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フラミンゴ・ガール

作者: かとうえり

環のくちびるは真っ赤だ。

雪結晶を浴びて静かに開花する鮮やかな椿、白雪姫の砂糖菓子みたいな両手の中に収まる林檎、夕方の焼けた空のいっとうきれいな場所。

そのうえ傷ひとつなく艶ややかでしっとり潤い、コットンキャンディみたいにふっくらとしている。僕はたまに、誰も見ていないときじっとしている環のくちびるに見入ってしまう。やましい気持ちはない。みんなが世界遺産のなんとかとか、おばあちゃんが満開の藤棚を見上げて静かにきれいだねえ、と頷くの同じ感じ。と言いたいところだけどこれは嘘。

まだ十五年しか生きていないし、これからまだ先の人生が長いのもわかっているけど、僕はきっと、死ぬまで環みたいなくちびるを持った女の子と出会うことはないだろう。



担任が赤いチョークを使って、ここは大事だからテストに出るぞ、と繰り返した。

クラスのみんなが一斉にノートにかじりつく。開け放しになった窓のシミのついたカーテンが揺れ校庭からは笛の音がした。

赤い色は黒板の上で映えたけど、どんな赤でも環のくちびるには適わない。僕もみんなと同じように水俣病、大事、とノートに写す。先生の字ははじめはまっすぐなのに、いつも最後のあたりから右下がりになる。

じゅんちゃんも隣の席の瀬戸も同じようにしていた。大きさは違えど、白いシャツの背中がいくつも並んで同じ動作をする不思議な空間。昼下がりのだるい給食後の空気。

クラスの中で僕だけが、ノートを取る振りをして幼なじみであるじゅんちゃんと、その隣に座る瀬戸を見ていた。

二人の後ろ姿は明らかに男と女。角張って、広く大きいじゅんちゃんの背中に対し、瀬戸の背中は小さくて丸い。下着の紐が透けていた。

カリカリと音が響く静かな空間の中、頬杖をつく。手のひらからは休み時間中、じゅんちゃんと話しながら握っていた廊下の鉄製の荷物掛けの匂いがする。すると、じゅんちゃんの方を見て瀬戸が何か小声で言った。じゅんちゃんがそれに対して笑って、ばか、と口パクで答える。

心臓の一番下がむっとした。居心地の悪い、土粘土を飲み込んだような感覚。掴み上げて投げつけてやりたいけど、生憎手の届かない場所だ。

最近、あの二人が気に入らない。見たら腹が立つくせに目が追ってしまう。

誤解のないように言っておくが、僕はじゅんちゃんのことが好きだ。

あんな絵にかいたように良い奴はいない。

深夜やってるコント番組の真似して女を困らせて喜んだり、外見をネタにからかう他のバカみたいなクラスメイト達を見てさらに感じた。

秘密は絶対に守る。下らないことで女子をからかわないし、いつだって言ってることに筋が通っているから周りにも一目置かれている。

すっごいかっこいいわけじゃないけど、整った顔をしていて勉強も、スポーツもそこそこできる。あと、この前まで同じくらいだった身長が急に伸びて僕より高くなった。

小さい頃から、それこそ箸が持てるようになるくらいのときから一緒にいる。じゅんちゃんと、僕と、環。

環も同じクラスだったけれどここにはもう半年来ていない。

学校には朝早く三人で来る。でも、環は三階にあるこの教室の向かいの棟の一階にある保健室で一人、毎日自習をしている。

席替えをする前はじゅんちゃんと一緒に窓際にいたから、よく環がこっそり白い病的なカーテンをめくりあげて、こっちに小さい手を振ってくれた。

環は薄い生まれたての花びらのようだった。

強引に掴んだら折れそうな腕、鈴蘭の下から聞こえる声。ひっかいたらすぐに傷が出来る心。

だから、大切にして守らないといけなかった。

父親がいなくて生活保護を受けている母を持つおとなしい環は暇な奴らの格好のターゲットで、意地の悪い、それこそ下らないことで男子も女子もこぞって苛める。ひどいことばかりを世界中からかき集めて投げつける。

母子家庭なのも、生活保護を受けていることも環が悪いわけじゃない。

じゅんちゃんが環を庇うと、大体が、主に女子が、陰で被害者ぶって、キャラ作ってんじゃねーよ、ぶりっこが、と下品な声で言うのを僕は知っている。それも、じゅんちゃんがいないところで。

以前、確か冬。寒さがきんと肌を打つ冬だ。廊下でコートを着ようとしていた環にわざとぶつかって階段から突き落としたクラスの奴をじゅんちゃんがぶん殴ったことがあった。

それから皆が、主に女子はじゅんちゃんに嫌われたくない生き物になった。だから、じゅんちゃんの前では誰も環を悪く言わない。けれど僕の前では言う。

僕だって怒らない訳じゃない。むしろ僕はじゅんちゃんよりたくさん怒っていた。ありったけの怒声を張り上げる。それなのに全く、誰も聞こうとはしない。しかも腹が立つことに笑って済まされる。

僕が言うと誰にも効果のない言葉が、じゅんちゃんがやめろ、と言うと一発だ。男も女も、みんな黙る。 ムカつくけど、悔しいけど、仕方がない。僕はいつだって、じゅんちゃんには適わないのだから。

僕が何をしても、じゅんちゃんには及ばない。環を番笑わせられるのは、環を一番喜ばせられるのはじゅんちゃんだ。

環が手を叩くのを僕はいつも見ているしかなくて、同じようなことをして喜ばせようとしても、僕じゃあだめなのだ。

環にはじゅんちゃんが必要だ。じゅんちゃんがいなくなったら笑わなくなる。もしかしたら生きていけなくなるかもしれない。大袈裟ではなく。

向こうの席ではまた瀬戸とじゅんちゃんが笑いあっている。瀬戸なんかのどこがいいのか、僕にはわからない。

バレー部の部長をしていて、髪が短くて、足も太いしでかいし男のようだ。廊下いっぱいに響くくらい豪快に笑うし、中履きの後ろを踏んで、言葉遣いも悪い。

僕の中じゃあ、瀬戸は男だった。女の子っていうのは、環みたいに骨が細くてシュガーパウダーみたいで、髪の長い守ってやりたくなるような子のことを言う……だけど、ひとつ、辛うじて、瀬戸のいいところを挙げるなら、あいつは絶対に環のことを悪く言わない。むしろ、仲良くしていた。今でもたまに瀬戸は保健室に顔を出していて、環も瀬戸をさりなちゃん、と呼んで親しげにしている。

