7
最近の日々は気だるげだ。
とても、とても。
でもそれこそが僕にとっての正常で、異常ではない。
最後の鐘がなった学校では、幾人もの生徒達がせわしげに右往左往していた。
誰も彼もが『次』のために必死だ。部活のために、はやく家に帰るために。
それは希望にあふれた行動だ、と僕は思う。
次のために行動できる人たちはすごいと思う。生きる希望に満ち溢れた人々だ。もちろん、彼らは日々を生きることを楽しさと辛さのないまぜになっているものだと理解しているだろう。
僕らは高三の受験生。特に、勉強ばかりの生活を送ることに嫌気を指す人はとても多い。でも、そいつらの根底にあるのは希望だ。自らの躍進を願っている。勉強してよいものを得ようと頑張っている。それはとてもすごいことだ。敵わないと思う。
その一方で、僕は体を動かす気力すらない。彼らの方が立派で、僕は落ちぶれている。そんなことは、わかりきっている。
生徒たちが去っていく。教室は空へと近づいていく。それでも僕は、その場から一歩たりとも動かなかった。体の動かし方がわからなかった。
疎ましい周囲の人間を僕は眺め、しかし彼らは気にもしない。
そうして、教室は僕と、あと一人を除いて空になった。
そいつは、いつもなら誰かに帰りを誘われるはずなのに、今日はそんな出来事が起こらなかった。
「『死んじゃうクン』はなんでまだ教室にいるの?」
彼女は気安く僕に話しかけてくる。
「……家に帰るよ。でも今は休憩してるんだ」
「長い休憩だね」
たしかに、と僕は思う。
僕はつまらなげに空の教室を見渡す。
「『死んじゃうちゃん』はなんでまだここにいるの? 人気者の君は、いつもなら人に囲まれながら帰宅するはずなのに」
「それは偏見だね。私は嫌われてるよ。だから一人ぼっちなんだ」
どうだか、と僕は思う。
彼女は肩を揺らして笑う。
「最近なにもかもやる気がでないね?」
「知ったような口、きかないでくれる?」
「じゃあやる気はあるの?」
「ないけど」
「じゃあ、やる気のない自分への抵抗、始めない?」
彼女はたまに意味の分からないことを言う。
「始めようよ!」
自己完結的な彼女は勝手にエンジンをかけ始める。しかもその走行の先にいるのが僕なので、こちらとしても動かないわけにはいかない。
「よーし、なんかやろ! ……なんで急に帰る用意を始めるの?」
「ちょっと用事思い出して」
「うそでしょ? 知ってる」
「……」
◇
気だるげな日々を革命するために、彼女がとった行動は以下のような事柄だった。
「新しい部活を創造するぞー! 同好会でもよし!」
彼女は頭が悪かった。
そもそも、僕らは受験生でありそんなものは認められるはずがない。
しかし、彼女は僕を引き連れて職員室に突撃をかまし、結果というものを手に入れてしまった。
それが起きたのが三日前。
今、僕らは放課後の学校で、一室を借り受けている。
「作ってしまったね? 勉強同好会」
「……めちゃくちゃ頭悪い行動をし始めたと思ったら、君もずいぶんとしたたかだよね」
彼女は高三の今の時期から、勉強できる環境づくりの重要性を教員に説いた。
最初はしぶい顔をしていた教員も、正論から始まる彼女の切り口に言い返すことはできなかった。そしてなにより、彼女は学校の教員からの信頼が厚い人間だったのだ。
彼女は優等生という人種である。頭、悪そうなのに。
「先生の手を煩わせずに、自分で組織を作って運営する。しかも、放課後の教室なんて余りまくってる。そして『勉強のために』という大義名分。頑張ったよね、『死んじゃうちゃん』は。高三で同好会を作るなんて、なかなかできることじゃないと思うよ」
