生きている日常
「あんまりおなか空かないの」
食事にいそしむ俺に、彼女はそう微笑んだ。
自分はほとんど食べずに。
いつも、そうだった。
* * *
斜陽を背にして、俺はいつものように彼女の家へと向かう。
それはもうずいぶんと前から、俺と彼女の間では日課となっていた。
きっかけが何だったのか、おぼろげにしか覚えていないが、空腹にふらついていた俺に唯一さしのべられた彼女の温かな手だけは未だに覚えている。
人混みを避けて薄暗い路地を足早に抜ける。
年中影の落ちている雨ざらしの壁を二つ見て、灰色の屋根を尻目に十字路を曲がる。
俺を見て一斉に飛び立つ鳥どもに溜息をつきつつ、同じ色形の建物が並ぶ区画へと入る。
ここらはこの時間人影が極端に少なくなる。
なぜだかはわからないが、俺にとっては好都合だ。
俺に吠えかかる鎖に繋がれた犬を無視して黒い柵の前を通り過ぎる。
もちろん、内心で馬鹿にするのは忘れない。
人間というのは基本的に面倒事のかたまりのようなものだから、できればいない方がいい。
複雑な道順を辿り、代わり映えのしない景色に飽きてきた頃、ひときわ白く見える建物に辿り着く。
ここが彼女の家だ。
俺に言わせればこんなところで暮らしていけるなんてとんでもないのだが、彼女にとってはここはとても良いところらしい。
彼女は今のところ居を移すつもりはないようだが、いつか一緒に暮らしたいとは言っていた。
どこかに俺も彼女も暮らしやすいようなところはないだろうかと、俺は日々空いた時にあちこち訪ねてはいるのだが結果ははかばかしくない。
いつものように、踏み固められた道の上を歩いて玄関の前に辿り着く。
いつものように、扉の前で彼女を呼ぶ。
いつものように、笑顔の彼女が俺を出迎えて………くれなかった。
彼女が俺の来訪に気づかないことは時折あったが、今はもう日が落ちている。
玄関の前で俺を待っていてもおかしくない時間だ。
俺は動揺したままさっきよりも大きな声で彼女を呼んだ。
……返事はない。
それどころか、物音ひとつしない。
これはさすがにおかしい。
俺は仲間内でももてはやされるほど耳が良い。
このあたりで一番の耳の持ち主だと自負している。
耳をそばだてて中の様子を探るが、やはり何も聞こえない。
俺は彼女の身に何かあったのではと焦ったが、俺にはこの扉を開けられない。
どうしようもないのだ。
うろうろと真っ白な建物の周りを歩き回り、どこかに中へ入れそうな場所はないかとけんめいに探した。
三周くらいしたところでやっと、ひとつだけわずかに開いている窓を見つけた。
それを押し開けて、中へと侵入した。
幾度も訪れた場所ではあるが、建物の中を全て見たことがあるわけではない。
一ヶ所ずつ、彼女を探してまわった。
半ば絶望しながら。
* * *
ここで最後だ。
なんとなく入ることがためらわれて、最後にしてしまった。
俺は覚悟を決めた。
そこはいつも彼女と食事をしていた場所なのに、なぜだか俺の全く知らない場所のように思えた。
そこには割れた皿の破片と、滋養分がたっぷりだと自慢していた彼女特製の麦シチューが飛び散っていた。
それらの中心に、彼女はいた。
いや、そこにあった。
慄然と立ち止まっていた俺は、無意味だと知りながら彼女のもとへ駆け寄った。
足に突き刺さるとがった破片も気にせずに、ぬるぬると足を滑らせながら走った。
そして、やはりという諦めと、もしかしたらという願望に近い希望が虚しく消えた絶望に打ちのめされた。
彼女は、息をしていなかった。
俺は彼女の優しく繊細な腕に触れたが、それはもう日の落ちて暗くなった空気と同じ温度になっていた。
冷たくなった彼女は動くこともなく、改めて見たその身体は青白くて骨と皮ばかりだった。
本当に、なぜ今まで気づかなかったのかわからないくらいに細く、しなやかで病的だった。
触れただけで折れそうな人だとは思っていたが、ここまで儚いものだったなんて全く知らなかった。
いつも、いつも、優しく温かだった彼女は、病気だったのだ。
きっともう寿命だとわかっていたのに、俺には何も言わなかった。
少しでも長く生きるために、ここで暮らしていたのだ。
だから、いつか俺と一緒に暮らせたらいいと言ったのだ。
俺がここでは暮らせないように、彼女はここ以外では生きられなかったのだろう。
あれは彼女が俺にたったひとつだけ吐いた弱音で、きっと心からの願いだったのだろう。
俺は、一晩中彼女の亡骸のかたわらで泣いた。
声も涙も漏らすことなく、ただただ悲しみと哀悼に溺れた。
* * *
部屋に朝一番の陽光が射し、無機質な辺りをつまびらかにした。
俺は、血の気の引いた彼女の美しい顔にキスをして、彼女だったものの手のひらに一度だけ頬ずりした。
そのままそこを離れ、入る時に開けた窓から建物を出た。
俺の明日を、生きるために。
* * *
死の病に侵された少女のために建てられた、療養のための白い家。
その小窓から出てきた猫は、別れを告げるように黒い尻尾を振ってそこを去っていった。
そして、もう二度と戻ってくることはなかった。
猫の日なので。