環の通学用の指定カバンには、誰かの悪戯によって傷つけられたカッターの跡と、瀬戸がこの前どこかに行ってきたおみやげ、と渡していた小さいピンク色をしたウサギのマスコットがぶら下がっていた。

キィーッ、と故意ではない先生の爪が黒板の上を耳障りな音をたてて走った。

クラスのみんながうわぁ、とざわめき耳を塞ぐ。僕の腕にも鳥肌がぞわりと立つ。先生は失敬、失敬と笑いながら、いっぱいになってきた黒板のはじめの方を消していく。白衣に赤いチョークの粉がついた。僕はため息を落とす。

今日は三人で帰ることができない。

昼休み、じゅんちゃんは瀬戸と帰ると言っていた。僕は反対したけど、じゅんちゃんはごめんな、タマキにうまいこと言っといてと偶然にも程があるチャイムで逃げられてしまった。

きっと環は悲しむ。そして、僕は何も出来ない。



こん、と小さいつま先が小さい石をけっ飛ばす。校門を出て、坂を下って、左に曲がる。

周りにはほとんど人がいない。環が他の誰かに会うのを嫌がるため、みんなが帰った頃に僕たちは中履きを履き替える。おそらくじゅんちゃんはもう瀬戸と帰っただろう。 


「ボクと二人で帰るの久しぶりだね」


「なんだよ、嫌なのかよ」


「嫌じゃないよ。いつもありがとう。ボクのお母さん、心配してない?」


「してねーよ。この前頭染めたとき殴られてからあんま喋ってねーし」


「金色にするとき痛いってほんと?」


「おう、すっげー、痛い」


自分で脱色した髪を掴んで痛がる表情を顔をいっぱい作ると、環は笑う。

泣かれるか、黙られるか、質問攻めにされるかと思ったが、環はいつもと変わらない様子でいたたために、かえって僕の方がびっくりしたくらい。ただ、肝心の瀬戸と一緒にじゅんちゃんか帰るからという理由だけはどうしても言えなかった。

塾の脇にある自動販売機の前で僕は足を止めた。


「な、なんか飲みたくね? 奢る」


「えっ、いいよ。おこづかいあるから、わたし」


「いいって。イチゴソーダだろ」


「いいの?」


環がいいの、と言う前に僕はすでにポケットから三百円取り出して、瓶に入ったピンク色のイチゴソーダのボタンを押していた。本当は環が落ち込んでたら、これで慰めようと思っていたのだ。

それより奢る、だなんてなんだかつっけんどんだ。もっと違うふうに言えたらよかったけど、気恥ずかしさが先に立って難しい。

じゅんちゃんだったら、もっとうまいこと言えるんだろうけど。

ガコン、と中から冷えた瓶が落ちてくる。

コカ・コーラやラムネと似たような細長い瓶に入ったこのしゅわしゅわと炭酸の粒がピンク色の液体の中で上昇していく飲み物が、環とじゅんちゃんの好きなもの。

キャンプ、ハンバーグ、イチゴソーダ。昔からじゅんちゃんが好きなものはほとんど環の好きなもので、じゅんちゃんの嫌いなものは環も嫌いだった。ちなみに僕はその逆で、イチゴソーダは苦手。そもそも炭酸が飲めない。おえっ、てなるため、オレンジのつぶつぶが入ったジュースのボタンを押した。


「ほら」


「ありがとう」


つやつやした桜貝のような爪がはまった指先が両手でイチゴソーダを僕から受け取る。小動物みたいだ。

こういうとき、じゅんちゃんだったら環の頭をぽん、ぽんと撫でる。そうすると、環は目を細めて嬉しそうに、違う、そんな軽いものじゃない。そうだ、幸せそうな表情をする。

ふんわりとした羽毛みたいな、高級な生クリームみたいな笑顔。

じゅんちゃんもそんな環を見て満足そうにしているのを、輪の中から外れて僕は一人見てきた。

いつも三人でいたけど、このときの疎外感と言ったらなかった。遠くに、例えば宇宙に命綱もなしに放り投げられたような、誰からも見えなくなってしまった存在になったような、見えない硝子一枚に隔てられたような、そんな心持ちになる。

 だけどそれも仕方ないように思えた。誰にでも運命の相手がいると言う。そうなることが決まっていたような、二人でなきゃ一人になれないような、そんな相手。僕にはじゅんちゃんにとっての運命の相手は環で、環の運命の相手はじゅんちゃんだとしか考えられない。

直接聞いたことはないけれど、きっと環はじゅんちゃんが好きだろうし、じゅんちゃんだって同じように環が好きだ。

いつの頃からか、僕にはじゅんちゃんが環を呼ぶときの音がタマキ、と聞こえる。

 僕の母親と同い年には到底見えない環の派手な母親は勿論、僕も周りのクラスメイトもみんながみんな環を環と呼ぶのに、じゅんちゃんだけがタマキ、と特別な呼び方をする。発音は同じだ。た、ま、き。きの発音が下がる。

それなのに、じゅんちゃんが環の名前を口にすると他と違う。タマキ。目には見えない特別な何かが、肺の下から、心臓の奥から真っ直ぐに上がってきた空気が声となり三文字が決して割れないしゃぼんに包まれているような響き。

僕もタマキ、と呼びたくてこっそり家で練習したけどてんでだめだった。しかも妹に聞かれて、お兄ちゃんは環ちゃんが好きなんだぁー、とからかわれる始末。悔しいけど、他のみんなと同じようにしか環を呼べない。

できるなら、僕も特別な音で環を呼びたかった。そうしたら、環は僕にも生クリームが落ちる瞬間みたいに笑いかけてくれるかもしれない。

疎外感を抱きながらも、幸せそうな二人を見るのは嫌じゃなかった。大事な幼なじみたちが幸せでいる。

 そうやって僕とじゅんちゃんと環、ずっと一緒にいたのに席替えをきっかけに、何かが少しづつ、この前テレビで見た知らない間に家が傾いていくみたいに三人の関係がずれ始めてきているのを左の瞼辺りで感じて、僕は少し怖かったけれど、そんなことは気のせいだ、僕たちはずっと三人でいてこれからも何もひとつ変わらないと確かにある恐怖を突っぱねて決めつけていた。