「褒めるなよー、えへへ」
八割嫌味だ。
「でもこの同好会、二人しか今はいないんだよね。もっと人員を増やしたい! 『死んじゃうクン』の友達は呼べない?」
「僕が一人しか友達いないのわかってて聞いてる?」
「あー、そうだったねー」
失礼な奴だ。
「でも大丈夫だよ。私も友達いないし」
「全然大丈夫じゃないじゃん。今の同好会は仮の物で、あと二人は人を集めて来いって、先生に言われてたでしょ」
「ひょっとして詰み?」
どこまでも無計画で無鉄砲な人間。それが彼女という存在だ。
「第一、教室にいるだけなら同好会なんて作らなくていいでしょ」
「そうだね、君と二人っきりでラブラブするのもいいかも」
「つまり君は同好会を作ることでなにかをしたかったはずなんだ。それを教えてほしい」
「女の子がラブラブって言ったんだから無視しないでくれる? そうだねー。たしかに、私はやりたいことがあったな。それは……」
彼女が立ち上がる。
「夏合宿!」
……あんまりにも脈絡がなさ過ぎて、僕は普通にびっくりした。
「あははー、間抜け面してる~」
「……怒るよ」
「ごめんなさい」
ともあれ。
「……え、ほんとにそれだけだったの? なにかあると思ってたんだけど」
「いや、やりたいじゃん夏合宿。ていうかね、死ぬ前に思い出が欲しかったんだよね。でも友達いなくなっちゃうし、寂しいし、最近私居場所ないし、だからこういう場を作ってみました!」
「一夏の思い出作りと」
「そうそう!」
まあ、彼女にも彼女なりの理由があったらしい。
僕らがそんな話をしていると、教室の扉が開いた。そこから現れたのは鷹野瞬。
彼は僕と彼女を交互に見ると、考え込むように俯き、重い苦しい声を出した。
「なんだデートか。邪魔したな、すまん」
そして扉を閉める。
僕らはなんの反応もしなかった。
「なにあれ」と僕が言ってみせる。
「妖精でしょ」といかにも適当なことを彼女は言う。
ところで、教室には扉が二つある。右側に前と後ろ一つずつ。
鷹野瞬は後ろの方の扉を開けて、また僕らに声をかけてきた。
「なあ、無反応は寂しいんだが。デートって勘違いされたら、普通必死になって否定してこないか?」
「昭和の恋愛漫画の読みすぎじゃない?」
「てめえ、もし俺が勘違いしておまえが好きあってるって噂を広めたらどうするつもりだったんだ?」
「君はそんなことするようなやつじゃない」
彼は唸ると、僕と彼女がいる位置にやってきて、近くの椅子を引いて座り込んだ。
「それで、おまえはなんで俺を呼んだんだ?」
その言葉に反応して、彼女が僕の方を輝いた眼で見つめてくる。
「もしかして君って……すごくいいやつ?」
「……」
「なにっ! 優しいところあるじゃん! このっこのっ! 同好会の人数増やすために、唯一の友達を呼んでくれたの! 私のために! 唯一の友達をっ!」
「……そうだね」
唯一の友達唯一の友達うるさい。
鷹野瞬は呆れたようすで僕と彼女を見ていた。彼は現在、自分がなぜ呼ばれたのかわかっていない。だがなぜか、自分が歓迎されているということを感じ取り、困惑している。
「……よくわかんないけど、おまえら想像以上に仲いいんだな。殺し合いをする仲なのかな、とか思ってた」
「将来を誓い合う仲だよ」
「そっか……。嫉妬しちゃうな。お前は俺だけだと思ってたのに」
「普段そういうこと言わないのに、急にどうしたの?」
「いや、この同好会? とやらにはこういう雰囲気が必要なのかなって思って。わかるだろ?」
わからなかった。
「よーし! あと一人! あと一人だ! それで私の同好会が完成する!」
