合宿で僕に花火を見せて病気の進行が止まることを期待した。失敗したから次の計画に移っていった。どうしようもなかったから、彼女が僕の目の前で死ぬことを、鷹野瞬は提案した。

 彼女には自殺する勇気がなかった。だから頼んで、鷹野瞬に手助けをしてもらった。彼女は鷹野瞬に自分の居場所を奪ってもらうことを条件に、僕の目の前で死ぬことを了承した。それからというものの、鷹野瞬はたびたび僕を焚きつけた。『どうでもいい』『関係ない』は間違いだ。お前は矛盾している。大事なものがあるはずだ。何度も何度も僕に言い、最後に屋上で僕から『どうでもいい』『関係ない』を使えないようにと剥ぎ取った。


 ……でもそれがいったいなんだっていうんだろう?


 どうでもよかった。なにが真実だろうが、偽りだろうが、どうせ彼女は戻ってこない。

 もう死んだのだ。なにが起ころうが大した意味はない。


 死んだ目でただ頷く僕に、鷹野瞬はやりきれない、という表情をする。


「なあ、おまえ……怒れよ。俺が清水継葉を巻き込んで、お前を陥れたんだ。お前の目の前で死ぬように仕組んだ。なあ……お前、俺を殺せよ」

「……」

「なんでどうでもよさそうにするんだよ。憎めよ、憤れよ、殴ってくれよ。お前にはその権利があるんだ。なあ、死にたいだなんて、思わないでくれよ」


 どうでもよかった。

 僕は死にたがっているんだろうか? 確証はないが、たぶんそうなのだろう。

 終わることを望んでた。僕はこんな風に生きたくなかった。あまりにも傷が深すぎて、早く無痛になりたかった。

 彼女のいない世界を望んだわけではなかった。第一に、僕には生きる気力が欠けていた。


 死にたがっていたのだ。


 彼女とまるで違うな、と思う。彼女は『綺麗に死にたい』と言っていながら、実はまったくそう思っていなかった。生きることを望んでた。

 僕はまったく気づかなかった。彼女を死にたがりと決めつけた。


 彼女の思いを、苦痛を、悲しみを、やるせなさを。


 想像しなかった。共感しなかった。だから僕は彼女のことが理解できずに、彼女は孤独に死んでいった。『一緒に死のうね』を果たせなかった。


 ああだめだ。気づけば彼女のことばかり考えてしまう。彼女がどれぐらい苦しかったのかを想像してしまう。きっと彼女はいつも自分に嘘をついて、『死にたい』と思い込もうとして、されどそんなことはできなくて。

 夜にそのことを意識してしまって、眠れなくなってしまって、泣いてしまって。


 彼女が飛び降りる瞬間、僕は彼女の本心を聞いてしまった。彼女は泣きながら「死にたくない」と答えた。恐怖でいっぱいのまま、それでも僕を救うために屋上から飛び降りた。

 狂いそうなぐらい怖かっただろうに。死ぬ瞬間まで、怯え続けただろうに。


 ――最低だ。


 僕は彼女を最後の最後まで追い詰めて苦しめた。彼女は苦しみながら死んでいった。


「おい!」と鷹野瞬が怒鳴る。目が赤い。雨のせいで、彼は泣いているように見えた。いや、本当に泣いているのかも。


「清水継葉はお前が生きることを望んだ! おまえはどうするんだ! このまま死ぬのか?」

「……」

「なんとか言ってくれよ。お前は生きるべきなんだよ。なあ、頼むよ。死のうとしないでくれ」


 僕は単純な答えを言った。


「無理だ」


 できない、が答えだった。


 それだけで、圧倒されたかのように鷹野瞬は言葉に詰まる。彼にはきっと、僕の気持ちがよくわかる。なぜだろう。共感なんてできっこないと思っているはずなのに、なぜだか彼は僕のことをよく理解してくれている気がした。


「無理じゃない」と彼は語気を荒らげる。


「お前は生きることを望まれていたんだ。清水継葉はお前のことが好きだった。死ねるほどに。怖くて仕方がないだろうに、お前のために死ぬことを選んだ」

「……」

「お前はきっと、本心から清水継葉のことが好きだった。なあ、お前はどうするんだ? お前はあり得ないぐらいの愛を受け取ったんだ。愛されたんだ。だからお前には生きる義務がある。俺にそんなことをいう資格はないんだろう。けどお前は、清水継葉の気持ちに答えなくちゃならないんだよ」


 彼女がいない世界。色褪せた世界。

 彼女はもう死んでいるのに、彼女の気持ちを尊重しろっていうのか?


 全身に力が籠る。否定しようと足掻く。でも、わかっていた。


 彼は僕の隣に並んだ。彼女の死体を見た。

 ごめん、と彼は呟いた。


「なあ、俺がお前と一緒にいるから」

「……」

「辛いだろうが、俺がお前を救って見せるから。清水継葉の意思を、俺が遂行するから。お前がいくら絶望していても、俺がお前を生かすから」


 ――だから、今は黙ってついて来て欲しいんだ。


「なあ、しばらく俺はお前の傍にいるよ。お前の傷がいえたら、遊ぼうぜ。楽しいことをするんだ。お前は清水継葉を忘れられないだろう。でも、少しはましになるはずだ」

「……」

「少しの間でいいんだ。少しだけ、生きていてくれ」


 僕には生きる気力がなかった。

 けれど脳みそは動いていた。彼女の考えを、願いを、想像した。

 たぶん、僕は生きなければならなかった。僕は彼女に『生きることを望まれていた』。


歯を食いしばって、僕は鷹野瞬を殴りつけた。

どさり、と人一人分の重さの音。


「恨む、恨むよ。二人とも。絶対に許さない。なんで僕をこんなにも苦しめるんだよ」

「……ごめん」

「そんな言葉なんかじゃ――」


 そこまで言って、今度は僕が詰まる番だった。

 彼の誠意が、僕のことを死なせないようにしてくれていることが伝わってしまっていた。僕のために彼は立ち回った。僕は二人の人間から『生きることを望まれていた』。


「お前は生きることを望まれているんだ。だから生きなきゃならないんだ」と鷹野瞬は繰り返す。


 僕は――。


「なあ瞬、正論は、よしてくれよ」


 僕は、生きなければならない。

 例えどれほど死にたいと願っていても。


 ◇


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