「貸せよ」


イチゴソーダの瓶のキャップをなかなか外せないでいる環を見かねて、手を差し出す。環は手を真っ赤にして困ったように首を傾げ、僕にイチゴソーダを渡してくる。

自分の缶を脇に挟んでぐるっと回すと、ぷしゅっと音がして簡単にキャップが外れる。ようやく海面に顔を出せた人の呼吸の音のようだ。

どうしてこんなものに環が手間取るのかわからなかったが、環が出来ないことをしてやれたことに自己満足を感じながら僕は環にボトルを差し出す。


「ありがとう」


 両手でそれを受け取って、真っ赤なくちびるを寄せる。瓶の口に環のくちびるが押し当てられて弾力を保ちながらも沈むのを見たとき、思わず僕は環に背中を向けてしまった。


「どうしたの、ボク」


「なんもねーよ」


突き放すようなきつい口調になってしまったことを後悔しながら、オレンジジュースを流し込む。味も、つぶつぶも感じられなかった。ただ、甘ったるく冷たい液体がお腹の中に落ちていく。僕はひたすらオレンジジュースを飲み続けて、飲み続けて、飲みきった。

環のくちびるはきれいで、凶悪。僕自身の中にある環に優しくしたい気持ちだとか、嫌なクラスメイトから守りたい気持ちがいっぺんにどうでもよくなってしまうときがある。


「大丈夫? そんなに喉乾いてたんだ?」


何も知らない環は後ろからひょいっと僕の顔をのぞきこんでくるからたまらない。長い髪が横に流れて、どんな花より芳しく咲く枯れない花の香りと生まれたての石鹸の泡の香りがした。他の女子もそれなりの香りがしたが、環のは違う。

 硝子より透明で人魚のうろこよりきらきらしている、環だけが持つ匂い。


「うっわ、こっち見んな!」


「どうして? 何かあるの」


面白がって、環は僕の腰の辺りを掴んでさらに角度をつけて下からこっちを見上げてくる。大きな目を縁取る長い睫毛。環のちっちゃい手の感触がある一部分だけに神経が集中する。やばい、ぐーっと上昇してきた熱に顔を占拠される。やばい、やばい、やばい。


「じゅんちゃん」


困っていたら、環の声が小さくなって僕からゆっくり離れた。

僕もその一言で我に返る。環の視線の向こうには広い車道を挟んで公園があり、そこから手を繋いだじゅんちゃんと瀬戸がちょうど出てくるところだったのだ。

なんてとこに居合わせてしまったんだろう。気づかず薄氷を踏んでしまったときのようにはっとして腕の内側がざわざわする。ジュースなんか買ってたからだ。甘ったるい喉の奥が口内の潤いを奪う。僕はおそるおそる環の表情を窺った。

背丈のほとんど変わらない僕と環。目だけを動かして環を見ると、環は無表情で瀬戸をリードするように先に立って歩くじゅんちゃんのことをくちびるを半開きにして眺めている。

何か言い訳しよう、何か言おう。焦りながらも上手いこと言いたいのに、僕の頭からはなんにも浮かんでこない。どうにかしたい気持ちだけが先を行く。二人はこっちには気づかないでそのまま授業中と変わらず何か話しながら行ってしまった。

 違ったのはじゅんちゃんが大きな声で瀬戸をばか、と言って頭を撫でたことだけだ。瀬戸もばかって言われたのに嬉しそうにしている。あの手は、環の頭を撫でるためにあると僕はずっと思っていた。環は、どうだろう。


「じゅんちゃん、さりなちゃんと帰るから一緒に帰れなかったんだね」


毒々しいピンクの呪いがかかったみたいなイチゴソーダに口をつけて環がごくんと流し込む。僕も何か飲みたくなったけど生憎さっき全部飲み干してしまった。


「ボク、知ってたの?」


「えっ、うっ、う、え、」


「知ってたんだね。だから見るなって言ったの?」


上くちびるをきゅっと下くちびるに重ねながら尋ねられてはっとする。僕が見るなと言ったのは赤くなった僕の顔のことだったのに、あの状況じゃあそう捉えられてあたりまえだ。


「ち、ちげーよ、オレが言いた」


「じゅんちゃん、さりなちゃんみたいな女の子が好きなのかな」


僕の言葉をすとんと遮って環は小さくなっていく二人の姿を見守っている。口角が僅かに上がった。

あの形に口を開けたままの僕はどんなに間抜けだっただろう。やっぱり、環はじゅんちゃんが好きなのだ。

 ここで起きてることなんかなんにも知らない赤い車が脇をさーっと走って行ってじゅんちゃんと瀬戸を追い抜いていく。

柔らかい心臓に雨より細い銀の針がたまたま刺さったように痛んだ。驚いた。今まで二人に感じていたような疎外感とは違う痛み。


「純平はあんな男みてーな女、好きじゃねぇよ」


「そうかな」


「そうに決まってる」


「でも、手、繋いでたね」


私たちもよく三人で繋いだけど。付け加えた環は今度は笑わなかった。



月曜はだるいと昔から決まっていて、高校生になっても、大学生になっても、会社に行くようになってもきっとこの憂鬱加減は変わらないんだろうと思いながら、重たい灰色の空の下、傘を差していつも三人で集まる木蓮の下を見ると、じゅんちゃんと、髪の短い小さい女がいた。

ぼつぼつぼつと雨粒が傘に当たって弾ける。ぼつ、ぼつ、ぼつ。雨音が耳の後ろで反響した。髪につけたワックスのガムみたいな甘い匂いが傘の中にこもる。

一瞬僕はそれが誰だかわからなかったけど、指定カバンにぶら下がるウサギのマスコットを見たときに環だとわかった。違う、わからなかったんじゃない、わかりたくなかった。

環は保育園のときから伸ばしていた長くてきれいな髪を耳下までばっさりと切り落として、前髪を斜めに分けている。どこかで見たことのある髪型だ。どこかで。あっ、と気がついたときに、じゅんちゃんが僕に気がついて声をかけてきた。


「おはよ」


「おはよう、ボク」


とろんとボウルの中で揺れる生クリームの笑顔は変わらない。それなのに環であるのに環じゃない。


「どうしたんだよ、その髪!」


「もうすぐ夏だし気分転換」


「ちげーよ、その髪型!」


「雑誌のモデルさんと同じにしてもらったの」


透明傘の下で環は似合う、とばかりに首を傾げた。さらさらの髪が揺れたけど、最後に見たときと違う。環のいい匂いも濡れた埃っぽいタールの空気に紛れて薄い。五本の指の先それぞれが落ち着かなくてむずむずする。