「いつから君のものになったの?」
「え? 私が部長だよ?」
ここで鷹野瞬が会話に入り込んでくる。元々面識でもあるのか? と思うぐらいに馴れ馴れしく。
「それは民主主義的に決めるべきだな」
「え? 私部長やりたい……」
「でも、なあ?」
「うん、民主主義は必要だよ。僕はそう思う」
「……死んじゃうクン、仲いいからって、そういうのずるくない?」
「いや、おまえら二人の方が仲いいだろ」
「やめてくれ。僕は誰とも仲良くないから」
状況が混沌を呈し始めたところで、僕はストップをかける。
「あと一人の部員、どうする?」
「ああ、俺の妹連れてこようか?」
「……新しい君! 有能だね!」
とんとん拍子に、進んでいく。
◇
ある日、屋上で鷹野瞬が言った。
たぶん二か月前ぐらいのことだったか。よく覚えていない。
「ムカつくんだ。世の中のなにもかもが」
それは怒りとやるせなさと失意が混じった声だった。
「わからない。わからないんだ。なんでどいつもこいつも、まともに生きてられんだ? 生きる意味を、なんでみんな見つけているんだ? ……わからないんだ。俺からみた『皆』は生きる意味なんて持っていないように見える。なのに、なんでこうも辛そうじゃないんだ?」
意味がないのに生き続けることは苦痛でしかない。無意味からは行動を取り出すことができない。『目的』『理由』『希望』が人を動かすのであって、それなしに人は動作をし得ない。
死ぬのが怖いから生きている奴らだっている。でも、そんなやつらは案外希少種だ。
そう、彼は語る。
「みんなみんな、希望を持って生きているように見える。いつかよくなるって、大人になればましになるって、今よりもよくなるんだって、馬鹿みたいに信じ込んでる。俺はそのことが怖いよ。こいつらはいったいどこまで愚かなんだろう? そんなことばかり思う」
彼の意見は、あまりにも一方的な意見だった。独りよがりで、自分視点のみからくる結論だった。
でも、それに当てはまる事柄があるのは事実だ。『皆』は生きる意味を持っているのか、持っていないのかにかかわらず、平気に生きている。そう見える。
……彼のやり方。
生きる意味を持っている者のことを彼は馬鹿にして、見下して、見くびる。そんなものに意味があるのはまやかしだって、決めつける。人に優しくする。人を助ける。自分が楽しくなる。そんなものは、死後にすべて消えてしまうのだと嘲笑う。それは妄信でしかないと、『わかってない』と判決を下す。
一方で、生きる意味を持っていないやつらのことだって、彼は否定する。意味もないのに生きられる奴は異常だ。意味がないのに生きられるのは、頭が空っぽだからだ。意味がないことを自覚しつつ生きる奴は、常に空虚感に支配される。そうならない奴は、頭が空っぽな奴で、頭が悪くて想像というものを知らない奴らだ。劣っている馬鹿な人種だ。
そんな風に。
彼はすべてを否定する。意味があることを否定し、意味がないことに賛同する。
意味がないのに生きられることは矛盾だと彼は語気を荒げる。
果たして、僕は彼に反論をする。誰でも主張できる一般論を言い募る、対話者を気取る。
「みんな本心を隠してるんだと思うよ。苦しいけど、苦しくないふりをして生きてるんだ。誰だって不安がっている。君が言うほど、『皆』は何も考えてないわけじゃない」
「本当に?」
ーー死にたがるような奴らは異常者だとみんな言うんだぜ。
考えているなら皆死にたがるはずだ。
『人は心のどこかで死にたがっている』。
そういう言葉を知っている。でもそれは事実か? どこかって、いったいどこのことだ? ほとんど表面化していないじゃないか?
だから俺はその説を否定する。
「『皆』はな、なにかしらの希望を持っているんだよ。生き意味を無理やり見出してるんだ。明日の楽しみを、一週間後の約束を。お金を貯めて、欲しいものを買うことを」
――それはまやかしに過ぎない。
唇を噛み締め、憤りながら彼は宣言する。
希望をもって生きること、前進すること。
ロバの鼻面に人参をぶら下げて、食欲をそそる。人参好きのロバは人参に食いつこうとして前進する、人参はロバに括りつけられているためロバと共に移動する、ロバはなんとか人参に食いつこうとして走り続ける。ずっと、ずっと。
――ロバの鼻先に人参をぶら下げること。
『希望』を持った人間はそれを手に入れようと生きる。人生においての前進を行い続ける。
でも、希望はまやかしだ。鼻先でぶら下がり続けるそれは手に入らない。そうやって嘘をついて、誤魔化して、幻想を見て、人は生き続けている。
それは愚かだと、彼は言う。
「それで人が生きられるなら、それでいいじゃないか」
「だが、そこに意味はない。生きる理由は、全部誤魔化しだ」
「いったいそれのなにが悪い? 人は生きて生きて死ぬ。それをただ繰り返す。それだけだ」
「悪いなんて、いってねえよ」
ただ、と彼は言う。
「軽蔑するんだよ。相容れねえんだよ。誤魔化しの中で幸せに生きられるなんて、俺にはできないんだよ。……羨ましいのかもしれないな? 幸せな奴らが。俺にできないことができる奴らのことが」
彼は心底悔しそうにそう言った。
怒っていた、嘆いていた。なんで自分は『皆』とは違うんだって、本気で憤っていた。
残念ながら、彼は死にたがりで、それはすなわち世間一般で言う『異常者』だ。
彼の意見はすべて間違っている。すべて受け入れられることがない。
「俺に賛同しない奴らが、憎らしいよ。全員殺してやりたい。俺のことを理解できないやつらのことが、俺にはちっとも理解できない。でもそれが現実ってもんだ。そうだ、全部俺が間違ってる。だから憎いんだ」
彼は怒りを原動力にして生きている。そんな気がする。
世の中に対しての不満を糧に、彼は生き続けている。そんな彼のことをきっと世間は子供だとか、幼稚だとか言って笑うのだろう。
彼は世間に対しての反逆者だ。一人ぼっちの抵抗者。
彼はつまはじきものだ。彼が全力で世界を見放した時、きっと彼は自殺する。
でもそれは敗北だから、彼は死んでいない。ただそれだけの理由。
けど、その理由はいつまで持つんだろう?
彼はすでに、世の中に対しての執着をほとんど捨てているように見える。
もう期待していなかった。失望していた。見くびって見下して見限って、誰にも理解を求めていなかった。
――ふっ、と彼の雰囲気が変わる。
熱が冷めたような感覚。
「バカなこと話したな。でも、お前は俺の考えをすべて理解してるんだろうなって思うよ」
「どうだか」
「ずっと思ってたんだ。お前は俺より強い」
ずっと思ってた、と彼は繰り返す。
「俺のこの考えは、全部お前の後追いな気がするよ」
「……」
「なあ、覚えてるか? 他人が落とした財布を、おまえが拾って渡したって話」
俺が拾おうとした。けれど、できなかった。
周りがやってくれるだろうって、日和った。言い訳だった。
「なあ、覚えてるか? お前が迷子の子供を助けた話」
泣いていた子供をなだめに行って、両親を探してあげた。
俺だって子供を助けようとした。でも、実際にやったのはお前だった。たぶん、俺はやる気になってただけで、実際にはやらない、やれないような、卑劣なやつだった。
「なあ――」
「――もうやめたら?」
彼が抱いているのは幻想だ。
確かに、それらは僕が行った行動だった。でも、だからなんだっていうんだろう?
そういうことを言われるのは、不愉快だ。だって、今はそんな過去の自分のことが好きではないから。
「お前のこと、本当にすごい奴だと思ったんだ」