「最初違和感あったけど、似合ってるよ」


すかさずじゅんちゃんがフォローする。


「違和感ー?」


「だってタマキ小さい頃からずっと髪長かっただろ。だからさ」


ふっ、とじゅんちゃんがいつものように環を見て目を細めて、頭を撫でる。

と思ったら、じゅんちゃんの手は傘の柄を持ったままそこから動かない。

いつもだったら絶対そうしてたタイミングだ。環も少し違和感があったのか、暫くじゅんちゃんを見上げていた。


「そうだタマキ、母さんが今日うちに飯食べに来いって」


「えっ」


「和風ハンバーグ作るってさ。好きだろ、大根おろしと大葉の乗ったやつ」


「うん、でも」


「うち女の子いないから、母さんタマキが来たら喜ぶし。カバン置いたらおいで。置かなくてもいいけど」


「うん……ありがとう」


環の語尾がはっきりしない。短くなった毛先が頬をさしている。

二人のやりとりを僕は黙って聞いていた。あの察しが良くて気の効いたことを言うのが得意なじゅんちゃんが気づかないわけがない。

髪質がお互い正反対なためか雰囲気こそ違ったが、環の髪型は瀬戸とまったくおんなじだった。



「おい、わかってんだろ」


「何が?」


保健室に環を送り届けた後、もう一度購買の前を通って教室に向かう途中、思いきって聞いてみた。


「環の髪型だよ! 瀬戸とおんなじじゃねーか」


「ああ」


「ああって、おまえ、それだけかよ」


なんだ、それだけのこと、くらいの調子でじゅんちゃんは正面へ向き直る。こういうとき、僕はじゅんちゃんに心底腹が立った。物分かりのいい大人の振りをしているように見えたからだ。ふつふつとわいてくる怒りが口の端をひきつらせる。


「あのさ、しばらく三人で帰れないから」


「はあ!?」


「瀬戸と付き合ってるんだ」


じゅんちゃんの茶色っぽい目が真っ直ぐ僕を見て、違う、僕の心を見て告げる。


「みんなには内緒な」


真剣な眼差しをすぐにおどけたふうに変えて僕の肩を肘で突いてくるが、僕は嫌な予感がいよいよ現実になったことを体全体で感じ取って、先に教室に駆け込もうとするじゅんちゃんを慌てて呼び止める。きゅっ、と中履きの底が鳴った。


「環はどーすんだよ!?」


消火器の横あたりでじゅんちゃんは首だけこっちに振り返ったけど、表情はわからない。ただ、ちゃんと言う、と答えてそのまま教室に入っていった。おはよう。おはよー、淳平。じゅんちゃんにはみんながみんな、おはようと言う。廊下にはたくさんの傘が水滴をぽたぽたさせながらぶら下がっている。

二人は運命の相手じゃなかったのだろうか。

 家に帰りたくないと一人神社の裏で泣いている環を一番に見つけたのもじゅんちゃんで、川で溺れかけた環を助けたのもじゅんちゃんだった。

あれほど結び付きの強い、お互いの心を手のひらの上で潰さないように大事にしている二人を僕は知らない。くそ、泣きそうだ。

じゅんちゃんの心は環の手を離れたけど、環の心はまだじゅんちゃんが持っている。手のひらから何にもなくなってしまった環はどうなるんだろう。

遅れて湿気っぽい教室に入ると、角で固まっていた男子のグループがおはようと声を掛けてきた。女子は無視。でもべつにいい。おはようと返して席に向かう途中で、やっぱり一つに固まっている女子のグループが、見た? とこそこそ話しているのが聞こえてきた。


「見た? あいつ」


「あいつって誰」


「あいつって言ったらあいつしかいないじゃん」


「環?」


「そう。トイレ入ったらいてさ。髪切って来てたんだけど、さりなとおんっなじ髪型してんの」


「うっそ!」


「はあ、なにそれ。前もさりなの真似してなかった?」


「してたしてた、シュシュとかポーチとか」


「仲良いからってさ、どうよ」


「似合わないでしょ、あいつにあの髪型は」


「言えてる」


「さりなだから似合ってんだよねー」


「ていうかさ、髪切りに行くお金、あるんだぁ」


「おい!」


我慢しきれなくて、僕がカバンを机に叩きつけると、思いの外いい音がして女子たちがびくっ、となる。ざわついていた教室もしん、となった。女子たちは僕を見て顔を強ばらせるけどそれも一瞬。


「なによ」


気の強いバレー部の大谷がまず出てくる。毛先がまだ濡れていた。

「おまえら言い過ぎだろ」


「ほんとのこと行ってるだけですけどー」


「またボクが怒ったぁ!」


「そうだよ、さりなのものなんでも真似するあいつが悪いんだろ!?」


大谷がでかい声を出すとたちまち横から全員がそうだそうだと出てくる。その中の一人がじゅんちゃんのいる方をちらりと見た。

正直、迫力に負けてしまいそうだ。でもそこをぐっと堪える。


「あんな髪型どこにでもあんだろ! あと、だろ、とか言うな!」


「うっせーな、女に夢見てんじゃねーよ」


大谷の一言で女子グループ全員が一斉にわっと笑い出す。こうなると、僕は何て返していいのかわからなくなって、ふつふつと込み上げてくる悔しさを胸の底に沈めるように両手でぎゅうってと押し潰すしかなかった。けれど、じゅんちゃんがいるのに女子が環のことを悪く言うなんて珍しい。悔しいのは女子に対してだけじゃない。

環があんなふうに言われてるのに、黙って傍観者に紛れ込んでいるじゅんちゃんも許せない。

環は守ってやらなきゃいけない。小さい頃からじゅんちゃんだってそう言っていたのに、まるで今はなかったことのようだ。環を守れるのはじゅんちゃんしかいないのに。

 その日は一日中、女子たちはバカの一つ覚えみたいに僕の存在を意識しながらことあるごとく、なんとかに夢見てんじゃねーよと繰り返して笑っていた。



「ボク、自動販売機、寄っていい?」


雨上がりの放課後、いつも三人で歩いていた道を二人で帰っていたら、昨日と同じ公園の斜め向かいにある自動販売機の前で足を止めた。


「イチゴソーダ?」


「うん」


素っ気なく頷き、カバンから財布とピンクの折り畳みの小さいバッグを取り出した。広げるとでかくなるやつだ。

髪の短くなった環は前よりもっと儚く見える。赤いくちびるもなんだか悲しい。女に夢見てんじゃねーよと言われたが、僕は別に夢なんか見てない。環はクラスの女子とは違う。

 千円冊を一枚入れて、イチゴソーダのボタンを押し、出てきたボトルを取り出すと、環はまたボタンを押した。勿論、イチゴソーダの。


「おい、何本買うんだよ」


聞いても環はその行為を黙って続ける。ピッ、がこん、ピッ、がこん、ピッ、がこん。

出てきたイチゴソーダはピンクの袋をいっぱいにする。ふと思う。イチゴソーダの色は恋に毒が入ったみたいな色だ。

環の様子がおかしいのは迎えに行ったときから分かっていた。もしかしたらじゅんちゃんが瀬戸と付き合うことになったって話したのかもしれない。

 自然にしていたいのに、結局腫れ物に触るような不自然さでしか僕は環に接することができなくて、こうしたいという理想は僕の指の隙間からさらさらの砂のように逃げていく。


「全部飲むのか?」


「うん」


「今日、淳平んち行くんだろ?」


「んー」


「おばさん、また出掛けたのか?」


「ん」


環のお母さんには彼氏がいて、よく二人で出掛けるために環はアパートに一人きりになることが多い。それをよく知っているじゅんちゃんのお母さんは何かと環のことを気にかけていた。