それでも彼は、なおも言葉を続ける。
「俺にできないことを、俺がやりたかったことをお前はやり続けてきた。偶然だろうが、何度も。そして今、お前は心を閉じている。世界を見くびって見下して見限って、独立している。たぶん、俺はお前に負けている」
「勝ち負けなんてないよ」
「俺にとっては違うんだよ」
彼はいつも、僕のことを羨ましがる。
「お前にとって、俺はとるに足らない奴なんだろうな。敵対にすら値しない奴だ」
――おまえは俺を対等と見ていない。
「お前は俺と対決しないだろう。敵対ができない状況だから。決着だっていつまでたってもつかない」
――お前と同じ舞台に上がってやる。
お前の思考を理解してやる。考えてやる。
お前と、敵対して、対決して、決着を、つけてやる。
いつか、いつか。
それを聞いて、僕はなんとも思わなかった。
確かに僕は彼を軽んじている。世の中のすべてがどうでもいいから、彼のことだってどうでもよかった。
◇
鷹野瞬が『勉強同好会』の部員として加わった翌日、僕らは勉強同好会のメンバーとして教室に集まっていた。
この場にいるのは、彼女と鷹野瞬と僕と、それと鷹野瞬の妹だ。
「ようこそ! 勉強同好会へ!」
まず先発として、祝砲の大声を彼女が上げる。
流れるような動作でぽたぽたせんべいとポッキーを妹に手渡した。
「そんなもの学校に持ってきちゃダメでしよ」
僕が律儀に注意すると、「この人は私たちの同好会の取締役だから、注意してね!」と適当なことを言われる。僕は今日、あまりしゃべらないでいることに決めた。
「あ、ありがとうございます」
鷹野瞬の妹は、戸惑いながらも彼女のお菓子セットを受け取った。
長いまつ毛に、強気そうに吊り上がった眼。身長は平均的なもので、彼女よりも少し低いぐらい。
やはり兄弟は似るのだろう。鷹野瞬の顔の造形が整っているように、その妹もそこそこの顔の造形をお持ちのようだ。
借りてきた猫のように大人しく、妹は鷹野瞬の隣から離れない。
「それとねー、君のお兄さんが副部長で、私が部長! 妹ちゃんはなにしたい? 書記? 会計士?」
なにげに彼女が部長になっている。
「えっと……勉強、ですかね? ここってそういうところであってますよね……?」
彼女が雷に打たれたような顔をした。忘れていた、と言わんばかりに。
ごほん、と鷹野瞬が咳払い。
「あー、あのな。ここはその、思い出を作る場所だ。勉強をしないわけじゃないんだが……そうだな、ここは基本的に遊ぶところだ」
「お兄ちゃん、なにいってるの……?」
彼は気まずげに頭を掻く。兄とは違い、どうやら妹の方は真面目な生徒のようだ。
「まあその、とりあえず座ってくれ。トランプしよう」
「お兄ちゃん、勉強は?」
「みんなと仲良くするのが優先だ」
もっともらしいことを言いながら、彼は妹を座らせた。
おもむろに彼はトランプを取り出し、カードを配り始める(なんでそんなものをもってるんだ?)。
大富豪をやることになる。ゲームはなんどか続いた。意外にも彼女が一番強く、鷹野瞬が一番弱かった。
「なんだよこれ!」と憤慨したように、彼はカードを投げ出す。三回連続の大貧民。
「やっぱ民主主義はだめだな。というか資本主義がだめだ。やっぱり時代は共産主義じゃねえと――」
「お兄ちゃん? ここって、勉強するためのところなんだよね?」
「えっと、そういう意味も含まれていなくはないな」
「……ここって、サボり部なんだね?」
おお、珍しい。
僕は感動しながら二人のやり取りを見つめている。
鷹野瞬が押されている。妹には形無しということだろうか? いつも気丈で、いつも屈しず、いつも世の中の不平不満に反発するような彼が、妹には勝てない。なんともまあ、面白い。
「でもまあ、おまえ最近入院してただろ? いままで続けてた部活もやめちまったし、せっかくなら新しいなにかを始めてもいいかな、と思ってさ」
「もしかしてさ、お兄ちゃん」
「な、なんだ?」
この鷹野瞬という男、妹に対して態度が弱すぎる。
「……もしかしてお兄ちゃん、私のために居心地のいいところを探してくれたの?」
「え?」
「うん、いいよ私。お兄ちゃんと同じ同好会ってのも悪くないし、楽しそう。それがサボり部ってのはどうなのかと思うけど、誰かに迷惑をかけてるわけじゃないし、いいかもね」
けっこうズバズバいう女の子だ。
鷹野瞬はたじろいでいる。
「……まあ、そうだな。悪くない選択だ。うん。おまえの自由だ。入ってくれるなら、俺は嬉しいかな。うん」
「うん! じゃあそう言うことで、部長、取り取締役さん、よろしくお願いします」
流れで勝手に取締役にされて不服だが、うなずいて入部を承諾しておく。
彼女は輝く笑顔で万歳をした。本当に嬉しそうに。にこにこと彼女は妹の手を握る。
「これからよろしくね! いい思い出を作ろ!」
「えっと、はい」
気圧されたような反応だが、まんざらでもなさそうだ。
そんなやりとりのまま、談合が始まる。身の上話とか、妹の部活のこととか。僕らの病気のことは話さなかった。しかし、鷹野瞬は僕らのことを知っているし、彼女も鷹野瞬に自分のことを知られていることを知っている。
妹だけが知らないのもどうかと思うが、別に話してどうにかなるようなものでもない。伏せておくのが無難だろう。彼女も、基本的には自分の病気のことを知られたがらないようだし。
「あ、そろそろ私行かなくちゃ」
診察の時間だろう。時間を見て驚いた彼女は、いそいそと帰りの準備を始める。
「じゃあ、俺は屋上行ってくるわ」
「お兄ちゃんって、ほんとに屋上好きだよね」
「屋上に行かないと俺は死ぬ生き物だから」
「タバコでしょ?」
「……」
「いいよ、家族はみんな気づいてるし、いまさら何にも言わないよ。でもまあ、ほどほどに、ね?」
「……おう。心配かけて悪い」
気まずげに鷹野瞬は屋上へ昇りに行った。
教室は妹と僕二人きりになる。
「じゃあ、僕も帰るよ」
「――待って」
その声に込められた力の強さに、僕は持ち上げかけたカバンを降ろす。
――妹は、僕を睨むような目で見ていた。
生まれ持った鋭い目つきが、僕に向かって突き刺さる。『敵』として僕は認識されている。
「あなたですよね?」
「なにが?」
「お兄ちゃんを苦しめてる人」
どうなのだろう、と僕は思う。それはある意味で当てはまると言えば当てはまるし、そうでもないとも言える。だがまあ、妹にとってはそれが真実なのだろう。
「そうなのかもね」
「誤魔化さないでよ」
もはや口調から敬語は取り払われていた。妹は僕のことを上級生と思っていないし、同じ同好会の先輩としても認めていないだろう。
「聞きたいことが、あるの」
そうか、と思う。たぶん、妹が同好会に来たのは、僕と会うためだ。一目見て、文句を言いたかったからだ。だが、文句を言ったところでいったい何になるんだろう? きっと何も変わらない。
まあ、どうでもいいことだ。
「私、あなたの病気のことは知ってる。あなたが辛いのもわかる。でも、だからといって私のお兄ちゃんを巻き込まないでくれる?」
「なんのことだかさっぱりだ」
「……とぼけないで。お兄ちゃんは、家ではそういうそぶりを見せないけど……死にたがってる。なにがいけないんだろうって、ずっと考えてた」
目の敵として見られている感触。
僕の対応が気に食わないのか、敵意は益々増していく。
「昔はこうじゃなかった。あなたに……アンタに会ってから、お兄ちゃんは変わった。皮肉っぽくなって、思いつめたような顔をするようになって――自殺しかねないぐらいになった。あんた、いったい私のお兄ちゃんになにしたの?」
「君の言うことにはまるで妥当性がない。全部推測だろう?」
なにをした、なにかをした。
まるで覚えのない話だ。水掛け論ならいくらでもできる。僕にはまるで関係のない話だ。
――本当に?