 僕の口煩い母親と二人は同級生で昔は三人、仲がよかったそうだ。けれど、今は僕の母親と環のおばさんは疎遠になっている。何があったか具体的には知らない。


「そんなに飲んだらハンバーグ、食えねーぞ」


「うん」


「貸せよ、持ってやる」


ボトルがいっぱい入った重たそうな袋を両手で持ち上げた環に手を差し出すと、ようやくうん、以外の言葉が返ってくる。


「ありがとう」


「いいって」


僕がそうしたいんだから、とは伝えられなかったけど。環から袋を受けとると、かちゃんとワレモノ同士が当たって音を立てる。男の僕が持っても結構重い。指に袋の紐が食い込んだ。


「ボク、聞いた?」


「え、何が?」


「じゅんちゃん、さりなちゃんと付き合ってるんだって」


自己満足に一人で勝手にまた気をよくしていた僕にはそれは不意討ちだった。さっきまでそればっかり考えていたけど、今はすっかり抜けきっていたのだ。


「え、あ、えっ?」


舌がうまく回らなくて、格好悪いことにおかしな単語ばかりが出てくる。


「いつもみんな、私には内緒だね」


環は俯いて笑っていた。



 夕食を食べても環の言葉が頭から離れない。

うちは今日煮魚だった。白身の魚を甘く煮たやつ。環の家はおばさんがあんまり料理を作らないと言っていた。だからたまにいいなあ、とこぼす。

そういえば、環の両親が離婚するとき、環には何も知らされなかったらしい。ある日、突然お父さんがいなくなった。そう聞いている。家に帰ればあったかいご飯があって、誰かがいるってことが環にはない。僕の家の普通と、環の家の普通。誰かが環は可哀想だと、不憫だと同情の目を向けていたことがあったけど、本当に環は可哀想なのだろうか。確かに大変なことはあるかもしれない。それでも可哀想とは違う気がする。

 部屋で転がりながら天井の染みを見ていたら一階から電話の音がした。


「お兄ちゃん、じゅんちゃんから電話!」


 妹の声で起き上がり、部屋を出ると妹は階段の途中まですでに上がってきていて保留ボタンがちかちかしている子機を腕を伸ばしてはい、と渡してきた。最近電話がかかってくることなんかなかったのに、一体どうしたんだろう。


「もしもし」


 昼間のこともあって、僕はわざと不機嫌な声を出す。


「今何してた?」


「べつに」


「な、何にもなかったら、タマキのとこ様子見に行って欲しいんだけど」


「なんで。おまえんちじゃねーの?」


「タマキ来なかったんだよ。電話しても出ないし、家に行っても出てこなくてさ」


 だめだ。不機嫌な振りではなく、僕は本当にイラッとして声を荒くする。


「だからってなんでオレに頼んでくるんだよ、もう一回純平が行けばいいだろ」


「オレは行けない」


「なんで!」


「行ってもタマキにもう何もしてやれない」


 何も言わずに電話を切った。切ってしまった。切れた電話をベッドに投げつけようと高く腕を上げる…止めた。環のことを特別な名前として呼ぶくせに、彼女ができた途端何にもできないだなんて。力なく下して子機を床に転がす。僕は本当に子どもだった。じゅんちゃんみたいになれない。背も高くない、声変わりもしてない、顔は童顔で感情のコントロールもできない。このまま大人になれるのだろうか。常識や分別を持った税金をきちんと納めるような大人に。環を守れるような大人に。

 環がいなくなったとき、僕は学校で環を探していた。環が溺れたとき、僕は浅瀬でじゅんちゃんが捕まえた沢蟹よりでかいやつを見つけようと躍起になっていた。

 僕がやることは全部環には直接繋がらない、一方的だ。だけどそれでも、じゅんちゃんがいて環が笑うならそれで良かった。

 なのに、そのじゅんちゃんが何にもしてやれなかったら、環はどうなる? 


「出かけてくる」


「こんな時間にどこ行くの!」


 サンダルを足に引っかけたところで母親に見つかって出かけるなとばかりの口調で咎められる。


「環んとこ。すぐ帰るし」


「もう遅いし電話にしたらどう?」


「すぐ戻るって言ってんじゃん」


 母親は黄色いくたびれたエプロンで手を拭きながら息を落とした。


「もうあそこと関わるの止めなさい。最近どうしたの、あんた来年受験なんだよ」


 母親の一言は僕の腹立たしさのもう一つ上にあるラインに触れた。普段とは違う、僕は声を張り上げたりしない、静かだった。気持ちも落ち着いているのに、母親が許せなかった。瞼の裏がいっぱいになるくらい。

 環のことなんにも知らないくせに勝手なことばっか言ってんじゃねーよ、それくらい言えたらよかったのに僕はやっぱり言えなくて、あ、と何か言いたげな母親の顔を見ながら玄関のドアを閉めた。

 母親が環の家のことをよくない風に思っているのは知っていたけどここまであからさまに言われたのは初めてだった。こんな大人にはなりたくない、心底感じて僕は環に胸の中で謝った。ごめん、タマキ。胸の中でも僕はじゅんちゃんみたいに環のことを呼べないでいる。

胸が苦しい、ぎゅうぎゅうに濡れた革で縛り上げられているのに破裂しないから余計苦しい。

破裂したら胸の中からは何が出て来るんだろう、もしかしたらイチゴソーダかもしれない。

 街灯の光を数えながら歩いて数分の環の家まで走った。ぺたぺたと足音が夜の中に響く。とにかく走った。走らなかったら気持ちがどうにかなってしまいそうだったから。

 はあはあと息を切らして古い作りのアパートの三階まで一気に駆け上がる。電灯の周りに羽虫や茶色い蛾が集まっていた。

 表札のない部屋の前でピンポン、とチャイムを押すと、車が前の通りを通っていくトラックの音と僕の呼吸の音しか聞こえない。小学三年生のときにアサガオを育てたプラスチック製の緑の鉢植えには乾いた土だけが入っている。