「もうすぐ死んでしまう病人が何を考えているのか、私にはわからない、けど。でも、死ぬことについて考える時間はいくらでもあるんでしょう? その中で魅惑的ななにかでも思いついた? 生きるより死んだ方がいいって、口先うまくお兄ちゃんに囁いたんでしょう!」
「……」
――どうだか。
暗い、暗い感情が昇りくる。僕ではない何か。変質してしまった自分。
昔からこの暗いなにかを、ずっと抱えていた気がする。それが表面にまででてくるようになったのは、僕が考え事をしすぎたからなのか。それとも、僕の中のなにかの概念が変化してしまって、こんな怪物が生まれてしまったのか。
――僕には相手が考えていることがよくわかる。
それが怪物の一端。
「あんたが――」
「――だったらどうだっていうんだ?」
別に、因縁を付けられて腹を立てたわけじゃない。ただ、幼稚だと思っただけだ。
「鷹野瞬が死にたがっている。それが僕のせい? ほんとうに?」
煩わしかった。放っておいてほしかった。目の前の人間が邪魔だと思った。
傷つこうが構わないと、そう思った。
「なんで自分のせいだって思えないのか、甚だしいぐらいに疑問だよ。僕のせい、僕のせいだって?」
何を言っているんだ、という目付きが向けられる。
理解しようとしないものの目付き。
加害者になってもそれを自覚しない者の目付き。
きっと、こういうやつが無自覚に正義を押し付ける。間違ってるって、誰かを非難して相手が言い返しても、首をかしげるだけで取り合わない。
僕は、妹の一句一語すべてに腹が立った。病人と言ってくることが、それを理由にすることが。
僕のことを何だと思ってるんだ? まあ、どうでもいいと思っているんだろう。
それはお互い様というものだ。
でも、無自覚に人を傷つける理由にはならない。それは僕がいるような、暗いクズの掃きだめまで落とされたって文句は言えない重罪だ。
「鷹野瞬は死にたがっている。彼は恵まれているのに。ねえ、君は恵まれていることこそが、辛いんだって考えなかったのかな。思わなかったんだろうね」
「なにをいって」
「期待されてるからだよ。正しい自分を期待する、親しい誰かの声は重荷なんだよ」
僕は妹の目を覗き込む。
僕には妹のことがよくわかる。
「――君、本当は、兄がタバコを吸うことが嫌なんだろ?」
「……あ」
「彼はそのことをよくわかってる。口に出して注意したことがない? タバコを吸うことを認めている? でも、心の中では散々非難しているはずだ。影で悪く思って、心底やめてほしいと考えたはずだ。正しくない兄が、嫌でたまらなかったはずだ」
そう、たぶんこの妹は、世間の一般的な観念にそって鑑みれば、珍しいぐらいに兄のことが好きだった。
兄に優しくした。一度たりとも咎めたりはしなかった。
でも、心の中では咎めていることを鷹野瞬は知っていた。彼は自分のことを低俗・下劣だと感じてしまう人種だ。公正を期待する家族の心情を知る彼は、きっと辛かった。
「君、いまの兄がそんなに好きじゃないんだろう? 『昔みたいな』兄に戻って欲しいはずだ。君はとても自分の兄のことを否定してるんだよ」
鬱病患者に「頑張れ」は禁句である。時間をかけて引っ張り上げなければならない。背中を押すことは得策じゃない。
メランコリー親和型。責任感が強くて、真面目で几帳面で、他者との衝突を避けるような人間。
そんな人間に、更に追い込むようなプレッシャーをかけても無駄だ。
彼女はまったくもって理解していない。鷹野瞬は頑張って頑張って、それで折れてしまった人間なのだ。
『もう、努力は嫌なんです。もう、努力は辛いんです』
そんな言葉が思い浮かぶ。折れてしまった人間はもう頑張れない。そいつに期待を押し付けて、頑張らせようとするのは最悪だ。
「……違う」と妹は言う。
「じゃあ、死にたがる兄のままでいさせてやれば?」と返す。
それで妹は黙った。
僕はさらに追い詰めるように言葉を重ねる。
「そういう姿を、君は強く否定するんだろうね。君は兄の現在を否定して否定して、拒絶している。お兄ちゃんが好き、だって?」
馬鹿馬鹿しくて、僕は笑ってしまった。
「お兄ちゃんが好き、こそが彼を傷つけてるんだって気づけよ。彼は期待なんてされたくないんだ。君こそがより彼を追い詰めてるんだって、わからないわけじゃないだろう。人のせいにしないでくれ」
「――あなたは!」
突然、妹が大声を出した。
追い詰められた者特有の、感情論でも飛んでくるのだろうか?