 しばらくしても返事がないので、もう一度ピンポン、と押して、壁に手を付きながら環、と呼んだ。じゅんちゃんが呼んでも出てこないのなら、僕なら尚更だめかもしれない。


「環」


 必死に願うような気持ちで名前を呼ぶ。

 環、環。世界に何人環という名前の人がいても、僕にとっての環は環だけだ。

 かちゃん。

 その音で中から鍵を外すのがわかって僕はいつの間のか閉じていた目を開けた。よかった、家にいたんだ。ほっと胸を撫で下ろす。玄関がゆっくり開くと電気のついていない家の中からブランケットを頭まですっぽり被った環が出てくる。


「大丈夫、環ちゃん」


 気が緩んで昔のように環のことを呼んでしまい、はっとして気恥ずかしくなってしまったけれど、暗い泥のような闇の中から出てきた環の姿を電灯の下で確認した瞬間、そんなものはどこかにいってしまった。僕は目を疑った。

 ブランケットの下にいる環の短くなった髪も、白い肌も、真っ赤なくちびるも。すべてがピンク色に、あの毒みたいなイチゴソーダの色になっていたのだ。

 黙ったままの環に手を引かれ部屋の中に入る。ちゃんと体温があることにほっとする反面、手を繋ぐのが久しぶりすぎて指が触れた瞬間に体にきん、と痛いくらいの緊張が走った。

薄暗い部屋はこもった家独特の匂いがして、片付けきれない物があちこちに溢れている。

電気をぷちんと付けブランケットを掴んでいた手を環が離す。中から現れた環は頭も首も、制服の下から伸びる手足もすべての肌がピンクに均一に染め上げられている。髪や目、くちびるは僅かに色が濃い。

衝撃的だった。

明るい分鮮明になったこの色はやはりどこからどう見ても環が馬鹿みたいに大量に買い込んだイチゴソーダの色とまるっきり同じ。


「どうしたんだよ、それ」


ピンクの目が僕を不安げにじっと見つめてくる。まるでピンクの宇宙人が制服を着ているみたいだったけど、環は環に変わりがない。


「こんなの気持ち悪いよね」


「気持ち悪くなんかねーよ! それよりずっと家にいたのか?」


小さな顎を下におろして環は頷く。じゅんちゃんが来ても出れなかったのはこういうわけだったのだ。


「イチゴソーダ、たくさん飲んでたら体がいつの間にかこんな色になってたの」


「あれ全部飲んだのか!?」


「うん。もうおなかいっぱい」


「そりゃ、なっ、おまっ、ちょ……うそ…」


上手に言いたいことを口にできなくておかしな単語ばかり連ねながら視線を下におろすと、プリントやティッシュボックス、リモコンが乗った小さな木製テーブルの脇に僕がさっきここまで運んできたイチゴソーダの空瓶がボーリングのピンみたいに何本も寄せられていた。イチゴソーダを大量に飲んで体が同じ色になるなんて聞いたことがないし、瓶にはリサイクルマークはあっても飲みすぎ注意、体の色が変わります、なんてことは一切書いてない。


「なんでそんなことしたんだよ」


今日は淳平の家で大好きなハンバーグだろ、と付け足すと環はピンクの睫毛を伏せた。


「じゅんちゃんの好きなイチゴソーダ飲んでたら、じゅんちゃんとおんなじ気持ちになれる気がしたから」



どうやったら解決するのか僕なりに考えたが、時間ばかりが進むだけで、擦っても、シャワーを浴びても肌が元の色に戻らない環を残し、仕方なしに足取り重く帰宅した。

 おばさんは恋人と一緒で一週間程戻らないらしいし、じゅんちゃんには頼れず、環には僕しかいない。リビングに入ると妹が動物の番組を見ている。母親はいなかった。


「おっかえりー」


「小学生はさっさと寝ろよ」


「環ちゃんちに行ってたお兄ちゃんに言われたくありませんー」


いつもだったら何倍にもして返してやるところだったけど、テレビの中に映るピンクの首と足の長い鳥の映像に僕は目が釘付けになるった。だだっ広い、民家もコンビニもない大自然の湖の上で片足で立つピンクの鳥の群れ。


「ねえねえ、フラミンゴってはじめからピンクじゃないんだって。生まれたときは白色で、この湖にあるフラミンゴのごはんがピンクの色素持ってるから、ピンクになっちゃうんだってさー。でもそれ食べないと体が白色に戻るんだって。お兄ちゃん知ってた?」


妹の話していることなんてまるで耳に入ってこない。フラミンゴはまるで今の環のようだった。違うのは、環の身や心は片足立ちで不安定だというのに、フラミンゴ達は片足でもうまいことバランスを取って直立不動のまま、じっとしていられるというところだ。

どうして今まで環とじゅんちゃんの好きなものが同じ理由に気づかなかったんだろう。

それは運命の人だからじゃない。環がじゅんちゃんの真似をしていたからた。髪型だってそうだ。じゅんちゃんの好きな瀬戸と同じにして。じゅんちゃんの気持ちがわかるかもしれないだなんて、わかるはずなんかないのに、そんな理由ひとつで。ジュースを何本も買い込んで。

そこまで健気に環はじゅんちゃんが好きなのに、じゅんちゃんは瀬戸を選んでしまった。仕方がないと言えば仕方がないけど、環の気持ちはどうなる。二人を運命の相手だと信じてきた僕の気持ちはどうなる?

フラミンゴを映すテレビの脇にある電話の子機を取ると、僕は部屋に駆け上がった。乱暴にドアを開けてばたんと閉め、暗記している番号を押す、子機を耳元に当てる。乾いたコール音のあと、出たのはじゅんちゃんだった。


「もしもし」


「ボク?! タマキは」


「家にいた」


「そっか……よかった」


はあ、と心底ほっとしたような息の音が聞こえてくる。環がピンクになったことは内緒にしておくことにした。


「そんなに心配してんのに、なんで瀬戸なんかと付き合ってんだよ」


壁際のベッドに腰を掛け、床に落ちてた制汗剤の缶を足で転がすと落ち着いた声が返ってくる。


「タマキのことは大事だけど、妹とか家族みたいな感じなんだ。女の子としては見れないよ」


「…んだよ、それ」


「頑張れよ、ボク」


「はあ?」


「好きなんだろ、タマキのこと」


とんでもない方向に話が行ってしまって、僕は思わず屈めていた上体をがばっと勢いよく起こした。


「はあっ!? なっ、そん、そんなっ、違っ、違っ」


「髪染めたのだって周りのやつ威嚇してタマキのこと守るためだろ」


違わなかった。僕は何も言えなくなる。じゅんちゃんは何もかもお見通しだったのだ。

じゅんちゃんは何もしなくても環を守れたけど、おとなしい僕はこうやって外見を変えることでしか環を守れないとある日思った。金色に髪を染めて一人称を僕からオレに改め、話し方を乱暴にした僕は自分が変わった気がしたけれど、それはオブラートより薄っぺらいうわべでしかなくて結局僕は環を守れなかった。

 今日だってそうだ。女に夢見てんなってからかわれて、終わり。


「そんなことしなくても、ボクはタマキのこと守れてるのに気づいてないのか?」


「環をずっと守ってきたのはじゅんちゃんじゃないか!」


気がつけば僕は昔みたいに淳平をじゅんちゃんと呼んでいて、男なのに、男なのに、泣きそうになっていた。情けない。くそ、僕はどうやってもじゅんちゃんみたいな男にはなれそうにない。くそ、くそ、くそ。

電話の向こうから音がしなくなる。僕は必死で奥歯を噛み締める。


「違う」


短く、けれどはっきりそう言われ今まで僕が信じてきたものが足元から抜け落ちるように崩壊した。

「二人で守ってきたんだ」




環ほど、可愛くて守ってやらなきゃいけない女の子はいない。それは、僕がずっと環のことを好きだったからだ。環が特別な女の子だったからだ。

だけど、僕がやりたいこと。環を笑わせること、守ること、喜ばせることを全部簡単にはやってのけてしまう親友のじゅんちゃんを見ていて、いつしか諦めてしまっていた。二人は運命の相手だという目には見えない強い結び付きを言い訳にして。

諦めるのは苦しかったけど言い訳という不都合なことだけを跳ね返す盾が僕の傷つきたくない気持ちを守った。二人は運命の赤い林檎を一緒に食べた、そういう相手だと自分に言い聞かせ信じこませてきた。

そうだ。初めから弱腰で後ろ向きで、言い訳ばかりの自分が環を守れるわけなんかなかったのだ。

僕はまた走った。こっそりと家を出ても今度は母親に見つかることはなかった。

さっきはぼんやりしていて頭に入ってこなかったけど、妹がフラミンゴはピンクの色素を持っているものを食べなければまた元の色に戻る、と言っていたのを思い出したから。というより、今脳に届いたという方が正しいかもしれない。

もしかしたら、環はまたつまらない理由で夜の闇に紛れて大量のイチゴソーダを一人で買いに行く可能性がある。もう環にイチゴソーダを飲ませたらダメだ。あれは毒だ。恋という名の猛毒だ。

元来た道を戻り、また階段を駆け上がり、昔はアサガオが咲いていた鉢植えの前で足を止める。何回かチャイムを押して待ったけど、ちっとも出てくる気配がない。しびれを切らせてドアノブを回す。開いた。


「環……?」


奥の部屋の電気はついている。サンダルを脱ぎ、揃えもせずに僕は短い廊下をぺたぺたと歩く。さっきは見えなかったけど廊下の脇には雑誌や新聞、その上にはぬいぐるみが積まれていた。掃除はほとんどしていないんだろう、目に見える綿ごみもある。


「環………環!?」


奥の部屋でテーブルの横、環はいた。音のない空間でぺたんと座り込んでテレビの方を見ている。画面は真っ暗だった。

またも僕は目を見はった。肌はイチゴソーダ色ではない、その代わりに少しづつ、環の白い肌は透明に透けていて、環の背中の向こうにあるソーダの瓶が見える。僕は震えながら息を吸い込んだ。


「環、環!!」


夜遅いにも関わらず、僕は大声を張り上げた。誰だってそうしただろう、大好きな女の子がピンクになって、今度は、今度は消えようとしている。透明になっていく環の体はきれいな水だけで作られた氷の城のよう。さっきより事態は深刻だ。

今にもぽきんと折れそうな華奢な肩に手を伸ばす。掴めた。僕の手の中にすっぽりとおさまる肩をぐっと掴み揺さぶりながら呼び掛けても、環は僕にされるがままでこっちを全く見ようとしない。むしろ意識がないようにも見え、恐怖に心臓がばくばくと跳ねる。このままじゃあ、環を失ってしまう。環がいなくなってしまう、僕のこれからから。


「環、こっち向け! オレだ、わかるか!?」


正面から環を見つめると、眠たそうな目がこちらを見返してきた。でも焦茶色の目の中に僕の姿は映っていない。それは、僕がどう頑張っても足掻いても、環の特別にはなれないことを示されているようで、弱虫で男らしくない僕はそれだけでハートをぱぁんと打ちのめされた。どうしよう、これがじゅんちゃんなら違ったかもしれない、でもじゅんちゃんはいない……誰もいない。僕は無意識に部屋を見渡した。いや、違う。違う、僕がいる。

ふっと気がついてまた僕は環を見つめる。これまで諦めてきたものを全部かき集めてひっくるめてひとつにする。急いでしたからまとまりがなく、ごちゃまぜだ。

環のくちびるに見とれていたこと、環といるとどきどきすること、環のことを悪く言われると、自分のこと以上に腹が立つこと。

じゅんちゃんは言ってくれた、二人で守ってきたんだって。


「おい、消えたりするなよ、おまえがいなくなったら…どうしたらいいんだよ!?」


それでも環は何も話さない。赤いくちびるは閉じられたままだ。

何がなんでも伝えたい気持ちがあった。心の中にある思いを端から端まで丸ごと全部伝えきるなんて無理だってわかっていたけど、無理でも諦めたくない。僕は環に気持ちの全部を伝えたい。そんな僕の気持ちに反してだんだん、虹が消えていくように、海に太陽が沈んでいくように、少しづつ、でも確実に環は透明になっていく。


「オレを見ろよ、消えんな…おまえが好きだ、環、ずっと、ずっと、すげえ好きだ! 今も好きなんだ、世界中の悪いことから環のこと、守りたい、環が喜ぶものを、笑顔になって……幸せになれるものだけが環に残るようにしたい! 環が欲しいものだったらなんでもやりたいし、どんなことでも叶えたい、嘘じゃねぇぞ、大きなこと言ってるみたいだけど、本当にそう思ってるんだ、環がじゅんちゃんのこと好きなのも、わかってるし、あんないいやついないし、環が好きにならないはずない。だから、ずっと諦めてたんだ。けど、それでもいい、僕は、環が好きだ!」