そんなことを僕はぼやぼやと空想する。
「……あなたのこと、お兄ちゃんが褒めてました。人の気持ちがわかるんだって、機敏に聡いって。すごく優しい奴だって。確かに、それは一部は正しいみたい。でも――」
キッ、と妹は僕のことを睨む。『許せない相手』として僕を認識する、目。彼女が僕をそういう概念として認識する。
「――でもあなたはそうじゃない。優しくなんか、ない。人の気持ちを読むのが得意なだけ。私のお兄ちゃんへの思いを読み取って、利用してる」
「でも事実だ」
「……だとしても」
泣きそうな表情。
僕は笑っている。
「相手の気持ちがわかるくせに、それをあえて踏みにじるなんて――」
震えながら、悲しみながら、怒りながら。
「――最低」
僕は笑っている。
「そっか。いいたいこといえて、満足した?」
「……」
「でも、なにも変わらない。鷹野瞬は死にたがる。なにもかわっちゃいない。彼は苦しみ続ける。おめでとう」
もう耐えきれないとでもいうように、妹は教室から出ていった。
それでようやく、僕は表情を真顔に戻した。ニュートラル。何も感じていない。
そして、見計らったかのように鷹野瞬が教室に戻ってくる。
「ああ、聞いてたの」
「……」
「妹さん、立派だね。君、すごく愛されてるみたいだ」
彼は、とても悲しそうな顔をしていた。
「なあ、瞬。頑張らないとね。自殺はいけないことだ。僕と一緒に頑張ろうよ」
「おまえは、さ」
ただただ、悲しそうに彼は口を開く。
「別にお前が悪いとは思わねえよ。俺のことは俺の責任で、お前が関係しているわけがない。妹は言いすぎた。……でも、あんな風に言わないでやってくれ。俺はお前を責めない。だから、これはただのお願いだ」
「……ごめん」
言葉が自然と零れて、僕は唇を噛み締めた。
「人を傷つけて自分が傷つくぐらいなら黙っておけばいいのに。本当に馬鹿だよ、おまえは」
彼は教室の天井を仰ぎ見る。
「全部、全部俺が悪いんだ。俺はできないやつじゃない。子供のころからずっと期待されてきた。今になって模範的な人間じゃなくなっちまった。俺は親からの、妹からの愛情を知ってる。それを裏切ってきたのは、全部自分だ」
「……瞬」
「わかってる、わかってるんだ。俺はもったいないぐらいに愛されてる。大事にしてもらってる。死にたがってるなんて、我儘が過ぎるんだ。とてもとても、恵まれてるくせに、こんなことを思うなんておこがましいんだ」
俺が悪いんだ、と彼は言う。
「能力不足だ、全部俺の。せめて悟らせなければよかったのに、それすらできなかった。全部中途半端だ。俺は生まれてくるべきじゃなかった」
彼は固く目を閉じる。
そして、再び目を開いた。
――でもと彼は意思を込めて言った。
「俺は死なないよ、絶対に」
俺は家族に愛されているから、愛情を自覚しているから。そしてなにより、俺だって家族のことが――俺を愛してくれる人たちのことが好きだから。
俺は、生まれてきてしまったからには恩返ししなきゃならない。愛情を受け取ったからには、避けるわけにはいかない。
「俺は生きる意味なんて持っちゃいないし、死んでも別に構わないとは思う」
それでも、と彼は言う。
「確かに、俺は死にたがっている。それがすなわち敗北で、俺のプライドを傷つけるようなことだとしても、どうせ死んじまえばなにもかも関係ない。屋上に昇って、外に落ちてしまえば楽になるって、思わないわけじゃない」
それでも、と彼は言う。
「けど、重要なのは『俺が生きたくない』より『俺は生きることを望まれている』だ。俺は本当に、愛されているんだ。――父のことが、母のことが、妹のことが。俺のことを愛してくれる人のことを、俺が嫌いになれるわけがない。借りが、あるんだ。今まで俺に構ってくれた誰かに対して」
だから俺は。
絶対に、絶対に。
例え、理屈が間違っていたとしても。
「だから俺は、生きなくちゃならないんだよ。死ぬわけにはいかない」
噛み殺した悲鳴のような、固い決意の咆哮。それこそががきっと、彼が繰り返し考え続けてきたことなのだろう。淀みがなかった。迷いがなかった。
きっと溢れ出る呪文のような言葉の数々は、ずっと彼が頭の中で、たった一人で溜め込み続けたものだ。
それは不屈の信念であり、最後の拠り所であり、絶対の己だ。
彼はきっと、いつまでも死にたがる。でも、きっと最後の線を越えはしないだろう。
彼は屋上から落ちない。