捲し立てるように話しているうちに顔に熱が集まり赤くなっているのが自分でもわかった。それでも僕は続けた。その甲斐があったのか、環の目がはっきりと僕を捉えた。環の心に少しでも触れたようで、嬉しくてぶわっと腕に鳥肌が立つ。


「いなくならないで、どこにも行かないでよ。じゅんちゃんみたいに上手に出来ないけど、僕が持ってる全部で環を守る。一人にさせないし、悲しい思いももう絶対させない」


ちゃんと届いているかわからないけど、環は僕のことをじっと見つめてくれている。これは告白であり、弱い僕自身への誓いでもあった。


「呼んでよ、僕の名前」


魅せられていたのに怖かった環のくちびるに僕は手を伸ばし、ゆっくりと人差し指の一番柔らかいところでちょん、と触れた。そこは想像以上に柔らかくてへこんだ箇所がやたらいやらしく見える。


「ボク…?」


小さな今にも溶けてしまいそうな氷の欠片みたいな声がして、指先に温かな吐息と振動を感じた。僕は首を横に振る。


「違う」


「す、なお……?」


「うん」


「直」


朴田という名字の家庭に生まれてきたばかりについた僕のあだ名。ずっと呼んで欲しかった鈴の震える音が僕の名前を呼ぶのを聞いて、僕の心はたぷんたぷんに満たされていく。甘く、温かく、優しい液体に。

だけど今いっぱいにしたいのは僕じゃなくて環の心だ。どうにかして環をこの世界に繋ぎ止めたくて、だらんと垂れていただけの環の手を取り、ぎゅっと握りしめてさっきの告白とは真逆に声量を落とし、ゆっくりと枕元で話すみたいにして語りかけた。


「環が好きなもの、教えて」


「好きなもの……」


「うん」


「イチゴソーダ」


「それ、じゅんちゃんが好きなやつだろ」


「…和風ハンバーグ、さりなちゃん…ぶどうゼリー」


他にもいくつか力なく環はあげたが、全部じゅんちゃんが好きなものばかりだった。環から導き出したいのは、環自身が好きなものだ。何かなかっただろうか。あれだけ長い間ずっと一緒にいたのだ、僕は知ってるはずだ。思い出せ、思い出せ。記憶の細い糸を手繰り寄せているうちにはっとして、僕は思わず環の手を握る手に力が入った。


「くまのぬいぐるみ!」


廊下に投げ出されていた赤のギンガムチェックのリボンが胸元に付いているくまのぬいぐるみ。小さいとき、環がどこに行くにも離さなかったぬいぐるみ。これはじゅんちゃんが好きなものじゃない、環だけが好きなものだ。


「な、他にないのかよ好きなもの!」


好きなものだけじゃ、消えていく環を引き止めることはできないのだろうか。環の額からうっすらとその後ろにある姿見が透けて見える。やばい、環が本当に消えてしまう。空っぽの頭でとにかく考えた。テスト終了の五分前よりがむしゃらになって。

そのとき、環が何かを言った。考えることに夢中になってた僕はそれを聞きのがしてしまい慌てて、もう一回言って、と頼む。

環の目に涙がじわじわと浮かびそれが目の中全体を満たすとぽたり、と溢れて朝方、睡蓮から落ちたような滴になる。ぽろぽろと涙を落としながら環は僕の背中に腕を回しくっついてきて、こう答えた。


「お父さん」


今までに聞いたことのないような声だった。痛いほどの悲しみ、凍えてしまいそうな寂しさ、闇より深い泥の中に一人沈んでいく心細さ。そういったものが一つになっている、聞いているこっちまでも引き込まれそうな傷だらけの声。

こんなものがたっぷりの世界の中に今まで環は一人でいたのか。あまりに強い灰色の感情に僕は呆然とした。頭から飲み込まれてしまいそうだ。

 今まで僕がしてきた、してこようとしていたものはただの自己満足に過ぎなかったのだろうか。では、これからもずっと自己満足が続く? いいや。いいや、それは、わからない。

小さな体を擦り寄せて僕の首にしがみつき泣く泣く環のことをぎゅっと強く抱き締める。環はどこにもやらない。


「環、環がいいなら、僕が、僕が環のお父さんになる。兄弟にも、友達にも。環は一人じゃない、僕のこと、気づいて。ずっと側にいたんだよ」


すんすんという泣き声が子供のような号泣に変わる。夜のアパートにその声は響き渡った。ありのままの感情をさらけ出して環は泣く。僕は黙って抱き締めることしか出来なかった。




「もう夏休みだね」


夏服を来た環がどこまでも薄く広がるピンク色に染まった夕焼けの空を見上げながらぽつりと呟いた。木の中で蜩が鳴いている。

僕は自分の元の黒い色に戻った頭に触った。傷んでがしがししている。


「宿題めんどくせーな」


「いっぱいあったもんね」


坂を下り、左に曲がってこれから始まる長い休みに思いを馳せる。じゅんちゃんは瀬戸とプールに行くと言っていた。

その後、環の体はすうっと元に戻ってそれ以降ピンクにも透明にもなっていない。あの一晩の出来事は一体何だったんだろう。何より環が好きなものの中に僕の名前がなかったことにはがっかりしたけど、何よりじゅんちゃんの名前が出なかったのは本当に驚いた。もしかしたら、環にとってじゅんちゃんは男の子では、運命の人ではなかったのかもしれない。それなら誰が環の運命の相手なのか。


「喉乾いちゃった」


そう言い残すと環はぱたぱたと走って行って自動販売機にコインを入れるとジュースを二本買って戻ってくる。


「はい、直。今日は私の奢りだよ」


「ありがと」


手渡されたのはつぶつぶの入ったオレンジジュース。環の手の中にも同じものがある。あれから環はイチゴソーダを飲んでない。もう一生飲まないとすら言っていた。


「飲み過ぎんなよ」


反対側の手で環の小さい頭を手を伸ばし、お父さんのように、兄のようにぐしゃぐしゃと撫でる。

僕は環にとって、何になれるんだろう。聞いてみようと思ったときに、髪が乱れたことを気にする様子もなく、環は笑った。どんな赤より真っ赤なくちびる。甘い、生クリームに花が咲いたようだった。





2013 かとうえり



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